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ビデオゲームをめぐる問いと思索 http://www.critiqueofgames.net/

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2005年11月17日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ワンダと巨像しつもん。

ワンダと巨像

ワンダと巨像、クリアーしますた!

 そしてせっかくなので、↓こんな質問をしてみましたので、みなさまふるってご回答くださいまし。

http://www.hatena.ne.jp/1132173606

最近発売されたPS2ゲーム『ワンダと巨像』についての質問です。

■1.レビューサイト(ex: http://psmk2.net/)や 個人サイトでの『ワンダと巨像』の評判(参考 http://d.hatena.ne.jp/keyworddiary/%a5%ef%a5%f3%a5%c0%a4%c8%b5%f0%c1%fc#keyworddiary)などをたくさん読んでください。

■2.そして、そこに書かれた感想をあなたなりの基準で二種類以上に分類してみせてください。「肯定派/否定派」とかでもいいですが、できればもうちょっと工夫して、「<感動>メインの感想 / <面白かった>メインの感想 / <分析>メインの感想」などちょっと小細工を弄していただければなお良いです。

■3.あなたにとってどのタイプの感想がいいと思ったのかを選んでください。できればそう思った理由を教えてください。

【質問の狙い&注意】みなさんがどのような形で感想を分類してみせてくれるか、そしてそれをどのように理由付けて肯定したり、否定したりするか、という点に興味があります。質問者である私の要望に沿っていない回答はポイント対象外となりますのでご了承ください。

 さしあげられるポイントはせいぜい「うまい棒」が何本が買える程度かと思いますが…

2005年11月06日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

近況

勝手ながら今週半ばまでは、死ねるスケジュール進行なので申し訳ありませんが仕事以外ではあまり応答できない予定です。返信等必要な方はまったりとお待ちいただければ幸いです…

2005年11月04日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ゲームの「定義」をめぐる立場

http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/comment?date=20051102#c

のhallyさんのコメントに対する応答です。

 私もhallyさんやjuul氏の立場をまだまだ理解・整理できていないと思います*1ので、お互いの立場を手探りしていくように議論につきあっていただければ幸いです^^

1:立場について

 まず、「定義できる/できない」というのではなく「定義することの意味をどこまで、どのように重視するか」というのがhallyさんと私の差異ではないでしょうか。私は定義そのものが無用だ、とは思っているわけではありません。

2:境界設定の問題について

 そのような立場の違いが生じる理由は、hallyさんの言うように「境界領域」の問題にどのようなスタンスをとるのか、ということにかかってくるかと思います。この「境界領域」の問題を大きく

 A.範囲設定の問題:どこまでが、どの程度「ゲーム」か?

 B.中心設定の問題:典型的な「狭義のゲーム」は何か?

 という二つに区分けして考えてみると、Juul氏の議論は、[A]範囲設定の問題に対しては「ゲーム」を構成する要素を分解しつつその組み合わされ方を立体的に提示してみせることによって見事に回答し、網羅的な定義になりえていると思います。単に網羅的であるだけの定義は「広義の定義」というだけに過ぎませんが、ボーダーライン・ケースの内側/外側というような段階的なイメージをしてみせることによって、ただの「広義の定義」というレベルを超えるものになっているところがJuul氏の定義の卓越した点かと思います。

 ですが、[B]中心設定の問題についていえば、Juul氏の定義では、これを回避することができないのではないでしょうか。チェスや野球などの古典的ゲームをを典型的なゲームとして捉えた場合と、日本で人気のあるような物語メディアとしてのゲームのようなものを典型的なものとして捉えた場合とではそこから見えて光景へ違ってくるものになるはずです。

『クエイクIII』、『エバークエスト』、チェッカ、チェス、サッカー、テニス、『ハート』、ソリテア、ピンボールはゲームであり、『シムズ』や『シムシティ』といった無期限シミュレーションゲーム、ギャンブル、完全確率ゲームはボーダーライン・ケースであり、交通、戦争、ハイパーテキスト・フィクション、フリーフォームな遊び、薔薇の花輪づくりは非ゲームである。

