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<title>Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―</title>
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<modified>2010-01-12T07:34:13Z</modified>
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<copyright>Copyright (c) 2009, AkitoInoue</copyright>
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<title>いまさら、ICOの話</title>
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<issued>2009-11-09T12:10:33Z</issued>
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<summary type="text/plain">●「語る」という行為自体が困難に思えてしまう作品 瀬上：前に、米島さんがゲームの...</summary>
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<name>AkitoInoue</name>
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<email>cog_inoue@yahoo.co.jp</email>
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<dc:subject>talk</dc:subject>
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<![CDATA[<h3>●「語る」という行為自体が困難に思えてしまう作品</h3>

<P><B>瀬上</B>：前に、米島さんがゲームの持つ価値を充分に認めつつも、<a href="http://www.critiqueofgames.net/2007/01/rpg.html">「ゲームなんかやってられねぇ。」</a>という発言をされました。ですが、米島さんも、僕も共にその価値を大きく認めざるを得ず、そしてそれについて語りを試みること自体が冒険的な魅力を持つ作品というのがいくつかあると思うのですね。その一つは間違いなく『ICO』だと思います。</P>]]>
<![CDATA[<P>　一応、ICOを知らない方のため表面的な解説をしておくと、確か2001年？にPlaystation2から出てきた作品で、ディレクターは1970年生まれの、上田文人さんです。その幻想的な雰囲気は「ラピュタ的」と言われたり、「デ・キリコの作品のよう」と言われたりする一方、ゲームの内容としては『アウター・ワールド』や『エイブ・ア・ゴーゴー』というようなパズルアクションとでも言うべきジャンルにおいて良く作り込まれた内容になっています。
<BR>　いままでICOというのは、それについて語ることを、それ自体が、ほとんど拒否してくるような作品だという気がしていました。もちろん、今もその気分は変わりません。別の言い方をするのであれば、語ることによって作品を卑称に、わかりやすくて通俗なカテゴリーに入れてしまうのではないか、という気分です。
</P>
<P><B>米島</B>：「語ることをそれ自体が拒否してくる」という言い方とか、よくするよね（笑）。まあ、でも、その感覚は、共有してると思うのね。
<BR>　たとえばさ、オレみたいなのは、FFシリーズで感動することはほぼ不可能に近かったし、FFとかを力んで論じるというのは実感としてほぼ不可能。だけれども、オレもまたご多分に漏れず2001年の暮れにICOをプレイしてがっつり衝撃を受けたわけだ。そんでもって、「これは何かしらの形で、語るコトバを持っておきたい」とはおもった。確かに。でも、むずいなー、ということも、ものすごく思った。
<BR>　「世界観が素晴しい」「人物造形がいい」「物語がいい」「グラフィックがいい」とか、そういうことを個別に、技法を細かく見て言って語ることはもちろん可能ではあるわけだ。霧の効果がいい、とか。女の子がかわいいとか。ヘタにコトバを入れないで俗っぽくしてないのがいい、とかね。そういうミクロなレベルのことを羅列して、だーっと、3時間ぐらい話せといわれれば、不可能じゃないと思う。そしてまた、それぞれの要　素がゲームプレイ全体に与えている効果みたいなものも、もちろん甚大なわけだ。だけれども、それでいいのか、と。そういう、個別の要素を語ることにももちろん、面白いことはざっくざっくあるのだけれども、そういうことじゃないのではなかろうか、と。そういう気持ちの悪い気分がちょっとある。瀬上くんの感覚をオレなりに言うとこんな感じですよ。
</P>

<h3>●何が体験を統合しているのか</h3>


<P><B>瀬上</B>：個別の要素に還元できない何かがある、という感覚はよくわかります。そうなると、次に出てくる疑問というのがおそらくありますね。
<BR>　ゲームの体験が個別に還元できる、もしくは、個別に還元できないというような視点を出してきたときにですね、それを統合的にしてみせているものっていうのは何なのだろうか、ということですね。
<BR>　一つ目は、ゲームの経験を成り立たせる綜合的感覚というのが、非常に多層的であるということが指摘がありますね。インターフェイスを押すタイミング。画面の情報。ルール。戦略的な計算。他のプレイヤーとのコミュニケーション。身体的快楽。物語。…みたく、すごくいろいろなものを一度にゲームプレイヤーは処理をしているわけですね。驚くべきことだと思いますが、プレイヤーはこれだけ多様なものを同時併行で処理してしまっている。プレイヤーがすごいというのもありますが、ゲームの開発側がこれをよくわかっていて、よく体験が統御され、目的が明確に設定されたゲームというのは、多層的な感覚が分裂したりせずに、一つの感覚の中に統合され、綜合されている、という感覚があるわけです。では、そういう感覚というのはどのようにして生じるのか、と。
<BR>　二つ目。ゲームの経験をうまく制御してみせる、人間として宮本茂なんかは代表的な固有名としてよく取り上げられます。堀井雄二でもいいですが、とにかく宮本茂というのはゲームのプレイヤーがどうやったらゲームにうまく習熟できるか、どうやったらストレス無く――しかし手応えを持ちつつ――ゲームをプレイする構造を作り出せるのか、ということをものすごく突き詰めて考えているわけですね。それをインストラクション・デザインあるいは、レベル・デザインと言われるものをすごくきちんとやることによって達成している。どの地点で練習させて、どの地点で応用させて、どの地点で極めさせるかということを磨き上げて作っている。
<BR>　ゲームのグラフィック、物語、インターフェースなど様々な感覚を統合的に見せて、ゲームの遊び方／やらせ方を作品の側から、プレイヤーの脳みそにインストールしてしまう。私の知人は前にこれを、ラング（文法）を与えることだ、とかといった言い方をしていました。とにかく、そういった形で、経験を意味づける見取り図をプレイヤーの側よりも作品の側が主導してしまう、という自体がコンピュータ・ゲームでは往々にして、戦略的に引き起こされるわけです。
<BR>　これを、仮に、ゲームの体験を個別に還元しない、意味づけの方法だ、と捉えることにしましょう。すると、ICOはどう捉えられのか。
</P>
<P><B>米島</B>：質問が、長くて、わかりにくいよ（笑）。
<BR>　つまり、あれか。瀬上くんの言いたいのは、「全体と部分」の話だろ。「経験の全体」が作り上げられるプロセスが、個別の技術に還元できない。そういう話？
</P>
<P><B>瀬上</B>：そうです。で、その＜全体＞を作るのは、プレイヤーであるよりも多くの場合、作品の側が主導権を握っていたりする、ということですね。
</P>
<P><B>米島</B>：うーん……。そうなの？プレイヤーかもよ？プレイヤーと、作品の側と、どっちが優位か、なんて話、ほんとにできんの？
</P>
<P><B>瀬上</B>：突き詰めたら、それは難しいでしょうね。でも、それはできるんじゃないですか？マリオをプレイした人の8割がマリオを楽しい、というときマリオの側がプレイの仕方を制御してる可能性が高いわけですよね。5%の特殊な人が、変わった楽しみ方を見つけている、とかってことじゃないですよね。マリオとか、ICOの場合は。
</P>
<P><B>米島</B>：なるほど。でもさ、全体を意味づける立ち位置が成立するということと、個別に還元できない感覚ということとはイコールなのか……？「全体的なパースペクティブ」「全体的な認識」とは言うけれど、認識という概念と、感覚の綜合という概念は等価じゃないんじゃないか？いいのか、それ？グランドセオリー/統合理論の話と、創発とか還元不可能性みたいな話って違うんじゃないの？
</P>

<h3>●緩いリンク　――映像と時間の前景化</h3>

<P><B>瀬上</B>：それは、まったくその通りです。ちょっと、その話も含めて議論するために、話をそのまますすめます。
<BR>　ICOが、マリオとかドラクエみたくして、楽しみ方をプレイヤーにインストールしてゆくタイプのゲームなのか、どうかということだと思うのですね。ICOをプレイする上で、ゲームの目的や、手順といったものは果たしてどこまで明瞭に位置づけられていただろうか、と。そういう問いを立ててみます。
</P>
<P><B>米島</B>：プレイヤーに楽しみ方をインストールね。どうだろうね。難しい。
</P>
<P><B>瀬上</B>：ものは言いようだというところもありますが、マリオとかドラクエとは全く別のタイプの作られ方をしているという点は合意していただけるか、と思います。「女の子を城の中から救い出す」という目的は提示されるものの、マリオみたく「右にすすむ」とか、ドラクエみたく「とりあえずレベルをあげる」という目的はありませんし、どこをどうやって楽しめばいいのかということを、あざとくガイドしてみせてくれるようなものは、かなり控えめに抑えられていますね。
<BR>　つまり、ICOというのは、ゲームのプレイ経験全体を意味づけるパースペクティブみたいなものっていうのは、どこまで行っても明瞭には提示されません(参照：<a href="http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/sawa/ico.html">沢月[2002]</a>)。
<BR>　『ICO』をプレイするとき、プレイヤーの行為はゲーム全体のパースペクティブ、意味づけとそこまで強く関わりませんね。ゲームの一つ一つのアクションと、ゲームシステム的な意味づけのリンクがそこまで緊密な結ばれ方をしていない、と言ってもいいです。アクションとシステム／プレイヤーの主観とゲーム全体の構造把握といった関係は、互いに密接に連結したものではなくて、プレイヤーの主観的もゲーム全体の構造も不確定に自由に広がりあい、離れたりくっついたり重なり合ったりしながら、ときに「意味」をむすび、ときには何の「意味」も成さないものとして存在している、というような状況がICOには生まれていると思うのですね。
</P>

<P><B>米島</B>：ぼんやりとしか言いたいことがわからん。アクションと、システムが緩くしか連結してない、ってことはわかった。
<BR>　よくわからんけれど、オレなりの解釈をしてみるとね、うーん。最近、ゲームの映像を見る楽しみが減ったような気がしてるのね。ゲームの世界が2Dで描かれていた頃って、ゲームの映像って、ゲームのやり方、ゲームの見え方とがすごく密接に結びついていた時期ってあったじゃない。ヘックスが描かれていたらシミュレーションゲームだし、俯瞰視点で四人ぐらいが列を組んでたらRPGだし、世界の見え方そのもの、世界の描かれ方そのものが、世界への接し方を描写してたよね。すごろく板はすごろくのあり方を想起させるし、アクションゲームの映像はアクションゲームのプレイの仕方を想起させるよね。
<BR>　まあ、ファミコンとかスーファミの頃って、『ファミコン通信』(現、ファミ通)とかを一ページめくるたびに、ゲーム番組の映像をみるたびに。そのゲームがどんなゲームだろうっていう想像をすごく駆り立ててくれたわけですよ。映像すなわち、ゲームシステムだった時期というのがあった。
<BR>　だけど、ゲームの映像を見るのが最近つまらなくなった、っていうのはその映像とゲームシステムの結びつきがすごーくよわくなっちゃったというのがあるわけだ。最近のゲームって、ハイエンドの最先端ゲームってぜんぶきれいな3Dの世界が描かれているじゃない。するとさー、どの映像みても区別がつかない、っつーか、ゲームシステムがどうなってるのかなーみたいな想像力をほとんど刺激しないんだよねー。まあ、どこもかしこもキレーなのはいいんだけどさ。欲望された世界は全部同じだったということかもしらんけど。とにかく、新しいゲームの映像は、新しいゲームのプレイ体験を想起させなくなったわけですよ。塊魂とか、わずかな例外があるだけで。
<BR>　ただね、ゲームの映像ってのは静止画にしたときの見え方が似たようなものだったとしても、ゲームをプレイしているときのプレイヤーへの主観的な見え方っていうのはやっぱり違うわけですよ。プレイヤーはゲームの映像を、ただの色の集合だとか、ただの美しい静止画としては眺めないよね。たとえば、そこに敵がいるのならば、即座に敵を攻撃すべき「的」として捉えるし、プレイヤーと敵との距離を冷静に――興奮はしているかもしれないけど、ある程度は冷静に――測定するわけだ。そんでもって、プレイヤーは自分が敵と対峙すべき最適な距離をとろうとする。
<BR>　このときにね、その世界がどんなに美しかろうが、ディティールが書き込まれていようがもう関係なくなっちゃう瞬間があるじゃない。2Dのゲームをプレイするときの感覚と、3Dのゲームをプレイしてるときの感覚って、けっこう同じになるときあるじゃない。雪景色の中にまぎれる白い敵は、判別の難しい強敵として捉えられるし、黒い敵は判別しやすい絶好の的としてうつるわけだよ。そういう判別を必死でしているときって、映像の美しさは二の次になっちゃう。
<BR>　もちろん、ICOにもそういう瞬間はあるよね。あるんだけれども、ICOみたいなものってそうじゃない瞬間のほうが多くてさ。敵/味方、とか足場/背景といった見方とは関係なく映像を見てしまえる時間がすごくよくできてるよね。ハトみつめられたり。ヨルダがうろうろしてるの眺めたり。敵/見方とか、パズルのパーツ情報として、映像を見ないんだよね。あんまり。あれ、とっても不思議。
</P>
<P><B>瀬上</B>：不思議ですよね。その不思議さが、どうしてもたらされるのか、っていうのが、アクションと、システムが緩くしか連結してない、ってことに原因があるんじゃないか。というのが僕の主張なんですね。
<BR>　個別のアクションと、ゲームシステムが密接に連結してたら、一つアクションを取るごとにそれが、ぜんぶゲームシステム的な意味の一部として位置付けられてしまう。そうなると、映像の美しさみたいなものって全部、「背景」になってしまって、それが「前景」にはならなくなるわけです。
</P>
<P><B>米島</B>：あ、はい。うん。そういうことね。理解。
</P>
<P><B>瀬上</B>：それと、もう一つ。映像の話とリンクさせる形で時間の話としてもその話は可能ですよね。
<BR>　たとえば、いま米島さんが足場/背景という区分を挙げられました。確かにゲームの世界を「見つめる」という行為は、敵/見方という区分以外では、ヒント/背景という分節を前提にした「探す」「探索」ということを前提にして組み立てられている場合が非常に多いですね。『DQ』『FF』といったRPGや、『逆転裁判』などのアドベンチャーの他にも、アンチRPGのRPGである『MOON』とかあるいは、『サーヴィランス』『ポリスノーツ』とかでも、そのような形でデザインされていました。
</P>
<P><B>米島</B>：時間の話は面白い話が沢山あるよね。前にさ、宮本さんがね、どっかでインタビュー受けて言ってたんだけど、「ゲームで、物を隠す場合というのは、すぐに見つかるような隠し方じゃいけない。絶対に見つからないような隠し方でもいけない。25分ぐらいでちょうど見つかるような隠し方を考えっていうことなんです。これ、けっこう難しいでしょ？」とかって言ってて、すごいなー、って思った。さすが。丁度いい具合に、見つかるって、大変だよね。
</P>
<P><B>瀬上</B>：うん。それが、宮本さん的な「時間」へのアプローチのすごいところですよね。ICOって、確かにそういうところもゼロじゃないんですけど、ICOって、常に高速な反応を求められるわけじゃないじゃないですか。
</P>
<P><B>米島</B>：ヨルダのこと、ボーッと眺めててもいいよね。そもそも、あのゲーム、すごくよく作ってあるから、触ってるだけで楽しんだよね。あれ。
</P>
<P><B>瀬上</B>：ですよね。双六のマスをどんどんと進めていくようにしてプレイしなくてもいいゲームなんですよね。ゲームシステム的に無意味な時間をすごしてもＯＫになっている。「何もしないこと」が選択可能になってるからこそ、ゲームの中での静謐な時間みたいのが、生々しく出てくる。
</P>
<P><B>米島</B>：ああ、なるほど。同じ論法ね。ゲームを必ずしもやらなくてもいいゲームだ、と。だからこそ、ゲームシステム的に重要じゃない部分の、生々しさを殺さないで済むんだ、と。
</P>
<P><B>瀬上</B>：そうですね。時間的にも急かされないし、映像的にも見分けることを強要されない。
</P>
<P><B>米島</B>：なるほど。いや、瀬上くんの言いたいことはわかった。
<BR>　でもさ、それってさ、んー、まあ理屈だなぁ、というか。別にそこそこ納得はするんだけど、なんか、今ひとつ面白みにかける。
<BR>　理屈的に反論してみようか。
</P>
<P><B>瀬上</B>：はい。お願いします。
</P>
<P><B>米島</B>：あのね、その説明が、まあ、ある程度、そうだとして、だ。
<BR>　ゲームゲームした感じになりすぎちゃわない、っていう部分？のめりこめさせない仕組みの説明じゃん？それって。
<BR>　でもさ、ふつうはさ、のめりこめさせないと失敗なわけだよ。ハマってプレイしてもらわないことには、ゲームって商売は成り立たんわけだ。行為アディクションの発生装置みたいなところがあるからね。ゲームって。
</P>
<P><B>瀬上</B>：はい。そうですね。「視線が泳いじゃいますよね」っていう話を僕はしたわけですけど、「普通は視線が泳がないほうがいいだろ」ってことですよね。
</P>
<P><B>米島</B>：そう。視線が泳いだ先に、見るべきものがあるか、どうかって話に結局なってしまう。で、見るべきものはやっぱりICOの開発チームの美術ワークが素晴らしかったとか、サウンドチームが素晴らしかった、とかAIチームが素晴らしかった、とかって話をやっぱりするしかなくなってしまう。
<BR>　もちろん、本当にそれは素晴らしかったんだけど、そういう個別のことをオレらは話したいわけじゃない。</P>


<h3>●「ヨルダっていうのはね、プレイヤーキャラクターの身体を、分裂させてるんだよ」</h3>

<P><B>米島</B>：でね。ここから、オレのターンで（笑）
<BR>　何がすごいってさ、ヨルダだと、思うのよ。
<BR>　ヨルダって、ものを配置したっていうことがね、もう、すごすぎる、と。
</P>
<P><B>瀬上</B>：ほう。もう少し敷衍していただけますか。
</P>
<P><B>米島</B>：いまね、瀬上くんさ。「素直にのめりこめないように出来てる」みたいなこといったじゃない。
</P>
<P><B>瀬上</B>：はい。言いました。
</P>
<P><B>米島</B>：でも、素直にのめりこめない、とそれはストレスなわけだよ。ゲームやめちゃうわけだよ。つまらなくなったやうわけだよ。
<BR>　でも、やめない。むしろ、面白がっちゃう。
<BR>　これ、どうして？世界がキレイだから？環境ソフト的に遊べるから？ヨルダがかわいいから？
</P>
<P><B>瀬上</B>：その要素はありますよね。
</P>
<P><B>米島</B>：うん。ある。さっきも言ったけど、それは確実にある。でもさ、ICOは、環境ソフトじゃないわけよ。環境ソフトなんかとは全然ちがう。スクリーンセーバーにして眺めとくようなね、『アクアゾーン』みたいなものじゃないじゃない。『アクアノートの休日』でもないじゃない。
</P>
<P><B>瀬上</B>：そうですね。僕のさっきの論法だと。
</P>
<P><B>米島</B>：そう。瀬上くんのさっきの話だと、ICOは、飯田和敏作品とほとんど同じだと言っているようなもんだよ。『アクアノートの休日』とか『太陽のしっぽ』とICOは、同じだって話になっちゃう。あるいは、伊藤ガビンさんとかの作ってる「目的のないゲーム」とかみたいなラディカルな方向と同じって話になっちゃう。
<BR>　でもね。違うだろ、と。そんなもの、ファックだろ！と。
</P>
<P><B>瀬上</B>：僕は全くファックではありませんけどね。
</P>
<P><B>米島</B>：うぜぇな、瀬上（笑）。
<BR>　オレは、さっき瀬上くんが言っていたことは全然、違う、とおもってるわけだよ。あのね、ICOはね。やっぱり。ゲーム。少年を操れちゃうゲームですよ。
<BR>　普通のゲームはね。ゲームに関係のないものが入り込んでると、ウザいわけだよ。いらねー、どっか行ってくれ、って思うわけだよ。
<BR>　でも、ICOは、そう思わない。ゲームをプレイしてる時に、いろいろなズレみたいなものを発生させる仕組みが埋め込んであるのだけれども、それがストレスにならない。ふつう、ボタンを押して、反応が返ってくるまでに、0.5秒も遅延があったら、死ねよ、って思うけど、ICOはそう思わない。
<BR>　どうしてかって言ったら、そのズレの発生源が、ヨルダだから、なんだよ。
</P>
<P><B>瀬上</B>：はい。ヨルダが重要なのはわかりました。
</P>
<P><B>米島</B>：ボタンを押した時にね、ICO少年のほうはきちんと動くわけ。これは、もうかっちりと動く。元気に動く。レスポンスはすごくいいし、すごく生々しく動くわけだよ。だから、ゲームとして、合格。ストレスはない。
<BR>　で、ヨルダはかわいいよね。うっとりと見入っちゃうような女の子だよね。
</P>
<P><B>瀬上</B>：うーん、はい。ICOって、ゲームゲームした部分というか、その身体が生身の感じを強めれば強めるほど、その身体の記号的な扱われ方をしている部分というのが気にかかるところがありますよね。ヨルダの身体が眼差される対象でありうる、一方で、ICOの、少年の体はやっぱり、プレイヤーキャラクターで、すごく記号的な身体…というか。
</P>
<P><B>米島</B>：いや、そんな単純じゃないよ。
<BR>　ヨルダはね、プレイヤーキャラクターの延長なんだよ。だからね、ヨルダの身体の手応えっていうか、ヨルダの身体のレスポンスっていうのを感じるわけじゃない。プレイヤーは。手を強く引っ張ったときにはさ、すぐについてこないで、一度、手だけを強く引っ張ってしまって肩をガクっと落としてから、体をついてこさせるじゃない。すぐに少年の後ろについてこないでしょう。「オファ、オファ」という声をあげてから、ヨルダが反応し、かけつけてくるまでには時間の落差があるでしょう。
<BR>　<strong>ヨルダっていうのはね、プレイヤーキャラクターの身体を、分裂させてるんだよ</strong>。あれは。
<BR>　あのゲームってさ、画面から全部数値的なパラメータとかを排除するためにさ「HP」とか使わないじゃない。でね、上田さんのインタビューを聞くところによればさ、「一緒にいる女の子がさらわれるかどうか」がHPの役割を果たしてるらしいのよ。
<BR>　『ワンダと巨像』だとさ、テキストや数値による表現を極力抑えられてはいるものの、右下に小さなメーターを付けちゃってるじゃない。メーター。ヨルダってさ、メーターなんだよ。その意味では、ヨルダって、プレイヤーキャラクターの身体が「HP」として持ってたものが切り出された姿でもあるわけだ。

</P>
<P><B>瀬上</B>：「わたしの身体の延長」であるプレイヤーキャラクターでありながら、同時に「眼差される対象」でもある、と？
</P>
<P><B>米島</B>：でも、ナルシストじゃない。『デビル・メイ・クライ』とか『ベヨネッタ』とかみたいな神谷英樹系のゲームってのはさ、基本的にはナルシストを可能にしているゲームじゃない。
</P>
<P><B>瀬上</B>：「わたしの身体の延長」である、プレイヤーキャラクターの動きにうっとりとみとれると、というゲームですよね。『デビル・メイ・クライ』も、眼差す主体の延長＝プレイヤーキャラクターと、眼差される客体＝映画スターという分節を、融解させてしまったものですけど、これとは違う、と。
</P>
<P><B>米島</B>：そう。違う。やっぱりね、ヨルダを見つめる、というはそういうことじゃない。ICOの動きもすごくキレイにつくってあるし、ICOに見とれることもできるけど、そうじゃないよね。やっぱり、あれはヨルダがキレイなゲームなんだよ。ヨルダの鼓動もコントローラーを介して伝わってくるしね。
<BR>　『デビル・メイ・クライ』とかはさ、ストレスが発生しないゲームだよ。基本的には。どれだけ、華麗に舞いつつ、敵を倒せるか、っていう。二つのゲームをやってるゲーム。華麗に舞うゲームと、敵を倒すゲーム。複雑性が増してるけど、プレイヤーキャラクターの身体は一つだし、プレイヤーキャラクターの身体は、プレイヤーの意のままだよね。
</P>
<P><B>瀬上</B>：ヨルダは、意のままにはなりませんね。
</P>
<P><B>米島</B>：そう。ヨルダにさ、乱暴にしたりするとさ、ヨルダが嫌がったりするんだよね。ヨルダは、気まぐれにこっちがプレイしているゲームの理屈の世界から抜け出しちゃったりする人なんだよね。
</P>
<P><B>瀬上</B>：自分の制御できないもの、に見とれる。
</P>
<P><B>米島</B>：そう。自分の制御できるものに見とれるのではなくて、自分が制御しきれないものに見とれる。だから、これはナルシズムではない。
</P>

<h3>●不確かな暴力を振るっているのは誰か。</h3>

<P><B>瀬上</B>：なるほど。米島さんのおっしゃりたいことはわかる気はします。
<BR>　それと、そうなると、もう一つ思うのが「『ICO』はギャルゲ―だ」論というのがよくありますが、そういう方向性であるようにも聞こえます。
</P>
<P><B>米島</B>：それはね、他人とは何か、ということだと思う。
<BR>　ヨルダってさ、意のままになりきらない。これが他人だということだよね。
<BR>　ICOをやっていて怖いのはそこなんだよね。
</P>
<P><B>瀬上</B>：怖い？
</P>
<P><B>米島</B>：うん。ICOって、怖くない？
<BR>　あれさ、キャラクターの動きがすごく生々しいじゃない。
<BR>　影から逃げてさ、ヨルダをひっぱっててさ、ヨルダから、たまに嫌がれるときの嫌悪感が表現される体の動きも生々しいし。
<BR>　それに何よりも生々しくて驚くのはさ、影を棒で叩くときの少年の動きだよね。
</P>
<P><B>瀬上</B>：ああ
</P>
<P><B>米島</B>：ぞっとすることがあるよね。正当防衛みたくして、影と闘ってるわけだけど、あの棒の振り回し方を見ていると、ひどく残虐な感じもするでしょう。
</P>
<P><B>瀬上</B>：『エヴァ』とか『エウレカ』みたいな話っぽくもありますけど…
</P>
<P><B>米島</B>：だいたいそうなんだけど、ちょっと違う。
</P>
<P><B>瀬上</B>：暴力って何か、みたいな話で、暴力論なんかだと、戦争のような国家暴力、犯罪などの個人暴力、行為者が特定できない<a href="http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/09violencia_estructura.html">構造暴力</a>などといったような区分をしますね。
<BR>　エヴァとかの場合は、国家的な正当性を付与された暴力を振るう主体＝シンジくんが、国家と関係なく、とても個人的な動機で力を振るってるように見えてしまう瞬間がある。そういうものが描き出されているのが怖いわけですね。
<BR>　構造的な整理としては、だいたい近いと思います。暴力を振るう正当性を付与されている…と思い込んでいた主体の振るう暴力が、実は正当性に紐付けられていない…！と気付いてしまう怖さ。
</P>
<P><B>米島</B>：でもさ、そのときゾッとするのは誰が誰に対してなんだろ。
<BR>　エヴァを見ているとき、シンジくんの幼さを見る観客が、シンジくんにゾッとするわけだよね。アスカにゾッとするわけだよね。
<BR>　でも、ICOでゾッとするのは、少年に棒を振るわしていたプレイヤー自身じゃないのかしら。ゾッとするのは、自分自身の正当性の根拠の無さじゃないのかしら。
</P>
<P><B>瀬上</B>：いや、でも、それは結局、画面の中のシンジくんや、ICOに対して、観客がどれだけ感情移入してしまっているか、じゃないんですか？主人公＝わたしの延長、でどれだけあるのか。感情移入をしている観客に対しては、エヴァであっても、それはやっぱり「私の暴力の無根拠性」みたいなニュアンスが発生しちゃうんじゃないですか？
</P>
<P><B>米島</B>：いや、だけど「プレイヤーキャラクター」と「主人公」は違うものでしょう？
</P>
<P><B>瀬上</B>：難しいですね。
<BR>　うーん、『GTA(グランセプトオート)3』ってあるじゃないですか。犯罪者になって、車盗んで、人ひき殺して、路上の通行人を射殺して、逃げ回って、楽しいっていうアレ。あれは、元から、何の正当的な根拠もない暴力というか、犯罪者のゲームですよね。
</P>
<P><B>米島</B>：それは、瀬上くん、わかってないよ。
<BR>　GTAはさ、犯罪者っていうキャラクターが設定されているわけじゃない。犯罪者らしさ、という枠組みのなかでプレイするものだよね。GTAの暴力って、正当性はないかもしれないけど、キャラクターの設定からすれば、何の問題もなく理解のできる行動じゃない。
</P>
<P><B>瀬上</B>：犯罪者の合理性、ということですね。米島さんが仰られているのは、むしろ、あらゆる合理性が抜け落ちて、暴力だけが露わになってる、みたいな。そういうことですよね。
</P>
<P><B>米島</B>：あー、そうね。ちょっと話が逸れるけどさ、オレ、『Fate stay/night』の最初のセックスシーンが大嫌いでね。あれってさ、エロいことするために、とにかくありとあらゆる正当性をくっつけておいてはじめて、エロいことができましたって話なんだよね。
<BR>　相手の合意はもちろん、悪者の手から逃げのびるためのセックスでもあり、周囲の第三者からもきちんとＯＫをもらった上で、ようやく、これからエロいことをしますよっ、ていう話でさ。まあ、昔から、「世界の危機をすくうためにオレに抱かれなさい」っていう話はあるけれど、あれ、そういうものだよね。抱いた後に妊娠させても、オレのせいじゃない、とかって言えてしまいそうな野郎の話に思えてしまった。
</P>
<P><B>瀬上</B>：いや、セックスをするっていうのがそれだけ、恐ろしいことだと思っているから、それだけ正当性が付いてないと、できないんでしょう。それがダメか、いいか、というのは話を裏から見るか、表から見るか、という話で。むしろ、恐ろしさを理解してるから、いいとも言えるわけですよね。そこまで、無頓着でデリカシーのないヒーローとはまた別モノなんじゃないかとは思いますけど。
</P>
<P><B>米島</B>：まあ、そうとも言えるけど、この話はわき道に逸れすぎるので言いたいことだけ言うと、結局ね。結局、何が言いたいかというと、暴力的な行為に正当性だとか、合理性？をくっつけてまわるっていうのは、暴力を隠蔽するわけじゃない。
 でもさ、ぎりぎりのところでね。自分のやっていることが暴力なのかもしれない。ヨルダを救っているように見えて、ヨルダを苦しめているのかもしれない。嫌われているかもしれない、みたいなギリギリのラインで、煮え切らすことができない状況でやらざるを得ない。ICOは。
<BR>　そこのバランスがね。エヴァとか、エウレカなんかよりも、実にギリギリのきわどいところで行ってると思うんだよね。エヴァとか、エウレカなんてさ、やっぱりバカなガキが戦争でハイテンションになっちゃって、わけわかんないことをしちゃう話として描かれてるわけだよ。「ハイ、これは何の正当性もないむき出しの暴力です」って。露悪的に描いちゃってる。
<BR>　でも、ICOって、そこまででも、ないでしょう。それがむしろ、良くって。
<BR>　しかも、途中で、いかにっも悪者っぽい、クイーンから言われるじゃない　「おまえだね、わたしのかわいいヨルダを連れ回していたのは」って。
</P>
<P><B>瀬上</B>：そこは、<a href="http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/sawa/ico.html">沢月さんも書かれてた部分</a>ですね。はい。まあ、それはわかるんですけど。
物語的な構造と、そこらへんは見事に相乗効果を果たすようにつくられてますよね。
</P>
<P><B>米島</B>：その、まあ、そうね。ICOはそういう、怖さを醸すように設計されてるんだよね。何重にも。
</P>
<P><B>瀬上</B>：さっき、米島さん、プレイヤーキャラクターと主人公は違うよねって話。おっしゃいましたよね。
</P>
<P><B>米島</B>：ああ、うん。
</P>
<P><B>瀬上</B>：ちょっと、考えてみたんですけどね。何が違うかっていったら、やっぱりその体を動かせるか、どうか、ということが全てだという気がするんです。物語上の、位置付けはプレイヤーキャラクターが主人公でもある、というとき、主人公はやっぱりプレイヤーの分身でない、という感じることはあると思います。
<BR>　例えば、FFの主人公が、青臭い発言をしたときにね、やっぱりプレイヤーはその青臭い発言をした人物を、「わたし＝プレイヤーの分身」としては捉えられない。
</P>
<P><B>米島</B>：そうだね。
</P>
<P><B>瀬上</B>：さっきから、米島さんがおっしゃられている「バカなガキ」ではないICOって何者かって言ったら、それは、やはり米島さんが操作する少年ICOのことなんじゃないかと思えるんです。
<BR>　米島さんが操作するから、ICOはそこまで脳天気な正当性の中で裏付けられた暴力を振るう少年でもいないし、かといって、そこまでむき出しの暴力でもない。それをそうさせてるのは、米島さんなんじゃないかってことです。米島さんが、暴力に対して、それなりにはセンシティヴだからでしょう？
<BR>　少年ICOって、ほとんど、セリフらしいセリフを喋りませんよね。意志を明らかにするようなセリフをしゃべらない。ICOが何者で、どういう少年なのかってことは、ほとんどわからない。だからこそ、ICOがどういう少年を観察している米島さん自信を、鏡のように跳ね返してしまうんじゃないか、と。
<BR>　うちの甥っ子に遊ばせたら、きっと、無邪気にきゃっきゃと、棒を振り回しまくってしまうだけなんですよ。
</P>
<P><B>米島</B>：んー、なるほど。確かにね、それはそうなのかもしれない。
<BR>　なんだか、その話を聞いてね、おもったんだけど、オレの友達がね、ICOをプレイして、とにかく思ったのが、「自分は何の演技をしようとしているんだろう」って思いながらずっと、プレイをしていたって話を聞いてね。ああ、なるほどなぁ、と思った。
<BR>　ICOを操作する、操作の仕方を常に選び取らされてるんだよね、あれ。
</P>
<P><B>瀬上</B>：同時に、演技を選び取ってしまっている自分を、自分自身ではっきりと見つめてきってしまう、というそのお友達は面白いですね。それはプレイヤーごとの感性なんでしょうね。
</P>

