広報です。
自分の職場で発行している機関紙でゲーム特集を編みました。
90ページにわたって、セカンドライフ、仮想世界、仮想経済、モバイルゲーム、ゲーム学の動向などを取り扱い、遠藤さんをはじめ、H-Yamaguchi.netの山口先生や、PICSY blogの鈴木さん、リヴァイアさんの川端さん、IGDAの新さんなど、ほか多くのキーマンといえる方々に話をしていただいています。2006年末現在の、ゲームにまつわる新しい動向をかなり幅広く紹介した冊子になったのではないかと思っております。
未入手の方はぜひどうぞ。
]]>GLOCOM機関誌『智場』108号「特集:ゲームデヴォリューション」発刊
機関誌『智場』108号が発刊となりました。 今号はゲームについて特集しました。年末のクリスマス商戦に向けてソニーのプレイステーション3と任天堂のWiiが相次いで発売され、マスコミ報道もスポットCMもいわゆる「ゲーム機戦争」一色で埋め尽くされている感があります。 GLOCOMでは早くから、ゲームが社会や経済において果たす役割、また、ゲーム上の仮想社会・仮想経済と現実との融合現象などについて注目し、本年4月から「コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会(RGN)」を開催するなど、日本におけるゲーム研究を先導してきました。そこに集った先鋭的な論客たちの視点からは、「ソニーvs任天堂vsマイクロソフトの『一人勝ち』を目指す最終戦争」というメディアが喧伝する集権的な動きとはまったく違ったものが見えてきます。 このようなゲーム世界の最新動向を一言で言い表すため、デヴォリューション(Devolution 分権・分化)という言葉を使ってみました。政治やWebなど他の世界でも繰り返されてきた集権と分権との相克について、様々な角度から迫っています。 ご高覧いただければ幸いです。
※智場は http://www.glocom.ac.jp/j/chijo/ からご注文いただけます。
また、一部の掲載記事も一部ウェブ上からごらんいただけます。
- [ 目次 ]-----------------------
【特集】 ゲーム・デヴォリューション
■ゲーム・デヴォリューション 井上明人
■メーカー・インタビュー
(プレイステーション3 (株)ソニー・コンピュータエンタテインメント
Xbox 360 マイクロソフト(株))
■拡がるゲーム世界
1[歴史]──黎明期からモバイルまで──
遠藤雅伸 聞き手:井上明人,森田沙保里
2[産業]──市場と開発体制──
新 清士 聞き手:井上明人
3 -Ⅰ[仮想世界]──『セカンドライフ』とは何か──
土居 純 聞き手:庄司昌彦,鈴木健,田熊啓
3 -Ⅱ[仮想世界]──ユーザーが創る世界──
三淵啓自 聞き手:庄司昌彦
4[コンテンツ]──ゲーム発キャラクタービジネス──
久保雅一 聞き手:森田沙保里,井上明人
5[仮想経済]──ゲーム内市場の現実化──
山口 浩+鈴木 健 報告:牛島正道,鈴木 健
6[シリアスゲーム]──手段としてのゲーム──
井上明人 報告:七邊信重
7[研究動向]──発展するゲーム学──(対談)
伊藤憲二+井上明人
特別鼎談ゲーム,ハッカー,インターネット
川端裕人┼山根信二┼井上明人
【IECPレポート】
■通識と智本 講演:公文俊平 報告:石橋啓一郎
■昨今の買収防衛事例に見る戦略的企業訴訟のあり方 講演:松山 遙 報告:栗澤哲夫
■企業経営に与える日本版SOX法のインパクト 講演:中島 洋 報告:濱田美智子
■日本型企業統治に適した内部統制を考える 講演:前川 徹 報告:濱田美智子
■着うたフル,iPod(iTunes Music Store)利用者動向について 講演:岸原孝昌 報告:石橋啓一郎
■日本のコンテンツパワー,新たなビジネスモデルの構築に向けて 講演:福冨忠和 報告:鈴木謙介
【ベストネットワーク研究会レポート】
■次世代ユニバーサル・アクセスの実現に向けて───「コミュニティ・レベルでの団体割引料金体系」の可能性
講演:友知政樹 報告:森田沙保里
正式版広報ではないですが、とりいそぎ
12月10日RGN#4「ゲームシナリオライターの眼(仮)」川邊一外氏・前田圭士氏・佐々木智広氏
東京六本木の国際大学GLOCOMを会場に開いているシンポジウム形式の研究会「RGN : コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会」ですが、次回12月10日(日)の開催が決定しました。
今回は茂内さんモデレートです。
]]>広報ダシマシター!
http://www.glocom.jp/event/modules/eguide/event.php?eid=1
2006-07-29
「プレイヤーという存在」― プレイヤキャラクター / プレイヤー圏 / ゲームからの逸脱 ―
◆第三回になる、RGN(コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会)では、コンピュータ・ゲームを行為する「プレイヤー」という存在に焦点を宛て、茂内克彦氏と、増田泰子氏の二名が発表を行う。
増田氏の発表は、前回の田中(hally)氏の発表において論じられた「動的にゲーム経験が変更される」という問題意識をひきつぐ。プレイヤーがゲームのルールに従属したり、あるいはルールを裏切っていくありさまを、サレン&ジマーマンの「Rules of Play」の理論を参照しつつ提示した上で、そういった行為が「プレイヤー圏」(安川一)に展開する過程を議論する。「プレイヤー圏」という概念によってプレイヤーが捉えられるとき、プレイヤーの行為は独立した存在としてではなく、他の多くのプレイヤーたちとのゆるやかな情報の共有を通してゲームをプレイしている。ゲームをプレイすることを、こうした社会的行為として捉えたとき、プレイヤーがゲームとどのように対峙するのか。そしてゲームという経験がどのようにダイナミックなものとして捉えられるのか。
一方、茂内氏の発表では、増田氏が「プレイヤーとプレイヤー圏」というマクロな関係性からのアプローチを行うのに対し、「プレイヤーとプレイヤーキャラクター」の関係性というミクロで基本的な単位に焦点をあてる。茂内氏によれば、プレイヤーキャラクターとは、プレイヤーがコンピュータ・ゲームをプレイするための重要なインタフェースとして用意されたものである。プレイヤーキャラクター(あるいはそれに類するもの)を抜きにして、コンピュータ・ゲームをプレイすることは不可能である。そして、そのような不可欠の装置であるからこそ、プレイヤーキャラクターとプレイヤーの関係性を論じることが、コンピュータ・ゲームを論じるうえで中心的な意味を持ってくるのだ、という。茂内氏は、『エースコンバット04』などの具体的なゲームを題材として取り上げつつ、現在にいたるまでのコンピュータ・ゲームがプレイヤーとプレイヤキャラクターの関係性を巧妙につくりあげることにいかに腐心してきたか、を議論する。
◆開催概要
7月29日(土) 於 国際大学GLOCOM
13:00~17:00
【場所】
http://www.glocom.ac.jp/j/access/
1.営団地下鉄 日比谷線「六本木」駅 下車 出口1cから徒歩7分
2.都営地下鉄 大江戸線「六本木」駅 下車 出口3から徒歩10分
3.都バス・都01あるいは渋88「六本木6丁目」 下車し テレビ朝日通沿いに徒歩5分
井上です。基本的に、サイトではあまり社会的な立場うんぬんで書かないようにしているのですが、ここのところ、こういう告知ばかりで恐縮です。。
さて、本日、東浩紀のBlogでも告知されましたとおり、東浩紀が国際大学GLOCOM副所長を辞任すると同時に、GLOCOMから離れることとなりました。
ご存知の方も多いと思いますが、去年(2005年)の7月から東浩紀は私の直接の上司であり、ご好評いただいております「コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会(Research on Game design and Narrative:RGN)」は、私が中心として動いているプロジェクトではありますが、東の後押しによって成立しているところが少なくありません。東がGLOCOMを離れることで、私の今後の立場や、RGNの活動内容にも多少の変更はあるかもしれません。しかし、
RGNそのものは問題なく存続される予定です。
そして、東がRGNに対して協力的な関係を保ち続けるという点にも変わりはありません。
次回、RGN第三回は、7月29日に、沢月こと、増田さんと、茂内さん(id:AYS)の二本立てを予定して準備しております。
前回までの議事録の文字起こしもちゃくちゃくと進行中です。
今後とも、よろしくお願いいたします。
]]>バタバタしててすみません
>みなさま
次回RGNどうにか予約開始しました...