 という境界設定をJuul氏は行っていますが、これは彼の仕事を成立させるために必要な記述であると同時に、限界を設定するものでもあります。この[B]の問題をクリアーしようとした場合には、Juul氏のような精緻な議論によって境界例を探っていくような方法よりも、もっと別の一行ぐらいでできてしまうような「コンピュータを用いてディスプレイから映る映像との間にインタラクションを計れるもの」だとか「勝ち負けのあるもの」だとかといった緩い定義が価値を持つ場合もありうるだろうと考えます。(後述)

3.「よい定義」とは何か

 そもそもこのような議論をする前に必要となる前提を確認させていただきたいと思います。「ゲームは定義できない!」というラディカルな立場をとらないことを前提*2とした上で「よい定義とは何か」という議論について、Juul氏は

1.「ゲーム」であると事前に想定したものに対してきっちりと網羅性を持つこと。

2.境界例の内側/外側がきちんと存在すること

3.境界例がなぜ境界例であるのか、という点について理解させてくれること

 という三点を挙げて、定義に対する評価基準としています。

 また、Salen&Zimmerman[2003]は、英語において"play"と"game"という言葉の区分があるということをきっかけにして、その両者の差異をうまく設定できるようなものが"game"のよい定義なのではないか、と言っています、

 Juul氏の定義もZimmermanらの定義も自ら課した課題に対してはうまくクリアーするような定義を提出しえているとは思います。そして、そうした形での定義に対する評価基準を設定しておけば、定義を行った後に、単に定義をしただけではなくそれについての評価をしてみることも可能になるという意味で評価基準を設定しておくことは必要なすぐれた戦略です。

 しかし私が問題としたいのは、Juul氏やZimmermanのように、「定義に対する評価基準」を何らかの方法で用意した場合に、それが普遍的な評価基準として機能するのかどうか、ということです。Juul氏の定義が良い定義といえるかどうか、という議論をしようとしたとき、それがJuul氏の前提とするような評価基準をもとにしていう限りでは、Juul氏の定義はすばらしい定義だと思います。

 だけれども「<定義>というのはそもそも何のために必要だったのだろうか?」という問いが忘れられてしまうと、せっかくのJuul氏の議論が片手落ちになってしまう可能性を予感してしまいます。

 「定義とは何のために必要なのか」

 この問いに関してとりあえず答えるとすれば、厳密な議論をしたいとき――たとえば、論文を書くときや、多くの人の誤解を与えないようなものを書く必要にせまられたとき――に、「私が議論の対象としたいものはこういうものですよ」と、議論の対象を明示してみせるときに定義というのは必要とされるものだと考えています。*3

 このような観点に立った上で改めてJuul氏の定義を評価するとすれば、Juul氏がゲームの対象として設定しているようなものを論じたい場合にJuul氏の定義は使える定義だと言えます。私も今後は、Juul氏が対象として設定したようなゲームを対象として論じたい場合には、「Juul[2003]を参照」という言い回しをぜひ毎回使わせていただきたいと思います。その意味でJuul氏の定義はとても「使える」定義です。

 Juul氏の定義よりも他の定義がよい場合というのも考えられます。たとえば、桝山寛『テレビゲーム文化論』での「ゲームとは何か」という問いに対する答えは、<「相手をしてくれる」メディア>というものでした。桝山氏の議論の視野は、この後にゲームの議論をAIBOなどのコミュニケーションしてくれるゲーム以外のメディアへと接続されてゆくことを目的としています。「コミュニケーション・メディアとしてゲームを評価をする」というような発想に立つならば、<「相手をしてくれる」メディア>という定義をもちこんだほうが、議論の全体的な視野をよくするために、Juul氏の定義よりもよく機能するものだといえるのではないでしょうか。むしろ、ここでJuul氏のような定義を前提にしてしまうと、桝山氏の論旨が、不明瞭になってしまうだろうと思います。


4.諸芸術の定義は確立されてきたか?