<h3>●言葉のないもの</h3>

<P><B>米島</B>：そうねぇ。ちなみに、その「無口なプレイヤーキャラクター」っていうのは、....
</P>
<P><B>瀬上</B>：ドラクエです。
</P>
<P><B>米島</B>：そうだよね。堀井さんのやってきたことなんだけど...
</P>
<P><B>瀬上</B>：ちょっと違う。
</P>
<P><B>米島</B>：うん、ちょっと違う。どこが違うんだろう。
</P>
<P><B>瀬上</B>：そうですね…
</P>
<P><B>米島</B>：身体の見え方じゃないかな。
</P>
<P><B>瀬上</B>：というと？
</P>
<P><B>米島</B>：ドラクエってさ、暴力を振るうプレイヤーキャラクターの身体って、昔っからちゃんと描かないよね。基本的に、堀井さんは言葉のひとだし。言葉が何よりもあるだけなんだよね。言葉が。あとは「はい／いいえ」。
<BR>　言葉と違ってさ、身体って、もうちょっと緩いというか、わけがわからないんだよね。
</P>
<P><B>瀬上</B>：ああ、つまり...意味が確定されない。
</P>
<P><B>米島</B>：そうね。
</P>
<P><B>瀬上</B>：もっと、意味が確定されるよりも、もっと以前の段階を提示しますよね。
</P>
<P><B>米島</B>：そうだね。意味は、事件の後にひっついてくる。暴力のあとに、ひっついてくる。自分のやったことが、いいことか、わるいことか、どう解釈されるべきことのなのか、わからない。
<BR>　昨日ね、テレビを見てたらさ、有吉弘行が小学生の頃にモテた、って話をやっててさ。なんか、それで、有吉が好きだった女の子がね、クッションを誕生日にプレゼントしようとしたんだけど、有吉に直接渡すだけの勇気がもてなくて、有吉の自転車のカゴにクッションを置いてきてしまったんだって。手紙もなにもなしに。
<BR>　でも、それが自分の好きな子からのプレゼントだったとは有吉は理解できなかったらしくって。気持ちの悪い嫌がらせか何かだと思っていたらしいのよ、今の今まで。それが、20年以上も後になって電話をした時にようやくわかって。
<BR>　手紙があればね、また違っただろうに。
<BR>　手紙もなく、ものだけが提示される、ってそういうことだよね。
<BR>　そりゃまあ、言葉の世界だって、うるさく言えば誤配可能性がどうこうとかって話はあるだろうけどさ。言葉の不確定性の比じゃないと思うんだよね。こういうものって。
</P>
<P><B>瀬上</B>：ああ、なるほど。意味が、言葉によって規定されないっていうのは、まさにそういうことですね。初恋の女の子からのプレゼントなのか、誰かの嫌がらせなのか、さっぱり確定できない。
<BR>　ドラクエだって、ある程度そういうわけのわからない行為を強いるようなところはあるので、詰めて言えば、程度問題なのかもしれませんけれど。
<BR>　でも、なんだか、そういうクッションが自転車に放り込まれていたときの、どう判断していいか、まったくわからないような。そういう感覚をとにかく、どんどん、放り投げてくる。ICOの「わけのわからなさ」というのは、そういうものかもしれませんね。
<BR>　米島さんのお友達が、「自分は何をしているんだろう」というのも、行為の位置付け自体を自分でしなくちゃいけない、ということをふと気付いてしまうということなのかもしれませんね。これが『サクラ大戦』や『ドラクエ』だったら、もっとわかりやすいですものね。自分が何をしているのか。どんなキャラクターでプレイをしようとしているのか。でも、ICOは、そこも放り出されている。
</P>
<P><B>米島</B>：まあ、結局、ICOは、そういうわけのわからない感じの中にポーンと放りこんじゃってさ、でも、それを全部、ゲームとしての基本のお約束を変形させる形で、やってるからね。それがね、とんでもないんだよね。棒を振る不気味さもアクションゲームとしてまとまってるし。ヨルダは、HPの変形でもあるし。
　そういうことは、なかなかできない。いや、もしかしたら、本当は、できるのかもしれないけれど。どうなんだろ。どうなんだろうね。</P>]]>
</content>
</entry>
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<title>ゲームの定義論</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.critiqueofgames.net/2008/10/post_7.html" />
<modified>2008-10-02T14:02:23Z</modified>
<issued>2008-10-02T13:58:50Z</issued>
<id>tag:www.critiqueofgames.net,2008://2.887</id>
<created>2008-10-02T13:58:50Z</created>
<summary type="text/plain">モバイル社会研究所発行の機関紙『未来心理 vol.13』 http://www....</summary>
<author>
<name>AkitoInoue</name>
<url>http://www.critiqueofgames.net</url>
<email>cog_inoue@yahoo.co.jp</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.critiqueofgames.net/">
<![CDATA[<p>モバイル社会研究所発行の機関紙『未来心理 vol.13』<br />
<a href="http://www.moba-ken.jp/theme/msr/msr_cover/msr_013">http://www.moba-ken.jp/theme/msr/msr_cover/msr_013</a></p>

<p>にて</p>

<p>井上明人「遊びとゲームをめぐる試論　―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか―」<a href="http://www.moba-ken.jp/wp-content/pdf/vol.13_inoueakito.pdf">http://www.moba-ken.jp/wp-content/pdf/vol.13_inoueakito.pdf</a></p>

<p>が掲載されました。</p>

<p>ゲーム／遊びの定義論や、概念モデルについてご興味のある方には、ご笑覧いただければ幸いです。</p>]]>

</content>
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<title>ゲーム作りの文化のために―独立系デベロップメントシーンの比較試論―</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.critiqueofgames.net/2008/09/post_4.html" />
<modified>2008-10-02T00:23:54Z</modified>
<issued>2008-09-27T22:45:25Z</issued>
<id>tag:www.critiqueofgames.net,2008://2.886</id>
<created>2008-09-27T22:45:25Z</created>
<summary type="text/plain">　先週金曜日(9/26)に発表したDiGRA JAPAN(日本デジタルゲーム学会...</summary>
<author>
<name>AkitoInoue</name>
<url>http://www.critiqueofgames.net</url>
<email>cog_inoue@yahoo.co.jp</email>
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.critiqueofgames.net/">
<![CDATA[<p>　先週金曜日(9/26)に発表したDiGRA JAPAN(日本デジタルゲーム学会)　≪同人ゲームの潮流　「同人ゲームの過去、現在、未来」≫での講演資料について、私の分をアップしておきます。</p>

<p>「ゲーム作りの文化のために―独立系デベロップメントシーンの比較試論―」<br />
<a href="http://www.critiqueofgames.net/data/presentation/for_independent_development_for_web.pdf">http://www.critiqueofgames.net/data/presentation/for_independent_development_for_web.pdf</a></p>

<p>　私のは、他のシーンとの比較というような話にしてありますので、同人ゲームそのものについての扱いはそこまで大きくありません。（たぶん、当日会場にきていた聴衆の方のほうがよっぽど同人シーンについては詳しい。）</p>

<p>　ご来場いただいたみなさん、ありがとうございました。</p>]]>
<![CDATA[<p>　内容については、4gamer.netの記者の方がまとめてくださっています。</p>

<p>http://www.4gamer.net/games/042/G004287/20080928002/</p>

<p>(→その反応　http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.4gamer.net/games/042/G004287/20080928002/)</p>

<p>-----</p>

<p>#追記＠2008/9/30</p>

<p>　ベーマガについてのご指摘が多かったようなので、話の文脈を改めて書いておきますと、「80年代はベーマガが絶対神だった」という主張をするのが本旨ではなく、むしろ、みなさんのご指摘どおり、さまざまなマイコン誌が存在感をもっていたかと思います。これも「ベーマガ」「I/O」と言わずに「マイコン誌」「プログラム投稿誌」と書いたほうがよかったかもしれません（ご指摘いただいた方、ありがとうございました。）。別にベーマガが全てだったということを指摘したいわけではありませんので、「80年代前半の一時期、プログラム投稿誌では、複数の重要なインフラ的機能のかなりを、単体でカバーしていた」といったほうが、より言い方として適切かもしれません。プログラム投稿誌が、単なる技術的な下支えとして機能した以上に、流通から製作ノウハウまで含めた複数の機能を同時に果たしていたことが面白い、というのが指摘したかったことです。</p>

<p>　現在において当時とまったく同様のことをするのは、もちろん無理かと思います(この点は、ABAさんに書いていただけていた通りですhttp://d.hatena.ne.jp/ABA/20080930)。ただ、重要なことは、「単一の機能を実現するだけではなく、複数の機能が実現されなければ、CGMってうまく成立しませんよね。そこは見誤ったらいけませんよね。」という話です。何がくだらないとか、何がすばらしいといった固有名詞に対する評価の話として受け取られた方にはすみません。講演時間をオーバーするなか、急いで話していたこともあり、そこらへんの配慮の足りないはしょった話し方として聞こえていたとしたら、お詫び申し上げます。図の書き方もまだちょっと悩みどころです。</p>

<p>　また、最後のほうで示したネットワークのイメージ図ですが、あれに反応していただいた方が予想以上に多かったようなのですが、あれはほんとうに「何を言わんとしているのか」ということをわかりやすく示すためだけに用意した概念図です。正確性について配慮のあるものではありません。当日も、少しの時間しかお見せしなかったかと思います。「口で言っても伝わらないから、脳内のモヤモヤをわかりやすく絵にしてみると、だいたいこんな感じです。」というものです。あの図のディテールについて、もし調査に基づいたものだとして理解されてしまうとすれば、それは確実に、図が一人歩きしてしまっている状態に他なりません。(というか、そう理解されてしまうのだとすると、具体的な固有名詞をすっぱりと書かないほうがよかったのかもしれません。「流通機能Ａ」「評価機能Ｂ」とかそういう表記にして。)</p>

<p>　あの図だけいきなり見て「こいつはわかってない…！」と思われた方は、もちろんいらっしゃるかと思います。で、もちろん、「こいつは実際の状況が描けていない」という指摘があるとすれば、それは全くもってその通りのご指摘です。「概念的にこういう捉え方ができるかもしれませんが、どうでしょう」という叩き台を提示させていただいた以上の何かではありませんので、ある程度はそう思ってもらわないと、むしろまずいぐらいです。</p>

<p>　ですので、この図はここがおかしいとか、ここに線が引けるはずだ、といったご指摘は、おそらく、いくらでも可能なはずです。</p>

<p>　もし、あの図をもっと実際に近づけさせたいと感じていただいた方がいらっしゃいましたら、発表させていただいた意義があろうというものです。ぜひ、描いてみて下さい。たぶん、私よりもよっぽど実状に近い図が描ける方は沢山いらっしゃると思います。</p>

<p>　ご連絡いただきましたら、はてなのエントリの下にでもリンクを張らせていただきたいと思います。</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>何が悲しいのか―――メディアと人の形</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.critiqueofgames.net/2008/06/post_2.html" />
<modified>2008-06-14T03:56:53Z</modified>
<issued>2008-06-13T13:38:59Z</issued>
<id>tag:www.critiqueofgames.net,2008://2.885</id>
<created>2008-06-13T13:38:59Z</created>
<summary type="text/plain">●ライフログの悲劇 井上：秋葉原通り魔事件の翌日に書かれた、complexequ...</summary>
<author>
<name>AkitoInoue</name>
<url>http://www.critiqueofgames.net</url>
<email>cog_inoue@yahoo.co.jp</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.critiqueofgames.net/">
<![CDATA[<h3>●ライフログの悲劇</h3>

<p>井上：<a href="http://www.critiqueofgames.net/2008/06/200806091305_wr_1.html">秋葉原通り魔事件の翌日に書かれた、complexequitlyさんの記事</a>の主張をまとめるとこういうことですね。<br />
　ジャーナリズムにおけるプロ／アマの融解だとか、ヌルいことを言っているんじゃない。プロもアマもまとめて「報道」という概念事態が揺るがされている。<strong>ライフログと報道の融解のほうがより大きな問題</strong>なのだ、と。そして、今回の悲劇は、ライフログをめぐる行為や、解釈をめぐって幾重にも錯綜した事態が展開していた。そして、犯人も、犯人をめぐる社会システム――新聞、ワイドショー、ネット論壇、携帯からアクセスする匿名掲示板、ライフログ――も、全てがそれに巻き込まれている。complexequalityさんの指摘はそういうことですね。<br />
　もちろん、永山則夫事件の現代版としての性質も見いだせるだろうし、要因はもちろん複合的だろうし、色々なところに重みは見いだせるだろうけれども、complexequalityさんにとって衝撃だったのはそこだった、と。<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>complexequality：昨日まで匿名で話していた相手が、いきなり殺人予告をして、わたしの実名の知人のような人たちを殺してしまった。そういう感覚です。そして、そこで、ライフログをめぐる問題がひどく前面的に出てきている状況が、とても悲しく感じました。わたしたちの世界には、このような新しい種類の悲劇もありうるのか、と。わたしにとっては、本当に人ごとではないという感覚が強い。わたしが殺されていたかも知れないことも含めて。<br />
　ライフログの問題というのは、すなわち<strong>「わたしの見ている映像―――の記録」「わたしがわたしについて語る言葉―――の記録」というものが、一体何なのか、何の価値をもつのか。あるいは何の価値を期待するのか。していいのか。</strong><br />
　世界でもっともブログ投稿数が多いのは日本語だそうですね（<a href="http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0704/06/news057.html">参考</a>）。そして、そのブログの使われ方はどうなのかといえば、討議的民主主義というような性質のものではなく、もっと私的なものが主流をしめています。「繋がりの社会性」と言ってもいいかもしれないし、わたしの感覚で言うと、それはライフログとそれを取り囲む空間の問題です。<br />
　報道として扱われたものに関して言えば、報道をしたとされる人間の「意志」を確認することすら難しい。というか、報道をする側がそれを報道にするかどうかを決定しているのではなくて、何かしらを「報道」だとして受け手の側が決めている。<strong>それが「報道」なのか否かを決定しているのは、記録を綴る人間なのではなくて、綴られた記録を読んで位置づける人間なのだな、ということです。そして、ライフログを綴る側もそのような事態を半ば期待している。</strong></p>

<p>井上：少し印象が分かれるのは、僕は情報を読む「人間」がどうやって情報の価値を決めるかよりも、情報の価値を判断していくシステムの側の話なのではないかと思いました。<br />
　complexequalityさんの最後の一文―――「もし犯人がワイヤレスのカメラを首からぶら下げて、連行されるその瞬間まで、USTREAMで自らの眼前に繰り広げられる光景をストリーミングしていたならばどうだろう。われわれはそれを見るのだろうか？」―――は、問題提起としてとてもいい指摘だと思ったんです。ですが、ストリーミングだとか、ネット上に記録／ライフログが溢れるという話をしたときにですね、一緒に語るのであれば情報の「編集」の話がネックになってくるように思います。<br />
　どういうことかというと、情報がただただ垂れ流しになっているストリーミングの実況では、それを解釈する観客は困ります。もちろん、その映像を報道だと受け取る奴もいる。でも、そうだと受け取らない奴もいる。という状況だと思うんです。村崎百郎の例は面白かったのですが、村崎百郎は確かに他人が垂れ流しているライフログ＝ゴミを漁る人なので、特殊な観客として機能するのだと思います。普通の人は、情報が単に垂れ流しになっているだけだと、それがゴミか、なんなのか判別がつかないので、情報を編集し、意味づけする過程がほしい。「ストリーミングを見るか見ないか」という問いを成立させようにも、「誰もストリーミングされていることに気付かなかった」ということで終了しかねない、ということです。<br />
　<strong>ある記録やら、情報やらがあったとして、その意図を読み取られる過程が問題になっている</strong>、ということはよくわかります。そして、犯人はよくも悪くもその点に賭けた。同時に、事件現場の周辺にいた当事者、通行人たちのライフログをめぐることでも論争がおきた。そういった、<strong>情報の価値を決めていくのが個々の人の問題だというよりか、情報を流す様々なシステムの側の変容の問題だ、と言ったほうがいい</strong>のだと思いました。今回の場合は、携帯電話や、USTREAMといったメディアが、そこでとても大きな役割を担っていた。</p>

<p>complexequality：確かに、ライフログがゴミになったり、ゴミにならなかったりする、というのはそういうことがあるからですね。複数の議論を一挙にしようとしてしまって、わかりにくかったですね。申し訳ないです。</p>

<p>井上：いや、一緒の話だと思うんです。複数の話じゃない。事態はたぶん、二つぐらいにきっちり分けられて　(1)　情報そのもの　と　(2)　情報の価値の重み付け　の二つだと思うんですね。この二つの関係性の話をcomplexequalityさんは、今回お話をされている。</p>

<p>complexequality：もう少し敷衍していただけますか。</p>

<p>井上：「報道」っていうもののはアマチュアがやるにせよ、プロがやるにせよ、現実に散在している情報を切り取ってきて、「この情報が重要だ」とやって、流す行為なわけですよね。<br />
　一方、価値の重要性について重み付けがされない情報というのは、「報道」というよりも、単に「情報そのもの」ですね。一般には、ゴミになるかもしれないし、宝になるかもしれない記録の束みたいなものがライフログですね。</p>

<p>complexequality：はい。</p>

<p>井上：ただ、ライフログというのは記録される対象である当人にとっては、ゴミか、宝か、と言われれば、宝なわけです。ライフログっていうのは、complexequalityさんの言葉を使えば「実存」に関わる情報。すなわち、「わたしのとって、価値のある情報」という重み付けがされている――――けれども、多くの人にとってはゴミかもしれない情報。<br />
　一方で、報道というのは「多くの人にとって、価値がある情報」です。わたしにとっての価値がある情報であるかどうかはわかりませんけれど。報道のための編集作業というのは、情報の価値そのものを提示する積極的な行為です。「多くの人にとって、価値がある情報」であるように見せていくためのね。（表１）<br />
　でも、今回は、その情報の編集作業というよりも、情報そのものの価値の切り替わりとかがいきなり起きたというような感じですよね。<strong>「わたしにとっても、多くの人にとっても、価値がある情報」から、「多くの人にとって、価値のある情報」になるということを、「ライフログから報道になる」と表現されていた</strong>んだと思うんです。</p>

<p>（表１）<table border="1"><tr><th><th>わたしにとっての価値<th>多くの人にとっての価値</tr><tr><th>ライフログ<td>○<td>（揺れ動く）</tr><tr><th>報道<td>（揺れ動く）<td>○</tr></table></p>

<p>complexequality：はい。言い方が煩雑になってしまいますけれど、「ライフログでもあり報道でもあるものが、単に報道になる」といってもがよかったかもしれません。でも、システムによる情報の重み付けの問題というのは、井上さんらしい問題の立て方だな、とも思いました。コンピュータ・ゲームの発想ですね。</p>

<p>井上：そうかもしれません。「人」が情報の重み付けをするのが編集行為であるとすれば、「環境」によって情報の重み付けが誘導されていくものがコンピュータ・ゲームです。ニコニコ動画のタグだのなんかも、それにあたるのかもしれません。<br />
　だから、ストリームとかライフログの話だけではだめだ、というのはそういうことです。拡大された情報量の中にあって、何が重要な情報か、ということを半自動的に判断していくようなシステムとセットになっている例をあれば、complexequalityさんの衝撃はよりクリアーに見えてくるんじゃないかと思うんですね。<br />
　犯人が犯行のストリーミングの映像を流したとしても、誰も閲覧者がいなかったらそれは誰にも見られることがない、ストリーミングされているだけの映像ですよね。その映像を、多くの人に見せようと思ったら、実行に至る直前までに何かしらの方法で人を集めておかなければいけない。携帯のライフログだったから、今回は事件が終わってから参照することができたわけですけれども。<br />
　編集というのは、あくまで情報を発信する主体によって意図的になされる行為だと思うんです。でも、ストリーミングのライフログというのは編集がなされているものではなくて、ただの情報垂れ流しに近い。だから、<strong>その情報の価値付けを判断していくのは「編集」というような発信者を介するものではなくて、情報の受信サイドなり、情報が置かれていく場所なり、なんなりが受け持たなければならない。そのとき、情報をつくった人間と、読む人間の間にインタラクションが生じる</strong>。別の例で言えば、インターネットを使うようになってこの数年「誤読」だとかいう言葉を、これほどよく聞くようになるとは思っていなかったし、意識するとは思っていませんでした。メディアが文の読まれる情況編成をどんどんとダイナミックに変化させてきている、ということを意識せざるを得ない。</p>

<h3>●メディアと意志</h3>

<p>井上：事件直後の報道をした人々の話にうつすと、アマチュア・ジャーナリズムというのは、「わたしのためのライフログ」というものと地続きだとおっしゃられていますね。本当は、自分のために蓄積されていたログというのが、報道になってしまったりして、それが「アマチュア・ジャーナリズム」だと思われたりしてしまう。リナックス・カフェでUSTREAMをしていた方（ぐんにょりさん）が、現場のストリーミングをはじめた行為なんかはまさしくそうですよね。単に自分の顔の側にカメラを回して実況していたら、周囲で何かが起こったらしいので、カメラを180度まわしてみた。そしたら、それがたまたま大事件の現場だった。そして、そのままパソコンかかえて現場近くまで行ってみた、と。そんなようなリアリティですよね。それを非難されても、むしろどうしたらいいのか、と困ってしまう。<br />
　別に、事件があったからカメラをまわしたんじゃなくて、カメラをまわしていたら勝手に事件のほうが起こった感覚に近い。監視カメラが事件をたまたま捉えている事態に近いのだけれども、たまたまそこに人が介在するから、そこに「報道の意志」が読み取られてしまう。</p>

<p>complexequality：ぐんにょりさんはともかく、kenanさんには「報道の意志」みたいなものが明確にあったみたいですけどね。<br />
　とにかく、こうした問題が、犯人のライフログと同時並行して起こっていたというのは、とても皮肉な自体だと思いました。結局ここでも問題は、記録されたものとその記録者とか享受者の間にどういった「意志」を見いだしていくのか、ということですね。</p>

<p>井上：簡単に整理してみると、その「意志」というのにはいくつか分けておくことができますね。<br />
　まず、記録する側の意志についてですが、記録する人間の意志をほとんど確認しがたいものがあります。それは機械の目。たとえば、監視カメラの目ですね。監視カメラを設置した人の意志は問えるのかもしれないけれども、監視カメラにセックス・シーンが映ってしまったとしても、たまたまそれを見てしまう監視者がいたとしても、セックス・シーンを撮りたかったわけでも、見たかったわけでもない。それはたまたま見えてしまったものですね。リナックス・カフェでUSTREAMをなさっていた、ぐんにょりさんのリアリティは、この監視カメラをたまたま回していたら、映ってしまったようなリアリティに近いかもしれません。ただ、携帯カメラでばしゃばしゃと、事件直後に撮影していらっしゃった方々は、やはり意志を持って撮影をされていたのだろうと思いますが。<br />
　もう一つは、<strong>記録を見る側の意志について問われなければ、いけないという話ですね</strong>。テレビやラジオというのは、とりあえず電源をつけておけば、ニュースが垂れ流されてくるメディアですね。何もしなくても向こうから情報が流れてくる。一方で、インターネットとか、ゲームというようなメディアは見る側の意志をなくしてはありえないメディアです。自分から情報収集をしていくことで、はじめて情報がもたらされる。もちろん、なんとなく目に入る情報というのもインターネット上では沢山ありますが。基本的には、そういう違いがあると言ってしまっていいと思います。</p>

<p>complexequality：そうですね。そこで、たとえば、テレビばかりを見ている人は、情報を摂取している自分自身に対して、罪の意識だとかが生まれるということは薄いと思うんですね。テレビ局の人間が、勝手に情報収拾をして、勝手に情報を流しているのであって見たく無かろうが、見たかろうが、情報が勝手に編集されて、流されてくるんだから。でも、本当は視聴率のフィードバック次第で、どういう情報が流されてくるかということには違いが生じているので、そこには投票のメカニズムのようなものは働いている。<br />
　本当は「マスゴミ」だのなんだのと言っているような人は、<strong>テレビが嫌いなら、見なければいいんです。</strong>ゲームやらDVDやらを見るのにモニタが必要なのであれば、PCのモニタを使えばいい。本当は、テレビのシステムの外側に、みんなで出ることだって、いまや可能です。わたしはテレビを見なくても困っていません。新聞もとっていません。インターネットだけです。<br />
　レナード・ショッパという人がいて、彼は改革の手段というのは「退出による改革」と、「声による改革」の二通りがあるだろう、と分けています。選択に代替可能性があれば退出による改革が成立するし、選択に代替可能性がなければ声による改革になる。つまり、テレビの内容に不満があるなら、テレビというシステムから「退出」してしまう改革の仕方と、テレビの内容についてテレビ局にむかって不満の「声」をあげる形の改革の仕方があるだろうということです。わたしが、テレビを見ないのは、言ってみれば退出による改革です。いつの間にか「マスゴミ」に荷担するよりは、どのような悪をなすか、わたし自身が選び取りたい。もちろん、インターネットのリテラシーをお持ちでない方は、テレビのシステムからの退出可能性が低いのかもしれませんが。インターネットのリテラシーがあって、テレビが嫌いな人は、さっさとテレビから退出すればいいと思います。<br />
　つまり、何を言いたいか、というと、テレビでたまたま事件を見てしまって、事件の詳細をワイドショーで愉しみにしてしまっている人が、インターネットで情報を積極的にあさっている人よりも罪がないかというと、そんなことは言えない、ということです。テレビからの退出可能性の確保された今となっては「マスコミが勝手に悪いことをやっている」というような話はどんどんと難しくなってきている。</p>

<p>井上：なんだか、お怒りですね。</p>

<p>complexequality：すみません。この事件は、事件を語るフレーム自体に自覚的でなければ、語ることのできない事件です。<strong>「今回の犯罪を分析する」という視点を設定したときに、今回の犯罪を「分析するということ視点をもってしまうこと」自体が問題に晒されていて、そこに参加すること自体の問題が問われなければならない。これはそういう事件です。</strong>観察者の特権性のようなものを信じこんでいては、いつの間にかこの種の犯罪が登場し続けることに荷担し続けることになります。わたしは、今回の犯罪の詳細な分析なんてする気ではないんです。なぜ秋葉原が狙われたのかなんて、わかりません。なぜ6月8日だったのかもわからないし、どうでもいいんです。犯人がどういう人間だったか、ということで衝撃を受けているところはありますが、犯人の「意図」を読んでやる必要なんてまったくない。むしろ、読まないほうがいい。<br />
　わたしがわざわざ書いたのは、何が悲しいのか、ということが理解されればいいという程度のことです。わたしは犯罪を擁護する気はまっったくありませんが、犯人が住んでいたネット上の環境と、そう遠くないところで生きていたので。心理的にも物理的にも近い距離で起こったことなので、とても驚いたし、悲しいんです。</p>

<h3>●介入できたかもしれない可能性</h3>

<p>井上：犯人のライフログ（携帯の書き込み）、全部読みましたが、確かにあれは読んでいて悲しくなりました。<br />
　「06/06 15:52 ナウシカに間に合うかしら」って書いていたのは、ああ、こいつもナウシカ見るんだな、とか思ってしまいましたね。<br />
　報道されているかどうか知りませんけれど、40代とか50代でテレビを見ている方は『ドラクエ』『FF』が好きだったとか言われても、「ああ、ゲームが悪いのね」とか思われるかもしれません。けど、宮崎アニメが好きだったと言われれば、趣味の問題じゃない、とわかるでしょう。しかも、あんなに何回も再放送されているものを、わざわざ放送日程チェックしてますしね。先週の金曜日に再放送やっていたってことを、むしろこのログで知りましたよ。<br />
　彼を擁護するつもりは全くありません。でも、何かしらの形で当事者と接続されうる可能性の、まったく外側には居られない。そういう感覚は持ちました。</p>

<p>complexequality：あのログは厳しいです。本当に。<br />
　ああ、もしかしたら。もしかして、わたしがPCではなく、携帯を使う人間で、もし、あのBBSに居たならば、介入していたかもしれない。そう思ってしまう。あるいは、すでに、どこかで話したことがあったのかもしれない。<br />
　犯人はライフログを読んでもらいたかったかったのだか、読んでほしくなかったのか、曖昧なところがあります。報道では「掲示板を読んで、誰かに止めてほしかった」と語ったそうですが、<strong>本当に「止めてほしかった」のならば、2chにでも書けばいい。でも、それをあえて、閑散とした場所でやることのほうに意味を見いだした可能性を否定できません。</strong>だからこそ、これはシステムの問題には回収できないと思っています。<br />
　システムがどんなに監視を強めようとも、監視の外側に行くことはいくらでも可能です。たとえば、マイナーなオンラインゲームのサーバーの中で殺人予告がされていた場合、いくらGoogle的な検索をかけたところで、ものすごく検索がやりづらくなりますよね。検索から逃れる手段なんて、いくらでもあるじゃないですか。<br />
　<strong>監視システムに見えるか見えないか、そのギリギリの境界線上で犯行宣言をすることの意味を見いだしていたらどうなのか</strong>、と思うんです。</p>

<p>井上：システムという概念をcomplexequalityさんがどのように使っているのかがちょっとよくわからないところがありますが、おっしゃりたい意味はわかります。complexequalityさんにとっては、<strong>介入できたかもしれない可能性が、あまりにも等しく与えられてしまっていることこそ悲しい。</strong>そんな感覚なのだろう、と思います。<br />
　そして、たぶん、犯行告白をする側はあからさまに誰かに介入してもらえる場所でやっても意味はない。恋愛システムに喩えていえば、出会い系サイトに行けば、恋愛をしたい人と出会えるかもしれないけれども、それは恋愛システムに積極的に参加していった結果であって、そんなのはあたりまえ。むしろ、恋愛とは直接には関わりのない空間で、白馬の王子様を待っている女の子の心境に近い。そういう印象を受けました。</p>