http://www.glocom.jp/event/modules/eguide/event.php?eid=3
田中治久=hallyさんです。
]]>コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会:
RGN (Research on Game design and Narrative)
第2回「ゲームを再定義する~手続きとしてのゲーム~(仮)」6/3(土)
■発表者
田中治久(D4 Enterprise,id:hally) + 牛島正道(東京大学大学院 情報学環)
■発表予定内容の紹介
1.問題意識
2.ゲーム定義のこれまで
3.ジュールの批判的検討
4.提案:手続きとしてのゲーム
「ノミック」というゲームをご存じだろうか。ゲームルールにしたがってゲームルールを書き換えていくという、一風変わったテーブルゲームである。これはアメリカの哲学博士で弁護士でもあるPeter Suberが1982年に考案したもので、最初は29項目のプレイルールから始まり、プレイヤは投票によって新しいルールを加えたり、また既存のルールを変化させたりすることができる。規則に従わなければならないという規則をも、である。
「ノミック」のオリジナルバージョンでは、ゲームの勝利条件が設定されている。提案したルールが可決されれば10点加算され、最初に100点を獲得したものが勝利者となる、というものである。これはもちろん後から書き換えられたり削除されたりするかもしれないのだが、ともかくもゲームとしての体裁を保っていることは疑いない。しかし2003年にHatakeyama Masaomiが考案した亜種「ミニマムノミック」には、それがない。ゲームの達成目標は、プレイの途上においてプレイヤによって生み出される。もしかしたら生み出されないかもしれない。ゲームとして成立するかどうかは、プレイしてみるまで分からないのだ。「ミニマムノミック」はゲームになったりならなかったりするという、奇妙なシステムなのである。このようなゲームが存在し、かつプレイしうるという事実は、ゲームがあらかじめ固定されたルールシステムではなく、人間の営為のなかで動的に形成されうるものであることを示しており、既存のゲーム定義論に一石を投じる。
■日程
6月3日(土)
14:00~ 開場
14:10~ 第二回開催のごあいさつ(井上明人)
14:15~ DiGRA Japanについて(DiGRA Japan 理事 伊藤憲二)
14:30~ ミニマムノミック
14:50~ メイン発表1(hally)
15:35~ 休憩
15:40~ サブ発表
16:20~ ディカッション
16:50~ 休憩
16:55~ ディスカッション&質疑応答
17:50~ 会食会
19:00~ 懇親会
■場所
国際大学GLOCOM
http://www.glocom.ac.jp/j/access/
■登壇者(現時点の予定)
田中治久 (D4Enterprise,hally) [発表者]
牛島正道(東京大学情報学環大学院) [共同発表者]
井上明人(国際大学GLOCOM研究員) [司会、コメント]
中嶋謙互(コミュニティーエンジン、Gumonji)
+現在調整中
今月発刊の
ユリイカ 詩と批評 特集=任天堂/Nintendo →link
のほうに僭越ながら寄稿させていただきました(実名で)。
タイトルは「宮本茂をめぐって―コンピュータ・ゲームにおける作者の成立―」
内容にふれすぎない程度に紹介すると、
といったかんじのことをかきました。
宮本茂信者のテラヤマアニさんも寄稿すると知って、微妙におびえつつ。
]]>とりあえず、日程は、6月3日でほぼ決定しました!
決まるのが遅くてすみません、、、
発表者は予告どおりhallyさん+共同発表者として東大修士課程の牛島さんにやっていただきます。
あと、壇上に上がっていただくゲストとしてgumonjiの開発者である中嶋謙互さんをお迎えできる予定です。
詳細タイトル、アオリ文句等は今週中にはなんとか、、、
]]>9日は本当に多くのすばらしい方にお集まりいただきありがとうございましたー!
いやー、手伝っていただく方のツテも、各種広報もほとんど個人のお手製でやっていたので蓋を開けてみて超ビツクリした次第です。反省点も多くのこりましたが、精進していきたいと思いますので、今後もみなさまご来場いただければ幸いです。次回はゲーム論者の誰もがリスペクトするid:hally氏による発表を予定しております。詳細は決まりましたらまた広報ということで。
で、さて、
死の表現のエントリとあわせて、RGNに言及いただいたものをいくつかご紹介させていただきます。いい指摘たくさんもらったので、一つ一つにちゃんと応答しときたいんですがとりあえず、一ぺんにこれだけの量を処理する処理速度と時間がないので、まずは並べてご紹介まで。
韓国の偉大なるゲーム評論家パク・サンウ氏による論文レビュー。日本語の論文を送らせていただいたら、がっちり読んでいただいて、しかもこんながっちりコメントまでもらえるとは…ありがたすぎて恐縮しまいます。。。
But this article leaves something to be desired. First of all, it doesn’t touch the most important games, which deal the death in the revolutionized way. For example, it can be took [Planescape Torment], [Baroque] and [Go beyond my body!].