 この話もたぶん、私なんかより、よっぽど詳しい人がガリガリいると思うので微妙におそれつつ書きますが…

id:hally

多くの芸術・芸能は境界領域の問題を抱えながらも定義を確立させてきた

 これは私の認識とは違います。

 確かに、多くの芸術・芸能は境界領域の問題を抱えていることを前提にしつつ定義をつくるという営為をやってきました。ですが、同時に現代芸術は芸術の定義を崩すような、「芸術の意味そのものを問う」というメタな水準での何かをやろうとする世界でもあります。よく知られたもので言えば、マルセル・デュシャンがそこらへんのトイレをもってきて展覧会に出品した『泉』のような作品をはじめとする、メタ・アート的な作品*4が当然のようにみなされている世界です。

 分析美学の西村清和氏の言葉を引用すれば「こんにちのアートの、あまりで多様な錯綜したさまざまな現象のあいだに、これらをひとつの定義によって包括するような共通の特性や本質をさがしもとめようとすれば、ひとはたちまち困惑してしまうだろう」(『現代アートの哲学』1995)というのが、現代芸術の現状かと認識しています。

 ただし、こういう話をしても仕方のない空間というのが一方ではあります。実際には美大ではデッサンの授業があったり、ハリウッドの映画学校ではシナリオ作成技術のイロハを教える授業があるでしょう。「よい美術作品であることとデッサンの技術とは一欠けらの関連もない」ということを断固として主張する人は、デッサンの授業にいかなる価値も認めないはずです。今現在、美大でデッサンの授業というものが行われている前提には<美術作品の水準>が、<デッサンの技術>と相関している/あるいは相関可能だ、という認識が少なからず存在しています。

 このような授業が行われている現状を取り出すのならば、諸芸術が「定義を確立させてきた」とまで言わないまでも、諸芸術が自らの扱う範囲に一定の前提を置いていることは事実でしょう。そしてまた、一定の前提を共有することによって諸分野が発展してきたのも事実だと思いますし、そもそも何かしらの前提を共有していなければメタ・アート的な性質持つ作品そのものが成立しないということも指摘できます。

 このような議論の上で、Juul氏やZimmermanらの議論がいかなる意味で必要なのか、ということを考えてみることもできると思います。Juul氏やZimmermanらの議論は、メタ・ゲーム的な作品までを問うという視野によって、議論をしようとしているのではないということはおそらく明らかです。Zimmermanは著書の中でも自分を「アカデミシャンではなく「実践」の側の人間だ」と言っていますし、彼らは自らが仕事をしていく前提を作る上で必要となる議論をしているのだろうと思います。つまり、美大でデッサンの授業をするまえに前提となる認識が必要であるように、市場に売り出していくためのゲームを製作していくための前提となる認識を丁寧につくりあげようとしているのが、Juul氏やZimmermanたちなのだろう、と。

 繰り返しになりますが――Juul氏やZimmermanらがそのような立場にたっていることを、彼らの「限界」として見出すことは可能です。だが、それよりも特定の立場を明確にしていくことが可能な彼らの議論は、技術をより精緻に深めていくための強みとしても機能するものだろう、という観点にたつこともできます。彼らの議論が精緻であることのすばらしさは評価されてしかるべきだと考える私の立場は、結局はhallyさんをはじめとする多くの方と近いところにいるものだと思っています。

*1:が、以下の議論では勝手にJuul氏の立場を憶測した上で議論しますが…

*2:注釈「2」の部分でヴィトゲンシュタインに言及。ヴィトゲンシュタインは言語の使われ方が、社会的な営みの中で調整され、変容していくものだという観点から定義することの不可能性を論じた。興味のある人は「言語ゲーム + ヴィトゲンシュタイン」あたりでググると乙。あるいは「ヴィトゲンシュタイン+探求」「ヴィトゲンシュタイン+後期哲学」