<p>complexequality：情報を解釈するシステムの問題なのか、解釈する人間の問題なのか、ということで最初に井上さんがおっしゃられていたことと、わたしの感覚の違いはそこですね。<strong>白馬の王子様に解釈してもらわないと、救われないんです。システムが情報の重み付けをしたところで、救われない。</strong><br />
　今回の犯人がそういう人間だったかどうかは、わかりません。本人にもわからないかもしれない。でも、閑散とした場所で死にたいとかどうとか、という人というのはそういう心理状態にある人がとても多いというのが、わたしの経験的な観察です。なので、ネット監視を強めることと、今回のような事件への防止とはあまり関わりがないと思っています。監視の境界線上を見つけたい人を、監視で取り締まることはできない。監視の外側なんて、いくらでも拡がっているのだから。<br />
　予告.inという簡易な監視システムを作る方がさっそく登場しましたけれども、同時に予告.outという冗談みたいなサイトも登場しましたね。予告.outで予告すれば、テキストデータが画像になるので、画像をOCRにでもかけない限り検索できません。監視の外側なんて、簡単に見つかります。</p>

<p>井上：complexequalityさんのおっしゃられていることがわかってきました。ただ、その主張を理解した上でこそ、情報を解釈するシステムのほうに問題にしていけるのではないか、という可能性を考えていきたいと思いますね。<br />
　簡単に言うと、complexequalityさんの人間像は少し頭がよすぎる気がするんです。監視の内側か、外側か、境界か、自覚的に選びとることなどできるのかということです。知らず知らずのうちに、監視の内側に入り、あるいは外に出る。今回の犯人が2chに書かなかったことに、有意な理由が本当にあるのかどうか、ということは断言できないのではないか、ということです。<br />
　情報を解釈するシステムの問題というのは、監視システムを強めろ、という意味ではないです。2chやニコニコ動画といった注目度の高い場所を問題にするのではなく、陽のあたるかどうか微妙な場所に作られていくものに対して、どうアプローチしていくのか。</p>

<p>complexequality：井上さんのおっしゃられていることは、よくわかります。それは井上さんのように、情報をめぐる環境設計みたいなことを考えていらっしゃる方がおっしゃられるのは、当然そうだと思うんです。<br />
　ただ、わたしは、本当にネット上で、ああいう人の相手を、この数年の間してきて……何人かからは、感謝されたり、感謝どころか、もっと強烈にわたしのことを求めてくださる方もいらっしゃる空間だったわけで………ああ、事件を起こしたのか、と。環境設計どうこうという話は、そのうち何かしらの話にまとまるのかもしれませんけれど、今はただ、彼の相手をしてあげられる人が存在しうる場所であるようにする、というようなことだと思うんです。<br />
　もっと、ああいう場所に、相手のしてあげられる人が居ればいいのに、と。</p>

<h3>●ライフログをめぐる場所―――人の形／匿名、実名／監視</h3>

<p>井上：システムの話にどこまでできるかわかりません。ただ、ライフログのある場所という問題に関して、先ほど「2chではなく、閑散とした場所でやったことに意味がある。だからシステムの問題に回収できない」ということをおっしゃられていましたが、その点について、もう少し伺ってよろしいですか。</p>

<p>complexequality：アクセス数のそこまで多くない、ひっそりとした場所で独白をすることにこそ、意味を見いだすということもありますよね。<strong>同じ匿名ではあっても、2chの居心地と、メガビューBBSの居心地だってだいぶ違う</strong>んじゃないかと思うんです。<br />
　色々な匿名のサービスを利用していると、やっぱりその違いは実感として大きくあります。<strong>人が多い時間帯の、人の多い匿名チャットサービスだと、他愛ない会話になりがちです。けれども、夜中の12時を過ぎたあたりから閑散としてくると「死にたい」「もうどうにかなってしまいたい」とか言うことを口にする人とかと出くわす率が格段に増えます。まさしく、犯人もそういう場所で、そういう告白をしていたわけですよね。</strong>そこで、誰かが癒してくれたり、攻撃されたりするわけですよね。そのリアリティは、もう、とてもよくわかってしまうんです。もしかして、わたしが出会った誰かが、今回の犯人だったとしても、まったくおかしくない、というぐらいの感覚があります。<br />
　毎日の記事で、犯人が死にたいとか何だとか、漏らして自暴自棄になっているときにそれを煽る人もいれば、フォローする側に回った方もいらっしゃったそうです。いや、なんというか。それこそ、わたしが会話したことのある誰かであってもおかしくない、という気がしました。わたしは「死にたい」とか言う人と会ったときに、煽るようなメンタリティはあまりないので、だいたいがフォローに回る側というか、話を聞いてやる側にまわるんです。ああいうことをやっていると、だいたい場の流れ的にそうなります。いろいろと話していると、本当に、いろいろな人がいるなぁ、と感動します。村崎百郎が、縁もゆかりもない他人の結婚式のビデオを見ていて感動すると言っていたのと同じ種類の感慨だと思うのですけれど。ゲイだとか、女子中学生だとか、東大卒無職の人とか、キャリアの官僚の方だとか、旧帝大のお医者さんだとか、留学生だとか。いろんな人がいるんですよね。本当に。<br />
　<strong>お互いに深く身の上話とかをするのであれば、人の少なさというのは、けっこう重要なポイントになります。</strong>もちろん、人によって好きづきはあるのかもしれませんが、完全に匿名で見知らぬ誰かに身の上話とかするのって、気安いんですよ。かなり。相手がある程度まともな人だという最低限の信頼感さえ築ければ。<br />
　その感覚が理解できてもらえるかどうか、わからないのですが、そういう場所が気安い人が選ぶ場所っていうのはあると思いますよ。50人ぐらいがいるメーリングリストとかで身の上話なんかできないじゃないですか。3人とか、4人ぐらいのメーリングリストだったら身の上話できるかもしれませんけれど。深夜の、閑散としたネットサービスに来る人って「王様の耳はロバの耳ーーーー」ってことを叫ぶ穴を探している印象です。</p>

<p>井上：それは2chでの内部告発とは違うんですか？</p>

<p>complexequality：ちょっと例が悪かったかも知れません。喋る場所の匿名性が重要なんじゃ無いんだってことです。id:work_memoさんが書いていらっしゃいましたけれども、「はてな」の匿名はだいぶ人の形が掴める感じのときがありますけれども、匿名の空間で、人の形がどのように捉えられるのか、ってことが理解されないと難しいかもしれません。ロールズでいうと、無知のヴェールをかぶせられた状態のような……そんなようなものとして相手が見える瞬間があるとでも言ったらいいでしょうか。あるコミュニケーション空間では、はっきりした人格をバックグラウンドにもって見える発言が、あるコミュニケーション空間では発言している人間が単なる「ななし」さんにしか見えないと、話す対象である人間のイメージは全然違う。</p>

<p>井上：人間の見え方が違ってくるというのはよくわかります。ニコニコ動画では「赤い字の奴」とか「青い字の奴」とかが人格を持って見えてくることがある、と濱野くんは言っていますし、コンピュータ・ゲームでは本当によく人の見え方が変わりますね。ぼくは、インターネット上でのチャットというものが、相手の姿が見えなくて、昔は苦手だったのですが、オンラインゲームの場合「アバターに向って話しかける」という行為ができることで、だいぶ話しやすく感じました。「話す」という志向性の対象する何かがあるかどうかでもだいぶ違う。環境が人間の感覚にむかって、どういう現象をひきおこしているのかは、空間によってだいぶ違いますね。ここらへんはオンラインゲームのコミュニケーション空間というものがどういった感覚を引き起こす特殊性を持ったものなのか、といった議論とも接続されてくるだろうと思います。<br />
　それこそ、ぼくが、何度もしている話ですけれども、AIで動かされているキャラクターが記号的に見えたり、人間的に見えたりする。逆に人間が動かしているはずのキャラクターが人間に見えなかったり、見えたりする。実際、BOTだったりして、人間じゃない場合もある。何が、人間の見え方を決定しているのか、と言えば、そのコミュニケーションを成立させている場所、メディアなのではないか、と。やはり、その側面は大きいと思うんです。今回の件に関しては、メガビューBBSのような場所のリアリティがぼくのほうに無いので、ぼんやりしたことしか言えなくて、とても恐縮なのですが。</p>

<p>complexequality：そこで見えてくる人間の形が、救いになる場合もあるだろうし、ならない場合もあるのかもしれないですよね。</p>

<p>井上：それはそうだと思います。ただ、そこの理解はすっとばすことはできないのではないのかな、と。もしかしたら、<strong>犯人がコミュニケーションをしていた空間が、別のコミュニケーション空間であれば、もっと救いがあったかもしれない。もちろん、その逆の可能性もある。たとえば、犯人のよく使うメディアの一番のものが携帯ではなくて、PCだったら、どうだったのだろうか、と考えてしまう。</strong></p>

<p>complexequality：そうかもしれません。事件の理解の仕方としては、そういうところの理解は重要なのかもしれません。でも、わたしは理解する気もないのかもしれません。単に悲しい、というだけで話しをしているから。でも、ややこしいかもしれませんが、それ以上の話をあえてする気を起こす必要のある場面もあるだろうし、ない場面もあるだろうし。そういう感じです。いままで話をしてきておいて、なんだ、という感じかも知れませんが、話していたら、少し落ち着きました。ありがとうございます。<br />
　<br />
　<br />
　<br />
　<br />
（文字起こし：高橋志行）</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>2008-06-09,13:05  written by complexequality</title>
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<modified>2008-06-16T21:11:32Z</modified>
<issued>2008-06-11T12:21:42Z</issued>
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<summary type="text/plain">　下記は、complexequalityの手による記事です。直接コンピュータ・ゲ...</summary>
<author>
<name>AkitoInoue</name>
<url>http://www.critiqueofgames.net</url>
<email>cog_inoue@yahoo.co.jp</email>
</author>

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.critiqueofgames.net/">
<![CDATA[<p>　下記は、complexequalityの手による記事です。直接コンピュータ・ゲームに拘わる内容ではありません。ただ、新たなメディアが人間の行為を変え、世界解釈に変容を促すという点で本サイトの内容とは連続性のあるものです。コンピュータ・ゲームもまた、人のライフログとして機能します。＜記録されたもの＞であるライフログの存在は、おそらく＜記録される対象＞である、当人自体にとって、必ずしも制御しきれる対象たりえないのではないか、と思います。ゲームの中の記録に何かを見いだし、「34時間23分」と書かれたセーブデータに覚える感情を思い起こしてみればそれは想起可能かもしれません。</p>
<p>　事件に哀悼の意を表します。</p>

<hr>

<h3>title:秋葉原の事件について―――ライフログと報道をめぐって</h3>

   <p>　昨日の昼に、悲惨で、かなしく、かつ人ごとではない事件が秋葉原で起こったことについて書いておく。</p>
]]>
<![CDATA[   <p>　わたしにとって、秋葉原は、とても近い町だ。</p>
   <p>　わたしの知人は刺されていなかった。わたしも刺されなかった。犯人は11時頃に渋谷を通り過ぎたらしい。わたしはその日の15時頃に渋谷に着いた。15時に渋谷に着いた理由は特にない。11時に渋谷に着いたら、犯人の車とすれ違っていたかも知れない。</p>
   <p>　たまたま、昨日は秋葉原に行こうとは思わなかった。たまたま昨日は用事がなかった。</p>
   <p>　The Yellow Monkeyの歌う「日本人はいませんでした」は、報道に対する見事な揶揄だが、わたしはいま、あの揶揄を、他人事だと思って馬鹿にすることはできない。</p>
   <p>　わたしは、第一に知人の安否をおもった。</p>
   <p>　日本というカテゴリーには何もピンとこなくとも、「関東在住で、秋葉原に行くような人たち」というカテゴリーにはピンとくる。ガチオタとかではないけれども、わたしはそのカテゴリーにある程度属している。mixiを利用しはじめてみるとわかるけれども、だいたい、3、4人ぐらい経由すれば、東京近辺のほとんどのオタクと繋がるのではないかと思っている。</p>
   <p>　わたしの知り合いは刺されていない。</p>
   <p>　でも、わたしの知り合いの知り合いは刺されていたかもしれない。わたしの知り合いの知り合いの知り合いは刺されたに違いない。少なくとも、昨日の昼に逃げまどった群衆の何人もの人が、わたしの知り合いの知り合いの知り合いであるだろうと思う。秋葉原に勤めている知人や、すぐそばに住んでいる知人が何人もいる。</p>
   <p>　でも、わたしは刺されなかった。</p>
   <p>　犯人の高校は名門校である。たぶん、わたしの知り合いにはそこの高校の出身者がいるはずだ。そして、たぶん、犯人の友人は、わたしの知り合いの後輩だろう。わたしの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いぐらいである確率は低くないと思う。あるいは、知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いかもしれない。</p>
   <p>　</p>
   <p>　事件の規模は、――挑発的に言うのであれば――「小さい」とも言ってもいい。</p>
   <p>　先月の四川中国大地震の6万9130人よりも、911の2998人よりも、毎日の交通事故の死亡者数20人弱よりも、小さい。わたしは、7年前に「911は、アメリカ人にとって大きな事件なのであって、世界にとっては3000人が死んだにすぎない」と言った。それは今回もそうだ。秋葉原通り魔殺人事件は、わたしにとって大きな事件なのであって、世界にとっては7人が死んだ事件に過ぎない。だが、秋葉原という場所が、この事件を、わたしにとって、大きなものにしている。事件の大きさは死者の数ではない。この事件を受け取る人間にとっての、大きさである。</p>
   <p>　まだ、あまり整理して書けないだろうが、記録（ライフログ）や報道について、いくつかの点から書いてみたい。</p>  


   <h3>■</a>リアリティの分裂―――どうしようもなく大きく、にもかかわらず偶然的な分裂</h3>

   <p>　いまから25時間前の昼、秋葉原を歩いていたならば、被害者にもなりえたし、観客にもなりえたし、アマチュア・ブロガーにもなりえた。偶然的だったかもしれないが、そこには大きなリアリティの溝が生まれている。</p>
   <p>　そこに生じたリアルな境遇の分裂と同時に、リアリティの溝があることが認識することからはじめたい。</p>
   <p>　襲われる可能性は12時30分から35分までの5分間、平等に現れていた。それゆえに、必死で逃げた。そして、12時35分に犯人が取り押さえられ、その瞬間から難を逃れた周囲の通行人たちは、被害者となる可能性から一斉に解き放たれる。おそらく、その瞬間の空気の変化は目に見えるようなものだったはずだ。そのとき、動画をUPSTREAMすることが可能だった<a href="http://d.hatena.ne.jp/kenan/">id:kenan</a>氏は、カメラを撮り始め、他の何人かは携帯カメラでもって、2chに情報を流し始めた（<a href="http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1136294.html" target="_blank">http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1136294.html</a>）。</p>
   <p>　被害者。通行人。観客。アマチュア・ジャーナリストたち。そして、駆けつけた警察官、救急隊員、現場で救急医療をした人。そこにはリアリティの溝がある。そのリアリティの溝はとても大きいが、同時にとても偶然的なものだ。今回の報道や、観客たちについて道義的な議論をする人々は、そのリアリティの境目が、グロテスクに露呈されてしまったことに我々は戸惑っているのだと思う。被害者のリアリティと、携帯カメラを撮る人たちのリアリティに境目に戸惑うのは自然だろう。だが、だからと携帯カメラを撮る人たちを一方的に責めるほどに、わたしはイノセントな存在でもないということも自覚してしまう。前者の感覚を強調すれば、アマチュア・ジャーナリストたちへの非難となるだろうし<span class="footnote"><a href="/complexequality/#f1" name="fn1" title="山口さんとか　http://www.h-yamaguchi.net/2008/06/post_33ed.html　、しんざきさんとか　http://mubou.seesaa.net/article/99954248.html">*1</a></span>、後者を強調すれば彼らへの擁護になるだろう。</p>
   <p>　事件が落着したその瞬間。その前と後のたった数分間の間には、いくつかの当事者になりえた可能性があった。その幾つかについて挙げてみると、だいたい次のようになる。</p>
   <ul>
    <li>当事者たち
    <ul>
     <li>被害者：被害者のリアリティは、とんでもない。</li>
     <li>犯人：犯人のリアリティも、とんでもない。</li>
     <li>警察：彼らは、命をかけて事件解決のために、現場にきている。そういうリアリティの下に動いている。</li>
    </ul>
    </li>
    <li>周辺の人間たち
    <ul>
     <li>観客：事件そのものに関与せず、ただ、事件を見て、受け取るほかない。</li>
     <li>職業ジャーナリスト：彼らは報道のためにきている。メディアの向こう側の観客に絵を見せるためだ。そのようなリアリティである。</li>
     <li>アマチュア・ブロガー：彼ら現場に居合わせ、そして、たまたま半ば好奇心、半ば報道をしようと思う人々。</li>
     <li>応急処置をするひとたち：応急処置の能力をもっていて、緊急的な、義務感をもって行為を遂行しようと思ったひとたち<span class="footnote"><a href="/complexequality/#f2" name="fn2" title="http://anond.hatelabo.jp/20080609042904">*2</a></span></li>
     <li>通行人：通行人は、たまたまそこを歩いていた人々だ。彼らはメディアの向こう側の観客でもありえたし、被害者でもありえたし、アマチュア・ブロガーでもありうる。</li>
    </ul>
    </li>
   </ul>  

   <h3>■</a>プロとアマチュア、というリアリティの間　―――報道することの二つの層</h3>

   <p>　報道をめぐる問題について、もう少し、詳しく書いておこう。</p>
   <p>　わたしは、アマチュア報道を擁護するし、アマチュア報道の非難をする人も擁護する。</p>
   <p>　どちらも擁護されなければならないだろうし、また、どちらかを一方的に擁護する人は批判されなければならないだろう。</p>
   <p>　まず、事件現場で、携帯で写真をとるのは、いかにも不謹慎だ。だが、その状況に居合わせたなら、自分は動揺を覚え、その状況に対して何かしらのアクションをとりたがるようにも思う。その感情はあるだろう。しかし、現場で、携帯カメラを掲げてみせるのは「わたしは人の不幸に興味があります」ということをアマリにも露骨に周囲に知らせてしまう。あまりにもためらいなく、好奇心を露呈されてしまうのは、いかにも醜い。わたしは、そのような素朴な醜さと、距離を取りたいと思う人たちに同意する。</p>
   <p>　しかし、一方において、アマチュア報道が持つ価値について否定をするつもりもない。既存のマス・ジャーナリズムよりも生々しく、価値ある情報をアマチュア・ジャーナリズムが伝えてくることがある。もちろん、今回の報道は、それほどの緊急性はないので、震災の現場で避難情報を伝えるほどの価値あるアマチュア報道ではないだろう。しかし、マス・メディアによって切り取られた情報よりもネット上の情報は多くのことを我々に伝え、我々に思考を促すための数々の前提を与える。</p>
   <p>　さらに言及すべきことは、我々には好奇心があるということだ。被害者の身内であれば、許し難いかもしれないような好奇心を持っている。たぶん、その好奇心は言い訳しがたく邪悪にはたらくこともあり、それを否定することはできない。しかし、否定することができないからといって、必ずしも肯定すべきものでもない。邪悪でありうることの自覚を持ちながら、反省的に振る舞う程度のことはしたい、と意識するのがせいぜいだ。</p>
   <p>　安野モヨコ『働きマン』の一巻だっただろうか。事件現場にたどり着いた雑誌記者が、携帯を片手に事件現場を撮る人々を目撃して、彼らに再考を迫る記事を書いていた。明瞭には書かれてはいなかったが、この記事が暗に非難しているのは例えばこういうことだ。「事件を一体なんだと思っているのか。」「対岸の火事だと思っているのか」「被害者の悲しみに、軽い気持ちから土足で踏みにじるような真似をしているのではないか？」</p>
   <p>　そういった問題提起は、とてもアクチュアルなものだとして、まずは評価されるべきだろう。しかし、その問題提起は、必然的にもう一つの問題を召び喚こす。<strong>「アマチュア・ジャーナリストたちと、プロのジャーナリストたちの間に横たわる差とは何なのか？」</strong></p>
   <p>　大きな視点を設定して、論じるのであれば、そこには差はない。アマチュアのジャーナリストであれ、プロのジャーナリストであれ、メディアの向こう側の観客達――TVのむこう、ラジオのむこう、インターネットの向こう――の潜在的ニーズに答えるために情報を記録している。</p>
   <p>　だが、その記録の仕方には差がある。ただ、目と耳で聞いた情報を記憶してメモする人間もいれば、露骨に記録をしていることを周囲に伝えてしまうカメラのようなものもある。</p>
   <p>　そして、そのカメラのシャッターを押すときの覚悟にも、おそらく差がある。プロのジャーナリストたちは、カメラを手にするその瞬間、自らの悪と、自らの正統性の双方を常に意識していることだろう。「マスゴミ」と呼ばれることの意味を理解しないマスコミはいないだろう。そのアンビバレンツを理解できないジャーナリストは、あまりにも無垢だ。彼らは、見殺しをすることによって救える何かがあることを信じながら行動しているはずだ。その「何か」が何であるかはしばしば不明瞭ではある。だが、プロのジャーナリストたちは、そのおぼろな「何か」を信じながら、危うげなリアリティを維持して、職務を全うする。職務としての割り切りは、ときに崇高であり、時に無神経で残虐でもある。そういう崇高さと、怖さに隣り合わせで生きているのがプロだろうと思う。それはマスコミに限らないかも知れない。一方で、アマチュアの抱えている自覚の度合いの差は、プロよりも激しい。人によってはその二重性にプロ以上に自覚的だろうし、全く無頓着な人間もいるだろう。<span class="footnote"><a href="/complexequality/#f3" name="fn3" title="ストリーミング放送をした人（http://recently.sakura.ne.jp/wp/?p=41）はいろいろ意識が錯綜しているのだろう。素朴にも見えるし、自覚的に悪魔的な問題構造を提示し、自覚的にその正統性と、問題を主張しているようにも見える。">*3</a></span></p>
   <p>　そして、決定的なことは、アマチュアである限りにおいて、「わたしは、いま職業的正義を遂行しているのだ」という正統性すらも許されない。プロの中には、そういう職業的正義という正統性に寄りすがるだけの人間もいるかもしれない。そこを隠れ蓑にすることも可能だ。だけれども、<strong>アマチュアはそこに隠れることができない。そこにはプロよりももっと露骨に、記録する人間の「悪」がかいま見えてしまう。</strong></p>
   <p>　繰り返すが、メディアの向こう側の人間に「伝える」という機能においては、両者にそれほど大きな差はない。しかし、その覚悟や、訓練された振る舞いや、視点の取り方においては大きな違いがある。<strong>ある社会的な機能が、職業人の手から非職業人の手にわたる。それは職業人のもっていたプロとしての業界内の慣習/役割が機能しない空間が現れると言うことでもある。良くも悪くも。</strong></p>
   <p>　ポジティブな側面としては、職業人の手によって独占されていた「伝える」という行為が、拡散することによって、今までではあり得なかったような多様な視点、多様な情報が伝えられるようになりうる。これは、アマチュア・ジャーナリズムの隆盛の限らず、インターネットそのものがもとから内包していた可能性でもある。</p>
   <p>　ネガティブなリスク管理という側面では、プライバシーなど、様々な当事者への人権配慮といった点でアマチュア・ジャーナリストたちのリテラシー教育が問題になるだろう。今後、アマチュア・ジャーナリズムのガイドラインが作られていくことは必須だろう。（そして、それはもちろん、つくられるべきだろうし、よくは知らないが、OhMyNewsの人などは多分、よく考えているのだろう）。そのリテラシー教育が行き渡り、アマチュア・ジャーナリズムに一定の価値が認められる時期がくれば、アマチュア・ジャーナリズムには「職業的正義」ではなく、「社会的正義」の皮がかぶせられる時も訪れるようになるのだろう。</p>  

   <h3>■当事者と観客、というリアリティの間　―――記録することの二つの層</h3>

   <p>　ただ、そうしたジャーナリズムの問題以上に、記録という行為の持つ二重性が露骨に浮き出てしまったことの方が、さらに、やりきれない気がした。</p>
   <p>　もっとも象徴的なのは、犯人が携帯のBBSに書き残した言葉だ。</p>
   <p>（<a href="http://megaview.jp/topic.php?&v=774218&vs=0&t=24186400&ts~0&m=n&lmx=42" target="_blank">http://megaview.jp/topic.php?&amp;v=774218&amp;vs=0&amp;t=24186400&amp;ts~0&amp;m=n&amp;lmx=42</a>　より引用）</p>
   <blockquote>
   <p>秋葉原で人を殺します </p>
   <p>06/08 05:21 </p>
   <p>車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います </p>
   <p>みんなさようなら </p>
   <p>[1] </p>
   <p>06/08 05:21 </p>
   <p>ねむい </p>
   <p>(略)</p>
   <p>06/08 05:44 </p>
   <p>途中で捕まるのが一番しょぼいパターンかな </p>
   <p>[5] </p>
   <p>06/08 06:00 </p>
   <p>俺が騙されてるんじゃない </p>
   <p>俺が騙してるのか </p>
   <p>[6] </p>
   <p>06/08 06:02 </p>
   <p>いい人を演じるのには慣れてる </p>
   <p>みんな簡単に騙される </p>
   <p>[7] </p>
   <p>06/08 06:03 </p>
   <p>大人には評判の良い子だった </p>
   <p>大人には </p>
   </blockquote>
   <p>　わざとらしい問いをたてるが、</p>
   <p>　<strong>なぜ、犯人はこのような書き込みを残したのだろうか？</strong></p>
   <p>　犯人の言葉はもの悲しいが、それと同時にいかにもワイドショーで取り上げられることを意識しているように見える。</p>
   <p>　この書き込みだけでなく、6日の金曜日から続けられていたと見られる書き込み（<a href="http://megaview.jp/topic.php?&v=774218&vs=0&t=23930196&ts=0&m=n&lmx=3000" target="_blank">http://megaview.jp/topic.php?&amp;v=774218&amp;vs=0&amp;t=23930196&amp;ts=0&amp;m=n&amp;lmx=3000</a>）は、いかにも誰かに見てもらうことを欲しているように見える。</p>
   <p>　書き込みはいかにもワイドショー好きしそうなステレオタイプに沿っているのではないか、と思えるような記述が多い。彼自身がステレオタイプの発想に捕らわれてしまっていたのか、それともワイドショーのステレオタイプの議論を意図的に「釣り」たいからこういった記述をしたのか、それはわからない。</p>
   <p>　いずれにせよ、彼の行為を可能にしているものは彼自身の資質だけでなく、ワイドショーや、ネット上で取り上げられる（今まさにわたしが書いていること）といったシステムと共犯関係にあることは、かなり確実性が高いように思える。先週金曜日の、彼の書き込みと思われるものの一部には、こう書かれている。</p>
   <blockquote>
   <p>[2674] </p>
   <p>06/06 02:48 </p>
   <p>やりたいこと…殺人 </p>
   <p>夢…ワイドショー独占<span class="footnote"><a href="/complexequality/#f4" name="fn4" title="もちろん、まだ、この投稿が犯人の手によるものかどうかはわからない。この投稿を、犯人のものかどうか、と詳しく推測する気もないし、いま、そのゲームにのるべきでもないと思う。ただ、これが犯人個人のものであるかどうかに拘わらず、今回の事件が、インターネットを介した劇場型犯罪としての性質を強力にもっているということぐらいは、言えるだろう。">*4</a></span>　</p>
   </blockquote>
   <p>　</p>
   <p>　</p>
   <p>　</p>
   <p>　</p>
   <p>　話を変える。</p>
   <br>

   <p>　これに伴って、先月、映画『クローバーフィールド』を観たことを思い出した。</p>
   <p>　フィクションだけれども、強烈な映画だった。</p>
   <p>　映画は、登場人物の一人が所有しているホームビデオで撮影されたもの、ということになっている。手法としては『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』とほぼ同じだ。</p>
   <p>　ニューヨークの中心で日常を送っている主人公たちが突如パニックに巻き込まれる。高層ビルが、911のときのように崩壊し、なぜ崩壊したかは、当初理解することができない。よくわからないが、何かが起こっていて、人が死ぬ。どうやらゴジラのような怪物が街を襲っていて、逃げまどうしかないらしいことを主人公たちは悟る。その状況下で登場人物の一人は、頑なにカメラを離さない。カメラを手放したほうがより効率的に逃げられるのにも拘わらず、自分が、死ぬ間際にあってもカメラを離さなさい。その理由を、彼はこう語る「オレの名前はハッド。いま、ここで途切れたら、それはオレが死んだということだ。オレは絶対にいま、この状況を撮り続ける。いま、何が起こって、自分たちがどうなっているかを記録するために」(大意)。</p>
   <p>　何のためにカメラを撮るのか。</p>
   <p>　カメラに記録することを通じて、何かを伝えるために、カメラは撮られている。</p>
   <p>　カメラに記録されるのは、被害者であり、その被害者には、カメラを撮る自らも含まれている。言うなれば、<span style="font-weight:bold;">カメラに記録されている映像は、報道的な意味を持つのと、同時にカメラを握る当人の遺書でもある。自らの生の記録が、公共的な価値（＝報道）<span class="footnote"><a href="/complexequality/#f5" name="fn5" title="公共圏の価値、と言った方がいいのかも">*5</a></span>と重なる</span>。公共的な記録のために、自らの記録を行っているのか。自らの記録が、たまたま公共的な価値を持つ記録になっているのか、ここでは明瞭に区分けしてみせることが困難だ。両者は渾然と入り交じっている。</p>
   <p>　</p>
   <p>　</p>
   <p>　</p>
   <p>　</p>
   <p>　ライフログ、という概念がある。</p>
   <p>　日々の営み（Life）を、データとして記録(log)していくことを指している。『攻殻機動隊』『PLUTO』のようなSF作品ではよく表現されている例がわかりやすい。サイボーグが死ぬ間際の映像が、サイボーグの脳みそから抜き取られ、死ぬ直前に何を聞き、何を視ていたのか。それを遺族や、警官が確認しているシーンがよくある。ああいうものが、「ライフログ」の究極系の一つだと考えていいだろう。今でも、音声だけでよければ、1日あたりに、1GBぐらいでその日に何を喋ったかを延々と記録し続けることができるし、Blogや、携帯カメラ、SNSの日記といったものは今もっとも広く利用されつつあるライフログの形だろう。ただし、Blogや携帯カメラといった行為は、記録を行う人間の積極的な意志の介在を必要としている。</p>
   <p>　しかし。もし、<strong>わたしのメガネにカメラが付いて、わたしが何もしなくとも、わたしの見たものが自動的に記録され続けるようになれば、どうなるのか</strong>。あくまで、わたしについての記録でありながら、わたしの周囲の世界についても自動的に記録してしまうという現象が到来する。今回、事件直後の現場を流した、USTREAMはまさに、そうした未来像に近づきつつあるサービスだろう。</p>
   <p>　わたしは、自らの考えたほとんどのことを記録しておきたいという欲望を持っている。なので、わたしのパソコンには考える過程での、色々な人の記録もつまっている。そして映像をいじくるのも好きなので、旅行先に行くと必ずデジカメをパシャパシャと撮りまくっている。一日に600枚ぐらい撮ったりもしていて、旅行に行ったときの記録はデジカメがほとんどを記録している。わたしにとっては立派なライフログだ。</p>
   <p>　最近のカメラは、動画機能も付いているのでカメラのスイッチをオンにしたままにしておいて、4GBぐらいのSDメモリーカードを突っ込んでおけば、二時間ぐらいの間、勝手に記録し続ける。携帯カメラしか持っていなかったら、携帯カメラをライフログ代わりに使っていた人間にもなっていただろう。実際に、デジカメを持っていないときに変わったものを見たら、肖像権などの問題がなければ、すぐに携帯カメラで撮影してしまう。</p>
   <p>　何のためにライフログを蓄積するのか。</p>
   <p>　いくつかの理由はある。過去の経験を参照可能にしておくことで、あとで思い出すのに便利だから、だとか。あるいは、友達と一緒に笑いあうために、映像や残しておくと、わかりやすいから、といった理由もある。</p>
   <p>　しかし、おそらく最も重要な理由の一つは、記録する「わたし」の実存に関わっている。</p>
   <p>　<strong>「書かれたモノ」「記録されたモノ」は、わたしが死んでも残る。「記録されたモノ」がはわたしの生き死にとは無関係に残ったり、消滅したりする</strong>。わたしの生き死にとは無関係に、わたしの存在していたことを保障するものだ。もちろん、わたしの生き死にとは無関係にわたしの存在を記憶しておいてくれる存在は他にもあるだろう。たとえば、わたしの友人や、わたしの実名を知ることもないネット上の知人たち。彼らはわたしの存在を記録するのではなく、記憶をしていてくれるだろう。どれほど記憶していてくれるかはわからないが。</p>
   <p>　わたしの今まで書いてきたものが燃やされてしまったらわたしは悲しい。わたしをよく知ってくれている人が死んだとき、わたしはもっと悲しいだろう。もちろん、わたしは忘れ去られていくだろうし、書いたものはいずれ消失するだろう。しかし、せめて、わたしの手の届く範囲で、わたしは自らの記録/記憶を止めておきたいという欲望がある。</p>
   <p>　</p>
   <p>　</p>
   <p>　再び、話を秋葉原に戻そう。</p>
   <p>　<b>もし、昨日の12時30分にわたしがデジカメを首からかけていたら？</p>
   <p>　そして、逃げ出すときに、わたしがデジカメのムービー録画スイッチをオンにする落ち着きを持っていたら？</b></p>
   <p>　</p>
   <p>　わたしは、わたしのために、録画スイッチをオンにしただろう。</p>
   <p>　犯人がBBSに書き込むよりも、もっと重要な確信をもって、わたしは録画スイッチをオンにしただろう。</p>
   <p>　死の可能性を前にライフログを残すことは、わたしの実存にとっては替え難い。</p>
   <p>　</p>
   <p>　</p>
   <p>　</p>
   <p>　</p>
   <p>　いまから28時間前に秋葉原で起きたリアルな悲劇。それと同時に、そこに現れた不気味なリアリティは、ここまでくればその姿を明瞭に取り出して見せることができるのではないだろうか。</p>
   <p>　犯行は12時30分ごろに起きた。そして、5分後の12時35分に犯人は捕まる。</p>
   <p>　その5分の間、その場に居合わせた全ての人は被害者でありえた。そのとき記録を試みることは、「わたし」のライフログのための半ば条件反射的な行動であったはずだ。</p>
   <p>　しかし、12時35分、犯人がつかまると途端に、記録する行為の意味が変わる。</p>
   <p>　わたしのための記録としての性質は途端に薄れ、誰かのための記録になる。</p>
   <p>　<strong>ライフログから、報道になる。</strong></p>
   <p>　</p>
   <p>　</p> 