Also it doesn’t touch the death in MMORPG. In Korean MMORPG scene, the suicide of ‘Drakedog’ becomes the most famous episode. (You can see this episode in this site.) How can we explain the phenomena like this? And is there different between death in single game and death in MMORPG? Maybe these problems can be solved through the co-work of Korean researchers about MMORPG and Japan researchers about single game.
まさか、韓国の方から『バロック』をやっとけ!と薦められるとは思ってなかったです。前に一度やったことがあったのですが、改めてプレイしておきます。あと、他の事例についてもちょっとすぐにどれのことを指しているのかわからない事例もあるのですが、とりあえず入手するところからはじめます!
あと、MMORPGの死について考慮されていないという話は、RNGの当日もhallyさんからミス・ノルウェイの事例として提示されましたが、ここらへんの話もぼくの弱いところで面白そうな部分ですねー。
あと、MMOにおける死の話として単にインターネットの話としてではなく、ゲームにおける死としての特性を端的に語っている名文だと思えるものが、篠房六郎『ナツノクモ』(P23-P24)にあって、引用すると、
- ところで君はどう思う?特定のプレイヤーを殺したり、消滅させることについてだ。
- そんな事を、どうして?
- 何、心理的にどのくらいの影響があるかと思ってね。
- ―――そうですね。結論から先に言えば、前者はゲームで、後者は只の作業です。外装が生きている状態でPCが接続を切った場合、外装は接続していたボードからただログアウトするだけです。体力が0になった場合、外装は死亡状態になりますが、PCはステータスの低下と引き替えにいつでも復旧することが出来ます。問題は死亡状態でPCが接続を切った場合です。その場合、外装は2分間でそのデータを全てを失い消失します。PCは殺されたところでたいした事はないのですが、消滅させられれば取り返しがつきません。殺すか殺されるかは純粋にゲームの腕の競い合いですが、「仕事」ではあくまで標的のPCの消滅を狙う以上、その後の作業もまた必要になる訳です。
- ―――作業?
- ゲーマーの間では、拷問と呼ばれています。そういうのにはあまりお詳しくないようですね。
- ―――ああ、それで。
- つまりは、殺されたPCも消滅するのは嫌ですからその場で復活し続ける。消滅させたいほうは相手が諦めて接続を切るまでずっと殺し続けるって状況が出来る訳です。その殺し続けることを称して拷問と言うんですよ。どのくらい忍耐力があるかっていうだけん、只のつまらない単純作業に過ぎないという訳です。
当日、せっかく壇上にあがっていただいたにも関わらず、ぼくの圧倒的な不手際によって、本来コメントしていただくはずであったはずの内容をこちらでコメントしていただいてしまった、沢月さん。。。
今回は、せっかくお呼び立てしたのに、最後にきちんとしゃべるディスカッションの時間がさっぱり足らず本当に申し訳ありませんでした。。。
要するに、ゲームで作家性を論じるには限界がある。それがゲームを論じる難しさの一つなのだろう。
だれかが死ぬ場面を描かなければ「死の物語を経験させる」ことができないとは限らない。死ぬ場面の描写がなくても「死の物語を経験する」ことはできるだろうし、それがゲーム固有の表現として立ち表れることは十分に可能だと思う。
たとえばアトラスのRPG「 BUSIN」(PS2)。主人公は仲間と協力し、人助けをしつつ事件を解決していくかに見える。だが実際に主人公がやっていたのは、とうに死んでしまった街で、死による終わりを迎えられなかった人々を正しい神のもとに導くことだったということが、終盤に明らかになる。主人公があがくのは生きようとしてではなく、仲間を助けようとしてでもなく(なぜなら、仲間は既に死者だから)、仲間や人々のライフストーリーを終わらせるためだった。直接死ぬ描写がなくても、進むほどに重苦しくのしかかってくる死の重みを感じるゲームだったと思う。
dotimpactさんレビュー。
感想への応答は個人的にメールしましたが、ほとんんど言い訳がましいものになってしまったので。。。もっと、きっちりとしたコメントをあらためてさせていただきたいところです。
ゲームにおける死はその複数性(ルール)や固有性(物語)そのものではなく、その二つのレベルの(ゲーム作者による)操作と対比において、そのリアリティ(あるいはそこにある限界)が浮かび上がるものである、という主張は十分可能だろうとも思えました。ゲームはプレイヤーに、ある立場を与え実際に手を下させることができ、そのプレイヤー自身の体験は覆せないとすれば、ルールや物語のレベルでは隠蔽されてしまう、たとえば「死」を、プレイヤー自身の体験によって担保する形式というのはゲームにはありえるのではないでしょうか。井上さんが発表で例示された(詳細は伏せる)「いままでプレイヤーが『倒した(殺した)』と考えていたものにある時点でプレイヤー自身がなり代わり、まったく同じルールで倒されて(死んで)しまう」というような表現は、ゲームが原理上死を記号的に扱わざるを得ないという限界に拮抗するものになりえるはずだと僕は考えます。
こちらも全体的にいい指摘。さまざまなコンテクストを参照しながら話がすすむので、いろいろなコンテクストも同時にわかって、おもろい。
それと、dotimpactさんのコメントにもありましたが、プレイヤー/プレイヤーキャラクターといった 要素に着目しつつ期待の裏切りなどの問題について言及していく方向性を示唆していただいくことが多いのですが、これってやっぱり『ポートピア殺人事件』あたりのころからずーっとある話なので「裏切り」だけで話を整理してみるというのも面白いのかもなー、と最近思ったり。
あと、コメンテーターのハマノくんからコメントあったとおり、物語/文学の区分についての議論の混同みたいな部分も多くの方にツッコんでもらいました。いや、まーこれは本当にそのとおりだと思うので、どうにかしたいですねー。