*3:もちろん、別の回答もありうるでしょう

*4:ゲームの世界で言えば、美大出身の飯田和敏による『太陽のしっぽ』はまさにそのような文脈において提出されています。元美大生だったid:TRiCKFiSHは、『太陽のしっぽ』において「目的の不在」が自覚的に盛り込まれたゲームである論じ、メタ的にゲームを問うものとして高く評価しています。もちろん、このような評価は別の文脈においてはガリっと逆転して『超クソゲー』という大ヒットした本の中で『太陽のしっぽ』はクソゲー=面白くないゲームとして位置づけられています。

2005年11月03日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

DIEC2005

昼夜逆転気味の生活を送っております…

にしてもこれは遠いすな…

http://www.arc.ritsumei.ac.jp/DIEC2005/

2005年11月02日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

”The Game, the Player, the World: Looking for a Heart of Gameness” (2003)

id:hallyさん

デンマークのルドロジストであるジェスパー・ジュール氏が執筆した、ゲームの定義の決定版ともいえる論文 "The Game, the Player, the World: Looking for a Heart of Gameness" (2003) を翻訳しました。

さすがhallyさん、えらい…えらすぎる…

http://www.jesperjuul.dk/text/gameplayerworld_jp/

hallyさんおよび、ジュスパー・ジュール氏に深い尊敬の念をこめて、一通り読んでみてのコメントをさせていただきます。

1 基本的な立ち位置について

 まず、前からたまに言っている通り「ゲームの定義」に対する私の基本的な立場というのは、「定義単体を提示されても、定義の良さを評価することは不可能」というものです(定義が不要だ、というわけではなく)。その私自身の路線に従うと、ジュスパー・ジュール氏の方向性とは基本的な立場の違いというのを、まず確認しなければなりません。

 ただ、そのような立場上の違いというのがあるにせよ、ジュスパー・ジュール氏の議論は大変興味深く感じられるものでした。一言で言うならば、日本ではグレッグ・コスティキャン氏の議論として深く親しまれているものをより精緻化させ、多様な要素の組み合わせとして広義のゲームモデルと狭義のゲームモデルを段階的/立体的に論じていくというものです。

 これは、ジュスパー・ジュール氏自身が述べているとおり、コンピュータ・ゲームのみをモデル化したものではなく、古典的なゲームモデル全体にさかのぼって定義しようとこころみたものですが、このような射程において「ゲーム」を整合的に捉えようとする立ち位置としてはかなり水準の高い議論であるというのはhallyさんとまったく同意見です。

 先に述べた、私の立場は「定義単体を提示するだけでは定義そのものの評価はできない」という立場は変わりませんが、―――「定義」というか、ゲームとはどういうものかという精緻な「モデル」を素描してみせることには、一定の応用価値はあるだろうと思っています。たとえば、そうして精緻に描かれたゲームのモデルを読者に提示することによって、読者が対象に対するより多様に開かれた、そしてキメ細やかな認識を得る手助けになるのならば、そのモデルは二次的に価値を持つのかな、と思います。

 なので、この話をゲームの「定義として優れている」と言われてしまうと、抵抗を感じるのですが、「説明モデルとしての応用可能性が高いモデルだ」とかと言えば、私みたいな立場の人間にもアピールできると思われますので、ちょっと論文の立ち位置そのものを少しズらしてみてはいかがでしょう、と思いました…が、それは英語で書かなければもちろん著者には伝わらないのですな…