   <h3>■ネット上の記憶</h3>
   <p>　犯行の17時間後。つまり、今日の早朝。わたしは、メガビューBBSに書き込まれた犯人の書き込みを好奇心で見た。</p>
   <p>　わたしのこの小さな好奇心が、こうした劇場型犯罪の共犯者だと思いながら。</p>
   <p>　そして、ネット上には何が残され、何が宣言されていくのかと思った。</p>
   <p>　わたしの記録は、そのうち、たぶん、消えるだろう。</p>
   <p><!-- --></p>
   <p>　わたしは、テレビをほとんど見ない人間なので、いま昨日の事件がどうやって報道されているのか、知らない。</p>
   <p>　</p>
   <p>　犯人は多くの記録をインターネットに残していて、それは、いま、こうしてインターネットで話題になっている。彼は話題にされるために、彼のライフログを残した。テレビでも、それはおそらくいま「報道」になっている。</p>
   <p>　わたしにとって、匿名でこうやってものを書く行為は、どちらかというライフログの感覚に近い。他人にわかってもらう目的があっても、それは知人を中心にしている。公開領域にこうやって書いている限りは、それが人の目に止まることもあるだろう。わたしをまったく知らない人が、この記事を読むとき、それは、わたしがわたしのために考えたことのメモではなく、インターネットで無責任に話題にしているだけの記事の一つにしか映らないかもしれない。わたしが今回、当事者にならなかった限りにおいて、そのように読まれることは、わたしの側では制御しようのないことだ<span class="footnote"><a href="/complexequality/#f6" name="fn6" title="だったら、公開するな、という話かもしれませんが。">*6</a></span>。</p>
   <p>　携帯カメラからアップロードされた写真も、犯人の書き込みも、わたしの書いた言葉も、インターネットというこの場所に等しく残されている。自分のために自分が残したような情報と、他人が読むために残された情報が、この空間には混在している。</p>
   <p>　ゴミ収集家の村崎百郎は、近所のゴミ捨て場から個人的な日記やら、ホームビデオやらが捨てられるのを拾ってきて、見てみては「ああ、なんか、こうやって生きている奴がいるんだな」ということを実感することに、何とも言い得ない感動を知るという。その感覚は、よくわかる。他人のライフログを、かいま見てしまった瞬間の奇妙な感動。そういう感動を与えるような、ゴミとして捨てられるライフログもある。</p>
   <p>　一方で、犯人の、ライフログは犯行によって、ゴミにならなかった。犯人は、そのことに意味を見いだしているのだろう。彼の悦びの半分は、いま、この数日にこそ込められているはずだ。自らのライフログが、ゴミになるのではなく、報道になる、この数日に。<span class="footnote"><a href="/complexequality/#f7" name="fn7" title="であればこそ、例えばこういった劇場型犯罪については、犯人（あるいは、その予備軍）に対して着想のその凡庸さにがっかりさせてやる戦略が思い描かれていいだろう。宮部みゆきの『模倣犯』のエンディングは、まさしくそういったものだった。わかりにくかったけど。">*7</a></span></p>
   <p>　</p>
   <p>　我々は―――いや、わたしは、ライフログがゴミになったり、いきなり報道になったりすることに戸惑っているのだと思う。犯人のライフログが報道になることもそうだし、観客のライフログとも、アマチュア・ジャーナリストの報道ともつかないものが、概念の境界を揺らしてしまっていることに戸惑っている。</p>
   <p>　アマチュア・ジャーナリストたちの中に「悪」を感じてしまう構造も、ここには横たわっている。アマチュア・ジャーナリストなのか通行人なのかわからない人たちによる、どこか自己充足願望とも取れるライフログが、「報道」になってしまう構造には、犯人のライフログが「報道」になってしまうことと、同一の構造を指摘することができる。劇場型犯罪を望んだ犯人と、劇場型犯罪の「劇場」を一緒に拵える行為に、職業的義務でなんでもなく加わってしまう人々に対して「悪」が見いだされている。一方で、プロの報道は個人的な「ライフログ」でもなく、記者の実存追求でもない、ということに一応なっていて、プロは職業的正義として「報道」をしているのだということになっている。その違いは、本当はあやうい側面もあると思う。その薄皮が剥がされてしまうとき、「報道」をする人間／「見る」人間という安定的な関係性が破壊される。</p>
   <p>　まとめて言えば、こういうことかもしれない。<strong>「わたしのためのライフログ」が「報道のためのライフログ」になったりならなかったりする境目の瞬間の皮の薄さにわたしは驚き、「報道のためのライフログ」が「報道のための報道」との境界が入り乱れていることに多くの人が戸惑っているように思う。</strong></p>
   <p>　事件直後に、現場の動画をUSTREAMで流した一人はその行為をめぐる戸惑いをごく正直に告白している。―――「私はあの場でustで中継しました。それはついさっきまでリナカフェの状況を中継していたのと何ら変わらない。ただ、その場での出来事を、あの場の空気を中継したかったからした。ただそれだけでした。」<span class="footnote"><a href="/complexequality/#f8" name="fn8" title="http://gunnyori.net/2008/06/69.html">*8</a></span>―――このような問いが立てられる状態にこそ、不気味さがあらわれている。リアリティがぐにょりと曲がって、入り乱れている。犯人もまた、インターネットがリアリティをねじ曲げる、その現象に期待を抱いていたようにおもう。USTREAMが、ライフログと報道を直に繋げてしまい、携帯電話というツールもまたそのように機能した。</p>
   <p>　今回の事件で、USTREAMと、携帯が果たしたライフログとしての役割はとても大きい。わかりにくければ、たとえばこういう思考実験をしてみればいいだろう。犯人は今回携帯のライフログを用いていた。多くの人が、そのライフログを見ている。「報道」を通して。<strong>では、もし犯人がワイヤレスのカメラを首からぶら下げて、連行されるその瞬間まで、USTREAMで自らの眼前に繰り広げられる光景をストリーミングしていたならばどうだろう。われわれはそれを見るのだろうか？</strong></p>
   <p>　何が、どれだけ非難されるべきことであるかどうか。</p>
   <p>　まだ、断言する気など、まったく起きない。</p>
   <p>　いま、わたしには、そんなことしか、言えない。</p>
   <p>　</p>
   <p>　ごめんなさい。</p>
   <p><hr></p>  


<h3><a href="/complexequality/#p5" name="p5"><span class="sanchor">■</span></a>余談：犯行の発生をどうみるか</h3>
   <p>　蛇足かも知れない余談をいくつか。</p>
   <p>　犯行はもちろん、社会の不合理の代弁ではない<span class="footnote"><a href="/complexequality/#f9" name="fn9" title="http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080609/1212966011">*9</a></span>。永山則夫の事件のときと同様だ。</p>
   <p>　犯行は犯行である。ただ、社会の諸条件と、犯行の発生の仕方は一定の相関関係はあるだろう。しかし、犯行の原因の全てを、社会的代弁（Re-presentation）として捉えるのは、飛躍がある。彼が、なにがしかを表象(Re-presentation)しているのであるとすれば、彼という社会的結節点の一つではあるだろう。そこには、偶然性もあれば、社会的諸条件もある。まったくもって言うまでもないが、要因は複合的だ。</p>
   <p>　その複合要因の中の一つに、なぜ、秋葉原を選んだのか、といった問題<span class="footnote"><a href="/complexequality/#f10" name="fn10" title="http://d.hatena.ne.jp/klov/20080608/1212913927、http://d.hatena.ne.jp/mn_kr/20080609/1212962851　たとえば、スペクタク%8]]>
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<title>輪読会企画</title>
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<modified>2008-04-20T23:58:05Z</modified>
<issued>2008-04-16T12:05:31Z</issued>
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<summary type="text/plain">新規に輪読会を開催しようかと考えております。 詳細：http://d.haten...</summary>
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<name>AkitoInoue</name>
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<email>cog_inoue@yahoo.co.jp</email>
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<![CDATA[<p>新規に輪読会を開催しようかと考えております。<br />
詳細：<a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20080416">http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20080416</a></p>

<p>オブリゲーションもありますが、参加の意志のある方はご連絡ください。</p>]]>

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<title>メディアミックス、容れ物の魔力 #03～日常性 もうそろそろゲームの話～</title>
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<modified>2007-04-13T03:24:52Z</modified>
<issued>2007-04-08T14:52:49Z</issued>
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<summary type="text/plain">(#02 からのつづき) マジックワード「日常性」 瀬上：うーん、もうちょっとメ...</summary>
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<name>AkitoInoue</name>
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<email>cog_inoue@yahoo.co.jp</email>
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<dc:subject>talk</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.critiqueofgames.net/2007/04/_02.html">(#02 からのつづき)</a></p>

<h3>マジックワード「日常性」</h3>

<p>瀬上：うーん、もうちょっとメタ化、一般化しておきたい、というか後につながる話にしたいですね。
<br>　ここで、『セクシーボイスアンドロボ』の話まで戻すと、マンガ的な「キャラ」のリアリティについては、『のだめ』は申し分なくやってくれたわけで、これは、『セクシーボイスアンドロボ』では多分難しいだろうとか、そういう話もできる気がします。
<br>　一番最初の議論で、『セクシーボイスアンドロボ』の主人公は、英雄と少女の間を往復する、という話がありました。あれがつまりキャラ/キャラクターを往復する、ということともしかしたら位置づけられるかもしれない。だから、『セクシーボイスアンドロボ』がもし上手くテレビドラマとして作り得るとすれば、ニコのヒーロー的な活躍にフォーカスを当てていく、ということになるのではないか、とか、そういうことが言えそうです。</p>
]]>
<![CDATA[<p>米島：いや、その手法は結局、黒田硫黄の醍醐味である日常描写を、ぜんぜん表現できないわけだから。だめでしょう。</p>
<p>瀬上：あ、いや、すみません。キャラ的、というのは非日常的ということではありません。たとえば、伊藤剛は『あずまんが大王』『ぼのぼの』こそが、キャラ的なものだ、という話をしているわけです。あれはあれで日常描写のマンガですね。もちろん、それは黒田硫黄じゃないですけれど、日常は描けるだろうと。</p>
<p>米島：うーん、つまり「日常」を描くというのがなんなのか、ということかな。</p>
<p>瀬上：そうですね。まず、僕が言う「キャラ/キャラクター」の問題と、「日常/非日常」の問題は少し問題の軸が別のことなのではないか、という気がしますね。それと、米島さんが、黒田硫黄に関して言っている「日常」というのは、実は単に日常というよりも「卓越した日常」とか「優美な日常」とかそういう形容詞が必要なのではないか、と思います。</p>
<p>米島：ふむ。つまり、何が言いたい？</p>
<p>瀬上：うーん、何と言えばいいのか、ストレートに言うと、「日常」あるいは「日常性」というのはマジックワードだ、ということですね。失礼な言い方かもしれませんが、米島さんのようなタイプのインテリは、これをマジックワードだと思わずに素直に礼賛することで、知的であろうとしているようなところもあると思います。</p>
<p>米島：あ、なんとなくわかってきた、瀬上くんらしくまわりくどいがつまり、アレだろ。「日常的な言葉とか、日常生活に密着したものの考え方」とかがスバラシー、カッコイー、とかって思っているんじゃねぇの？テメー？っていう、そういう話だろ。それは、まあ、その通りだと言えば、その通りですよ。いや、実際そう思っているからね。では、まあ、日常性礼賛みたいな発想がどうしていけないのか、と。</p>
<p>瀬上：いけない、とは言いませんが、マジックワードだと思うのでそれを認識しておいてくれ、ということですね。日常性、という言葉は、自由、美、倫理、真実、現実とかそういうタイプのどうしようもなく厄介な概念と同レベルに扱いにくい語です。正直なところ、日常性とは何か、というようなことを語るのはとても難しい。それはもちろん僕もあまりきちんと整理して語れません。
<BR>　例えば、日常、という概念と結びつきやすい概念の一つに「大衆」「土着」といった言葉があります。古い話ですが、「大衆」と言ったら、一方には「扇動されやすい愚民」というイメージがある。そして、「大衆」は近代社会的なものですが「土着」というのは前近代的な場所で生きる、地域ごとのミクロな権威とかミクロな宗教にロックインされている「愚民」のイメージを持っている。丸山眞男が、批判したような日本人像ですね。一方で、これはポジティブに語ったら共産主義的な「労働者よ団結せよ！」の世界で、左翼インテリが救い出して取扱うべきものこそが「日常」という話になる。大衆という概念が「労働者」とか「市民」いうものに読み替えられたりする。これはどっちが正しいという話ではなく、そういうヤヌス的な概念だということですね。</p>
<p>米島：いや、オレはマルクス万歳な人じゃないよ。</p>
<p>瀬上：それは、そうでしょう。米島さんの場合は、ジャーゴン（専門用語）使いまくるインテリ批判みたいなところですよね。ただ、高度に技巧的・制度的・専門的なジャーゴンとかを「非日常性」とか「浮遊したもの」として括ってしまって、「地に足のついた」ものとして「日常性」を持ち上げる、という理屈の立て方は、左翼系の人がけっこう好きなことが多いですね。</p>
<p>米島：いや、むしろ、オレがインテリ批判というか、ジャーゴンから遠ざかるのは、自分が間違いなく理解できている、と思える概念しか使いたくないからだよね。わかっているんだか、どーだか怪しい言葉を、インテリぶって使いたくない。おれの日常性礼賛というのはそういう話ですよ。理解可能な概念でものを考えたいし、話したい。オレ自身のリアリティとつながるもので考えたい、ということだよね。</p>
<p>瀬上：その感覚は非常によくわかります。米島さんはある種の誠実さを志向しているがゆえに、そういう発想をされているわけですね。その点、僕は微妙に自信のない言葉でも、ちょくちょくと議論をメタ化、一般化させるために使っていたりして、それは不誠実だともいえます。もちろん、なるべく理解していない言葉は使っていないつもりではありますが、浅学非才の若造ゆえの大きな限界の壁があります。
<BR>　しかし、言い訳すると、インテリぶりたいから不誠実に日常的でない言語を使うのではない。言ったそばから「不誠実な」な言葉で失礼しますが、たとえば「不気味なもの」という概念があります。これは、フロイトや、ハイデガーがそれぞれ別々の形で論じていて、きちんと論じるとややこしいですが、フロイトはたとえばドッペルゲンガーのようなものを存在を不気味と言い、ハイデガーは宇宙空間への人間の進出や、人間を不死に向かわせるテクノロジーを不気味と言う。西谷修（1990『不死のワンダーランド』講談社学術文庫　P210～）によればこの二つにはある程度共通するところがあって、両方とも自分自身の生命の外側にある＜不死性＞である。ただ両者の違いを言うと、フロイトの場合は、そういった＜不死性＞というものは人の意識が封じ込めていたはずのものが現れてしまう時に不気味として感じられる。ラカンによれば「象徴界から排除されたものが外界から回帰すること」です。一方、ハイデガーは人間の知性とか技術といったものが、人間という存在の死すべき身体の有限性を超え出てしまうような中で自由であるかのように振る舞うことです。
<BR>　おそらく、この説明では非常にわかりにくいと思います。前者が『サイレント・ヒル』とか『ひぐらしのなく頃に　祟殺し編』的な恐怖に近いかもしれない。『サイレントヒル』は、人間の身体があるべき形をしておらず、ハンス・ベルメールの関節人形のようなものがウロウロしています。あの世界が不気味なのは、「人間の身体」の隠されているべきはずの可能性というのが現れてしまっているからですね。『ひぐらしのなく頃に　祟殺し編』では、まさしくドッペルゲンガーが出現して、主人公である＜私＞の意志とは無関係に動き回り、＜私＞が泥の中をはい回っていたはずの時間に、ドッペルゲンガーが悠々と暮らしている恐怖におびえます。自身の在り方が、自身のコントロールから離れたところに立ち現れるから恐ろしい。
<BR>　一方、後者は宮崎駿の現代社会批判みたいなものに近い。『もののけ姫』では、森にいる死と生を司る獣神を人々は殺してしまう。そして、現代の『平成狸合戦ぽんぽこ』の頃になると人々は、森の神を殺してしまったことすら忘れていってニュータウンとかを暢気に建設している始末です。ここでは、死と生を司るはずの超越的な存在が忘れ去られていることが、不気味というか、むかつくようなところがあるわけです。これについても『ひぐらし』の話ができますが、また後にするとして…。とにかくこちらは、自身の在り方が全てコントロールできると思いこんでいるところが恐ろしい。
<BR>　米島さんは、自分がきちんとコントロールできる思考をしたい、とおっしゃいましたね。ですが、米島さんがコントロールできると思っているもの、というのは一体なんなのか。そのようなことを問うことができるわけです。たとえば、この日常性という言葉自体もそうですが、日常に染みついているように見えている概念とか言葉というのは実は非常に時代的、地理的な束縛を受けている。たとえば、童貞とか、同性愛とか、ああいった概念の扱われ方というのは、ある社会では素晴らしいものだったり、ある社会では排除され、忌避されるものだったりする。恋愛、狂気、麻薬、コンピュータ技術者、離婚、日本人、韓国人、ロマン、夢など、かなり色々な概念が当時の社会の知的な権力者である、学者、医者、裁判官、聖職者とかによって良いとか悪いとかが述べられる。あるいは出版メディア、TVメディアといったものによって「変態」と「同性愛」が結びつけられたり、「童貞」と「未熟者」「不潔」が結びつけられたりする。</p>
<p>米島：つまり、瀬上くんが言いたいのは、オレが「わかってる」と思いこみやすいものこそが、「わかってない」のではないのではないか。「言葉をコントロールできた気になっている」ようだが、実はそれって裸の王様なんじゃねーの、と。そういうことだろ。おまえ裸のくせに不愉快だ、裸だと気づいた時の寒々しさを承知しとけよボケェ！と。</p>
<p>瀬上：これは、米島さん個人への批判というよりも、日常性という概念をどう考えるか、という話だと思うんです。つまり、素朴に「日常が素晴らしい」ということはできない。日常って概念は、実はなんだって放り込める。例えば幸村誠の『プラネテス』『ヴィンランド・サガ』が扱うのは、現在の我々からみれば非日常にしか見えない宇宙飛行士や、中世の北欧でいっつも戦闘ばっかりやっている戦闘集団です。彼らの間抜けだったり、生や死と言った大問題を日常茶飯事のように扱ってみせる「異様な日常」を描くことに力が注がれている。あるいは『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンジー』では人がしょっちゅう死んだり生き返ったりしますが、あれを何度も何度も反復することこそが、ゲームの「プレイヤーキャラクターの日常」ですね。ですから、これはけっこう何でも放り込める概念なんです。「日常」と「非日常」の差異をいかなる形で設定するか、という側面がかなりある。一般の人が簡単にはアクセスしにくいものを「非日常」ととりあえずくくるとかそういう話でしかないようなところがある。</p>
<p>米島：「神」とかはけっこうどこの文化圏でも、アクセスしにくいものの領域に入るんじゃないの？</p>
<p>瀬上：うーん、宗教によるのではないでしょうか。確かに神というのは、世界の向こう側の存在として規定されることが多いですが、毎日アクセス可能な神だっている。例えば、木の神、森の神、土の神がそこらじゅうに偏在していて、毎日神と接していると考えながら生きていくということだって可能でしょう。</p>
<p>米島：なるほど。それで、結局、話を再確認しようか。まず、日常性という概念がマジックワードだということはわかった。それで、それがどうした、と。</p>
<p>瀬上：『セクシーボイスアンドロボ』の話ですね。「日常性」に関わる概念をこれだけ色々といった後で、再度、黒田硫黄の「日常」がどう素晴らしいのか、を言い直すことができます。
<BR>　まず、先ほども言ったとおり、卓越した日常、あるいは優雅な日常の生き方をしているのがニコです。それは、一巻のはじめの日常的な観察能力の高さからもわかる。そして、ニコは世界をコントロールできる可能性があると信じている。彼女は、日常の中に潜む無知蒙昧とか罠とか愚かしさから無縁、というか、簡単に考えると彼女は日常性の中に潜む愚かしさを超え出るような存在かと思える。これはつまり、ニコがツンデレで強気のエリートお嬢様ならばわかりやすい話です。エヴァのアスカとか、ガンパレの芝村舞とか、あるいは攻殻の草薙素子みたいな人間として描かれていればわかりやすい。「愚民たちを観察するためにバイトしているの。遅くとも10代のうちにはハーバード大学を主席で卒業して、その後は20代のうちには財務省の事務次官になって愚民どもを統治する予定なの。」とか言ってくれれば、いいですね。日常を卓越して生きることに心血を注いでいるならわかりやすい。
<BR>　でも、そうじゃない。ニコはバカで愚かな世界を統治したいんじゃなくて、それを愛しているんですね。彼女自身も積極的に愚かであろうとしていて「サーカスみたいなあ。くそ暑い仕事うっちゃって。」とか言うわけです。それも黒田硫黄に描かせてしまうと、日常のルーティンで面倒がることすら美しく描くわけです。ニコ自身が「私がしたいのはね、この世界にちょっとしたドリームを与えるような…」「そういうことなんだ。」という言うとおり、しょぼくれた日常をいかに愛せるか、いかに美しく生きることが可能か、と言うわけです。だから、彼女は愚民を統治したいわけではない。占い師とか、人に夢を与える存在としてのスパイになってみせたい、とかいうわけです。だから、しょぼくれた日常にツンツンデレデレじゃない。ツンがなくて、デレなんですね。
<BR>　ラストのセリフで、「死んだ女性が美しい」と言って自殺しようとする女性に対して「それって死んだからきれいなんじゃなくて、死んだのがきれいな人だったんじゃないの？」とニコが言いますね。ただの実も蓋もないセリフのようにも聞こえますが、これは非常に自己言及的なセリフですね。日常を肯定的に捉えてみせる想像力にあふれているから日常が美しいのであって、日常そのものが美しいわけではない。あるいは、日常を卓越して生きる（ことができるはずの）ニコが美しいのであって、日常そのものが美しいのではない。</p>
<p>米島：なるほど。ツンデレじゃなくて、デレデレだ、と。</p>
<p>瀬上：あ、いや、それはただのたとえです。</p>
<p>米島：さっきの、キャラ/キャラクターの話に戻すと、キャラが非日常で、キャラクターが日常という話になるのか、と思っていたけれども、単純な対応じゃないわけ？あと、金網に手なすりつける話は、瀬上くんの言う「卓越した日常性」の中に生きていて、世界をコントロールできると思っていたのが、できなかったことの不気味さに悶えるという理解になるの？</p>
<p>瀬上：いや、そこは微妙で実は両義的なものとして捉えることもできるわけです。つまり、「卓越した日常性」だと一応呼んでみましたが、彼女自身は実はけっこう勝手な奴で、世界がコントロールできると確かに思いこんでいる節がある。しかし、同時に世界の愚かしさとか、しょぼさとか、汚さの中に分け入っていくつもりの人です。そういう愚かしさとか、しょぼさとか、汚さを愛した時点で、彼女自身もそういう愚かしい世界――＜地獄＞――の中に巻き込まれてしまう。地獄の美しさを愛しているがゆえに、地獄に落ちる。地獄をコントロールできるつもりで、地獄を愛していた。コントロールすることは超越的な立場からやるわけですが、愛することはその対象と戯れながらやるわけですね。その違いを受け止めるというか…。うーん、どういえばいいのか。死すべき身体の世界を豊かにしたい、死すべき身体として生きたいと言いながら、彼女は死なない身体の世界からしか、アクセスできていなかった。彼女は、観念においては、死すべき世界を愛すると言いながら、彼女は自分自身に関しては、唾棄すべき不死の世界にいるものと思っていた節がある。死すべき世界から、死すべき世界の住民に向かって働きかけるべきところを、不死の世界からのコントロールになっていた。それがはじめて、死すべき世界の身体になったのが、三日坊主の事件だろうと。
<BR>　あと、「占い師か、スパイになりたい」というセリフは、社会的にフィクショナルな存在になりたい、と言っているようなものですね。つまり一般的な考えからすると、設定的なフィクション――ウサギのおばけ、亜人間――になりたいと言っているように聞こえる。ですから、ここは両義的なところなんです。彼女は、死すべき世界を豊かにしたい。だけれども、それは彼女自身が不死の存在に近い亜人間になることによって達成されようとする。</p>
<p>米島：すまん。何言っているのか、わからなくなってきた。たぶん、さっきのハイデガーとかフロイトの区分を云々しているんだろうけれど、何言っているかわからんと、考えすぎじゃねぇ？とかしか思えん。</p>
<p class="right">[ つづく ](つづけたい)</p>]]>
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<title>メディアミックス、容れ物の魔力 #02～二ノ宮知子『のだめ』　まだ始まらないゲームの話～</title>
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<modified>2007-04-13T03:25:59Z</modified>
<issued>2007-04-04T14:45:49Z</issued>
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<summary type="text/plain">（#01からのつづき） テレビとマンガ†『のだめカンタービレ』のドラマ化と、伊藤...</summary>
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<name>AkitoInoue</name>
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<![CDATA[<p>（<a href="http://www.critiqueofgames.net/2007/04/mgs_1.html">#01からのつづき</a>）</p>

<h3>テレビとマンガ～『のだめカンタービレ』のドラマ化と、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』～</h3>

<p>米島：そもそもメディアミックスだの、タイアップだのと言われている作品というのは常にこういう問題はあるわけだよね。同じく漫画の例で言うと『ピンポン』の映画化は松本大洋の原作と比べると著しく見劣りするものしかできなかったし、『NANA』の映画も妙に日本映画的な時間の作り方をする一方で作品にすりよったりして、よく言えば折衷。悪く言えば中途半端なわけのわからないものになっていた。『ドラゴンヘッド』に至っては完全にB級映画に墜ちていて、あれはほとんどギャグに近かった。漫画よりも先に映画を見てしまった人は、悲劇だよね。</p>