あと、
tdaidoujiさんのコメントではゲームバランスの話を「フェア/アンフェア」という区分けによって語っているのもいい議論のたてかたですね。
ゲームにおけるフェア、アンフェア、すなわちゲームバランスという話になる。ゲームとしてフェアであることを尊重するほど記号性は高まり「死」は遠ざかる。「強いリアリティを持った死の表現」を求めるてのは、制度を、システムを、ゲームであることを破壊することに他ならないわけで。
ゲーモクさんからは、コメンテーターのid:AYSさんからの発表にもあった、『アウターワールド』の事例よりもさらに、キターーー!雰囲気のする『ウイザード・オブ・イモータル』についてご紹介。
死んで死んで死にまくらなきゃ乗り越えられないのに、セーブはフロアごとでしかもパスワード制、コンティニューは回数制限ありという厳しいゲーム内容を目の当たりにすれば、今を精一杯生きることの大切さを嫌でも考えさせられるだろう。トラップだらけでクリアもままならぬダンジョンはままならぬ我が人生と重なり、ことあるごとに無惨な死に様をさらす主人公は明日の我が身としか思えない。ゲームの死はリセットできる言うけれど、じゃあリセットを繰り返せばクリアできるとでも言うのかよ馬鹿野郎。
終わった後に気づいたという、id:SiFi-TZKさん。よろしければ次回はどうぞ。
FFの野島氏と植松氏が「人の死を扱いたい」「人の死なないゲームがいい」という正反対な発言をしていた対談が思い出される
おおー、これはすばらしい。ネタ元どこだったか探しときたいですね。
実は会ってみたら、前から顔を知っている人だったということが判明したid:Dryadさん。
今回のぼくの枠組みを、リネージュ2の事例に適用して論じることを試みていただいております。
- ゲームの世界観を元に、「死の固有性」を中心としたシリアスな物語として再編する。
- 上記の公式ストーリーなど。戦闘シーンは、必ずしもゲームの仕様に忠実ではない。
- 「死」は登場人物の持つ背景ストーリーの中でのみ語られ、戦闘の結果として死人が出ることが徹底的に回避される。
- 「お約束」に沿った、ゲーム的な戦闘シーンの描写。
- ゲーム世界においては「死の複数性」を前提としつつも、「ゲーム内のキャラクターを操作する現実のプレイヤー」を物語世界の範疇として取り込むことにより、ゲーム世界における「死の固有性」を担保する。
- プレイヤーがゲームを継続する意欲を失ったり「現実に死亡」することにより、ゲーム世界におけるキャラクターは「真の死」を迎える。
急用でこられなくなったid:work_memoさん。アルフレッド・シュッツ「多元的現実論」から、UOやPSOの事例にまで言及しつついろいろな話を列挙していだだきましたー。言及のあったもので未読のものはなるべく読んでおきまする。
シュッツというのはそーいう社会学者がおりまして、「多元的現実論」ちゅーことを言ってたりするのです。第二次世界大戦後くらいだったか。んでどーいう話かっつーと、もともとシュッツの問題関心としては科学論なんですが、日常ぽけらーと生きている自分を振り返ってみると、現実構成の様式が変容してる時、リアリティがちょいズレてる時がある。代表例として挙げているのが「夢」とか「科学的思索」とか挙げてまして、シュッツは挙げてませんがコンピュータ・ゲームとか本読むとかメディア経験なんかも大多数ソレにあてはまると思うんですけど、とりあえずべたーっと同じ「日常」が続いているんじゃなくて、それぞれ自律したルールを持つ現実ちゅうのがちょこまかとあって、んでその中に他者と出会い相互行為をしていく「至高の現実paramount reality」ちゅーのがあり、その場その場で主体が現実として生きているという意味では各「多元的現実」は対等なんだけれど、至高の現実はそれらに卓越してるんだみたいなことを言っていたような前世紀のうろ覚えな記憶なのです。
じゃあなんで至高の現実は至高なのかっつーたら、シュッツは明示してはいないのでよくわからんのですが、一つはそこで死ねるから。『アヴァロン』は、セピアソフトフォーカス気味の「ゲーム外の現実」と、やっぱりセピアの「ゲーム内の現実」が交互に描かれていくんですが、「ゲーム内の現実」からさらにもう一段入った「裏モード」に突入すると、それはフィルターをまったく通さない、現実のポーランドの都市の描写になってるわけです。おそらく、主人公のアッシュより観客の方が軽くぶたまげるのですが、そこで結局アッシュがなにさせられるかというと、字義通りのネトゲ廃人としてリアルでは病院で介護されている昔の知り合いと「なにがリアルなのか」をめぐっての対話と殺し愛。「ゲーム内現実」ではCMとかで流れていたように、3Dで逃げまどっていた人々(基本的には実写をコンピュータ処理してると思うですが)が、一瞬静止して、2Dの薄い板に描かれたような絵にそのまま変化し、ついでそれが飛散するという描写がされているのですが、「裏モード」で殺された死体はどーなんのか。それが「このモードがリアルなのか非-リアルなのか」の最終的な試金石となるわけですみたいな。
死んで肉体が腐っていくのはリアルのみ。死して屍拾う者なし。
また、こんどお会いできる日を楽しみにしております。
歴史的に遡ると「ゲームにおける死」なんてのは「試合における負け」とか「鬼ごっこにおいてタッチされた」くらいの意味しかそもそもはなかったわけで,そんなところに過剰に思い入れるのはそもそもナンセンスじゃねーかなーと思ってしまうのですよ.
こちらはRGN当日のツッコミだと、hallyさんの前半部のつっこみに近いですかね。ナンセンスじゃん!と思ってしまう感覚が成立するというはまったくそのとおり。ぼくの立場は、その感覚がごくふつうなものであることを前提としつつも話をするみたいな感じでしょうか。
あとこちらからも大変いい指摘が。
しかし、それなのになぜかわれわれはゲームから倫理的なものを受け取りうる。しかもそれは普通考えられているようにストーリーを通じてだけでなく、ゲーム性によって表現される次元においても、われわれは倫理的なものを受け取りうるのだ
まったくその通りですね。完全同意。
で、最後に。こちらは全然別の視点ですが、いろいろと当日中すばらしいコメントをいただいた伊藤憲二さんから。ゲームを「研究」と言う視点から語ることについてのこれまたすばらしいエントリ。泣ける!っていうか泣いた!
