Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―

ビデオゲームをめぐる問いと思索 http://www.critiqueofgames.net/


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*ゲームとして取り扱い可能な形式 [#k9c4373e]

 ゲーム内において愛情、友情、忠誠心など、あるいは人気、魅力、正義心、等々そういったものを有機的な形(動的に変更可能な形)で表現しようとすると、魅力値がいくつなのか、とか「好き」のフラグがたっているか、とかどういう属性に属しているのか、とかそういう形での表現に落とし込まれざるをえない。
 当然、それを複雑化していけばかなりいろいろなものができるのだが、複雑化をしていくというよりも、あらかじめ用意されたテキストや条件制限などを使っていかに単調さをごまかし、隠蔽していくか、というやりかたの方が一般的である。

*数、でしかないということ [#k5b3d869]

 ゲームがいくら感動的であっても、所詮、数値化可能なもの/反復可能なものだろう、ということに気づくと多くのプレイヤーは醒めてゆく。
 代表的なのが、恋愛シミュレーションゲームでの「フラグ」だろう。
 恋愛シミュレーションゲームで、特定の異性が、主人公を好いてくれるかどうかというのは、フラグが立つかどうか、ということにかかっている。そもそも主人公を好きになるというフラグが用意されていない、異性にいくら執着したとしてもフラグが存在しない異性は好きになることはない。また、どんなに特定のキャラにアタックをかけたとしても、フラグの立つポイントを抑えているかどうか、ということが最大の問題となる場合が多いので、そこのところのあまりにデジタルな感触に萎えてゆくプレイヤーが多い。

 一方で、こうした感触が逆輸入し、現実の恋愛でも「あの子、オレにラブラブになるっていうフラグが立ちそうだYO!」といった会話をするゲームプレイヤーも少なくない。

*「数」であることの恍惚 [#pea9b2d2]

 一方でゲームのコミュニケーションが「数」であることに対する恍惚を表明するというゲームプレイヤーもいる。もっとも自覚的に宣言しているのは、アマチュアゲーム作家の「porn」氏だろう。
 http://f8.aaa.livedoor.jp/~sanctuar/text/thought.html

>>>もしわたしが『ディスプレイ上に表示されたゲームの主人公の所持金は現実の貨幣に劣るであろうか?』と問えば、あなたが正常な思考の持ち主であったならば、寝言は寝て言えと一笑に付すだろう。なるほど、その反応は正しい。韓国のネットワークRPGのキャラクタや武器が高額の現金で取り引きされたという“事件”を考慮に入れても、今のは愚かな問いであったと認めよう。なぜなら今このテキストが刻まれている七重に仮想化されたフィールドにおいてさえ、基底現実という名の暴帝が振りかざす影響力は強く、根深いのだから。 

>>>あまりに再現クオリティの高い仮想世界を見てしまったがために、主人公が現実と仮想の区別を失ったことを『悲劇』あるいは『バッドエンド』として描くことで暗に“現実寄り”の価値観を読者に強制しようとする物語を非難したところで、この現状が覆るわけでもない。仮想は現実を越えられない。それは認める。ならば我々の目的は、これを否定することではない。 

>>>しかしながら、人間の認識はこの物質世界ほど強固ではない。巨大なディスプレイをガラス窓と見まがうことはあるし、フィクションとそうでないものを混同することだってある。カルト問題や仮想現実物語の使い古されたテーマではそれは危険な落とし穴として扱われるが、我々はそこにこそ、新たな世界を切り拓くチャンスを見る。RPGでもいい。カードでもいい。麻雀のようなテーブルゲームでもいい。まるで現実の自分の預金残高のようにその数値を愛した心理状態とサイコロの偶然とが創り出した一瞬に、一度でも奇蹟を感じたことがあるなら、そして再びそれに手を伸ばそうと思うのなら、あなたは我々の同志だ。 

>>>その瞬間は聖域だ。“感じた”という一点においては確実に事実だ。どんな現実も手出しはできない、完全に自由な精神領域だ。その尊い奇蹟を、今一度再現したい。生涯を費やして求めるだけの価値が、その黄金にはある。これは妄想ではない。思想である。その実現を求めるための議論と実験の反復なのである。 

>>>―――定式化された闘争のなかで汝、数を愛求せよ。