<p>瀬上：映画の話はテレビドラマの話とはだいぶ違う気がします。そもそもモニターと観客の間を織りなす関係性が大きく違うので、そこは区別する必要があると思います。
<br>　それはさておき話をテレビドラマに戻して、2006年度に大ヒットした『のだめカンタービレ』のドラマ化について中心的に話をしたいと思うのですが、あれにはどういう感想を抱きましたか。</p>
<p>米島：あれは別格。あれはよかったよ。漫画からドラマへと容れ物を変えながらも上手く成功した例でしょう。もちろん、原作と比べるとある程度は別のものにはなっていたけれども、作品内容自体よりも、メディア間をまたぐということの問題を死ぬほどよく考えて作られてるということに感動してしまったね。
<br>　典型的なのは、知り合いの女性の「マンガとほとんど同じで驚いた。素晴らしかった。」という感想を口にしてたけれど、こういう実感を引き出せる作品になってるわけだよね。
</p>]]>
<![CDATA[<p>瀬上：原作に忠実に作られていて素晴らかった、ということですか？</p>
<p>米島：いや、そうじゃない。そんな単純なことじゃない。実写ドラマと漫画だとか、ゲームとアニメだとか、そういう形でメディアをまたぐというときに「原作に忠実」だなんてことは事実としてはありえないわけだ。強いて言えば「原作と同じだ、という感覚を抱かせる」ことに成功しているということだと思うのね。</p>
<p>瀬上：なるほど。それは確かにその通りだと思います。メディアが違う以上、まったく同じものができあがるとか、同じに作ったからいいものができあがる、というような話が通用するわけがないですね。では、具体的に『のだめカンタービレ』において「原作と同じだ、という感覚を抱かせる」という、リアリティだけをトレースするような作業があった、ということですか。</p>
<p>米島：そう。まず、その話のそもそもの前提から話をすると、テレビドラマっていうのはここ数十年、ヒット漫画の実写化とかってことのノウハウをけっこう積み重ねてきたんだな、ということを感じたのね。さっきと逆のことを言うようだけれども、ある種のマンガ的なリアリティを表現するということについて、テレビドラマはものすごく頑張ってきたな、ということを『のだめカンタービレ』をみて改めて思った。
<br>　たとえば、『踊る大捜査線』とかはその最たるもので、キャラの作り方とか、あの慌ただしさとか、すごく漫画的な表現を起源としているものが多い。同じコメディドラマでも三谷幸喜のやってるような、喜劇畑のシチュエーションコメディをつくるようなやり方とは、ぜんぜん違ってる。逆に言えば『踊る』シリーズは多分、漫画を読まない世代には楽しくないんじゃないかという気がする。
<br>　でね。『踊る』シリーズの脚本を書いた君塚良一の映画評論『脚本通りにはいかない！』(2002)を読むと、『踊る大捜査線―The movie―』(1998)での脚本作りの技法がいくつか書いてあるのね。それが、実はかなりそのまんま『のだめ』でもやられてる。</p>
<p>瀬上：なるほど。テレビドラマを、漫画のようなリアリティで伝える技法がある、と。</p>
<p>米島：そう。具体的に言うと『のだめ』って、すごくの話のテンポがはやい。勢いと流れに乗せて、軽快なギャグ、キャラクター描写、クラシックの音楽が矢継ぎ早に、怒涛のように流れていく話だよね。そのリアリティは漫画もドラマも両方きちんとある。でも、漫画とドラマとを比べると実際には一話一話の長さがまったく違うのね。
<br>　漫画だと、だいたい一話20～30ページぐらいで、話のヤマ＋オチ＋ヒキが成立してる。一話一話の持っている時間はかなり短いし、話の構成も非常にシンプル。一つのプロットの区切りが、そのまま一つのストーリーとして描かれてて対応関係がわかりやすい。もちろん伏線がないわけじゃないけれど、全体的にシンプル。
<br>　一方で、ドラマのほうは、一話が45分もあるのね。漫画では100ページ～120ページぐらいにあたる分量をいっきに再構成しなおしてて、一つのストーリーの中で、複数のプロットが同時並行的に走り、とても複雑で盛りだくさんな構成になっている。コンクールが展開していた思ったら、突如に恋愛の進展のことが入り込んで、恋愛の話を見ていたかと思ったら変態が出没する事件の話になってる。ガンガン話が変わってすごくスピード感がある。つまり、起承転結→起承転結→起承転結となってるのがマンガだとすれば、ドラマは、起承起起転承転結転承結結みたいなぜんぜん別の構成にしている。というか、そういう構成にしないと、逆に原作を読むのと同じようなスピード感は成立しない、と踏んだんだろうね。
<br>　このテンコ盛りな脚本の構成の仕方は、まさに君塚良一がやっていたことですよ。さっき言った本のなかに、一つのシナリオの中に、テンコ盛りにさまざまなプロットを並行進行させていくことで『踊る』の全体のスピード感を演出した、と書いている。のだめドラマ版でもまさにこれがやられているわけだ。
</p>
<p>瀬上：その指摘はいいですね。「テレビドラマ的リアリティ」と「マンガ的リアリティ」の親和性とか技法というのは、たしかに着目すべきものがあるかもしれません。
<br>　ちなみに、僕も全体的には、米島さんと同じで、今回のドラマ化はドラマ化したスタッフがものすごくエライと思っています。ですが、僕はこのドラマ化はすごく成功してると思いましたが、そう思うがゆえにそこにある限界というのも逆に強く感じるところがありました。
<p>米島：なるほど。わからんではない。具体的には？</p>
<p>瀬上：まず成功していたと思える部分について話します。マンガ分析の議論として、2005年に大きく注目を浴びた伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』という本があります。いくつか面白い概念が提示されますが、一番傑作なのは、キャラ/キャラクターという区分けが出てきます。
<br>　「キャラ」というのは非常に抽象的で記号化可能な存在です、たとえばその代表格が『ぼのぼの』『ドラクエ4コマ』のあり方が代表的で、つまり人間的な内面描写がどうこうという話によって人物描写が成立させられているのではない。一応は人間あるいは擬人の形をしてるんだけれども、それはいくつかのすごく抽象的な要素によって規定されている。たとえば『ドラクエ4コマ』におけるクリフトとかは、「＜ザキ＞を唱えまくるバカ」「アリーナに密かな思いを抱く熱い男」とかそういうイメージを中心に、あとはいくらでもネタとして量産されるような、コミカルな存在です。伊藤剛によれば「複数のテクストを横断し、個別の二次元創作作家に固有の描線の差異、コードの差異に耐えうる『同一性存在感』の強さ」(P108)といったようなものが「キャラ」です。
<br>　一方、「キャラクター」というのは、もっとややこしい。内面的に重層的な悩みとか、実存とかを問いかけてくるような人間描写を伴った＜リアル＞さを感じさせる存在です。例えば『NANA』だとかのようなものですね。どろどろした人間関係を描く話とかで一定の水準に達しているようなタイプのものは「キャラは弱いが、キャラクターは立っている」というような形で整理される。
<br>　そこで『のだめ』ですが、このキャラ/キャラクターの区分に従って言えば、のだめはキャラクターは弱いですが、キャラは立っている。『のだめ』と違って、実際の音大の風景というのはもっと実存をガチに抱えたような学生がわらわらしていると思います。ですが、そういう複雑な＜人間＞的な関係性とかを全部コミカルに抽象化する。キャラクター的なものを全部キャラに落とし込んで世界を捉え直す想像力を提示しているのが『のだめ』という作品の持っているパワーですね。
<br>　そして、ドラマ化にあたっては、この漫画的な「キャラ」を感じさせるような配役が強力になされていました。竹中直人、西村雅彦、及川光博、伊武雅刀といった役者はこの10年ぐらいの間に、存在自体がキャラになってしまったような役者だと思います。西村雅彦なんて、実存的な悩みとかの匂いをまったく感じさせない存在に上手いことなっていて、本当に見事な人です。上野樹里とか、瑛太とかの若手もそこらへんはがんばって漂白されようとしていた。これは、テレビというものが芸能人を「キャラ」化してしまう機能と、マンガの「キャラ」立ちというのがリンクしているような部分が、このドラマを成功させていたのではないか、と思います。</p>
<p>米島：キャラクターのキャラ化というのなら、農大マンガ『もやしもん』なんかも、近いことをやってるから、あれもテレビドラマ的なものに馴染むかもね。どうしても映像化の難しい部分はあるけれど。
<br>　それと、そのキャラ/キャラクターという区分けはテレビの話をする上ですごく有効だと思うね。お笑い芸人の話をするとわかりやすいけど、さまぁ～ずの三村とかっているじゃない。あの三村って、ぶっちゃけ、三村個人を面白いと思っているやつって少ないと思うんだよね。だけれども、三村は芸能界に確たる地位を気づいている。あれは、三村自体が「三村ツッコミ」というキャラとして成功したからだよね。便利な記号になってる。存在自体は空虚だけれども、なんでも放り込める記号として便利だから流通してしまっているのが三村だよね。
<br>　あとは、「踊る！さんま御殿」でみせる、さんまの若手に対する「教育」の仕方とかも象徴的でしょ。とにかく、同じネタでもいいからわかりやすいネタを繰り返すように露骨に強要するよね、ヤツは。細かい話はどーでもいいから、とにかくわかりやすいものになれ！という命令だよね。</p>
<p>瀬上：あれは、人間を削りとって、キャラとしての芸能人を産み落とす瞬間をショーの中で見せてしまう芸当ですね。あの「教育」を表舞台で見せてしまうのは厳しいですね。見ていて僕にはグロテスクで気持ち悪いです。最近のさんまとか、和田アキ子は、裏でやるべきことを表でやってしまう、見境のない大御所になってきていて、テレビを見ていられないです。</p>
<p>米島：まあ、それが逆にショーとして成立させているのが面白いと思うけれどね。裏とか表とかの境界を無自覚にぶちこわしている、あの人たちのああいう頭の悪さがオレは好きよ。タモリとかだと、頭いいから決してそんなことはやらないものね。さんまの若手に対する「教育」は、一方で視聴者へのメディア・リテラシー教育としても役にたってる。
<br>　まあ、いいや。それで、そういうキャラ化というのがテレビ的作法の王道だととしたら、対するキャラクター化？ということを担っているのがワイドショー的空間でしょ。ワイドショーの芸能コーナーっていうのは、芸能人を一個人として掴まえることに全精力を注いでいる。冠婚葬祭のイベントとか、芸能人の不祥事だね。あの瞬間に垣間見える芸能人のキャラじゃない部分を掴みとることによって、あのショーは成立してる。
<br>　そして、このキャラ的な部分と、そこからのズレを見通していたのが、ナンシー関の評論だよね。ナンシー関は、キャラと人間性の配置のズレとか、キャラの成立の可能性とか、そういう話を延々としてる人だった。ナンシー関の批評が好きで、サブカル関係にも詳しい人はすごく多いと思うけれど、ナンシー関の批評と、サブカルのキャラ/キャラクターの話って多分、つながってくると思うんだわ。</p>
<p>瀬上：ワイドショーはキャラの外側の人間性を掴まえる！という偽装をしながらキャラを作っているという気もしますが、ナンシー関に関してはそうだと思います。消しゴム版画を作っていた、というのも象徴的ですよね。彼女は、芸能人を消しゴム版画の中でキャラをいったん固定したイメージにしてしまって、そこからの距離をとりつつ、その人のキャラクターの話をしていた、とかそういうふうな位置づけもできるかもしれません。</p>
<p>米島：そう。ナンシー関は文章も天才的に上手いけれども、あの消しゴム版画の機能も圧倒的に重要なんだよ。一旦、人をマンガ的な描線に落とし込んで話を始める。もうナンシー関は死んでしまったから、どんどん忘れさられていくしかないんだろうけれど。
<br>　まあ、この話はこのぐらいで止めておいて、あと『のだめ』ドラマ化の＜限界＞の話だよね。具体的にはどこらへんの話？</p>
<p>瀬上：はい。それも同じく、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』の概念を援用するとわかりやすいのですが、直接的な問題から言っておくと、千秋役の玉木宏とか、清良役の水川あさみらの存在の持っていた違和感ですね。
<br>　キャラ/キャラクター概念に比べると少しわかりにくいところがあって、今ひとつひろまってませんが、伊藤剛はキャラ/キャラクターの区分に加えて身体描写の水準で「マンガのおばけ」/「うさぎのおばけ」という区分を立てています。
<br>　「マンガのおばけ」というのは、マンガだからこそ成立している身体描写であって実写化すると壊れてしまうものですね。たとえば、さかさ絵のおっさんの顔だとか、男だか女だかわからない人間の身体の描画の仕方とかです。これはリアルに描いてしまったり、ムリヤリ実写化しようとすると途端にウソっぽくなってしまう。
<br>　一方で「うさぎのおばけ」というのは、亜人間のことです。アンドロイドとか、ホムンクルスとか、二足歩行で立って喋る動物とかですね。手塚治虫の『地底国の怪人』の中で二足歩行で喋る知性をそなえたうさぎのおばけが登場することからこの言葉は採られています。
<br>　手塚の作品というのは、男だか女だかわかりにくいキャラが多く、その中で沢山の亜人間を描いています。そこのある意味テキトーな描線――つまり漫画ならではのうその描線（マンガのおばけ）――でもって、うその人間（亜人間）を描くことに成功していた。浦沢直樹の『PLUTO』なんかになると、「うさぎのおばけ」（ロボット＝亜人間）の身体を描くわけだけれども、身体描写としては記号的な「マンガのおばけ」ではなく、もっとリアルな肉感を持ったアトムを描くわけです。</p>
<p>米島：繰り返すけれど、『鉄腕アトム』「地上最大のロボット」での手塚アトムは「マンガのおばけ」かつ「うさぎのおばけ」だけれども、『PLUTO』での浦沢アトムは「うさぎのおばけ」だけれども「マンガのおばけ」じゃないということね。つまり、身体描線がフィクションであることが「マンガのおばけ」で、設定上のフィクションであることが「うさぎのおばけ」だ、と。そういうことね。</p>
<p>瀬上：多分、その理解でいいと思います。伊藤剛は、この区分と、キャラ/キャラクターの区分とがどう関わってきたか、ということで議論を展開していますが、その話は本を読んでいただくとして、『のだめ』のドラマ化においてこの問題がどう関わっていたかということです。
<br>　『のだめ』は、少女漫画というべきか、レディスマンガというべきか微妙なところがありますが、とりあえず女性向けのマンガとして描かれていますね。女性向けマンガの中でも特に、少女漫画というのは、男性の描き方が特殊です。基本的に美形の男ということになっているけれども、筋肉ムキムキのマッチョとかはほとんど出てこないし、女性の身体と交換可能なような、フェミニンな身体描写がなされています。これは『のだめ』でも同様で、千秋は美男であり、かつあまり＜男性＞を感じさせるような顔というのはしていない。これは、『のだめ』の描線がそれほどリアル路線でない、ということでもありますが、『のだめ』は性的な身体を露骨に感じさせるようなキャラクター描写がない。いまのところセックス描写もないですし、オカマのキャラクターも違和感なく登場できる、抽象的、中性的な身体描写が一つの特徴になっている。つまり、千秋ものだめも「マンガのおばけ」みたいなところがある。千秋が料理つくったり、のだめが殴りかかったりするようなジェンダー逆転するような描写が数多くありますが、それも「マンガのおばけ」的な描線のテキトーさが可能にしている。
<br>　ですが、これは実写になると必然的に厳しくなるわけですね。西村雅彦とかはもう性的だろうがなんだろうが、どうでもいい世界に突入しているようなところがあるので、気にならないですが、玉木宏はそれなりに男性としての身体を感じさせますね。水川あさみなんかも、女性としての身体を感じる。なので、僕はあの二人がドラマの中ではダメだったんですね。玉木宏は声も低いですし、これはなかなか難しい役です。</p>
<p>米島：なるほど。どの役者が気持ち悪く感じるかというのは、オレとはポイントがちょっと違ってて、オレの場合はオカマ役の小出恵介が厳しかったんだけれど、女性漫画家のマンガ表現が中性的身体だ、というのは、まあ確かにそうだ。
<br>　少年マンガとか、青年マンガだと男性/女性の性的身体の描き分けは過剰なほどはっきりしてる。それに加えて、男のマンガは、ジェンダーの描き分けもはっきりしている作品ばっか。
<br>　個人的には、少女漫画の場合は性的身体は描き分けず、ジェンダーの描きわけで男女が区別されているように思う。けれども『のだめ』の場合は、性的身体もジェンダーも、全部ぼんやりしてるよね。そもそも主人公ののだめが、＜女性らしさ＞とは別の次元で生きている。セクシュアリティ（性的志向性）はかろうじてヘテロ（異性愛）ということになっているけれども、ジェンダーもセックスも曖昧になった場所の中での、ヘテロだからなー。それって何なんだろうか、という気もするよ。
<br>　『NANA』なんかは、ジェンダーがけっこうがっちりしてる中で男女が共同生活してたりするので、がっちりヘテロな感じの人間関係が前面に押し出されてるけれど、『のだめ』の空間って女性のホモソーシャルな空間が拡張されてるっぽい感じがするんだよね。完全に勝手な憶測だけれども、作者の二ノ宮知子って女子校出身者だったりするんじゃないか？あるいは、そうではなくとも、『のだめ』の一巻の一番最初に、女友達同士数人だけで、まったく色気のない場所で弁当をかっ喰らってたシーンがあるけれど、あの風景が作者の原風景なんじゃないかという気がするよ。
<br>　まあ、その話はいいや。話を戻そう。「マンガのおばけ」の話はそうとして、「うさぎのおばけ」の話はどうなの？</p>
<p>瀬上：「うさぎのおばけ」に関して言うと、伊藤剛が使っている本来の意味とは少しズレてくるのですが、のだめの場合ネコの表現ですね。擬人化ならぬ、擬動物化の表現というのがあります。昔、井上雄彦の『スラムダンク』でも、「ゴリ」とか「キツネ」とかってやっていたのと同じ表現ですね。人間を動物としてデフォルメとして描く手法です。亜人間は出てこないんだけれども、人間を捉える視線の中で、主人公にネコの毛を生やして、ネコ人間のような描き方をしたりする。「ネコのおばけ」が随所に登場する表現が頻繁に出てきます。あれを映像化するのは相当に苦しいことをやっていますよね。映像化しようがないから、強引なCGとか着ぐるみで誤魔化している。</p>
<p>米島：ああ、あったね。あったあった。あれは、でももう、仕方ないだろうなあ。原作にそういう表現があったという時点で、その表現を無視するか、誤魔化すかしかなくない？
<br>　いや、スタッフは頑張ってると思うよ。ものすごく。</p>
<p>瀬上：それはもちろん、そうです。</p>
<p>米島：結局、『のだめ』ドラマ化について、まとめると（1）キャラ立ちサイコー！よくやった！（2）ただ、マンガ独自のウソ身体と、ウソ人間設定だけは覆せなかった。残念！というまとめでOK？
</p>
<p>[ <a href="http://www.critiqueofgames.net/2007/04/_03.html">つづく</a> ](次は日常性の話。)</p>]]>
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<title>メディアミックス、容れ物の魔力 #01～黒田硫黄 そのうちゲームの話～</title>
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<modified>2007-04-13T03:15:47Z</modified>
<issued>2007-04-02T14:35:46Z</issued>
<id>tag:www.critiqueofgames.net,2007://2.875</id>
<created>2007-04-02T14:35:46Z</created>
<summary type="text/plain">黒田硫黄『セクシーボイスアンドロボ』 瀬上：こんばんわ。 　黒田硫黄の傑作『セク...</summary>
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<name>AkitoInoue</name>
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<![CDATA[<h3>黒田硫黄『セクシーボイスアンドロボ』</h3>

<p>瀬上：こんばんわ。
<br>　黒田硫黄の傑作『セクシーボイスアンドロボ』が今年(2007年)の4月10日から、日テレのドラマになるそうです。今日は、それを記念して放映前に一つメディア間の表現の違いとかそういう話について、だらだらと話をしたいと思います。</p>

<p>米島：どうも、おばんです。まー、いきなり身も蓋もない結論から言うと、ぶっちゃけドラマ化とか、ほとんど期待してないつーか、だめなんじゃないかと思うけれどね。オレは、基本的には実写化否定派よ？『のだめ』とかは例外的によかったけれど、『セクシーボイスアンドロボ』はムリっしょ。予言しよう。もちろん、原作が傑作、という点は瀬上くんと同意見だとしても、ね。</p>

<p>瀬上：うーん、大なり小なりそういう感想は僕も抱くかもしれませんが、そういう予言は僕は保留しておく側に立ちたいと思います。
<BR>　それとこの話のあと、メディア間の横断ということでいうと『セクシーボイスアンドロボ』だけでなく、2006年に大ヒットした『のだめカンタービレ』の話もしていきたいと思います。また、『ひぐらしのなく頃に』『サクラ大戦』『メタルギアソリッド』なんかの話もできればと思っています。宜しくお願いします。
<br>　さて、とりあえずは、話のきっかけとして、去年書いた『セクシーボイスアンドロボ』について書いた評論がありますので、これネタにすることから話をはじめたいと思います。
<br>　以下がその評論になります。</p>
]]>
<![CDATA[<blockquote>
<h3>黒田硫黄『セクシーボイスアンドロボ』～ニコが握る金網はなぜ悲しいのか～ </h3>

<h4>1  問題</h4>

<p>　私はセクシーボイスアンドロボが傑作だと思っています。</p>
<p>　なぜ、セクシーボイスアンドロボが傑作だと思えるのか。この話はもちろん、複数の側面から語ることが可能です。作品というのは、いかにすぐれたものであろうがなかろうが、あまりにも多くのものから成り立っているというのは自明のことなので、そのすべてについて遺漏なく捉えることはできません。小林秀雄のいうように、「われわれは作品について語りつくすことはできない」。原理的に。</p>
<p>　そのごくあたりまえの前提をだしたうえで、セクシーボイスアンドロボについて＜私が＞語るとすれば、焦点にすえておきたいのは、主人公であるニコという少女の感性の問題です。</p>

<h4>2　観察の強度</h4>

<p>　主人公である14歳の少女ニコは大変に頭のいい女性として描かれています。それは成績が優秀だという意味ではなく、臨機応変に頭がきれて、なによりも、中学生という年齢にありながら世界そのものを透徹した形で見つめるということに対する確たる自信をもっている少女です。いや、世界を透徹した形で見つめる――というのはあまりにもいいすぎかもしれませんが、少なくとも、14歳という多感な時期でありながら自らを取り囲む世界と自らがどのようにつきあっていけばよいのかということに対して、過剰なほどに自覚的であろうとしつつ、実際に並みの14歳とは比べ物にならないほどに世界とうまくつきあっている、並外れて容量のいい子供です。</p>
<p>　そうした彼女の自負と天才は、一つには彼女の日常場面での観察能力や、会話の面白さの中にあらわれます。例えば、物語がはじまった直後のニコの人間観察のセリフは印象的です。</p>
<blockquote><p>　(『セクシーボイスアンドロボ#1』7頁)</p>
<p>　「あの人は/イライラしながら/もう20分。」「イライラ/すんのが/好きなのかしら。」「声は明朗、/そして平板。/ポーズを/崩さず/地位に/執着。」「だから、/女より/上じゃないとだめ。/金を渡さないと不安…」「会っても/ニコリとも/しない/だろうね。」</p>
<p>　「あっちは/誰でもいいの、/やれれば。」「低く細い声、/話すことは/「あーそうだね」と/愚痴。」「自信が/ないから/5分も/待ってない。」「わたしー、/そんなに/かわいく/ないしー。」「て言うと、/俺でも釣り合うや/って思う。」</p>
</blockquote>
<p>　この分析は、少女の圧倒的な能力を感じさせる凄みのある描写です。</p>
<p>　一方で、日常の会話も魅力的です。

<blockquote><p>（同掲書、P136）</p>
<p>　少年達「バーカ/バーカ」
<br>　ニコ「これこれ/君たち。」「かわいい子/だからって/いじめちゃあ/だめでしょう。」
<br>　少年達「るせーー/うるせーー」「ばーーか/ぶーーすばーーか」
<br>　ニコ「男子って/語彙が/少ないねえ。」</p>
</blockquote>

<p>　この会話はそこまでの凄みを感じさせるものではありません。日常の会話であるのだから、そこまで凄みのある発言は過剰に過ぎます。そこまで過剰ではない程度に、ところどころ気の利いた一言や、シャレた一言が随所に織り込まれます。彼女の中学生離れした能力は、ただ天才的なものとして描かれるだけでなく、こうした何気ない会話の中の節々に現れます。これによって、読者はこの少女を生々しく受肉した存在として享受することが可能になっています。現実的であるからこそ彼女の非現実的な優秀さの描写はより強度を持ちます。</p>

<h4>3 世界像の成立と機能。</h4>

<p>　彼女の感性の話に戻りましょう。</p>
<p>　世界を透徹したかたちでみつめようという自信は彼女の圧倒的な優秀さを起源としています。ただ、それと同時にその過剰ともいえるほどの自信のありようは彼女の思春期の証でもあります。現実に対する透徹した世界像――だとして自分が考える世界像それ自体によって彼女は自らのありよう、彼女自身のアイデンティティのような部分をささえる機能も果たしているように思えます。
たとえばそれが極端に現れるのが第一話のヤマ場です。彼女は警察が関わるような犯罪を彼女一人だけが解決できる機会を偶然にも持つことになります。彼女は武術の心得があったりする14歳ではなく、単に頭がいいだけの14歳です。冷静に考えれば、自分自身の危険を考えて女の子が一人で関わるのはあまり賢い判断とは言えません。彼女は自分に言い聞かせます</p>
<blockquote>
<p>　(『セクシーボイスアンドロボ#1』P24～P25)</p>
<p>　「まだ私/中学生だし、/電話でエロ話するのとは/違うのよ。/誘拐犯人なのよ。」
<br>　「のこのこ/ついてって/何をするの？/何ができるって/いうの?」</p>
</blockquote>
<p>　と。しかし、その後に「よく/考えて!/考えて/考えて!」と自らの頭に問い合わせてから、彼女はこう続けます</p>
<blockquote>
<p>　「今見つけて/今追わないと/逃がしちゃう。」
<br>　「私の耳が、/私だけが/見つけたんだもの。」
<br>　「わたるくんの/いるところ。」
<br>　「知らない子/だけど。」</p>

<p>　「今救えるのは/宇宙で私だけ。」</p>
</blockquote>

<p>　この自己暗示ともいえるようなセリフによって、彼女は現実に進行している危険な事件に対して頭ではそれが危険なものであることを理解しつつも、実際には極めて大胆な行動をとって事件の解決を図るためのコミットメントをしていきます。</p>
<p>　第一話以降も、彼女はとても14歳とは思えない、大胆な行動力と明晰な判断力によって次々と事件を解決していきます。家では普通の14歳の中学生の少女としての生活もしながら、喫茶店のおじいさんという別世界の住人とつながることで彼女は普通の14歳のリアリティと、スパイを目指す現実離れした14歳のリアリティ。二重生活を続けながらこの二つのリアリティを往復します。</p>
<p>　彼女は、小さなミスは重ねながらも、やはり基本的に極めて明晰で、大胆な解決能力をもつ14歳でありつづけます。世界に対する彼女の圧倒的な優秀さは、まさしく彼女自身によって証明されつづけ、事件のたびにその優秀であることの保障は証明されつづけます。彼女が世界に対して透徹した感覚をもつことは、まったく間違いではない―――少なくとも彼女自身、あるいは彼女とリアリティを重ねている読者はそうした「自覚」のなかで、世界と優雅につきあっていく彼女の術にまどろむことが可能でありつづけます。</p>
<p>　この作品は、ニコという少女の優雅な魅力によって構成され、実際に多くの読者は彼女の14歳らしからぬ優雅な魅力によって本作に対して強力に惹かれて行きます。</p>

<h4>4  世界像の裏切り</h4>

<p>　だが、そのような感性が、致命的にうらぎられる瞬間がやってきます。</p>
<p>　あるときに彼女は、殺し屋の男「三日坊主」に関する事件にかかわることになります。そして、一度の三日坊主の目論見を阻止します。その瞬間にもまたニコという少女の優雅な振る舞いの記録はまたも更新されます。しかし、その後、三日坊主は殺しに失敗したことで、三日坊主のマネージャーから始末され、殺されてしまいます。彼女の知らぬ間に。そして、しばらく経ってからその事実を知るわけです。ニコが殺しを阻止したという事実が、三日坊主を結果的に死に追い込んだ。</p>
<p>　この死は道義的にはニコが責任を負うべきことではありません。ですが、彼女はその事件と関わった瞬間に、責任を負うべき/負わないという問題ではなく。彼女の情が深い/深くないという問題ではなく。ニコが事件の結果を変更できたかもしれない、という＜可能性＞を過去において手に入れています。いや、手に入れていたはずです。その可能性は凡人には到底つかみがたい、ごくわずかで発見できないような可能性でしかありません。ですが、これまできわめて優秀な頭脳と判断力によって、つねにゆれうごく世界のささいな表情をみのがさなかった14歳の少女ニコにとっては、そのような可能性もまたつかみとることが可能であった・は・ず・です。彼女はこれまでに何十人もが死んでしまうかもしれないようなテロ事件も防いでいるし、少年や少女が殺されるかもしれないような事件からも、当事者たちの多くがなるべく幸せな結果におわるように事件を終わらせている。彼女は、読者にとってはもちろん、彼女自身にとってすら、ほかのだれよりも優秀な英雄であったはずです。彼女自身が、自らが英雄であることについて強く自負を持ち続けてきた存在です。つまり、彼女には、彼女がかかわった、というその時点において、その三日坊主が＜死なない＞ための可能性がありえたのだし、彼女にとってその可能性は発見しなければいけない、発見できなくてはならないものでした。それは決して不可抗力ではなかったはずです。＜彼女にとっては＞。</p>
<p>　しかし三日坊主は、彼女の予想と彼女の自信に反して、気がついたら死んでしまう。その瞬間に、彼女も、そして読者もまた気づかざるをえない。</p>
<p>　彼女はきわめて優秀な英雄でした。そして現在においても、やはり現実離れして優秀な14歳ではありつづけます。だが、彼女は、「現実に対して万能ではない自分」をその瞬間に発見せざるをえない。抗いようもなく。世界は安穏とはしていなくとも、世界に対して自由でありえた自分という、自己イメージがつきくずされる瞬間です。</p>
<p>　黒田硫黄は、この事実を知った瞬間、ニコの握る金網を大きく描きます。そして、その金網には小さな14歳のニコの手が過剰に力をこめられて握り締められている。ここで描かれるニコの手は、英雄的な少女としてのリアリティが、普通の14歳の少女としてのリアリティへと往復し苦悩する瞬間の象徴です。
</p>
<p>　殺し屋である三日坊主は、ニコが感情移入する対象として描かれてはいるものの、ニコにとっては肉親でもないし、親しい友人でもない。彼女は三日坊主の死に対してもちろん悲しんではいるのでしょうが、実はここで悲しまれているのは三日坊主本人の死に対しては実は悲しんではいないところがあります。</p>
<p>　ここでニコによって独白されるこのセリフこそが、それをよくあらわしています。</p>
<blockquote>
<p>　（『セクシーボイスアンドロボ#2』P91～P92）</p>
<p>　「おじいさんは、/私に仕事を/くれたから。」「ワクワクした。/胸がいっぱいに/なった。」「あのとき、」「もう」「選んでいたんだ」</p>
<p>　「地獄を。」</p>
</blockquote>
<p>　このセリフは二重の意味で重要です。</p>
<p>　一つには、このセリフの過剰さです。周囲において人が一人死ぬことを「地獄」と表現してしまう。そのような表現の仕方は、彼女の思春期としての14歳をそのまま投射しています。30にも40にもなったような人間が、周囲でとくに自分にかかわりのない人間が一人死ぬ事件があったからといってそれを「地獄」と表現してしまうのはいかにもオーバーです。だけれども、ニコはここで「地獄」という極めて強い言葉を独白によって自らに言い聞かせています。これは、作者が過剰な表現を好む人だからではありません。作者の黒田硫黄は絵の選択のセンスもさることながら、言葉の選択のセンスも異常にとぎすまされた選択をしてきています。ここで「地獄」という言葉をニコが言わざるをえなかったのは、疑いようもなく、彼女自身の昂ぶる感情のためです。</p>
<p>　そしてもう一つには、彼女は「地獄」という世界のありようのことを語っているのであって、三日坊主の死を悲しむ言葉を告げているのではないということです。彼女は三日坊主の死だけを嘆いているのではなく、ここで嘆かれているのは、なによりも彼女自身の選択です。それは、彼女がいままで常に地獄を常に選択しつづけながらもその一歩手前でそれを掬いあげてきた過去が不全になってしまった現在です。</p>
<p>　彼女は三日坊主だけの死を嘆いていない。三日坊主だけの死を嘆くことはそもそも不可能です。彼女はただ自らの愚かさと小ささを嘆いていることがこの言葉から明らかに感じ取ることができます。彼女は自らの小ささを嘆きたい。そして、自らの小さな肉体を確認するためにこそ、金網を握り締めます。そこで握り締められる金網によって彼女の肉体は彼女の小さな肉体を確認し、そして読者は大きく描かれた彼女の小さな手を見つめるに至ります。</p>
<p>　彼女が世界を透徹した目でみつめられる、と自負していたからこそ、この金網をひきちぎることすらできない小さな手の描写はきわめて悲しくうつります。これによって彼女は英雄から人間たりえます。「英雄」の不可能性が、「人間」の証として逆転する瞬間です。</p>