そもそもゲーム研究者がゲームについて独占的に語る権威を持つということ自体が幻想なのである。ゲームについて語る権利は誰にもであるべきだ。ただ、そのなかに色々な種類のものがあるに過ぎない。ゲーム研究者のゲームについての分析が、一プレイヤーのゲームについての洞察より優れていると考える理由はないし、さらに言えば優れている必要すら必ずしもない。アカデミズムのなかでなされた分析は他の場所(たとえば2ch)でなされた分析とは別の機能を果たすというだけのことである。
とりあえず、研究会おわって体がヒーヒーいってるので、FF12をクリアーまでプレイすることを当面の目標にして生きていきたいと思います。
]]>日曜の研究会の申し込みをしたあとに、懇親会の参加の意志のある、なしを伝えていない人はおはやめにー。
あと、参加者がだいぶ増えてきたので、事務方で手伝ってもいいヨ!という人がいらっしゃったら、ぜし!いまのところ、応対等もすべて僕が日常業務のあいまに一人でまわしている状況なので。。。いろいろと対応がヘタレた感じなるかしれませんので、何か忘れてるようだったりしたら、つついてください。
それと、あと、日曜はドアが閉まってるのでなるべく時間までに来ないと会場に入れないおそれがありますので、開始後1時間とかにいらっしゃる方は、休憩時間までまってもらうことになるかもしれません。ご注意ください。
]]>テンパりつつも逃避する井上です。
9日の研究会関連の話題で。死の表現に関するネタとして人とだべっていて、「手塚は死のリアリズムにむきあっていた、とかって話があるけど、手塚にとっての<死の表象>つっても実は手塚ってダークな死の欲望というか、なんか、人間狩りとかそういう死の話を書くのが大好きな人でもあるよね」とかそういう話を今日の晩飯くいながらしてました。
そんなわけで以下、晩飯での話+ちょっと発展版。
手塚の死の表現に関して話すとそれこそ、死ぬほどネタがあると思うんですが、話していた人は順当に『ブラック・ジャック』とかがいいよねと。ぼくが特に思い出したのは、手塚中期の傑作『人間ども集まれ!』。
なぜに『人間ども集まれ!』がいいのかというと、あれって性の話でもあると同時に、死の話でもあって、大量にひとが死んだりするのをガンガン描く話なんですよね。手塚にとって、差別と人間狩りみたいな話を書いた比較的初期の傑作と言う点では『ロック冒険記』とかもすばらしいといえばすばらしくって、『ロック冒険記』は、「鳥人間」という亜人種の宇宙人をガンガン殺して奴隷化して狩っていく話なんですよ。だけれどもあそこで描かれる人間狩りの問題というは、どちらかといえばアウシュビッツ的な記憶の再生産に近い。差別という問題の枠組みの中で描かれる悲劇の問題だと思うわけです。だけれども、『人間ども集まれ!』における「人間狩り」の問題が決定的に新しいと思えるのは、そこで「戦争ゲーム」というものをイベントとして興行してしまおうという話が盛り込まれていることなんですね。
この作品中で語られる「戦争ゲーム」というのはネタとしては本当にいまでも斬新だと思うのですが、たしかにそもそもは、亜人種に対する差別問題と言うのを発端にはしています。だけれども、ここでは「人間狩り」の問題が単に差別の問題じゃなくて、快楽の問題として提示もされるわけです。それは、「戦争ゲーム」イベントの興行屋の書いていたパンフレットか何かにでてくるんですけれども、「戦争こそが最大の娯楽なんだ」というようなことをものすごく自覚的に言って見せる。悪魔のような所業をなす興行屋がそういうことを言うわけです。そこでは、それこそ「リアルな死」があり、同時に「数字的にカウントされていく死」もあり、「快楽としての殺人」も全部一挙に混在しているんだ、と。
で、そうした、「死」のありようを「娯楽」として眼差す視線が世界には強力に成立しうるんだ、ということを手塚は示すわけです。リアルな戦争のゲームを、「イベント」として開催されうるのではないかという想像力を提示して見せることで、単に死がリアルであるとか、リアルでないとかゲーム的である云々という批判とはまったく別の水準において、われわれは人の「死」をめぐる事態を娯楽として楽しんでしまうのだという、死と快楽の問題をものすごく明瞭に提示してみせる。
それはもちろん単純には肯定できるようなものではないけれども、逃れられないものである、として提示してみせる。
そんなわけで手塚の「死」をめぐる表象はブラックジャック的に、(こんなことを言ったら叱られるかもしれないけれど)、ある意味ベタに、死をめぐる倫理を扱うような方向性を描く。それと同時に、「死」をめぐる倫理が決定的に崩壊する世界も描く。手塚が「死のリアリズムを描いていた作家だ」という言うとき、それは手塚が、個人個人の換えがたい生命を丁寧に描く作家だという意味での「死のリアリズムを描く作家だ」というような議論は、非常に一面的なものでしかなくて、「個人の死のリアリティというものが失われるリアリティがありうる」ということを描くことについての情熱を持つ人だったという意味において、手塚の描く死のリアリズムとはリアルだったのだと思います。そして、それが十全によく描かれているのが『人間ども集まれ!』という作品だったのではなかろうか、と。
そういえば、これに似た話として、おととしから僕がものすごくプッシュしている『City of God』というリオデジャネイロのスラム街という社会を描く話があるんですが、同じくブラジルのスラム街的なものの延長にあるブラジルの刑務所を描いた『カランジル』という映画をみました。『カランジル』は一人一人の囚人の生き様を丁寧に描いて、それが大量虐殺されたという実話(?)を描く話でテーマ自体は大変に重い話だったのですが、『City of God』と比べると別にこれといって、「いい」思えなかったも同じ理由であるような気がします。
死の表象というのが、単に個々人の尊厳をリアルに描いたものであってもそれはものすごく不謹慎な言い方になるけれども、「ベタ」といえばベタで、実はそういう死はもう描かれすぎてきたといってもいい。『City of God』がすばらしさを僕は前に「『蠅の王』の実話版」という言葉でいっていたのですけれども、それは何かといえばまさに死の固有性のリアリティが崩れる世界を説得力をもって描いていたことです。
