『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡』滝田誠一郎
(2000年7月/青春出版社刊)

 ここ20年くらいのゲーム業界の歴史をまとめ、キーとなる開発者、担当者(遠藤雅信、宮本茂、西角友宏などなど…)にインタビューをとりながらスペースインベーダーやマリオやファミコンの登場した時期の状況などをリアルに再現しようと努めた一冊。
 書評というか、感想というような形になってしまうが、特に面白かったのは以下の二点。
 
 
(1)マリオの名前の由来
(P116)
ネーミング会議は、アメリカ任天堂が借りていた倉庫の片隅で行われた。と、そのとき、倉庫のオーナーが怒鳴り込んできた。倉庫の賃貸料の支払いが遅れていたからだ。
「そのオーナーの顔が『ドンキー・コング』の主人公そっくりだったんです」
倉庫のオーナーの名はマリオ・セガリ。彼が怒鳴り込んできたその瞬間、のちに世界中の子どもたちに広く親しまれることになるキャラクターの名前が「マリオ」に決まった。
 
(2)新しいものが出てきた時の周囲の反応。
 
 一般に、新しいものが出てくると周りがどういう評価を下していいのかわからない、という状況があるというのは知っていたが、この作品もあの作品もそうだったのか、というような驚きがあった。以下、引用。
 
●スペースインベーダーがわからない
(スペースインベーダーの開発者、西角友宏氏の発言)(P61)
「それまでのシューティングゲームは一方的に攻撃するばかりでしたから、相手が攻撃してくるゲームなんてみんな勝手がわからないわけです。ボーっとしている間にインベーダーに攻撃され、すぐにゲームオーバーになってしまう。それで発表会にきた業者さんなんかが怒っちゃったわけです。『何だ、このゲームは』と」
●ドンキーコングがわからない
(アメリカ任天堂、荒川實氏の発言)(P109)
「それまでのゲームといったら『ギャラクシアン』とか『レーダースコープ』とか、襲ってくる宇宙船を撃退するというようなものばかりで、『ドンキーコング』はそれらとはまったく違うゲームでしたから。ですから、どう評価していいのかわかりませんでした。正直いうと、これは売れないんじゃないかと思った」
 気の早い現地社員の中には『ドンキーコング』を目にした途端、転職先を探しはじめた者さえいたそうだ。
●スーパーマリオブラザーズへの反応
(宮本茂氏の発言)(P114)
「役員さんとか営業部長とかが途中で見にこられるんですが、『うーん、何だかなぁ――』という否定的な反応を見せる人のほうが多かったですね。ただ、社長(山内博)はパッと見ただけで『これはイケる』っていったんですよ。」

●それとこれは、この本からではなくて別のところからだが、似たようなこと、ということでついでに電撃オンラインの水口哲也&遠藤雅信の対談記事
http://www.dengekionline.com/soft/recommend/rez2/rez01.htm
から遠藤雅信氏の発言を引用。
「そうそう。『ゼビウス』のときは社長に見せて遊んでもらったんですね。かなり長い時間遊んでたんですけど、その後、"どうでした?"って聞くと、"ううん……"としか言ってくれなくて。"あれっ?"と思ったら、"とりあえず私がここまで時間をかけてプレイしたということで"って、それだけ言って帰っちゃった(笑)。自分では"それって良い評価なのかな"と思っていたんですけど、後で聞いたら、帰りながら一緒にいた役員の方に"おまえはどう思う? 俺にはよく分からない"って話されていたらしいです。"今までのゲームとなんか違うし、まあ良いか"って感じだったみたいですね。」
 
 
 わざわざ言うまでもなく、上に挙げられている「よくわからん」とのコメントをされた作品というのはいずれもTVゲームの歴史を大きく展開させていった作品ばかりで、今現在ならば誰もが「名作」として認めるゲームだし、決して難解だったりするような作品ではなく、きわめてわかりやすいルールのものだけ。当初こういうようなコメントがなされた、ということは人によっては少し信じがたいと感じるものかもしれない。
 こういった現象を指して「新しいものは理解されない」と言ってもいいけれど、「理解されない」というか「理解できない」という言い方の方がしっくりとくる(と思う)。それっていうのははじめっから否定的な態度でのぞんで「ハンッ、こんなのダメだよ」っていうよりも「うーん……申し訳ないがこれが面白いのかどうかオレによくわからない」と、そんな感じではないかと思う。別に新しいものを否定する気持ちはなくても、「今までの文法」がきっちりと体に染み付いている体にとっては「新しい文法」って今ひとつパッとなじまない。それは自分もしばしば感じることだけれども、「うーん、このソフトは面白いのかな……?」というコメントしか最初にはでてこないことが少なからずある。例えば『伝説のオウガバトル』をやった時もはじめはそんな感じがした。
 で、以下、新しい作品と出会った時の反応の類系というのをちょっと作ってみた(誰でも思いつくようなものだけれども)
 