<h4>5 キャラクター視線の停止と、読者の視線の登場</h4>

<p>　さらにいえば、この瞬間、これを読む読者は完全にニコに感情移入をしているわけではおそらくない。感情移入というのは物語を論ずるうえであまりに支配的ですが、物語を読むとき、主人公と読者はイコールで結ばれるわけではない。</p>
<p>　読者は主人公からみえる世界の風景へとリンクされると同時に、主人公そのものをもまた見つめています。だからこそ、この風景――ニコが英雄と少女の間を往復する風景――を外側から見つめて読者は悲しむことができます。</p>
<p>　この物語は、シャレていながらも実際にあり得そうな雰囲気の会話を、ありふれた都市の風景の中で描いていく日常を描くこと。そして、そこに登場する人物が優雅な英雄として活躍するもう一方の夢の世界を描くこと。その二つの間を往復する物語です。金網を掴む少女の手が大きく描かれる一枚の絵は、手と金網の後ろに、英会話学校のビルや、カード会社やサラ金会社のビルが立ち並ぶ、つまらない都市の風景が描かれています。この風景をニコが冷静に眺められているのかどうかはよくわかりません。読者も眺められていないかもしれない。ただ、読者はここにつまらない都市の風景が並んでいるということを確認することができます。少女の悲劇は、このつまらない都市のリンクし、このつまらない都市の風景の中で起こっている出来事です。</p>
<p>　物語は、ここを一つのピークとして、再び彼女の日常に戻っていきます。「地獄」というこの過剰な言葉が語られる瞬間。この瞬間においてだけ彼女の日常世界を見つめる明晰さは一瞬停止しています。ニコの透徹した視線の停止するこの瞬間にこそ、読者はニコの佇む雑居ビルの日常世界の風景をまじまじと観察することが可能になっています。ここでつまらない風景が大きく描かれるのは、読者をこの立場に配置するためです。</p>
<p>　読者はニコにただ感情移入するのではなく、ニコという少女を外側から見つめることが可能な存在として配置されるからこそ、ニコの英雄性と少女性の揺れる、その二重性を観察することが可能になります。</p>

<h4>結</h4>
<p>　黒田硫黄の、人の日常を描く能力は卓越しています。</p>
<p>　そして『セクシーボイスアンドロボ』ではそれに加えてすばらしいのは、感情移入の果てにある悲しみなどという、王道的な表現をやらないでいて、そうでありながらもどうしようもなく悲しい風景を描いたことにあります。</p>
<p>　死ぬのが「おじいさん」や「ロボ」ではいけなかった。そこまで情のある人物が死んでしまって悲しいのは、ごく当然のことです。だけれども、そうではない。これは多感で優秀な少女の世界が構築されていくと同時に、裏切られる物語です。</p>
<p>　人が死ぬ話だけれども、人が死ぬことによって、われわれは人の死そのものを嘆くだけがすべてではないのだ、ということ。この物語はそのことを極めて精緻に描きえているように思います。</p>
<p align="right">&copy Akito Inoue 2007.3.31</p>
</blockquote>

<p>米島：なるほど。面白いけれど、黒田硫黄についての評価の仕方としては、そういう形でピークの「ヤマ」の部分を評価するというのは、どちらかというと、邪道というか、横道だという感じがするよね。
<br>　黒田硫黄のすばらしさというと、普通に言うとやっぱり日常の会話のセンスの良さとか、そういうところがメインだというのが普通だよね。ヤマのところをメインに話をしてしまうと、黒田硫黄の良さみたいなところが逆にわかりにくい。</p>

<p>瀬上：もちろん、それはそうです。黒田硫黄は、ヤマ場の盛り上がりとかで評価する作家じゃありません。『昴』の曽田正人とか、『シグルイ』の南條 範夫＋山口 貴由じゃあるまいし、ヤマ場のテンションで勝負する人ではない。ただ、この議論の目論見というのは、ヤマ場が普通は重要でないと思われている作家だからこそ、ヤマ場について語ることでその逆の部分が照射されるのではないか、というような話ですね。
<br>　とりあえずそれはそういう話だと思います。
<br>　さて、ヤマ場という点で話が出たので、テレビドラマとヤマ場の見せ方というような話をしてみたいと思います。私はテレビドラマの制作の話はほとんど知りません。ただ、テレビドラマというのは、映画や小説と比べると、非常にうるさいものを作ることを念頭に映像が作られていますね。うるさい、というのはつまり家事をしながらでも話の筋がわかる。風呂に入りながらでもわかる。音だけ聞いていてもわかるというのはある意味ラジオドラマと似ていますが、とにかく、集中して見ていなくても、ものすごくわかりやすいものを作るというのがテレビドラマの重要なミッションとしてあります。視聴率を稼ぐためには、とにかくマスに向かって訴求力のあるものが求められる。
<br>　そうなると、ある程度集中力を持ってむきあわないと魅力が伝わらない黒田硫黄の話をそこでどう表現するか、が問題になってきます。黒田硫黄の表現する何気ないやりとりの秀逸さ、をどういう形でテレビドラマにしていくか、ということです。黒田硫黄の漫画はよく「ミニシアター」的という言葉で言い表されますが、まさにミニシアターで上映するのに適した空気が流れる作品です。これを集中力がなくてもわかるようなうるさい話にしてしまうと、それはもう黒田硫黄の作品なのかどうか怪しくなってくる気がします。</p>
<p>米島：それは確かにすごく難しいだろうね。ここんところ名作と言えるような漫画のテレビドラマ化がまた再び活発になってきてるけど、そこを上手く処理できてるドラマは数えるほどしかない。特に黒田硫黄の作品はテレビドラマにはしにくい。ヤマ場のセリフを大声はりあげて、ベタベタのアングルで展開される『セクシーボイスアンドロボ』なんて、それはもう黒田硫黄のそれとは全く別物だよね。
<br>　で、俺も今回、ドラマ化されるというので『セクシーボイスアンドロボ』を読み直したけれど、改めて読んでみると、これがまた憎たらしくなるぐらいによくできてる。例えば、2巻の131頁</p>

<blockquote>
<p>ニコ「良枝さんは遊びに来るお孫さんはいないんですか？」
<br>良枝「あら、私はね、結婚しそびれてしまったの。」「本を読んでいたらおばあちゃんになっていたのよ。」
<br>ニコ「じゃあ本を読むようなお仕事をしていたんですか？」
<br>良枝「そうねえ、記者とか作家とか。」
<br>ニコ「うわあ、かっこいいですね。」
<br>良枝「あなた、今の若い子は援助交際とかするの？」
<br>ニコ「え？」「今の若い子がみんなしてるわけはないですよ。」「してる子は若いからだろうけど。」
<br>良枝「ルーズソックスなどはおはきになる?今の子は。」
<br>ニコ「い？今の子ははかないです。中学だと制服と合わないし」
<br>良枝「まあ、そうなの。」「テレビでしか知らないものだから。」
<br>ニコ「…………」
<br>良枝「あ、お紅茶濃くない?」
<br>ニコ「ああ、はい。」
<br>良枝「うそをつくと閻魔様に舌を抜かれてしまうのよ、知ってる?」
<br>ニコ「あのう……」「わざと老人ぶっていません?」
<br>良枝「まあ…」「どうして?」
<br>ニコ「良枝さんは失敗したことありますか。」
<br>良枝「まあ、失敗?」「あなたは、あまり恋なんかしそうにないけれど」
<br>ニコ「へ?」
<br>良枝「そうじゃないの?恋におちるのは自分を見てる人で」「あなたみたいに他人に興味シンシンの人は……」「えさを撒いて釣るのに夢中だから、」「なかなか釣られるほうにはならないのよ。」
<br>（しばし沈黙、ニコ、良枝互いに見つめ合う）
<br>ニコ「そういう失敗じゃなくて…」
<br>良枝「あら、そういう失敗じゃないの?」「どういう失敗?」
</p>
</blockquote>

<p>　この会話とかものすごいギョッとするよね。すごく静かな会話なんだけれども「わざと老人ぶっていません？」とかこういうセリフがすらっと飛び出してくる。
<br>　あと、こうして並べてみるとわかるけれども会話の展開が実はすごく速い。だけれども、その間の取り方はすごくゆったりしているし、セリフの数もすごく少ないわけだ。静かだけれども、ものすごい緊張感がある。これはテレビドラマみたいなものの技法の中で取り扱えるのか、という気がするよね。もちろん、こういうやりとりがすごく部分的に、フォーカスの当てられた場所だけでやる、っていうのならば扱えるかもしれないけれども、この作品はこういう会話のオンパレードだもんね。ぜんぜんテレビには向いていない。ちょっと眠くなってくるようなミニシアター向けの会話。
<br>　もちろん、中にはテレビ向きの話もあるにはある。第三話「エースを狙え」とかはテレビ向きだろうね。サッカー場という巨大な観客に見つめられる場所の中心地点で起こる犯罪の話なので、映像にするとキレイだろうね。
<br>　でも、その一方で、第五話「日本のバカンス」はどうやってテレビドラマに持って行くのか想像がつかない。これは、巨大な観客が見つめるサーカスという場所で話が展開していくわけだけれども、サーカスの女の子が微笑む一瞬の風景を感じ取る少年の視線こそがこの話のヤマになってる。サーカスは映像になるだろうけれど、サーカスという場所で、一人の少年「だけ」がなんとなく感じ取る一瞬の心変わりという、すごくわかりにくいものが話の核をなしてる。
<br>　あと、第10話「一夜で豪遊」のラストのニコのセリフ「私がしたいのはね、この世界にちょっとしたドリームを与えるような…」「そういうことなんだ。」。これはそのまま言葉にしたら、気まずいセリフだけれども、黒田硫黄の作り出した空間の中でこそかろうじて活きてくるセリフだよね。テレビでやったら、そんなもの多分再現できないだろうから、単に陳腐になるだろうねえ。これはもう仕方がない。</p>

<p>瀬上：ありがとうございます。米島さんに僕の感じていた不安というのをだいぶ具体的に話してもらったように思います。テレビドラマの「誰にでもわかりやすく」「飽きさせない」という方向性とはあまり親和性が高くないですね。わかるかわからないかが微妙なあたりの会話の奥深さの表現は一筋縄にはいかない気がしますね。</p>

<p>[ <a href="http://www.critiqueofgames.net/2007/04/_02.html">つづく</a> ] （次はのだめカンタービレの話。）</p>]]>
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<title>DiGRA 2007論文募集中</title>
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<issued>2007-02-16T04:22:49Z</issued>
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<summary type="text/plain">お手伝いしているところの広報です。 　DiGRA Japanを運営母体として開催...</summary>
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<name>AkitoInoue</name>
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<email>cog_inoue@yahoo.co.jp</email>
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.critiqueofgames.net/">
<![CDATA[<p>お手伝いしているところの広報です。</p>

<blockquote>
<p>
<a href="http://www.digra2007.jp"><img alt="cofesta03.gif" src="http://www.critiqueofgames.net/cofesta03.gif" width="180" height="57" border="0"/></a>
<br>　DiGRA Japanを運営母体として開催される、コンピュータ・ゲームの国際学会 DiGRA 2007では、現在論文を募集しています。
<br>　締切りは3月1日まで。 
<br>　英語で2500word～6000word程度。
<br>　詳細は<a href="http://www.digra2007.jp/">http://www.digra2007.jp/</a>を参照のこと。
</p>
</blockquote>

<p>　コンピュータ・ゲームに関する研究組織は現在では数多くありますが、DiGRA（デジタルゲーム学会）が2年に一度開催する、DiGRA 2007は中でも特に重要なものとなっています。DiGRA 2007は、DiGRA Japanを運営母体としており、今年の9月に東大での開催が予定されています。</p>]]>

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<title>ゲームに必要な、この長い時間について。</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.critiqueofgames.net/2007/01/rpg.html" />
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<summary type="text/plain">米島：ダリー。すげー、ダリー。いや、何がだるいって、RPGとかやるのが最近、つい...</summary>
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<name>AkitoInoue</name>
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<email>cog_inoue@yahoo.co.jp</email>
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<dc:subject>talk</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.critiqueofgames.net/">
<![CDATA[<p>米島：ダリー。すげー、ダリー。いや、何がだるいって、RPGとかやるのが最近、ついにだるくなってきたわけですよ。本当に。この気持ちをどうにかわかってほしい。</p>

<p>瀬上：そうですか。</p>

<p>米島：いや、だってさ、ほら、だるいわけですよ。さすがに、こう、年齢がね、無理だと言っている。年をとったということではないか、と思うわけですよ。さすがに。時間かかるからね、あれ。いやさ、ほらさ、なんていうか、難しいですよ。子供向けの話を大人がやる、というのは。どうしても限界がある。<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>瀬上：そうなんでしょうか。僕が最近やったRPGは、ドラクエとFF以外だと、『英雄伝説VI』ですかね。テイルズとか、グランディアとか全部にはさすがについていけていませんが、やる時間があればどうにかやれますよ、まだ。</p>

<p>米島：本当デスカ。それはそれで、ある意味うらやましい。だってさ、あれ、やっぱり子供向けではないですか。どうしても。10歩譲ったとして青少年向け。FFやDQは話の種になるからね、まだどうにかなるんだけれども。テイルズとかやったって話の種になりゃしねぇ。</p>

<p>瀬上：それは、作品内容の問題ではなくて、米島さんの属しているコミュニティの問題なのでは？作品を遊ぶということは結局、作品の内容によりそっているわけではなくて、作品をめぐるコミュニケーション――それを、批評と読んでもいいですが――を行う他人との相互行為の中で楽しんでいるということの告白のように聞こえますが。</p>

<p>米島：いや、それは…そうなのかなぁ。そういうことなのかなぁ。でもさ、正直、社会人となって忙しくなってくるとさ、可処分所得は圧倒的に増えるわけだけれども、可処分時間はおそろしいほどに減るわけさ。わかるだろうさ、みんな。これはけっこう、どうしようもない事実としてあるわけですよ。<br />
　するとね。学生時代とかはさ、ウォッチャー的に遊んでたものとかをさ、別に話す相手がいなくても、ウォッチャーとしてやる、というモチベーションを保ち得ていたわけさ。それがさ、社会人になると、どうだ。忙しいのなんの。…いや、まあ、俺がいわゆる一つの過剰労働なのかもしれないが…それは置いておくとして、だ。<br />
　そうなると、どうしても余暇時間になにをすべきか、ということにどうしてもプライオリティをつけたくなるオレとかがいるわけですよ。どうしても。<br />
　すると、開けてびっくり、あらビックリ。ゲームのプライオリティの下がること下がること。急激ですよ、そらもうあなた。<br />
　もうね、本当に、時間のかかることが嫌になる。スローフードとか言ってる連中は、このスローエンタテイメントをどう思っているのか知らないが、ゲームは、マジでスローだと思うわけですよ。はい。10時間やったあげくに、大変に類型的な話とかがみせられるわけじゃないですか。じゃないですか。<br />
　これがもうだめ。耐えられなくなりつつある。</p>

<p>瀬上：そうなんですか。しかし、昔は、米島さんは「むしろ、10時間をかけること、というのが重要なんだよ。チミィ！」とか言ってませんでしたか？<br />
　話自体の水準がたとえ類型的であったとしても、それまでの10時間に自分の時間を賭しているということそれ自体が、物語の強度を支えているのだ、ということを持論として展開なさっていたような記憶があります。<br />
　僕は、いまだに、その頃に米島さんが言っていたことはそれはそれで十分に真実だと思っています。登場人物たちの台詞がいかに類型的であり、シンプルなものであったとしても、そこにたどり着くまでに払われている時間の中には、キャラクターたちと、プレイヤーの間に、何度も繰り返される無数のコミュニケーションの時間が大量に支払われているわけですよね。その濃密なコミュニケーションの時間を成立させることは、リピート、すなわち「リセット」の可能なゲームというメディアの中でこそ成立している時間感覚です。そして、それこそが、ゲームというメディアのもっている物語経験の優越だろうという議論ですね。もっとも、これを「物語」と呼ぶべきかどうかは議論のあるところかもしれませんが、こうした経験を与えることのできるメディアとしてのコンピュータ・ゲームはやはり、偉大だなぁ、と思います。<br />
　それは、この前プレイした『英雄伝説VI』でも僕は濃厚にそのことを感じていて、たとえば、ゲームの中で、少しシナリオが展開されてゆくごとに、一連の新聞を1号～10数号まで購入することができるのですね。しかも、新聞記者の人とのコミュニケーションもゲームの中では展開されます。で、新聞が発行されるごとに、新聞記者の人との間でそれまでやってきたコミュニケーションが、新聞の活字という形で総括されてゆく。細かで、不確かで動的でローカルな相互行為が、静的でパブリックな一方向メディアによって形を与えられていく感じが、非常におもしろい、すばらしい作品でしたね。ゲームのシステムは普通でしたが、積み重ねてきたコミュニケーションを、ある時点でグイッと引きつけて転換させてしまうことの面白さというようなことを、とてもよくわかった作品だったという気がしていますね。</p>

<p>米島：なるほどね。やってないけど、なんかいい作品だったわけだね。そのメタメッセージだけは伝わったよ。そして、瀬上くんがいまだにRPGに飽きていない、ということもよくわかった。それはむしろ世間的にはマイナーですごいことだと思うわけだけれども、とりあえずそういうことだ。<br />
　で、ね、オレも、瀬上くんが何か抽象的に言っていることはわからなくはないですよ。決して。そもそもオレも前に似たようなことをドラクエを肯定するための議論として言っていたわけで。それはそれで、その通りでしょう。ええ。<br />
　しかし、ここで瀬上くんに聞きたいことは、だ、ぶっちゃけ、英雄伝説は全肯定とかできたりするわけでしょうか、ということですよ。</p>

<p>瀬上：全肯定というと？</p>

<p>米島：何の留保もつけずに諸手をあげて、それを肯定できるかどうか、ということですよ。たとえばさ、映画ならば『シティ・オブ・ゴッド』と、『グッバイ・レーニン』はオレは何の留保もつけずに全肯定とかしますよ。マジで。これがわからないやつは、むしろ、鑑賞するための間口が狭いところに固定化されてしまっている可愛そうな人だ、というようなことさえ思ったりしちゃいますよ。たいへんに文化的な差別を孕んだ発想だということは承知していますけどね。まあ。でも、しかし「わからないやつが悪い」とか言うテンションが成立しちゃうわけですよ。マジで。<br />
　しかし、RPGでそれを言えますか。君は、という話をしたいわけ。それが、むり。なんていうか、むり。『タクティクス・オウガ』ですら、『カオスシード』ですら無理です。PC的に、ええっと、Player Character（プレイヤー・キャラクター）的な問題はよく考えられたものであって、Political Collectness（政治的な正しさ）的な問題としてはかなーりあやうい話とかが山のようにあるわけじゃないですか。</p>

<p>瀬上：ポリティカル・コレクトネスですか。まあ、その表現にはとてもアメリカ的なところがあってどうかという表現ですね。ましてや、芸術をめぐる話としては、芸術に対して、政治的、あるいは道徳的に「コレクト」であることを強要するのは、いかがなものかという、基本的な話がありますよね。エンターテイメントに適用される基準が、芸術なるものに適用される基準とは別だという一般的な意識も世の中にはあるわけですが。</p>

<p>米島：いやいやいやいや。PCという表現が嫌いなのは、いいとしてさ、オレがいま、言いたいのは、そのことではないのよ。じゃあ、まあもう少し表現をやわらげるとすれば、あまりにも、素朴でぽかーんとするような発言とかあるでしょ。ミソジニー（女性蔑視）とかホモフォビア（同性愛嫌悪）的なもの、あるいは政治思想的な話とか、戦争の話とかそうなんだけれども。まあ、コレクトネス、というか、あれだなあ、教養が明らかに欠如しているのではないかと思われる雰囲気の何か。</p>

<p>瀬上：ああ、おっしゃられていることはわからないではないです。日本のサブカルチャーが教養の欠けたものだとはまったく思いませんけれども、ある種の教養がまとめて抜け落ちたままでもある程度、維持できる場所ではありますからね。<br />
　たしかに、あまりに素朴な女性/老人/子供といったものに対する扱いやら、政治制度に対する議論やらがありますね。あれは、さすがに少しげんなりするところが、なくはないです。『オウガ』シリーズと、『カオスシード』は問題ないと思いますが、『英雄伝説VI』だと確かにそこは厳しいものはあります。国家なるものについて語るわりに、近代国家なる概念についての基本的な教養があまりに欠如している感じがありましたね。むしろ、僕はその欠如からくる素朴さが、おもしろくすら感じられましたけれどもね。</p>

<p>米島：それは、ウォッチャー的に、ということでしょ？やっぱり時間があるんだよ、瀬上くんは（笑）<br />
　そのさ、サブカルチャーの世界においてある種のステレオタイプがまんま許されているというのは、一つは、1941年生まれの巨人である宮崎駿と富野由悠季といった人々の責任じゃないかと思うんだよね。もっと言ってしまえば、手塚の責任じゃないかと思っていてさ、宮崎は手塚に強烈なコンプレックスを抱いて青年期をすごし、富野はさっくり虫プロに入っているわけですが、で、彼らは同時に60年代の左翼的な世界にも強力な影響をうけている。もっとも、そこらへんの影響関係をそこまで詳しくわかっていないけれど、彼らは女性をめぐる話とかの認識に関しては、せいぜいリブのような過激な女性運動あたりで打ち止めでしょう。もう少し理論的なフェミニズムの話とか知らないだろうし、そこに意識がはたらいてないんじゃないか。やっぱり。で、手塚とかも、『きりひと讃歌』（1968）とかをみてると女性描写はかなり厳しいですね。ってか、オレの記憶だと手塚の世界で、レイプが非人道的なものとしてきちんと描かれてるのって手塚末期の『陽だまりの樹』（1981～86）の描写ぐらいで、あとはけっこう、男のはけ口みたいにして、女性を犯すようなろくでもない描写が多いでしょ。<br />
　で、さ、そういうところとかさ、けっこう「どうでもいいもの」として許されてきちゃってるんだよね。ありえないことに。本当にありえないと思うのだけれども。そこらへんは、斎藤美奈子が『紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』（2001）で、とっても快調にまとめてくれてるけれど。とにかく、サブカルチャーってさ、やっぱりかなりの部分は子供向けだからさ、ステレオタイプで許されてしまうと、読者からの批判は期待できない。クリエイターが努力してないとは思わないけれども、そういう批判の機能しがたい悪い場所になってしまっているのではないか、と思うわけですよ。<br />
　で、そこで生産されるものはどうしても、一定レベル以上の教養を身につけた層からすれば厳しいものが再生産され続けているという気がしてならんわけです。</p>

<p>瀬上：米島さんがおっしゃっているのは、サブカルチャーというよりも、子供向け文化の問題ですね。確かに、その指摘は半分あたっているとは思うのですが、そもそも、宮崎駿は一部のフェミニストからはむしろ支持がありますし、半分は外れているのではないかと思います。<br />
　米島さんは、批判、あるいは批評ということが機能する場所、ということをおっしゃりましたけれども、それは実はものすごく高度な条件を必要としているものだと思うのですね。たとえば、美術評論家の椹木さんは、まさにいま米島さんがおっしゃった「悪い場所」という表現でもって、日本の美術界への辟易を示されていますし、批判的、批評的なものがある程度まで恒常的に機能する場所というものをつくりあげることはとても難しい。その意味で、日本のサブカルチャーを米島さんのおっしゃるような意味で悪い場所だといってしまうのには僕は警戒を覚えますね。もちろん、個別の議論には賛同しますし、斎藤美奈子『紅一点論』の議論は確かにおもしろい。だけれども、それは個別の議論であって、それがサブカルチャーそのものから離れたくなるほどに致命的な話かというと、それはないです。<br />
　そういう話でいえば、日本のサブカルチャーだけじゃなくって、世界のそこらじゅうにある、どういう文化であっても、嫌いになれてしまう。たとえば、僕は現代美術の界隈で政治・社会・経済をめぐる議論がされるとき、ほとんどの場合その基本的な想像力の乏しさにどうしようもないものを感じますね。</p>

<p>米島：いや、違う。そういうことじゃない。「嫌いになる」ということじゃないんだよ。<br />
「好きになれるか」。「時間を投入できるか」ということなんだよ。したい話は。<br />
たとえば、いま、『グッバイ・レーニン』のすばらしさを全力で訴えろ、といわれたら、それはできる気がするんだよ。でも『ドラゴンクエスト』を一から十まで全肯定することは、どこか無理がある。もちろん、『ドラゴンクエスト』はすばらしいし、肯定されるべき部分、語られずにおくのがあまりにも勿体ない部分は死ぬほどたくさんあるんだよ！それは！<br />
　でも、『ドラゴンクエスト』を『グッバイ・レーニン』と同じ水準で評価できるか、と言ったらそれは無理ですよ、と。もっと、陳腐な例で言えば『ドラゴンクエスト』と『シンドラーのリスト』を同列で並べて語ることはやはり可能ではない。『シンドラーのリスト』は全肯定しないけれどさ。まあ知名度でこの例を挙げるけれども。</p>

<p>瀬上：なんとなくわかってきました。それはつまり、政治的な言説とかを紡ぎだせるかどうか、という問題ではないでしょうか。米島さんがおっしゃりたいのは、「オレは戯れだけではもう無理だ」という話のように聞こえます。コンサマトリ（自己充足的）なものだけで生きていくことは苦しい、という自己表明のように聞こえますが。</p>

<p>米島：それはそうなのかもしれない。大変、率直に言ってしまうと、社会的な問題と完全に切断されたところでだけ、戯れていることができるというのは、すごいと思うよ。オレには、それはできない。難しい。無理だ。<br />
　「政治を語ったり、社会を語ったりするのが、かっこいい」という言葉のファッションの問題じゃないんだよね、それは。そうじゃなくて、「政治や社会から、徹底的に断絶されている場所」に何十時間も身柄を投入し続けられることが、むしろすごいと思うんだよね。社会的なフィードバックから完全に無縁な閉じた場所に何時間も居続けることがすごいと思う。</p>

<p>瀬上：それは、いわゆる「萌えフォビア」の話ともつながるのかもしれませんね。ただ、社会的なフィードバックから「閉じている」ということは、どうでしょうね。閉じているということを、言葉にしてしまった瞬間にそれは、閉じたもの、として再定位することが可能になる。</p>

<p>米島：ああ、はい。たしかに、社会的なものから閉じられたところにいることを、あえて自覚することで、そこに「断絶することの価値」のようなものを肯定的に見いだすとかって論法はありうるだろうね。<br />
　たしかに、そういうことを言っている人は出てきているし、それはそれで何がしかのものになるのかもしれない。でも、オレはいまのところはやはり、そういう言説とかって心の底では信じられていなくって、たとえば、ドラクエを社会的なものとして語り直すことはかなり無理矢理感の漂うことだと思っているわけですよ。それこそ、そんなことやってたら「やーい、カルスタ野郎」とかって、石を投げられかねない気がしてしまう。前にカルスタ以前というか、志田さんが『ヴィーナス＆ブレイブス』を小泉政権批判だとかってムリヤリ語っていたけれども、ああいうのはさすがに説得力を欠くし、無理がある。『Mr.インクレディブル』は痛烈なブッシュ批判になっているけれども。</p>

<p>瀬上：もちろん、そんな風にして、政治的なもの／社会的なものとしてドラクエ単体を米島さんが「ムリヤリ」語る必要はないのではないでしょう。いまのところ、ドラクエ単体、というよりも、ゲームという消費行為の全体を、消費社会論的に語るという方向性とかはある程度まで成功している気がしますが、僕らはたぶん、そういうことはあまりできない気がします。だから、僕は、ドラクエを語るならば、ドラクエもっている技法の問題を語るというのが一つありうるのだろうという気がしているのですが。</p>

<p>米島：いやー、瀬上くんのそれも対外に、開き直ったオタクという感じがするんだよね。映画オタクがオーソン・ウェルズ『市民ケーン』を褒めているのを聞くのは、非映画オタクにとっては何をいっているのやらさっぱりわからない技法をめぐる称賛に満ちてるわけだよね。たとえば「パン・フォーカスがうまい」だの、「プロットとシナリオをつなぎ合せる省略の技法が云々」という話とかをするのが奴らは大好きなわけだけれども、映画の技法に興味をもったこともなければ、興味を持とうという気もない人間にとっては、ああいった言辞を弄することの価値ははっきり言って理解不能でしょう。ああいった議論が、映画オタの外側に対してはどうやって機能しうるのか、と。</p>

<p>瀬上：なんだか、今日の米島さんはえらいネガティブですね…。なにかあったんですか（笑）？<br />
　まあ深くは追求しませんが、米島さんがRPGをやらない、という理由は、結局のところ、好きになれるかどうか、という話と批評可能かどうか、という問題がリニアーにつながっている気がしますね。時間がかかるという問題は、そのダメ押しみたいな感じがします。</p>

<p>米島：いや、何もないさ。何もないかな？かな？<br />
　仕事がクソ忙しくて、三ヶ月間土日がない。とか、クソ忙しいのに、人に断りもせずに問答無用でヘビーな仕事を入れられてたりとか。信頼を失うかどうかぎりぎりのスケジュールで仕事してるところに、意味不明のわがまま言ってくる奴がいるとか。二つぐらいデスマーチを同時に抱えてるとか………そういうことはまったくないさ！ああ、ないとも！正確にいえば、それが日常化しているので、それは「事件」ではない、というべきかもしれないけれど…。<br />
　とにかく、まあ、そんな感じで、引き籠もりニートな精神とは乖離しつつ社会生活を送ったりしているオレがいたりするわけですよ。引き籠もりニート的な生活をしているときならばRPGの一つや二つ…<br />
　まあ、とにかく、社会生活が忙しいわけです。どうにかしてほしいわけです。仕事に関係のないところで莫大なエネルギーは浪費できないわけです。ヨ！</p>

<p>瀬上：それは、話が前に戻っているので…話を戻すと、米島さんは、（１）社会的/政治的な話に接続可能で、（２）全肯定できそうな何かであれば（３）RPGというジャンルであっても、いいのではないのですか？</p>

<p>米島：それはそうなのかもしれない。そういうものは数年に一度もあるかないかでしょう。やはり。</p>

<p>瀬上：僕は、そこらへんは『ひぐらしのなく頃に』が存在していることで、オールOKですけれどね。</p>

<p>米島：その作品チョイスはやはり、瀬上センセイのオタク化が危機的に進行しているということのように思えるのですが……。本人目の前にして言うのもあれですが、『ひぐらし』のあのオタくさい…というか、オタ以下の絵でプレイできることが、何かの立証になってるように思うけれどね。だってあれ、田舎の高校で戯れることの幸せを味わう作品とかでしょ？ムリムリムリ。圧倒的にムリ。<br />
　瀬上はオタクで、米島は究極的にはオタクではない。というそういうことではないか、と。あるいは、オタの世代論的な話かもしれないけれども。</p>

<p>瀬上：いや、それは単に『ひぐらし』をやっていないだけですよ。『ひぐらし』はそういうものを遙かに凌駕して非常にすばらしい。やってみれば、この作品がいかに社会的なものにも接続可能か、ということがわかるはずです。認知限界や、自由意志といった古くて重要な哲学の問題と、ゲームとは何か、戯れとは何かという我々が手にしている問題がこの作品では見事に接続されていますよ。本当に、これをやらないのは勿体ないですね。ひぐらしを最後までやって、それでも一辺の価値も認めない人を僕は想像ができませんからね。</p>

<p>米島：いや、それは本当にそうなのかもしれないけれども、そういう語りをしてしまう、ということ自体が、気まずいと思うんだけれどね……。まあ、そんなに言うのであれば、『ひぐらし』をやってみますわ。あれは何でやればいいの？</p>

<p>瀬上：絶対に、PC版ですね。アニメ、漫画はもうまったく別のものだということで。</p>

<p>米島：そう…わかったわ…。じゃ、ま、もう、忙しいので、今日はこのへんで…ではでは。</p>

<p>瀬上：では。</p>

<p>[ <a href="http://cog.sakura.ne.jp/mt/mt.cgi?__mode=view&_type=entry&id=870&blog_id=2">edit</a> ]</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>井上明人：仕事リスト</title>
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<modified>2010-04-01T08:55:16Z</modified>
<issued>2006-12-27T06:55:12Z</issued>
<id>tag:www.critiqueofgames.net,2006://2.8</id>
<created>2006-12-27T06:55:12Z</created>
<summary type="text/plain">もろもろの仕事リストを公開しております。 ＃最新の更新は　2010年3月です。...</summary>
<author>
<name>AkitoInoue</name>
<url>http://www.critiqueofgames.net</url>
<email>cog_inoue@yahoo.co.jp</email>
</author>
<dc:subject>work</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.critiqueofgames.net/">
<![CDATA[<p>もろもろの仕事リストを公開しております。
<br />
<br />＃最新の更新は　2010年3月です。</p>]]>
<![CDATA[<a id="contents_1"></a>
<ul>
<li><a href="#p97e243e"> 研究職 </a></li>
<ul class="list1">
	<li><a href="#g224b995"> 執筆など </a></li>
	<li><a href="#q77f329f"> インタビュアー・対談 </a></li>
	<li><a href="#uc3d3c25"> インタビュイー </a></li>
	<li><a href="#i46b6637"> 口答発表 </a></li>
	<li><a href="#i80a3b84"> 司会・運営 </a></li>
	<li><a href="#q919f50d"> その他の参加・協力プロジェクト </a></li>
	<li><a href="#i3eee157"> 研究プロジェクトへの参加実績 </a></li>
	<li><a href="#j396d079"> 役職・所属学会 </a></li>
	<li><a href="#j396daaa"> 講義 </a></li>
</ul>
<li><a href="#ncf9927c"> ウェブデザイン </a></li>
<li><a href="#h2f0c7e3"> 写真撮影 </a></li>
</ul>