そこでは実は人種差別だとかそういうタイプのありがちな道具立てすらない。僕らは人種差別とか、そういうものはとりあえず捨て去った―――とか、そういうことになっているけれども、そういう典型的な種類の「人間」を「非人間」として扱う概念装置である「差別」とか「戦争」とかというものから逃げ去ったとしても、まだ。それでもまだ、固有の死のリアリティとかいう言葉で呼んでいるものが崩壊する瞬間を迎えてしまいうる世界がある。それは圧倒的な日常の中にある。
そういう形の恐怖を、まさに現在のブラジルのスラム街という場所から描きえていたという点において『City of God』は圧倒的に傑作だったと僕は思っているのだと思います。
で、これまで描いてきた話は人間であるはずのものが、非人間化されて死が快楽として機能してしまったりする瞬間があるよね、と。だいたいそんな話でした。*1
「人間が、非人間化される」という世界。
これはでも、一般的な小説とか映画の物語の世界だとこれを描くことが一つの重大なテーマになりえたりするわけですが、ゲームだとこの話は実は逆転してしまう。
なぜか。
理由は明確で、はじめからゲームにおいてはNPCとかモンスターというのは、ものすごく非人間的なものとして配置されているからですね。別にそれを殺すことにためらいを覚えるゲームプレイヤーはものすごく少ない。だけれども、だからこそ、逆説的にここで問題になるのはものすごくベタな固有の死を描くということになるのかもしれません。
つまり、小説や映画においては「人間の非人間化という恐怖」を、人間的なものが非人間的なものになってしまう瞬間を描くことで表現する。だけれども、ゲームにおいてはそもそも登場するキャラクターたちは、はじめからものすごく非人間的な存在として成立している。だからこそ、ここで必要とされるのは、はじめから非人間的なものを非人間的なものとして描いてもどうしようもないので、「非人間的なはずのものが人間的なものに思える瞬間」を描くことになってくるのかもしれないな、と。
たとえば、それは茂内さんじゃないけれど、やっぱり『ACE COMBAT04』のラストとかがものすごく秀逸で、あれはまさにそういうものなんですよね。それまでほぼ完全に非人間的なものであったはずの敵の戦闘機が、いきなり人間的なものとして現出してくる。
そこにおいてはじめてプレイヤーは自らが残虐な虐殺者であったことを認知しうる。自分のみつめる世界における人間と非人間的なものとの境界が極めてあやうげにうつろうものであることを自覚する可能性がそこで与えられる。
もちろん、こういうことを言うと暴論だという言う人がいるのかもしれない。
それはたとえば次のようなことだと思います。同じエースコンバットについて話せば、「『ACE COMBAT03』をみてくれ」と。「『ACE COMBAT03』は最初から複数の人間をちゃんと描いていって、それが死ぬ話じゃないか。」と。人間ははじめから非人間的ものとして登場するのじゃなくて、ちゃんと人間の面をしてるじゃないか、と。あるいは、エースコンバットじゃなくてもいい。最初から敵がきちんとした人間の顔をかぶっているものなら別になんだっていいと思います。
でもこういう反論は本当にそうなのだろうか、と。いうことも同時に思うわけです。
具体的に言うと、はじめから人間の顔をかぶっているゲームこそ、次第に相手が人間であるということに頓着しなくなってくるのではないか、と。ゲームの中の人間が何度でも生き返ることがわかってるし、相手が人間である、というのは<物語設定>上の問題であって、戦闘中に相手に一撃をくらわせたりすることはまったく問題ないんじゃないか、と。次第にそういう感覚が蔓延してきて<物語設定>の問題と、戦闘行為との問題の分離というのがただ単に横たわるだけになってしまう。*2
コンピュータ・ゲームというのはこうした形でものすごく人間を、非人間的な水準で扱いつつもそれを解離的にどうにかしてしまうような、きわめてややこしい装置になってます。僕が話したいことはこの解離的な状況というのがいいか/わるいかという問題ではなく、こういう先に挙げた『人間ども集まれ!』とか『City of God』のような意味での死の恐怖を書きうるならば、それはどのようなものなのだろうか、と。
そういう話なのかなー。と。これを書きつつ。
いま手元に用意してるのは、べつの話なんだけど…
4月9日の研究会はこんな感じの話になるかどうかわかりませんが、とりあえず、興味のあるかたは申し込みしてウェルカム。
*1:もう少し正確にいったら、ほんとは、人間的な死が非人間的なものに変わってるから、殺人が快楽になるんじゃなくて、人間的な死が人間的な死であるからこそ殺人は快楽なのかもしれないけれど、その話にまで言及すると、話の軸がブレそうなのでやめます
*2:でもまー、こういう話をいいはじめると、ACE04だって似たようなもんだという、ところがないでもない。ややこしー。この感覚の分離の問題は、9日の研究会でとりあげます。あと前に書いたhttp://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050717#p1とか参照
直前広報!GDC報告会の翌日デツ!
http://www.glocom.ac.jp/j/labs/azuma/project/game/
参加人数けっこう多めになってきたので、はやめのお申し込みを。とはいっても多分、いまのところ断りをいれるほどにはなってないので大丈夫です。「ムリです」というメールのいかない限り来ていただいてOKです。ただ、来る意志だけは事前にお伝えしていただかないと、椅子の数が用意できないと思いますのでその点だけよろしくお願いします。
あと、参加人数がかなり多めになってのに対応して懇親会をちゃんとセッティングすることにしました!
最初のご案内で懇親会参加についてお知らせがいっていなかった方は、懇親会参加するかどうかについても僕のほうまでお知らせいただければ。
イベント当日までばたばたしてると思うので、返信がちょっと遅れたりやたらと早かったり変なペースになってるかと思いますが、ご容赦いただければ幸いです。
]]>RGN:第一回「死の表現をめぐって」
ゲームは死を描けるのか?
