カイヨワは20世紀フランスの思想家。社会学、哲学、文化人類学などに業績を残している。ゲームに関する議論で主に扱われるのは1958年に出版された『遊びと人間』である。カイヨワの議論の対象はフランス語における遊び"Jeux"についてであり、「ゲーム」についての議論ではない点に注意を払いたい。
*定義 [#g4b4d967]
『遊びと人間』の中でカイヨワは以下の6つの要素により「遊び」を定義した
1.自由な活動
2.隔離された活動
3.未確定の活動
4.非生産的活動
5.規則(ルール)を持った活動
6.虚構の活動
*分類 [#r3533f78]
その定義の上で、カイヨワは「遊び」を、
1.競争(アゴン)、2.運(アレア)、3.模擬(ミミクリ)、4.眩暈(イリンクス)
の四つの基本要素によって分類可能であることを主張した。
*カイヨワをめぐる誤解 [#y4d8231b]
ゲーム関係の議論だと以下の図がしばしば、不用意に引用される。
だが、それは日本のコンピュータ・ゲームの論者の不注意だといっていい。実はカイヨワ自身の作った構図ではなく、翻訳者の多田道太郎が、ホイジンガの発想を借りながら独自に図式化したものに過ぎないので、以下の分類図は日本でしか流通していない。そもそも、カイヨワの4分類において用いられる四つの遊びの類型は、イメージこそわきやすいが遊びを要素として抜き出したものであって、網羅性とは結びつかないのだが、日本では''カイヨワの分類が網羅性を持つという勘違い''が(特にゲーム関係の文脈では)広くひろまってしまっている。
意志
↑
競争│模擬
ルール←──┼──→脱ルール
運 │眩暈
↓
脱意志
意志
↑
脱 競争│模擬 脱
所 計算←──┼──→混沌 自
属 運 │眩暈 我
↓
脱意志
もちろん、これはこれで、分析概念として面白くもある。だが、「A/非A」の構造を持つ対立項に、「B/非B」の二つをかけあわせてれば、なにをどうしようが網羅性は確保されるのであって、「A/非Aという構造が網羅性を持つ」というのは発見でもなんでもない。(たとえば、「全ての空間はトイレとトイレでない空間に分類される」という分類であっても空間についての分類としての網羅性を持ちうる)
問題は、A/非Aの境界を引くことによって何が明らかになるのか、ということである。
*分析 [#ya4cb7d1]
カイヨワの分析対象は、遊びそのものではなく、『遊びと人間』というタイトルからもわかるように、遊びが人間社会の形成にとっていかに影響しているのか、という点である。
そこでカイヨワは人間社会は「遊び」という変数をもとに人間社会を次のようにマッピングしてみせる。
-アゴン-ミミクリ型の遊びの発達した社会
-アレア-イリンクス型の遊びの発達した社会
こうした比較や、相互関係を通して「遊び」という変数が社会にどのような影響を与えているのかを考慮してゆく。
*ルドゥスとパイディア [#hb98e42b]
「ルドロジー」の研究文脈では、アレア、アゴン、ミミクリ、イリンクスではなく、カイヨワの提示した概念の中でも「ルドゥス」と「パイディア」という分析概念のほうが主に使われる。
ルドゥスとは、形がはっきりとしたルールなどもある程度まで確定的な遊びのことであり、パイディアとは、子供の遊びのような比較的縛りのうすい遊びである。
分析のしやすさ、という点からゆくとルドゥス的な遊びのほうが、パイディア的な遊びよりも、分析の俎上に載せやすく、『Rules of Play』などでもそういった形の遊びが中心的に扱われている。
*批判 [#q0ceb9f6]
カイヨワへの批判は数多くある。「遊び」の概念的分析の妥当性に関する批判としては、たとえば、ジャック=アンリオ『遊び』(白水社、1986)などを参照のこと。
遊び論に関しての発展や、先行研究についての紹介としては、山田敏『遊び論研究』 (風間書房、1994)や、高橋たまき・中沢和子・森上士朗『遊びの発達学−基礎編−』 (培風館、1996)などを参照のこと。
その他、参考文献についてはhttp://www.critiqueofgames.net/data/booklist_date.htmlを参照。
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参考:ロジェ=カイヨワ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学術文庫
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-記事[[:井上明人]]
-カテゴリ[[:概念]][[:人名]][[:研究者]]