<h3 id="content_1_0" style="border-bottom:solid 3px black;">研究職  <a class="anchor_super" id="p97e243e"  title="p97e243e">&nbsp;</a></h3>


<h4 id="content_1_1">執筆  <a class="anchor_super" id="g224b995"  title="g224b995">&nbsp;</a></h4>
<ul>
<li>2002年11月　雑誌『I/O』第27巻11号　通巻313号　P126～ 『「ゲーム脳」は「恐怖」なのか？』</li>

<li>2003年3月　『ビデオゲームの議論における「ゲーム性」という言葉をめぐって－雑誌『ゲーム批評』を中心にその使われ方の状況を探る－』 慶應義塾大学　総合政策学部卒業論文(小熊英二研究室) [ <a href="http://www.critiqueofgames.net/paper/gamesei.html">html</a> / <a href="http://www.critiqueofgames.net/paper/gamesei.pdf">pdf</a> ] </li>

<li>2005年1月　『テレビゲームプレイヤーの誕生』 慶應義塾大学大学院　政策・メディア研究科修士論文(深谷昌弘研究室) </li>


<li>2005年12月『ゲーム表現の根本問題―死の表現をめぐって―』ゲーム学会第四回全国大会　論文集 p13～p18</li>

<li>2006年1月　commonsphere.jp　「<a href="http://commonsphere.jp/game/index.php?%A5%B2%A1%BC%A5%E0%B8%A6%B5%E6%A4%CE%B8%BD%BA%DF%2F%C2%E8%B0%EC%B2%F3%2F01" rel="nofollow">ゲーム研究の現在」　</a>（リンク先消失）</li>

<li>2006年5月　『情報通信ジャーナル』 Vol.24 No.5 May 　<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/2006/07/17.html">国際大学グローコム　情報社会学シリーズ "地球智場"の時代へ　「オンラインゲームの現在」</a>p36～p39</li>

<li>2006年6月　<a href="http://www.amazon.co.jp/ユリイカ2006年6月号-特集-任天堂／NINTENDO-遊びの哲学/dp/479170147X/" rel="nofollow">雑誌 『ユリイカ』2006年6月号、青土社　特集＝任天堂／Nintendo</a>　「宮本茂をめぐって　コンピュータ・ゲームにおける作者の成立」 p181～p189</li>

<li><a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%99%BA%E5%A0%B4-107-%E6%9D%B1-%E6%B5%A9%E7%B4%80/dp/4904305027/ref=sr_1_6?ie=UTF8&s=books&qid=1212384185&sr=1-6">2006年5月/6月号　 『智場』107号 「特集　韓国ゲーム：韓国ゲームの現在」 p71～p77　国際大学GLOCOM</a></li>

<li>2006年8月　某大学　報告書：東南アジアの情報通信政策　１万字程度</li>

<li>2006年9月　某社　報告書：ゲームの経済―RMTをめぐって―　3万字程度</li>

<li>2006年10月　某官庁　報告書：XMLを用いた標準化について(部分)</li>


<li><a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%99%BA%E5%A0%B4-108-%E9%81%A0%E8%97%A4-%E9%9B%85%E4%BC%B8/dp/4904305035/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1212384074&sr=1-2">2006年12月/2007年1月号　 『智場』108号　特集　ゲーム・デヴォリューション　冒頭論文「ゲーム・デヴォリューション」 p6～17</a></li>

<li>2007年2月　『情報通信ジャーナル』 Vol.25 No.2 Feb　 　国際大学グローコム　情報社会学シリーズ "地球智場"の時代へ　 「ゲームのデファクトスタンダード競争の後に来るもの」　p36～p39</li>

<li>2007年2月　某社　報告書：情報通信サービスと情報通信機器の融合を考える五つの仮説（部分執筆）　8000字程度</li>

<li>2007年2月/3月号　 <a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%99%BA%E5%A0%B4-109-%E9%9D%92%E6%9F%B3%E6%AD%A6%E5%BD%A6/dp/4904305043/ref=sr_1_3?ie=UTF8&s=books&qid=1212384223&sr=1-3">『智場』109号</a>　「<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/chijo/text/2007/06/post_sl.html">ポスト・セカンドライフ――『3DのWWW』をめぐる標準化競争」</a> p80-p86　国際大学グローバル・コミュニケーション・センター</li>

<li>2007年3月　某社　報告書：ゲームの技術と普及の経路依存性　8000字程度</li>
<li>2007年3月　某研究所　報告書：日本の学術データベースについての予備的調査報告　2万字　60ページ程度</li>
<li>2007年5月 日本デジタルゲーム学会　学会誌『日本デジタルゲーム学研究』創刊号　 「ゲームという認識の枠組み－日本の先行研究を中心に－」p46～p53</li>
<li>2007年6月 某社　報告書　『コンピュータ・ゲーム産業のフラット化の壁－ゲーム産業の国際分業と国際展開の現状－』10000字程度</li>
<li>2007年9月　某社　仮想世界とは何か　9000字程度</li>
<li>2007年9月　某社　仮想世界におけるルール、規制～何が問題か～　11000字程度</li>
<li>2007年9月　DiGRA 2007 Proceedings <a href="http://www.digra.org/dl/db/07309.19112.pdf">"Around Sigeru Miyamoto: Enactment of "Creator" on Computer Games"　Akito Inoue and Seido Ushijima</a>( 英語 )
<li>2007年11月　『智場』110号　「日本のソフトウェア産業の例外？――日本のゲーム産業の競争力」　p59～p65 国際大学グローバル・コミュニケーション・センター</li>
<li>2007年12月 ｢日本コンテンツ産業のグローバル化に資する環境整備に関する調査研究｣，財団法人 産業研究所（委託先 財団法人デジタルコンテンツ協会）, 委員会 (国領二郎[慶應義塾大学]，井上明人[国際大学GLOCOM]，奧邨弘司[神奈川大学経営学部]，岸原孝昌[モバイル・コンテンツ・フォーラム]，ドミニク・チェン[クリエイティブ・コモンズ・ジャパン]，森祐治 [シンク])</li>
<li>2008年3月　某官庁　報告書：報告書の一部　ゲーム産業についての基本統計、政策情報など　14000字程度</li>
<li>2008年3月　（奥付のみ。実際の執筆は2008年6月）　DiGRA　2007年度学会誌 「チュートリアリズムの誕生」</li>
<li>2008年4月　『智場111号』「CGMサービスにおけるユーザーたちの振る舞い」</li>
<li>2008年9月　モバイル社会研究所『未来心理 vol.13　モバイル・ソサエティ・レビュー』<a href="http://www.moba-ken.jp/wp-content/pdf/vol.13_inoueakito.pdf">「遊びとゲームをめぐる試論　―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるのだろうか―」</a></li>
<li>2008年12月「表現としての数値―チュートリアル/強度―」『ゲーム学会第七回全国大会　論文集 p55～p58(1st author 井上明人/ 2nd author 高橋志行)</li>
<li>2008年12月「ゲームに参加するとはどういうことか――ゲームコミュニティにおける推理と介入」『ゲーム学会第七回全国大会　論文集 p51～p54(1st author 高橋志行/ 2nd author 井上明人)</li>
<li>2008年12月　<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/chijo/112/006-013_inoue.pdf">「情報環境の変化とコンテンツ」</a>『智場 112号』所収</li>
<li>2009年3月　「<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/chijo/113/143-150_column.pdf">単にモジュール化することが重要なのではない</a>」『智場　113号』所収 　2009年3月号所収</li>
<li>2009年3月　「＜リテラシー＞という解釈システム」<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%82%AB2009%E5%B9%B44%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E7%89%B9%E9%9B%86-RPG%E3%81%AE%E5%86%92%E9%99%BA/dp/4791701917/">『ユリイカ　特集：RPGの冒険』</a> 2009年4月号所収</li>
<li>2009年3月　コラム「オーグメンテッド・リアリティの実現可能性を考える～３つの技術フレームから」『経営情報学会誌』Vol.17 No.4, March 2009所収</li>
<li>2009年3月　某社　オーグメンテッド・リアリティ関連の報告書　40ページ程度執筆</li>
<li>2009年3月　「独自サイバースペース・インフラとしてのコンピュータ・ゲーム」『情報社会学会 vol.4』所収　予定</li>
<li>2009年3月　「作品を解体し、融合させるシステム―ファイナルファンタジーシリーズを例に」<a href="http://www.contentshistory.org/journal/backnumber/">『コンテンツ文化史学会 vol.1』</a>所収</li>
<li>2009年3月　<a href="http://www.dcaj.org/report/2008/data/dc_08_03.pdf">「技術としてのゲームデザイン」『デジタルコンテンツ制作の先端技術応用に関する調査研究報告書 H21年版』</a>（デジタルコンテンツ学会）　所収</li>
<li>2009年5月　「<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/chijo/114/006-013_hajimeni.pdf">はじめに　なぜイノベーション行動なのか</a>（砂田薫との共著）」『智場114号　特集：イノベーション行動科学』国際大学ＧＬＯＣＯＭ
<li>2009年6月 <a href="http://www.taf.or.jp/publication/kjosei_24/index-1/page/p104.pdf">「デジタルゲーム産業の産業構造：日本のゲーム開発体制はいかにして選択されたのか」</a>『研究調査報告書No.24 2009』電気通信普及財団　所収
<li>2009年9月　「ゲーム市場の生態系とネットワーク構造の変化をどう捉えるか」<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3-%E2%80%95%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E4%B8%BB%E5%B0%8E%E5%9E%8B%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3-Chris-Bateman/dp/4873114187">『「ヒットする」のゲームデザイン ―ユーザーモデルによるマーケット主導型デザイン』</a>（2009、オライリー）所収
<li>2009年10月　某社　コンテンツ関連施設運営に関する報告書：110ページ程度執筆　</a>
<li>2010年1月 <a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A9%E7%A8%B2%E7%94%B0%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%A2%97%E5%88%8AU30-%E5%B0%8F%E6%9E%97%E9%87%8C%E3%80%85%E5%AD%90/dp/4948717029/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1266113319&sr=8-2">「認知的作品――〈いま・ここ〉を切り取ることをめぐって」『早稲田文学増刊U30』所収</a>
<li>2010年1月　「<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/chijo/115/075-079_05_inoueindd.pdf">動画生中継のグーテンベルク的変化</a>」（庄司昌彦との共著）『智場115号：特集　ICT，社会変革，オープンなネット参加』国際大学GLOCOM 所収
<li>2010年3月　情報社会学会　「ユーザー・クリエイティヴ・ネットワーク」（数ヶ月後に学会誌に掲載予定）
<li>2010年3月　DCAJ　「ユーザーの集合的な振舞い」（数ヶ月後にオンラインでダウンロード可能になる予定）
<li>2010年3月　某社　インドのIT政策の概要についての報告書　10000字ほど
<li>2010年3月　某省庁　CGMのビジネスモデル概観について　12000字ほど
</ul>




<h4 id="content_1_2">インタビュアー・対談  <a class="anchor_super" id="q77f329f"  title="q77f329f">&nbsp;</a></h4>
<ul>
<li>雑誌 『智場』107号 2006年6月<br />
「特集　韓国ゲーム」<br />
　<a href="http://www.glocom.ac.jp/j/chijo/text/2006/06/rmt_park_sangwo.html" rel="nofollow">パク・サンウ　インタビュー</a>（東浩紀とともに聞き手）<br />
　</li>
<li>雑誌 『智場』108号　2007年1月<br />
「特集　ゲーム・デヴォリューション」<br />
　遠藤雅伸インタビュー<br />
　新清士インタビュー<br />
　久保雅一インタビュー<br />
　伊藤憲二インタビュー<br />
　SCE 福永憲一インタビュー<br />
　MS 山崎賢一郎インタビュー<br />
　川端裕人・山根信二・井上明人対談</li>

<li>雑誌 『智場』110号　2007年11月<br />
　「パッケージソフトの低価格戦略――ゲームソフトウェア開発体制と国境」D3パブリッシャー岡島信幸インタビュー　（庄司昌彦とともに聞き手）

<li>雑誌 『智場』111号　2008年4月<br />
　「日本社会における「つながり」の特質と変容」　池上英子インタビュー　（庄司昌彦とともに聞き手）

<li>2008年9月：「ゲームという戦場から見た世界～『MGS4』という挑戦～」『ユリイカ』（2008年9月号　第40巻第10号　通巻555号）　小島秀夫氏インタビュー

<li>雑誌 『智場』112号　2008年12月<br />
　「コンテンツの未来」鈴木謙介/福冨忠和/津田大介鼎談(井上は司会)<br />
　土屋秋恆インタビュー （猪狩典子と共に聞き手）<br />
</li>


<li>2009年12月　<a href="http://www.amazon.co.jp/Review-House-03/dp/4990396723">Review HOUSE 03　特集「「批評」としてのゲーム実況動画」　濱野智史×石岡良治×井上明人×黒瀬陽平7万字対談</a></li>
<li>2009年12月　<a href="http://www.geocities.jp/wakusei2nd/p0">PLANETS SPECIAL 2010 ゼロ年代のすべて　特集「ゼロ年代カルチャー総括座談会：ゲーム編」 濱野智史×井上明人×中川大地×青木摩周＋宇野常寛（司会）</a>
</li>


</ul>
<h4 id="content_1_3">インタビュイー・取材協力 <a class="anchor_super" id="uc3d3c25"  title="uc3d3c25">&nbsp;</a></h4>
<ul>
<li>2006年5月サイト：我が糧は空想なり 「<a href="http://d.hatena.ne.jp/otaku_interview/20060804">井上明人インタビュー</a>」　</li>
<li>2007年1月30日～2月1日　読売新聞、ゲーム特集（取材協力、コメント）</a>
<li>2007年5月　『週間朝日』5月4日/11日合併号、「大儲けも夢じゃない　ネットサービス『セカンドライフ』で楽しむもう一つの人生」（取材協力、コメント）</a>
<li>2007年5月　SquareHaven　"<a href="http://www.squarehaven.com/news/?id=1309">Critique of Games: Akito Inoue</a>"(英語)
<li>2008年1月　日本テレビ　RMT企画取材協力(ドキュメンタリ的なものかと思っていたが、ニュース番組だったらしい。)
<li>2008年3月　R25　TRPG関連企画取材協力（と言っても人を紹介しただけ）　
<li>2008年7月　東京MXTV　ガリレオチャネル「<a href="http://web-wac.co.jp/tv/galileo.html">テレビゲームのメディア宣言</a>」出演
<li>2009年8月　<a href="http://www.youtube.com/watch?v=4m0NvSkIuTY">『ディシプリン＊帝国の誕生 ドキュメント』</a>に出演

</ul>
<h4 id="content_1_4">口答発表  <a class="anchor_super" id="i46b6637"  title="i46b6637">&nbsp;</a></h4>
<ul>
<li>コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会　第一回<br />
「死の表現をめぐって」　2006年4月9日<br />
<a href="http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.04/20060421235540detail.html" rel="nofollow">http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.04/20060421235540detail.html</a></li>
<li>CEDEC 2006 8月30<br />
(共同発表)ゲーム学研究の世界動向：『The Game Design Reader』の読み解きで<br />
見る先行研究<br />
<a href="http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.09/20060901234149detail.html" rel="nofollow">http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.09/20060901234149detail.html</a></li>
<li>東京大学ゲーム研究会　2005年10月28日<br />
「＜遊び＞の再検討　～カイヨワを超えて～」</li>
<li>GLOCOM情報社会学ミーティング　2005年10月31日<br />
「コンピュータ・ゲームの現在」</li>
<li>ゲーム学会　第四回　全国大会　2005年12月10日<br />
「ゲーム表現の根本問題　－死の表現をめぐって－」</li>
<li>情報社会学若手研究会　2006年6月11日「韓国出張調査報告：韓国ゲームの現在」</li>
<li>某社研究会　短針報告　2006年10月05日「日米のゲーム産業構造比較」</li>
<li>GLOCOM フレンズ　2006年11月24日　「コンピュータ・ゲームの現在―認知の技術としてのゲーム―」</li>
<li>某研究所研究会　2007年1月30日「ゲーム・デヴォリューション」</li>
<li>(発表・パネルディスカッション)IECPセミナー　2007年6月11日「日中韓のネット産業と新世代の動向」鈴木謙介＋高原基彰＋庄司昌彦＋井上明人 </li>

<li>GLOCOM 仮想研　2007年6月25日「オンラインゲーム小史」</li>
<li>某社　社内勉強会　2007年7月2日「UCCとミドルウェア」</li>
<li>某社研究会　短針報告　2007年9月19日「仮想世界における基礎条件の変容」</li>
<li>某社　社内勉強会　2007年9月25日「ゲーム・デヴォリューション」</li>
<li>DiGRA 2007　2007年9月27日「Aroud Shigeru Miyamoto」</li>
<li>ゲーム論文コロキアム　2007年11月9日「プラットフォーム普及を考えるための仮説」</li>
<li>GLOCOM イノベーション行動科学研究会　2007年11月26日　「コンピュータ・ゲームのレベル・デザインとCGM」</li>
<li>東京理科大学専門職大学院(MOT) 2008年1月より、2009年現在まで、半年ごとに「日本のゲーム産業の競争力」をテーマにゲスト講師として発表</li>
<li>某社研究会　短針報告　2008年1月24日「2007年度ゲーム業界の最新動向」</li>
<li>某研究会　2008年7月09日「CGMサービスにおけるユーザーたちの振る舞い」</li>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/data/presentation/for_independent_development_for_web.pdf">DiGRA Japan 2008年9月26日 「ゲーム作りの文化のために―独立系デベロップメントシーンの比較試論―」（同人ゲームの潮流(1)「同人ゲームの過去、現在、未来」,日本デジタルゲーム学会　公開講座08年09月期）</a></li>
<li>2008年12月「表現としての数値―チュートリアル/強度―」『ゲーム学会第七回全国大会</li>
<li>2008年12月「ゲームに参加するとはどういうことか――ゲームコミュニティにおける推理と介入」『ゲーム学会第七回全国大会(元原稿の1st authorは、 高橋志行だが、発表は井上)</li>
<li>2009年1月「独自サイバースペース・インフラとしてのコンピュータ・ゲーム」情報社会学会シンポジウム</li>
<li>2009年5月　<a href="http://www.ieice.org/~vnv/activity.html">電子情報通信学会 HCG 第３種研究会ヴァーバル・ノンヴァーバル・コミュニケーション研究会(VNV研究会)</a>「コンピュータ・ゲームは，プレイヤーに何を見せるのか」</li>
<li>2009年9月　CEDEC　<a href="http://cedec.cesa.or.jp/oshigoto/contents/prg/s03.html">ゲームのお仕事研究フェア「インディーズゲームの潮流」にパネリストの一人として登壇</a>
<li>2010年2月 某社 勉強会 「適応プロセスとしてのコンピュータ・ゲーム」</li>
</ul>

<h4 id="content_1_5">司会・運営  <a class="anchor_super" id="i80a3b84"  title="i80a3b84">&nbsp;</a></h4>
<ul>
<li>CEDEC 2006 8月31日　ラウンドテーブル<br />
(共同発表)日本でゲーム学研究をどのように進めるべきなのか，可能性と方法論<br />
<a href="http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.09/20060904163043detail.html" rel="nofollow">http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.09/20060904163043detail.html</a></li>
<li>（運営・モデレータ・司会）コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会　第二回　2006年　6月3日<br />
<a href="http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.08/20060803142459detail.html" rel="nofollow">http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.08/20060803142459detail.html</a></li>
<li>（運営・モデレータ・司会）コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会　第三回　2006年7月29日<br />
<a href="http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.08/20060803142459detail.html" rel="nofollow">http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.08/20060803142459detail.html</a></li>
<li>（運営・司会）コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会　第四回　2006年12月10日<br />
<a href="http://www.rbbtoday.com/news/20061218/36966.html" rel="nofollow">http://www.rbbtoday.com/news/20061218/36966.html</a></li>
<li>（司会）IECPセミナー 2006年11月16日「「仮想経済」の世界：仮想と現実の出会い」<br />
講師：山口 浩氏、鈴木 健氏<br />
<a href="http://www.glocom.ac.jp/IECP/2006/11/post_122.html" rel="nofollow">http://www.glocom.ac.jp/IECP/2006/11/post_122.html</a></li>
<li>（司会）IECPセミナー 2006年12月05日「次世代ゲーム機の 『ユーザークリエイトコンテ<br />
ンツ』 が生むデジタルコンテンツ産業へのインパクト」講師：新清士<br />
<a href="http://www.glocom.ac.jp/IECP/2006/12/post_128.html" rel="nofollow">http://www.glocom.ac.jp/IECP/2006/12/post_128.html</a></li>
<li>（司会）某社研究会　RMTについて　2006年12月11日</li>
<li>（運営）IECPセミナー　2007年9月20日　「仮想世界に秩序はあるか？ 社会システム理論から見る仮想世界」講師：宮台 真司氏 </li>
<li>（運営）IECPセミナー　2007年10月19日  ＩＥＣＰ研究会「「コンテンツ学」の成立をめぐって」 　講師：福冨忠和、小野打恵、境真良、山口浩</li>
<li>（運営）IECPセミナー　2008年3月24日 「AR時代の社会～『電脳コイル』の世界が来る～（シリーズ「オーグメンテッド・リアリティ(AR)時代の世界」第1回）」講師：鈴木健、境真良、山口浩
<li>（運営）IECPセミナー　2008年5月20日　「AR時代の技術｣（シリーズ「オーグメンテッド・リアリティ（AR）時代の世界」第2回）講師：稲見昌彦、長谷川 晶一</li>
<li>（司会・コーディネイト）IECPセミナー  2008年6月25日　シリーズ・ポップカルチャー産業の国際競争力「ゲーム産業の実態」講師：細川敦</li>
<li>（司会・コーディネイト）IECPセミナー  2008年7月1日　シリーズ・ポップカルチャー産業の国際競争力「マンガは世界でどれだけ読まれているのか？」講師：中野晴行</li>
<li>（司会・コーディネイト）IECPセミナー  2008年7月8日　シリーズ・ポップカルチャー産業の国際競争力「アニメ産業の国際競争力」講師：増田弘道</li>
<li>（司会・コーディネイト）IECPセミナー  2008年7月23日　シリーズ・ポップカルチャー産業の国際競争力「コンテンツ産業を再設計する」講師：境真良、福冨忠和</li>

<li>(司会・コーディネイト) 2009年8月6日 シリーズ「Web2.0の行方～マネタイズの可能性を探る～」第1回Web2.0のユーザーはお金を払うのか？　講師：田中辰雄氏（慶應義塾大学経済学部准教授）、木野瀬友人氏（株式会社ニワンゴ取締役）</li>
<li>(司会・コーディネイト) 2009年9月15日 シリーズ「Web2.0の行方～マネタイズの可能性を探る～」第2回広告を変える次世代マーケティングプラットフォームの最新事情　講師：湯川鶴章</li>
<li>(司会・コーディネイト) 2009年10月27日 シリーズ「Web2.0の行方～マネタイズの可能性を探る～」第3回フリーコピー時代のビジネスモデルを考える　講師：柳川 範之</li>
<li>(司会) 2010年2月18日 「メディアの変遷とゲームジャーナリズムの変化」（DigraJ公開講座10年2月期) 講師：川口　洋司（元「Beep」編集長）,渡辺　一弘（株式会社スパイク　プロデュース部　プロデューサー）,船津　稔（GAME Watch編集部）
</li>

</ul>
<h4 id="content_1_6">その他の参加・協力プロジェクト  <a class="anchor_super" id="q919f50d"  title="q919f50d">&nbsp;</a></h4>
<ul>
<li>東浩紀×桜坂洋×鈴木健「ギートステイト」プロジェクト　書記<br />
<a href="http://blog.japan.cnet.com/geetstate/" rel="nofollow">http://blog.japan.cnet.com/geetstate/</a></li>
<li><span class="noexists">InterCommunication<a >?</a></span> No. 55 「情報社会を理解するためのキーワード20」<br />
<a href="http://www.nttpub.co.jp/ic/ic002.php?id=23&amp;Submit=+GO+" rel="nofollow">http://www.nttpub.co.jp/ic/ic002.php?id=23&amp;Submit=+GO+</a></li>
<li>デジタルコンテンツ協会　デジタルコンテンツ制作の先端技術応用に関する調査研究　委員会に委員として参加</li>
<li>東京財団 VCASI（http://www.vcasi.org）　広報チーム・ウェブ班として活動</li>

</ul>



<h4 id="content_1_7">研究プロジェクト等への参加実績  <a class="anchor_super" id="i3eee157"  title="i3eee157">&nbsp;</a></h4>
<ul class="list1"><li>コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会(RGN)　代表</li>
<li>ゲーム論文コロキウム　発起人</li>
<li>Digital Game Research Asociation 2007　実行委員　広報委員</li>
<li>ウェッブ社会調査法開発：ソシオセマンティクス 研究プロジェクト（責任者・深谷昌弘） 21世紀ＣＯＥプログラム　日本・アジアにおける総合政策学先導拠点　－ヒューマンセキュリティの基盤的研究を通して－ 2003年～2004年 各種補助メンバー</li>
<li>2006年2月～　国際大学GLOCOM機関誌 『智場』　編集補助</li>
<li>2006年9月～2007年5月　某プロジェクト　天才プログラマーインタビュー／IT企業創業社長キャリア比較調査、ほか</li>

</ul>

<h4 id="content_1_8">役職・所属学会  <a class="anchor_super" id="j396d079"  title="j396d079">&nbsp;</a></h4>
<ul>
<li>国際大学GLOCOM 研究員<br />
慶応義塾SFC研究所　上席研究員(訪問)</li>
<li>日本デジタルゲーム学会(DiGRA Japan)　正会員<br />
ゲーム学会(GAS)　正会員<br />
ゲーミング&amp;シミュレーション学会(JASAG)　正会員</li>
</ul>

<h4 id="content_1_8">講義  <a class="anchor_super" id="j396daaa"  title="j396d079">&nbsp;</a></h4>
<ul>
<li>2009年　実践女子大学　情報リテラシー1a/1b（非常勤講師）　毎週金曜三限</li>
</ul>





<h3 id="content_1_9" style="border-bottom:solid 3px black;">ウェブデザイン　/　ディレクション  <a class="anchor_super" id="ncf9927c"  title="ncf9927c">&nbsp;</a></h3>

<ul class="list1"><li>[ akito inoue ]（井上明人個人サイト） <a  href="http://web.sfc.keio.ac.jp/~inoue">http://web.sfc.keio.ac.jp/~inoue</a> 1999年4月～現在 サイト構築、運営</li>
<li>慶應義塾大学SFCキャンパス2000年春学期「国家と法」ウェブページ<a href="http://web.sfc.keio.ac.jp/~inoue/k/">http://web.sfc.keio.ac.jp/~inoue/k/</a> 2000年4月～7月 サイト構築および運営</li>
<li>株式会社OTD掲示板(現livedoor掲示板OTD） <a href="http://bbs.otd.co.jp/" href="http://bbs.otd.co.jp/">http://bbs.otd.co.jp/</a> 2000年10月 ユーザーサンプル[akito]作成　※現在は消失</li>
<li>Critique of Games <a href="http://www.critiqueofgames.net/" rel="nofollow">http://www.critiqueofgames.net/</a> 2002年1月～現在 サイト構築、運営</li>
<li>慶應義塾大学　ソシオセマンティクスプロジェクト <a href="http://imi.sfc.keio.ac.jp" rel="nofollow">http://imi.sfc.keio.ac.jp</a> 2003年5月 サイトデザインリニューアル（2003年時点）</li>
<li>テクスト意味空間分析システム Textimi 非公開 2004年9月 サイトデザインリニューアル</li>
<li>pukiwiki　自作スキン <a href="http://pukiwiki.sourceforge.jp/?%E8%87%AA%E4%BD%9C%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%B3%2Fhiyokoya6" rel="nofollow">http://pukiwiki.sourceforge.jp/?%E8%87%AA%E4%BD%9C%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%B3%2Fhiyokoya6</a> 2005年5月 自作スキン　hiyokoya6 公開/提供</li>
<li>ised@glocom : 情報社会の倫理と設計についての学際的研究 <a href="http://www.glocom.jp/ised/" rel="nofollow">http://www.glocom.jp/ised/</a> 2005年7月～ サイトデザインリニューアル</li>
<li>国際大学　グローバル・コミュニケーション・センター http://www.glocom.ac.jp/ 2005年7月～2007年末までの旧ページ サイトデザイン補助および、運営 ※トップページデザインは松谷創一郎氏。井上は実装面を担当。</li>
<li>地方自治体IT調達協議会 <a href="http://www.glocom.ac.jp/procurement/" rel="nofollow">http://www.glocom.ac.jp/procurement/</a> 2005年9月 サイトデザインリニューアル</li>
<li>我が糧は空想なり　<a href="http://d.hatena.ne.jp/otaku_interview/" rel="nofollow">http://d.hatena.ne.jp/otaku_interview/</a>　2006年5月　デザインリニューアル</li>
<li>GEET STATE準備サイトデザイン　http://www.geetstate.org/　2006年5月～9月？
<li>智場106号～108号　htmlコーディング（※デザインは米谷豪氏。井上は実装面を担当） http://www.glocom.ac.jp/j/chijo
<li>DiGRA 2007準備サイトデザイン http://www.gamesconference.org/digra2007/ 2006年11月～2007年1月（※現在は別の制作会社が担当）</li>

<li>国際大学　グローバル・コミュニケーション・センター <a href="http://www.glocom.ac.jp/" rel="nofollow">http://www.glocom.ac.jp/</a> 2008年12月～現在　サイトデザインは、<a href="http://www.grandclap.co.jp/">グランドクラップ社</a>に依頼。井上は、ディレクション。</li>

<li><a href="http://chi.iii.u-tokyo.ac.jp/crestsympo/index.html">日韓国際シンポジウム「オンラインゲームの教育利用」　http://chi.iii.u-tokyo.ac.jp/crestsympo/index.html</a>　2008年12月　中央フレーム内の画像素材等については、クライアントからいただいたものを元に加工。バックグラウンド画像のデザイン/文字/画面構成等については井上が担当、コーディング（井上デザイン後、クライアント側である程度修正が加えられています。）</ul>


<h3 id="content_1_11" style="border-bottom:solid 3px black;">写真撮影  <a class="anchor_super" id="h2f0c7e3"  title="h2f0c7e3">&nbsp;</a></h3>
<ul class="list1"><li>智場106号</li>
<li>智場107号</li>
<li>ised設計研第7回
<ul class="list2"><li><a href="http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/20060114" rel="nofollow">http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/20060114</a></li></ul></li></ul>