評論家として知られる大塚英志はキャラクタ小説の入門書(大塚英志『キャラクター小説の作り方』2003、講談社)において、小説を描く上で立ち上がってくる重要な問題の一つとして「死をどう描くか」という項目を設け、数十頁にわたり念を入れて解説している。
大塚は「記号的でしかありえない表現が現実の死を以下に描き得るかという問いかけ」がジャンルを問わず、多くの作家たちが直面している問題として指摘する。と、同時にゲームにおける死の表現が「人の死をパラグラフの数値として示し、リセット可能なものとして描いてきた」「映画やまんがやミステリーが人の死を記号的にしか描けないという限界を自覚した上で「現実」との関わりを模索しているのに対して「ゲーム」や「ゲーム」を出発点とする「ゲームのような小説」はその努力がぼくには乏しいように思えてなりません」とゲームの表現に対する危惧を表明している。
大塚の問題意識はこうした表層的な死を表現するゲームの悪影響に対する危惧というだけではない。大塚は安易な死の表現を批判すると同時に、いかにしてフィクションの中で描かれる死が、現実の生身の身体の死に近いリアリティを持って描かれうるか、ということを問うている。表現の表層性を非難すると同時に、強いリアリティを持った死の表現を確保せよ!と叫ぶものでもあり、これはゲームの表現がその水準に達していないという批判でもある。
本発表では、ゲームの死の表現の可能性や限界に焦点をあてる。まず、ゲームにおける死の表現の内容分析を行う。その次に、この死の表現パターンに対応するかたちで、ゲームについての批判的/批評的言説が分布していることを、言説分析によって確認する。そして最後に、ゲームにおける死の表現法の、新しい視点を提示できればと考えている。
概要
■発表者・司会:
井上明人(http://www.critiqueofgames.net)
■コメンテーター:
hally(http://www.vorc.org/)
茂内克彦(http://www.intara.net/)
濱野智史(国際大学GLOCOM研究員)
場所:国際大学GLOCOM
日時:2006年4月9日(日) 13:00~
13:00 開場
13:25 冒頭のご挨拶
13:30~14:30 発表
14:30~14:40 休憩
14:40~15:40 コメンテーターによる発表+ディスカッション
15:40~15:50 休憩
15:50~16:40 ディスカッション
16:40~17:00 質疑応答
■申し込み
メールのタイトル(Subject)を
「RGN#01 申し込み」
として、inoue@glocom.ac.jpまで下記をご記載のうえよろしくお願いいたします。
[ご所属(貴社名・学校名)]
[所属部署]
[役職]
[ご氏名]
[E-mail]
[TEL]
[FAX]
[郵便番号]
[所在地]
[ビル名]
[懇親会への参加] する・しない (3500円)
※懇親会は、一人3500円
「フィヨルド」にて
17:40~20:00を予定しております。
なお、定員になり次第、締め切らせていただきますのでご了承ください。
以下は何の雑誌記事か、みなさまおわかりになりますでしょうか
答えは、e-sportsの専門雑誌の記事です。掲載されている人物はマルチタレントだとかアイドルなのではなく、上に掲載されている人物は全てプロゲーマーたちです
e-sportsというのは韓国で2001年~2002年ごろから急速にもりあがってきたゲームの文化で*1、スタークラフトなどのスタープレイヤーに賞金を出して、彼らを「プロゲーマー」として生活させていく土台を与えている概念であり、分野です。
日本の側の現象として、理解するためには「高橋名人のようなもの」といった理解がよくされるのですが、見てもらえればわかるとおりぜんぜんちがいます。
ノリとしては、ブンブン丸とか新宿ジャッキーとかが、胸をはだけてポーズとってるる…みたいな。しかもネタじゃなくて。
この雑誌の特徴(として僕が見出したもの)を羅列していくと
ありません。っていうか、ゲーマーの話じゃないのか。
韓国の子供の憧れの職業ナンバーワン、ということがよくいわれますが、それは「高橋名人になりたい」願望じゃなくて、「芸能人になりたい」願望。
雑誌とかサイトとかみてても彼らがカウンターストライクが得意なのか、アンリアルが得意なのかさっぱりわからんなー、と思っていたが、ほぼ大半の人がスタークラフトばっかりらしい。
全国の無垢な小学生からの人気……よりも女子中高生からの黄色い声援らしい。*2
なかった。…これは…こんな文化はなかったよ……!これはすばらしすぎる!
一番人気は最強のプレイヤーじゃなくて、ベスト20にはなんとか入っているぐらいのイケメンくんらしい。
ひきこもりゲーマーのみんな!
スタークラフトの最強戦士になって、芸能界を目指そう!
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こんな韓国ゲーム事情に、大興奮。
]]>90年代初期に『ドラゴンクエスト4コママンガ劇場』というのがENIXから出版されていたとき、一タイトルの売り上げが最大95万部というとんでもない数をたたきだしたことがありましたが、近年の状況をふりかえってみると、『ラグナロクオンライン』の4コマがこれまた相当な数出版されているようです。
シリーズ名もいろいろあって、ぱっと検索しただけだとよくわからなかったのですが、双葉社が出している『ラグナロクオンライン4コマKINGDOM』が現在18巻まで刊行されていると同時に、一迅社 から『ラグナロクオンラインコミックアンソロジー』が20巻まで、エンターブレインから『ラグナロクオンライン アンソロジーコミック ぼくらの新世界(ミッドガルド)! 』が4巻まで、と怒涛の如く出版されています。
僕自身が、小学生当時『ドラゴンクエスト4コマ』を熱読していたのもあり、比較という視点からこれを読んでみたら面白いかもなと思い、とりあえず『ラグナロクオンライン4コマKINGDOM』を10冊ぐらい入手してゴリゴリと読了しました。
何人かの作家さんの作品についてはかつての柴田亜美*1とか衛藤ヒロユキ*2とか押田JO*3とかを見ているような感覚に襲われる部分もありましたが、ドラクエ4コマとネタ的には通じる部分をもちつつも、やはり圧倒的違うものに根ざしているな、という感触もまた強力にうけるものでした。
まず、そもそも『ラグナロクオンライン』をネタにするという場合には、プレイヤー同士の間の共通体験というのはほとんどが「初心者だった時期がある」「転職を経験した」「ペットを飼うことができる」といったかなりシステム的な水準での経験の共有性しかなくて、それ以外には共通体験の枠組みを見出せていないんですね。そしてまた、NPCに対する興味関心も非常に低いので、ドラクエのときに「オルテガの死」ネタ(DQ3)とか「ピサロとロザリー」ネタ(DQ4)みたいな定番ネタとかもなかなか出てこない。一人用RPGの場合はNPCの中に人間的なものを仮託して物語を見出していくのが通常ですが、ここではPCとの間で発生した事件を物語化していくという手立てばかりが語られていきます。
で、具体的に、何がネタとして多いのかというと、圧倒的に多いのが、NPCネタではなく、プレイヤー同士で初心者を世話する/世話されるという関係性の中から発展していく恋愛ネタが相当の数を占めています。
これは、言う人にいわせれば「ラグナロクはそもそもそういう連中が多いんだ」という話ですが、ラグナロク自体をプレイしてみている経験から言っても、このラグナロク4コマの内容面からしても、『ラグナロクオンライン』におけるプレイヤー関の恋愛への関心の高さはかなり驚くべきものがあります。
そして、ここではいくつか面白い特徴が見られるのですが、まず