 
 
 
[1]今までの評価軸、今までの文法の立場から否定してしまう。
 
 「これはコレコレこういうことをやるものだ」という意識が非常に強力で、どうしてもそのベクトルでものごとを計ってしまい、「なんだこれは、今までのより全然面白くないじゃないか」となってしまう場合。本人は正当に評価を下しているつもりでも実際は先入観にしばられた保守的な感性でしかないことも多い。(だけれども、本当に誰がやってもつまらない場合もあるので判断は難しい。)
 
[2]新しいものだといことはわかるが「理解できない」
 
 もう一歩寛容になって「ああ、今までのとは基本的に違うんだね。別の感覚でやらなきゃだめだね」となってもやっぱり旧来の作品からの先入観というか、面白さの類型をひきずってしまっている状態をいかに捨てきれるか、というところで「うーん、つまらなくはないのかもしれないけれど、今ひとつ楽しめないのだよなぁ…何故だかわからないのだけれども」
(自分の場合は『クレイジータクシー』がそんな感じだった。楽しいのかもなぁ、というのはなんとなくわかるんだけど、「車を走らせる」というとどうしてもレースゲームのような類のストイックな走り方のほうがどうも体に染み付いていて…)
 
[3]新しいものを「理解できた」
 
 特にそれまでの文法、旧来の評価軸が体に染み付いていない人は、新しい楽しみを得るために、わざわざそれまで評価軸を体から洗い落とす必要もないのでけっこうすんなりと面白がったりできることが多い、というのはよく知られていること。
 だが、これを旧来の楽しさの感覚が体にがっちりと染み付いている人がやるとなかなか難しい。人間的な素質というのもあるのかもしれないけれど、旧来の感覚というのをパッと無視できるかどうか、ゲーマーじゃない人よりもゲーマーの人のほうがそういうのって厳しいのではないか、と思う。「ゲーマーが保守的だ」とかって非難するのではなくて、「どうしても保守的になっちゃう」存在なんじゃないだろうか。
 
 
 
 今、書きながら思った。
 でも、どうなんだろう、「面白さを正当に評価していない」というような言い方とかっていうのがしばしばクリエイターの側から繰り返されることがあるけれど、面白さを正当に評価するだなんてことがそもそもできるのか、ということもあるし、面白いと感じられなかった人にとってはやっぱりその作品は面白くないものなのではないだろうか。
 もしゲーマーが保守的だ、というのが「今のゲーマー」に固有の現象だというのではなくて、ゲームをやりこんでいったら必然的に大半の人がそのようにならざるを得ないものなのだとすれば、「今のゲーマーは保守的でいかん」とか言って愚痴っているのはあまり問題をきちんと見据えているとはいえないということになるのではないだろうか。
 「ゲーマーはそもそも保守化する」ものだし「今現在、どんどん保守化していっているもの」ということを前提としたところで、その「あたりまえの保守化」に対して何かを仕掛けていかなければならないのではないか。それは単にグチっているだけではあんまり意味がないのではないか。
 
 先ほどの同じ対談記事からまた引用しよう。水口哲也氏の『Rez』に対する発言。
 「……結局、映画にしても音楽にしてもゲームにしても、確かに時間を消費するモノだけど、じゃあ"なんでゲームをしたいのか"、"なぜ映画を見に行きたいのか"、"どうして音楽を聴きたいのか"っていうと、"自分の感覚を育てたいから"、"自分の中に新しい感性を発見したいから"と思って手を出すというパターンだと思うんです。そういう意味では、この『Rez』が何らかの役割を担えるんじゃないかなとは考えています」
 この発言だけで水口哲也という人はなかなかすごいな、と思う。「なんで理解してくれないんだ」とかって泣き言を言っているのではなくて、むしろ理解してもらえるようにプレイヤーの側の感性を「育ててゆく」あるいは「発見させ、引き出させてゆく」という、そういうことを常に目論んでいかなきゃ、恒常的に繰り返されていく(のではないか、と思われる)保守化の波の中をうまくのりこえていくことはできないのではないだろうか
 もちろん、旧来の感覚を引きずっていくことの乗り越えはプレイヤー自身によってももう少し認識されてもいいだろうし、批評をする立場の人間はそれができなきゃ話になんないだろう。何にせよ、グチを言っているだけでは何もはじまらない。

 
 
   (なんか後半、本とは全然関係ない話になってしまった……)
 
copyright(C)Akito Inoue 2002.3.9