<p align="right">[ <a href="http://cog.sakura.ne.jp/mt/mt.cgi?__mode=view&_type=entry&id=8&blog_id=2">Edit</a> ]</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>スケジュール</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.critiqueofgames.net/2006/08/post_1.html" />
<modified>2009-06-22T06:38:05Z</modified>
<issued>2006-08-14T06:09:57Z</issued>
<id>tag:www.critiqueofgames.net,2006://2.879</id>
<created>2006-08-14T06:09:57Z</created>
<summary type="text/plain">大きめのほぼ決まっている予定です。太字のところは関東、もしくは日本にいません。 ...</summary>
<author>
<name>AkitoInoue</name>
<url>http://www.critiqueofgames.net</url>
<email>cog_inoue@yahoo.co.jp</email>
</author>
<dc:subject>schedule</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.critiqueofgames.net/">
<![CDATA[<p>大きめのほぼ決まっている予定です。太字のところは関東、もしくは日本にいません。</p>

<h4>2009</h4>

<p><br />
<h4>その他、基本的には埋まっている時間帯（いずれも日本時間）</h4></p>

<p>＊毎週月曜　11：00～15：00<br />
＊毎週火曜　10：00～12：00<br />
＊毎週金曜　13：00～14：30<br />
＊毎週土曜　17：00～19：00<br />
</p>]]>
<![CDATA[<hr size="1" width="300">
<br />
<h4>関連の深いカレンダー</h4>
<ul>
<li><a href="http://www.digrajapan.org/modules/piCal/">DiGRA Japanイベントカレンダー</a>
</ul>

<p align="right">
[ <a href="http://www.critiqueofgames.net/mt/mt.cgi?__mode=view&_type=entry&id=879&blog_id=2">edit</a> ]</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>記事リスト</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.critiqueofgames.net/2006/01/post_8.html" />
<modified>2008-10-21T09:34:15Z</modified>
<issued>2006-01-31T06:25:56Z</issued>
<id>tag:www.critiqueofgames.net,2006://2.7</id>
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<summary type="text/plain"></summary>
<author>
<name>AkitoInoue</name>
<url>http://www.critiqueofgames.net</url>
<email>cog_inoue@yahoo.co.jp</email>
</author>
<dc:subject>entry</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.critiqueofgames.net/">

<![CDATA[<!--<ul>
<li><a href="#hatena">はてなよりの抜き出し。</a>
<br />　→<a href="#hateda">はてなダイアリーより。</a>
<br />　→<a href="#senoue">瀬上ブログ</a>
<br />　→<a href="#yonejima">米島ブログ</a></li>
<li><a href="#talk" >対話</a></li>
<li><a href="#review" >作品評</a></li>
<li><a href="#book" >ゲーム関連書籍の書評</a></li>
<li><a href="#others">その他</a></li>
</ul>

</div>
</div>


<div class="day">
<div class="body">
-->

<h2 id="hatena">ブログよりの抜き出し。</h2>

<h3 id="hateda" style="border-bottom:solid 3px black"><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya">はてなダイアリー</a>より。</h3>

<h4>「コンピュータ・ゲームにおける死の表現」をめぐって</h4>
<ul>
	<ul>
	<li>参考１：<a href="http://www.critiqueofgames.net/data/statistics/dead.html">「死の表現」調査</a>
	<li>参考2：ゲームにおける「死の表現」をめぐって（ゲーム学会第四回発表、<a href="http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2006.04/20060421235540detail.html">RGN 第1回発表 4gamers記事</a>）</li>
	</ul>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050717">「死の表現」をめぐって</a>  2005/7/17</li>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20060407#p1">「死の表現」をめぐって#02</a>  2006/4/07</li>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20060411#p1">RGN/死の表現関連　言及していただいたもの</a> 2006/4/11</li>
</ul>




<h4>ファミ通のクロスレビューについて</h4>
<ul>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050409#p2">「思春期病」患者への防衛意識とファミ通クロスレビュー</a>　2005.04.09
<br />　コメント欄への応答→<a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050410">「からっぽの権威」化装置：ファミ通クロスレビュー</a> 2005.04.10 </li>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050807">ファミ通クロスレビューの影響力</a>2005.08.07
</ul>


<h4>ゲームの定義をめぐる話</h4>

<ul>

<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/2008/10/post_7.html">[ 告知 ] 遊びとゲームをめぐる試論　―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるのだろうか― </a></a>

<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20051102">　"The Game, the Player, the World: Looking for a Heart of Gameness" (2003) </a> 2005-11-2
<br />　　→　<a href="http://www.jesperjuul.net/text/gameplayerworld_jp/">参考：話の対象になっている論文（Jesper Juul氏のサイトへの外部リンク）</a> 
<br />　　→　コメント欄への応答<a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20051104">　ゲームの「定義」をめぐる立場 2005-11-4</a></li>
</ul>

<h4>行動の環境（≒アーキテクチャ）と、リアリティの変容に関する話</h4>

<ul>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20081014#p1">行動から知覚へ</a>2008-10-14</li>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/2008/06/200806091305_wr_1.html">2008-06-09,13:05 written by complexequality</a>（秋葉原の事件について【a】―――ライフログと報道をめぐって）2008-6-9</li>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/2008/06/post_2.html">何が悲しいのか―――メディアと人の形</a>（秋葉原の事件について【b】）2008-6-12</li>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/senoue/2006/04/post_1.html">平等・自由・友愛をめぐる言説とそのアーキテクチャ。</a>（瀬上梓ブログ）</li>
</ul>


<h4>1980年代のゲームの言説について</h4>

<ul>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20040924">80年代のゲームの言葉シリーズ(1)</a>　2004-09-24</li>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20041006">80年代のゲームの言葉シリーズ(2)　シミュレーションゲーム</a>　2004-10-06</li>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20041007">80年代のゲームの言葉シリーズ(2)　シミュレーションゲーム　つづき</a>　2004-10-07</li>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20041010">80年代のゲームの言葉シリーズ(3)</a>　2004-10-10</li>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050412">ゲームジャンルの出自</a>　2005-04-12</li>
</ul>


<h4>推薦するゲーム</h4>
<ul>
<li></a><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20041201">2004年度十選</a> 2004-12-1</li>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050701#p1">2005年7月時点でのマイ人生ベスト5（ビデオゲームバトン）</a> 2005-07-01</li>
<li></a><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20060106">2005年度十選</a> 2006-01-06</li>
</ul>

<h4>ゲームの優良/有害をめぐる話</h4>
<ul>

<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20080901#p1">（いちおう宣伝）小島秀夫インタビュー（聞き手＝井上明人）「ゲームという戦場から見た世界――『MGS4』という挑戦」 </a></li>

<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/senoue/2006/10/test.html">FPSと殺人技術</a>(瀬上梓ブログ)</li>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050320">　ところで優良なものの根拠というのは何なのでしょうか。</a> 2005-03-20 
<br /> →コメント欄への応答<a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050323#p1">　「暴力」の概念がいいかげんなのではなかろうか、という話。</a> 2005-03-23 
<br />　　　　　　　→<a href="http://www2.odn.ne.jp/~aac26670/_diary/200503.htm">外部コメント１：ZOEさん（2005年3月23日）</a>
<br />　　　　　　　→<a href="http://homepage3.nifty.com/cafe-in-the-junkyard/archive/2005-03.html#a24T1727">外部コメント２：Tatsukiさんコメント</a>
<br />→　<a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050405">ZOEさんとTatuskiさんのコメントについて</a>　2005-04-05 
<li>関連１：<a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050416">デーヴ グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』</a>
<li>関連２：<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/07.html">森昭雄『ゲーム脳の恐怖』生活人新書(NHK出版)</a></li>
</ul>


<h3 id="senoue">瀬上ブログより</h3>
<ul>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/senoue/2007/01/post.html">作品の網をめぐる快楽</a></li>
</ul>
<h3 id="yonejima">米島ブログより</h3>


<ul>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/yonejima/2004/03/test2.html">デクリメントゲーの興隆！とその理屈。</a></li>
</ul>


<h2 id="talk" >対話</h2>

<p>仮想人格同士のゲームについての対話。→ [ <a href="http://www.critiqueofgames.net/about/faq/">仮想人格に語らせている理由</a> ]</p>




<p><a href="http://www.critiqueofgames.net/2007/04/mgs_1.html">●メディアミックス、容れ物の魔力 </a></p>
<ul>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/2007/04/mgs_1.html">#01～黒田硫黄 そのうちゲームの話～</a></li>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/2007/04/_02.html">#02～二ノ宮知子『のだめ』　まだ始まらないゲームの話～</a></li>
<li>
<a href="http://www.critiqueofgames.net/2007/04/_03.html">#03～日常性 もうそろそろゲームの話～</a>
</li>
</ul>



<p><a href="http://www.critiqueofgames.net/2007/01/rpg.html">●ゲームにかかる、この長い時間について。</a></p>

<p><a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/009.html">●物語ゲームにおいて物語とは何か(書きかけ)</a></p>

<p><a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/001.html">●松野(泰己)さんの話から</a> 約20000字</p>
<ul>
<li>1 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/001.html">プレイヤーの意識と主人公の意識</a></li>
<li>2 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/001_2.html">「他者」の存在</a></li>
<li>3 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/001_3.html">ゲームの批評に関する一つの方向性</a></li>
</ul>
<p><a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/002.html">●プレイヤーの感性</a> 約7000字</p>
<p><a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/003.html">●ゲームというメディア　＃１</a> 約15500字</p>
<ul>
<li>1 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/003.html">おっさんに見せたいゲーム</a></li>
<li>2 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/003_2.html">シムシティ、ゲームの強み</a></li>
<li>3 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/003_3.html">二重創作性、自律性</a></li>
<li>4 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/003_4.html">ジャンル分けをするということ</a></li>
<li>5 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/003_5.html">評価制度、ルール、インタラクティビティ</a></li>
<li>6 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/003_6.html">解釈が多様なのではなくて</a></li>
</ul>
<p><a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/004.html">●禁欲的娯楽</a> 約7500字</p>
<p><a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/005.html">●ドラゴンクエスト</a> 約27000字</p>
<ul>
<li>1 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/005.html">ドラクエファンクラブ</a></li>
<li>2 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/005_2.html">視点の重層化</a></li>
<li>3 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/005_3.html">生活の場</a></li>
<li>4 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/005_4.html">生活の積み重ね</a></li>
<li>5 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/005_5.html">世界の広さ</a></li>
<li>6 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/005_6.html">名前を覚えること</a></li>
<li>7 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/005_7.html">アフォーダンス・デザイン</a></li>
<li>8 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/005_8.html">見つめ返してくるもの</a></li>
<li>9 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/005_9.html">三種類の視線＋１</a></li>
<li>10 <a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/005_10.html">最後に</a></li>
</ul>
<p><a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/006.html">●クソゲーの定義</a> 約1000字</p>
<p><a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/007.html">●ゲームに悪影響はあるか</a> 約15500字</p>
<p><a href="http://www.critiqueofgames.net/talk/008.html">●ゲームのいくつかの目標</a> 約3000字</p>
 <!--<br />　　　9.ゲームは芸術か 
<br />　　　10.ゲーム内広告 
<br />　　　11.和製RPGにおける手法 
<br />　　　12.思考ルーチン、プログラム、人工生命 
<br />　　　13.人工世界 
<br />　　　14.ゲームの批評用語 
<br />　　　15.物語の存在 
<br />　　　16.制御不可能な他者
<br />17.目的という大問題
<br />18.自由という問題
<br />19.ゲームと身体
-->











<h2 id="review" >作品評</h2>
<p>
<a href="http://www.critiqueofgames.net/text/05.html">非力であること</a>　：　lack of love (Dreamcast)
<br /><a href="http://www.critiqueofgames.net/text/04.html">ネジタイヘイはこの世にいない</a>　：　Roomania#203(Dreamcast)
</p>






<h2 id="book" >ゲーム関連書籍の書評</h2>

<p>
<br />　下記掲載以外では</p>

<ul>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/archive?word=%2a%5bbook%5d">はてなダイアリーの[book]カテゴリー一覧</a>や、</li>
<li><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A2IB1XMR2K45LZ?ie=UTF8&sort_by=MostRecentReview">amazonでのhiyokoya6名義での投稿レビュー一覧</a></li>
</ul>
<p>
のほうで、こちらに掲載していないものがあります。
</p>
<p>
<br />　　　□　－　ビデオゲーム関連
<br />　　　★　－　遊び論関連
<br />　　　☆　－　その他の参考になりそうなもの。主題は違うが言及の多いもの。
</p>

<p>
<br />□　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/01.html">桝山寛『テレビゲーム文化論』</a>　講談社現代新書　2001
<br />□　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/02.html">田尻智『新ゲームデザイン』</a>　エニックス　1996
<br />□　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/03.html">滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン』</a>　青春出版社　1999
<br />□　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/04.html">永田泰大『ゲームの話をしよう』</a>　アスペクト　2000
<br />★　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/05.html">ロジェ＝カイヨワ『遊びと人間』</a>　講談社学術文庫　1990(1958)
<br />□　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/06.html">桝山寛『テレビゲーム文化論』 再考</a>　講談社現代新書　2001
<br />□　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/07.html">森昭雄『ゲーム脳の恐怖』</a>　NHK出版　2002
<br />□　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/08.html">田尻智『パックランドでつかまえて』</a>　ファミ通Books 2002(1990)
</p>

<h3>未読・あるいは寸評のみ</h3>

<p>★　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/s01.html">西村清和『遊びの現象学』</a>　勁草書房　1989
<br />★　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/s02.html">Ellis, Michael J.、森楙[ほか]訳『人間はなぜ遊ぶか : 遊びの総合理論』</a>　黎明書房　1985
<br />☆　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/s03.html">M・チクセントミハイ『フロー体験　喜びの現象学』</a>世界思想社
<br />□　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/s04.html">中沢新一、竹田青嗣 、遠藤雅伸他『電子ゲームの「快楽」』</a>日本ソフトバンク　1989
<br />☆　東浩紀『動物化するポストモダン』講談社現代新書　2001
<br />□　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/s06.html">山下恒男『テレビゲームから見る世界』</a>ジャストシステム　1995
<br />□　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/s07.html">相田洋『新・電子立国　４　ビデオゲーム・巨富の攻防』</a>日本放送出版教会（ＮＨＫ出版）　1997
<br />★　<a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/s08.html">高橋たまき・中沢和子・森上士朗 『遊びの発達学－基礎編－』</a>培風館
<br />★　ホイジンガ 里見元一郎訳『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ選集１　河出書房新社　1989(1938)
<br />☆　M・チクセントミハイ『楽しみの社会学』新思索社
<br />□　西村清和『電脳遊戯の少年少女たち』講談社現代新書　1999
<br />□　中沢新一「ゲームフリークはバグと戯れる～ビデオゲーム『ゼビウス』論」『現代思想』Vol12-6,1984
<br />□　深谷昌志・深谷和子編『ファミコン・シンドローム』同朋舎出版　1989
<br />□　多摩豊『コンピュータゲームデザイン教本』ビジネス・アスキー　1990
<br />□　デヴィッド・シュフ　篠原慎訳『ゲーム・オーバー-任天堂帝国を築いた男たち-』角川書店　1993

<h3>関連ページ</h3>
<p>[ 当サイト（Critique of games）内のコンテンツ ]
<ul>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/../data/booklist_date.html">ゲーム関連書籍リスト</a>：650冊を網羅的にリスト化しました。とにかく数だけは多いです。
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/book_review/../data/statistics/booklist.html">ゲーム関連書籍　集計</a>：650冊のリストから、ジャンル×時系列でクロス集計表をつくり、検討しています。
</ul>
<h3 style="border-bottom:solid 3px black;">[ 外部リンク ]</h3>
<ul>
<li><a href="http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/sawa/gamerep.html">ゲームを語ろう ゲーム関連文献＆データ</a>：主に論文を中心に紹介しています。
<li><a href="http://homepage3.nifty.com/rhythmsift/pceside/column/cindex.htm">workshop</a>：書籍の他にも、論文・雑誌記事について寸評とともに紹介されています。
<li><a href="http://www.intara.net/book/">インタら.net ビデオゲーム関連文献リスト</a>：100冊程度について寸評があります。
<li><a href="http://www2.wind.ne.jp/yamaha_matsu/">Zer0 Create</a> : おそらく日本で一番攻略本を集めている方ではないでしょうか
</ul>


<h2 id="others">その他</h2>
<h3>論文など</h3>
<ul>
<li>　ビデオゲームの議論における「ゲーム性」という言葉をめぐって
<br> <small> －雑誌『ゲーム批評』を中心にその使われ方の状況を探る－  2003/1 (卒論)</small>
<br />→ <a href="http://www.critiqueofgames.net/paper/gamesei.html">htmlファイル</a>, <br />→ <a href="http://www.critiqueofgames.net/paper/gamesei.pdf">pdfファイル</a>
<br />→ <a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A1%BC%A5%E0%C0%AD">要約した、はてなキーワード「ゲーム性」</a>
<br />　　　　　　　　　※更新履歴 "hiyokoya"の部分が井上による文章<small>（「はてな市民」のみチェック可能）</small>
</ul>

<h3 class="border">バカゲー紹介</h3>

<ul>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/baka/003.html">ゴーストバスターズ</a>
</ul>
<h3 class="border">各種のログ</h3>

<ul>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/mt/">はてなログ（ミラー。サイト内検索で拾うために。2006年12月まで。）</a>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/diary/index.html">2003年12月までのログ</a>
<li><a href="http://muchan.net/diary/a_inoue/">旧日記システムmuchan.net</a>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/bbs/index.html">掲示板ログ</a>

</ul>
<h3 class="border">他サイトに掲載されているもの</h3>

<p>下記掲載以外の仕事については<a href="http://www.critiqueofgames.net/about/work/">仕事一覧</a>に掲載しています。</p>

<h4>書きました。</h4>
<ul>
<li><a href="http://www.glocom.ac.jp/j/chijo/text/2006/12/game_devolution.html">『智場108号』ゲーム・デヴォリューション</a></li>
<li><a href="http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/2006/07/17.html">『情報通信ジャーナル』 オンラインゲームの現在 ―拒否されるゲームジャーナリズム―」</a></li>
<li><a href="http://commonsphere.jp/game/index.php?%A5%B2%A1%BC%A5%E0%B8%A6%B5%E6%A4%CE%B8%BD%BA%DF%2F%C2%E8%B0%EC%B2%F3%2F01">「commonsphere.jp」「ゲーム研究の現在」</a></li>
</ul>

<h4>対談しました。</h4>
<ul>
<li><a href="http://www.glocom.ac.jp/j/chijo/text/2006/12/kawabata_yamane.html">『智場108号』 川端裕人×山根信二×井上明人対談「ゲーム，ハッカー，インターネット」</a></li>

<li><a href="http://www.glocom.ac.jp/j/chijo/text/2006/11/game_study.html">『智場108号』 伊藤憲二×井上明人対談「発展するゲーム学」</a></li>



</ul>

<h4>インタビューしました。</h4>
<ul>
<li><a href="http://www.glocom.ac.jp/j/chijo/text/2006/06/rmt_park_sangwo.html">『智場107号』 パク・サンウ氏インタビュー「ゲーム／物語／RMT」聞き手：東浩紀＋井上明人</a></li>
</ul>

<h4>インタビューされました。</h4>
<ul>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/otaku_interview/20060804">「我が糧は空想なり」井上明人インタビュー</a></li>
<li><a href="http://squarehaven.com/news/2007/05/27/Akito-Inoue-jp/">「Square Haven」　井上明人</li>
</ul>

<h3 id="hateq" style="border-bottom:solid 3px black"><a href="http://q.hatena.ne.jp/hiyokoya/questionlist">はてな人力検索</a>よりの抜き出し。</h3>

<p>「教えてgoo!」「OK Wave」「知識plus」のようなサービスである、はてな人力検索でいろいろとゲーム関連の質問をしています。
<br />答えていただいているのは、はてなにご登録のみなさまです。
<br />　→<a href="http://q.hatena.ne.jp/hiyokoya/questionlist">hiyokoyaさんの質問履歴一覧</a></p>


<h4>ゲームの概念はどう認知するのか</h4>
<ul>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1153306006">MMORPGをご老人に説明してみてください。</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1153305737">『ドラゴンクエスト』をご老人に説明してみてください。</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1149608313">『スーパーマリオブラザーズ』をみたことのない人に説明してみせてください。</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1149585555">『テトリス』をみたことのない人に説明して見せてください。</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1123429255">ゲームをやっている人にならばすぐに通じるのに、ゲームをやってない人にはとっても説明がしにくいような話は？</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1123420447">あなたがゲームのコトバを知ったのはいつごろ、どういうきっかけによるものですか</a></li>
</ul>

<h4>ゲームの概念を説明するか</h4>

<ul>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1157193678">セーブデータを人に上書きされ怒りを別種の怒りに例えてください</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1123378733">「自由度が高い」と思うゲームを5つあげ、どのような点に対して「自由度が高い」と思った（感じた）のか</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1123379897">「ゲーム性が高い」と思うゲームを5つあげ、どのような点に対して「ゲーム性が高い」と思った（感じた）のか</a>
<br />　　　関連１：<a href="http://www.critiqueofgames.net/paper/gamesei.html">　ビデオゲームの議論における「ゲーム性」という言葉をめぐって</a>（卒論）
<br />　　　関連２：<a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A1%BC%A5%E0%C0%AD">はてなキーワード「ゲーム性」</a>
<br />　　　　　　　　※更新履歴 "hiyokoya"の部分が井上による文章<small>（「はてな市民」のみチェック可能）</small>
</li>

</ul>

<h4>日常生活としてのゲームとの関わり</h4>
<ul>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1123745591">家族・友人がゲームをやっているところをあなたが見ているときに起こった印象的な事件</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1123352935">ゲームをプレイしなくなってから生活の上で生じた変化</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1123350786">ゲームをプレイするようになってから生活の上で生じた変化について</a></li>
</ul>

<h4>未来のコンピュータ・ゲーム</h4>
<ul>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1154615359">50年後の未来のコンピュータ・ゲームについて</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1154615775">1000年後の未来のゲームを想像してみてください。</a></li>
</ul>

<h4>ゲームシステムの起源（個別に）</h4>
<ul>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1139890750">MMORPGの「結婚システム」の起源は？</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1134712394">RPGの「時間制限イベント」の起源は？</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1126895395">「強くてニューゲーム」の起源は？</a></li>
</ul>

<h4>ゲームと現実の死―「不謹慎」ゲームとシリアスゲーム―</h4>
<ul>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1158313224">コロンバイン高校の銃乱射を扱ったゲームについて</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1130167033">9.11を扱ったゲームについて</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1130060296">アメリカ陸軍による、軍勧誘＆教育ゲーム"America's Army"の反応。</a></li>
</ul>

<h4>ゲーム関連リンク</h4>
<ul>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1139890516">MMORPG考察ページのおすすめリンク。</a></li>
<li><a href="http://q.hatena.ne.jp/1139378552">韓国ゲームリンク。</a></li>
</ul>

<hr size="1">

<p>　記事の評価についてははてなの被ブックマークあたりを参照していただければ。
<br />　→<a href="http://b.hatena.ne.jp/entrylist?sort=count&url=http%3A%2F%2Fwww.critiqueofgames.net">Critique of Games内</a>
<br />　→<a href="http://b.hatena.ne.jp/entrylist?url=http%3A%2F%2Fd.hatena.ne.jp%2Fhiyokoya%2F&sort=count">はてなダイアリー内</a>
<br />なお、<a href="http://www.crtiqueofgames.net/data/index.php">各種資料(wiki)</a>の記事は含みません。 
</p>


<p align="right">[ <a href="http://cog.sakura.ne.jp/mt/mt.cgi?__mode=view&_type=entry&blog_id=2&id=7&saved_changes=1">Edit</a> ]</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>このサイトについて</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.critiqueofgames.net/2005/11/post_3.html" />
<modified>2008-08-20T02:23:57Z</modified>
<issued>2005-11-21T21:38:54Z</issued>
<id>tag:www.critiqueofgames.net,2005://2.1</id>
<created>2005-11-21T21:38:54Z</created>
<summary type="text/plain">about</summary>
<author>
<name>AkitoInoue</name>
<url>http://www.critiqueofgames.net</url>
<email>cog_inoue@yahoo.co.jp</email>
</author>
<dc:subject>about</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.critiqueofgames.net/">
<![CDATA[<p>当サイトは、ゲームについての評論、研究などを行っているサイトです。</p>]]>
<![CDATA[<p>　下記、サイト管理人、サイト構成（サイトマップ）などの情報を記します。
<br />　なお、本サイトはサイト管理人の属する組織、研究会などの公式見解等とは関係ありません。あくまで個人のものであることをご了承ください。
</p>

<h4>サイトの構成</h4>

<pre>
■Critique of Games [ <a href="http://www.critiqueofgames.net ">http://www.critiqueofgames.net</a> ]

  -<a href="http://www.critiqueofgames.net/about">このサイトについて</a>
     -<a href="http://www.critiqueofgames.net/about/work">井上明人：仕事一覧</a>
     -<a href="http://www.critiqueofgames.net/about/schedule/">井上明人：スケジュール</a>
　-<a href="http://www.critiqueofgames.net/data/index.php">各種資料(Pukiwiki)</a>
     -<a href="http://www.critiqueofgames.net/data/index.php?%3A%A5%B2%A1%BC%A5%E0%C8%E3%C9%BE%CD%D1%B8%EC%BE%AE%BC%AD%C5%B5">ゲーム批評用語小辞典</a>
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     -<a href="http://www.critiqueofgames.net/data/booklist_date.html">ゲーム関連書籍リスト</a>
     -<a href="http://www.critiqueofgames.net/data/statistics/index.html">独自の統計資料　/　比較調査資料</a>
     -<a href="http://www.critiqueofgames.net/data/award_index.html">ゲームアワードについて</a>
     -<a href="http://www.critiqueofgames.net/data/ros/index.html">元Road of SQUAREコンテンツ一覧</a>
     - はてな人力検索 [ <a href="http://q.hatena.ne.jp/hiyokoya/questionlist">http://q.hatena.ne.jp/hiyokoya/questionlist</a> ]
　-<a href="http://www.critiqueofgames.net/entry">記事一覧</a>
     -<a href="http://www.critiqueofgames.net/entry/index.html#hatena">はてなよりの抜き出し。</a>
          -<a href="http://www.critiqueofgames.net/entry/index.html#hateda">はてなダイアリーより。</a>
          -<a href="http://www.critiqueofgames.net/entry/index.html#hateq">はてな人力検索より。</a>
     -<a href="http://www.critiqueofgames.net/entry/index.html#talk" >対話</a>
     -<a href="http://www.critiqueofgames.net/entry/index.html#review" >作品評</a>
     -<a href="http://www.critiqueofgames.net/entry/index.html#book" >ゲーム関連書籍の書評</a>
     -<a href="http://www.critiqueofgames.net/entry/index.html#others">その他</a>
  -<a href="http://www.critiqueofgames.net/link">link</a>
     - はてなブックマーク [ <a href="http://b.hatena.ne.jp/hiyokoya/">http://b.hatena.ne.jp/hiyokoya/</a> ]
     - はてなアンテナ [ <a href="http://a.hatena.ne.jp/hiyokoya/">http://a.hatena.ne.jp/hiyokoya/</a> ]
  -BLOG
     - はてなダイアリー( BLOG ) [ <a href="http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya ">http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya</a> ]
     - <a href="http://www.critiqueofgames.net/senoue/">blog || 瀬上梓</a> ※仮想人格による自作自演ブログ
     - <a href="http://www.critiqueofgames.net/yonejima/">blog || 米島芳紀</a> ※仮想人格による自作自演ブログ
</pre>

<h4>サイトの管理者について</h4>

<dl>
<dt><strong>井上明人 INOUE Akito</strong></dt>
<dd>1980年生まれ。国際大学GLOCOM研究員／助教。慶応義塾SFC研究所上席研究員(訪問) 2003年慶應義塾大学総合政策学部卒。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2006年より国際大学GLOCOM研究員。2007年より同、助教。また、2006年より、RGN（Research on Game design and Narrative＝コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会）を主催し、代表をつとめる 
<br />
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<br />
<br />　主な関連組織

<br /> → [ GLOCOM（国際大学グローバル・コミュニケーション・センター） ]（勤め先）
<br />　　　　<a href="http://www.glocom.ac.jp/">http://www.glocom.ac.jp/</a>(GLOCOM研究員 / 助教)
<br /> → [ RGN（コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会） ]
<br />　　　　<a href="http://www.glocom.ac.jp/project/rgn/">http://www.glocom.ac.jp/project/rgn/</a>　（RGN代表）
<br /> → [ DiGRA Japan(日本デジタルゲーム学会) ] 
<br />　　　　<a href="http://www.digrajapan.org/">http://www.digrajapan.org/</a>(お手伝い)
</dd>
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<p align="right"><br />
<br />[ 連絡先 ] （スパム除けのため画像です）
<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;<img src="http://www.critiqueofgames.net/images/gmail.gif" alt="メールアドレスは、ヒヨコヤ6アットマークジーメイルドットコムです。" />
<br />※　なお同姓同名の方が複数人いらっしゃるようです。</p>






<h4>よく読まれている記事</h4>

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<h4>サイトの経緯</h4>

<ul>
<li>2001末　サイト開設</li>
<li>2002　critiqueofgames.netにURL移転</li>
<li>2004　ケヒト氏によるサイト" Road of SQUARE"閉鎖につき、当サイト内にコンテンツ移転</li>
</ul>

<h4>瀬上梓と米島芳紀について</h4>

<p>実在しない人物です。（もしかしたら同性同名の方はいらっしゃるかもしれませんが、いずれも管理人の井上による適当な人物設定です。）</p>


<dl>
<dt>瀬上梓<br />　</dt>
<dd>上野千鶴子とか立岩真也とかが好きで、松野泰己が好きで、ひぐらしにもドはまりした、1981年生まれの大学院生。好きなメーカーは、強いて挙げればスクウェア・エニックス。80年代後半～90年代の国内コンシューマーRPGに費やした時間がとても長い。[ → <a href="http://www.critiqueofgames.net/senoue/2002/03/post_2.html">詳細</a> ]<br />　</dd>
<dt>米島芳紀<br />　</dt>
<dd>橋本治とかナンシー関とか、大貫卓也とか吉田戦車を尊敬していて、『塊魂』以上の傑作はもうあと当分は出ないだろうと思っている1979年生まれの（ゲームではない）クリエイター系。好きなメーカーはナムコとセガ、あと強いて言えばEA。そこそこ洋ゲーマーであり、FPSとRTSはそれなりに好きだが、MMORPGは微妙にダメ。最近、コンシューマーゲームしかやらない人とは話が合わなくなってきた。[ → <a href="http://www.critiqueofgames.net/yonejima/2002/03/post_1.html">詳細</a> ]</dd>
</dl>

<h4>余談</h4>

<p><B>* トップページの画像について</B></p>
<p>サイト管理人が議論をしたり、考えをまとめる途中で書き留めたメモです。
<br />リロードするたびに画像が変わります。</p>
<p><B>* 自宅のダンボールのやま。</B></p>
<p>自宅のダンボールの中に、こんなレアものが詰まってます。資料として利用したい方などいらっしゃったら、ご連絡ください。可能な範囲で対応します。</p>
<ul>
<li>ファミ通約18年分
<li>ファミコンソフトの説明書約750冊
<li>スーパーファミコンソフトの説明書約1400冊
</ul>
<p>あと、<a href="http://www.critiqueofgames.net/data/booklist_date.html">ゲーム関連書籍リスト</a>に挙げている本も5割以上はカバーしてます。</p>

<h4>旧サイトデザイン</h4>
<ul>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/geo_index.html">2002/1 - 2002/9</a>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/index.htm">2002/9 - 2003/9</a>
<li><a href="http://www.critiqueofgames.net/index_old.html">2003/9 - 2007/1</a>

</ul>

<p align="right">[ <a href="http://cog.sakura.ne.jp/mt/mt.cgi?__mode=view&_type=entry&id=1&blog_id=2">Edit</a> ]</p>]]>
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