2 細かいツッコミ
  • ホイジンガが参考文献に上がっていて、英語版の文献の出版年が1950(1944)と書いてありますが、これって原書は1938年では? (あと、カイヨワの本について、後ろの参考文献ではちゃんとかかれてますが、表では1961年と書かれてますが原書は1958年ですね。)
  • カイヨワの話として、「未解決事項」というチャプターの「分離と非生産性:対価交渉の可能な結末」においてカイヨワ批判がなされていますが、これは多少読者の側に注意が必要かと思われます。ジュスパー・ジュール氏はたぶんご存知だろうとは思うのですが、カイヨワについて批判する場合、カイヨワの議論の対象としている語彙が「game」ではなくて、フランス語なので「遊び」と「ゲーム」のまざったような概念になっている(はず)というのに頭をめぐらしておく必要があるかと思われます。ですので、"game"のモデルを描写するという立場からのカイヨワ批判というのは微妙にイケてないです。もちろん、カイヨワのモデルがあまし論理的に整合的でない、という批判そのものはジャック・アンリオをはじめ数多くの人がやっているところなので、整合性をつきつめたいノリで議論をしようする人にとって我慢ならない気分がしてきたりするのはとてもよくわかりますが(笑)
  • 2つ目に登場する表:多くの論者の論点を10項目に分類してみせた表ですが、これはちょっとまだ洗練させる必要がありそうですね。たとえば、「結果」の項に、「不確実(Cailois)」と「数値化可能な結果(Zimmerman&Salen)」がならんでいたり、「仕事でない」の項に「自由/自発的(Caillois)」と「娯楽(Kelley)」がならんでいたり、「フィクション」の項に「表現(Crawford)」と「安全性(Crawford)」がならんでいたりするのには、多少強引なものを感じます。並列の仕方が強引であること自体はかならずしも責められるべきものではありませんが、多少の強引さをはらむならば、その強引さを納得させてくれるだけのロジックを用意しておいてほしいな、と。
  • また、同じ表についてですが、「仕事でない」概念は、これ、ホイジンガ、カイヨワ系統の「聖なるもの」概念とかとも接続されてるんですよね。やっぱり、これはジュスパー・ジュール氏の"game"より射程が広いんです。ホイジンガに至っては、「祝祭」とかまで「遊び」の範疇に含まれているので、この「仕事でない」概念は「未解決事項」っていうか、「議論の対象が違うのでどうしようもないです。以上。」 で済ませていいのではないでしょうか。
3 この論文が画期的に面白いと思えた点

 モデルの素描以外では、「ゲーム実装とゲーム脚色」「コンピュータとゲームの親和性」というチャプターが大変に興味をひかれるところだったと思います。

 「ゲーム」という概念が遊具のようなモノに直接結びつくものではなくて、モノとは別のものとして「ゲーム」というものが存在している、ということを論じたうえで、

  • 1.演算処理: ゲームメディアがルールを維持し、プレイヤの入力によって何が起きるかを決定する方法。
  • 2.ゲーム状況: 現在のゲーム状況を絶えず管理するもの。
  • 3.インターフェイス: ゲーム状況にプレイヤが及ぼす影響の詳細度。たとえば「はい・いいえ」で選ぶだけなら1ビットになるのに対し、プレイヤ自身がゲーム状況の一部となる競技スポーツでは、影響は計り知れないほど詳細になる。

 の三つがゲームメディア(≒遊具)の持つ「ゲームをサポートする性質」として、描かれ、「このサポートする性質」との関係において、なぜコンピュータとゲームが親和性を持つのか、ということを説明しようとしてみせています。

 ここのところは記述があまり厚くありませんでしたが、モノと"game"との関係性/親和性をどうやらうまく描写できそうだ…!できるっぽい…!という雰囲気は研究をすすめていく方向性としてとても示唆に富んでいるように思えます。

 「なぜコンピュータというメディアがひろまるにつれて、これだけ多くのゲームが発案され、流通するようになったのか」

 というのは、コンピュータ・ゲームに関する問いとして非常に大きなものの一つだと思いますが、この問いに答えうるような説得力をもつ説明を提出しているのはこの論文の大きな価値だと思われました。

2005年11月01日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ダブルプレゼン終了

 先週金曜日のプレゼンに続けて、昨日も職場でプレゼンがあり、連続で1時間のプレゼン(合計2時間…)がありましたが、とりあえずこれでプレゼン週間が終了しました。

 いまさっき、友人から金曜の録音ファイルを渡され、…自分の「まぁ」「えぇっと」の多さに我ながら閉口してしまいましたが…聞いてくれたみなさんには申し訳ないです…もっと準備万端でのぞめるよう精進します…

 何かご感想などございましたら、またメールなりなんなりでお寄せいただければ。