たいていの場合、「最初に萌える対象」はモニターの向こう側にいるプレイヤーのメンタルな部分とかではもちろんなくてプレイヤーキャラクターのグラフィック水準でまずは、萌えていることを多くの人が表明しています。プレイヤーキャラクターのグラフィックに萌える、というのはまた、「オレはプレイヤキャラクターのグラフィックに萌えているだけだ!」というスタンスをもまた確保する言い訳としても機能しているようですが、そのような言い訳はもちろん、より深く恋愛関係にハマッていく自分を隠す言い訳としても機能するわけですね。
で、あと、すでにちょっと書いたように「初心者」が極めて重要な機能をもっていますね。ラグナロクオンライン4コマにおいて描かれるプレイヤーたちの姿はRichard Bartleの分類*4を借りれば、多くはSocialisersと類型化されるようなタイプのプレイヤーが中心ですが、彼らがMMORPGの社会にコミットメントし、そこで社会化される過程において「初心者」が意味をもつわけです。初心者として上級者に接するときは、上級者は「憧れの対象」としてあらわれ、上級者として初心者に接するときは、初心者は「守るべき赤子」として描かれる。この教える/学ぶ関係のよーなところから、というか…ほとんどここを中心に恋愛が駆動されていますね。
そして、そこまでおおっぴらには語られないものの、最重要といえ最重要の問題がネカマ/ネナベ問題。ぶっちゃけ、MMORPGのプレイヤーなんてのはどう考えても大半は男性によって締められており、女性の比率はマイノリティにならざるをえない場所です。そもそもゲームユーザーの構成は男性比率が圧倒的に高いわけだからこれは仕方がない。だけれども、アバターとしてはネカマをやろう…という心理に限らず、格闘ゲームで春麗を選ぶ程度の気持ちで女性キャラクターを操作する男性とかもたくさんいます。で、結果としてMMORPGの空間は半分ぐらいが「女性キャラクター」によって占められるわけですが、この空間を前提として恋愛行為が行われていく。一部のプレイヤーは恋愛ではなく「親友の延長線上」だと言ったりもしていますが、ここの境界はぜったいにかなり曖昧になっていて、オフ会などで直に相手を確認していない限り、「彼女(彼)は中身のプレイヤーも女性なのか、男性なのか」ということを常に疑いつつ恋愛(?)をやるしかない。
で、あるがゆえにラグナロクオンラインを語るこの4コマの中では「ネカマぐらい、寛容にならなきゃ」というネカマへの寛容とかが語られたりもするわけですね。一時期もりあがったブリジット祭り*5ほどの極端さに至らずに、生物学的な性に寛容になる感性が成立しうる場所になっています。これを楽観的に「アイデンティティの自由選択の場所」ととらえる方向性もなくはないのでしょう。ただ、その観察はさすがに極端に過ぎていて、そもそもここでは「恋愛」というものがプレイヤーキャラクター水準と、プレイヤー水準で奇妙に交差しています。プレイヤーは恋愛に深くコミットメントするための最終的な判断基準としては、やはりプレイヤーの生物学的な性に依拠しつつも、単に動物的な「萌え」を表明する程度においては、プレイヤーキャラクターレベルでの恋愛をガンガンやってしまう。
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以上はかなり適当な現時点での偏見まじりの雑感なので、いろいろなご指摘もあるかと思いますが、とりあえずの観察として書き留めておきます。
*1:『南国少年パプワくん』『ドッキンばぐばぐアニマル』
*2:『魔法陣グルグル』
*3:http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Tone/8116/
*4:"HEARTS, CLUBS, DIAMONDS, SPADES: PLAYERS WHO SUIT MUDS"(1996)、 http://www.mud.co.uk/richard/hcds.htmを参照。Richard Bartleはこの論文の中でMUDにおけるプレイヤーを二軸できって「Killers」「Achievers」「Socialisers」「Explorers」に分類し、ゲームごとにこの類型ごとのバランスが変化させていくことの重要性を論じています。また、この分類を日本でよく知られている論者であるうさださん(http://lovelove.rabi-en-rose.net/)の分類軸(http://lovelove.rabi-en-rose.net/blog.php?n=171)に強引にあてはめれば、Killers=「ゲーマー」、Socialisers=「コミュニティ論者」、Achievers=「自己顕示者」といったところでしょうか。うさださんの分類に、Explorersがみあたらないっぽいのはこれはこれで面白いのですが。ちなみに、リチャード・バートルのこの論文については、http://d.hatena.ne.jp/kataho/20040817/p2 のほうでもう少しきちんとふれられています。
*5:http://www.canal.ne.jp/%7Etakama/bri/より「ブリジットとは▼ブリジットとは14歳のシスターの格好をした「男の子」で、その生い立ちには複雑な事情があります。しかし本人はそんな事も気にせず、明るく呑気な賞金稼ぎとして得意のヨーヨーと相棒のクマのぬいぐるみ「ロジャー」を駆使して闘う日々を送っています。▼その容姿から当初ブリジットは女の子と思われていましたが、ゲーム発売を前に男である事が判明、周囲に大きな失望と衝撃を与えました。ですが、失望はある覚悟を秘めた言葉を生み出し、一転して大きな希望へと姿を変えます。その言葉とは…▼「男でもいい! いや、むしろ男だから良い!」▼聞きようによっては個人の社会的地位を一瞬にして失墜させかねない発言ですが、ブリジットに惚れ込んだ方々の大半は、この言葉を掲げ、改めてブリジット萌えを宣言しました。なんと感動的な物語でしょう。▼背徳と倒錯の果てに、性別すら越えて人々を魅了したブリジット。今回のイベントがブリジットの魅力に触れるきっかけとなる事を、そして、既にそれを知る方々にとっては強くその魅力を再認識する有意義な場となる事を強く望んで止みません。」
友人から教えてもらったのだが、去年の夏ごろに韓国でガシガシと「デジタルゲーム・ストーリテリング」を題材として扱ったコンピュータ・ゲームの書籍が刊行されているらしい。未追加文献情報のほうにも掲載したが、韓国のほうの書籍紹介はかなりがっちりと要約まで載っておりNaver翻訳で読めた範囲で、軽く紹介してみよう。
http://j2k.naver.com/j2k_frame.php/japan/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=1625238
欧米における‘ゲーム学(ludology)’と‘物語論(narratology)’との対立などにも言及しつつ、ゲームにおける<物語>の構成要素を三つに分類して論じている。
加えて、翻訳結果ではあまり理解できなかったが、著者は「プレイヤー」「コミュニティ」「コミュニケーション」「キャラクター」という要素に着目しつつ、四つぐらいの効果を挙げて、それらが相互に影響しあい変化していく過程を論じている…らしい。
彼の分類の中にある(1)back storyと(2)ideal storyという区分けは日本でもしばしば用いられるものだが、これに(3)random storyを「プレイヤー対プレイヤー」という形式の中に見出しているところが興味深い。
日本の文脈であればrandomに生成される物語といえば、オンラインゲームという話を前提にせずに、むしろファミ通のやりこみであるとか、中沢新一が『ゼビウス』のゲームフリークたちのプレイ行動にみられる特徴のような部分:つまり「プレイヤー」が作り手の意図をほとんど無視して独自に物語世界の構築へと踏み出していくようなエンピリカルな側面を抽出して「random story」の成立をみてとるのが一般的だと思う。だが、ここで「やりこみ」ではなくオンラインゲームにおけるプレイヤー間のコミュニケーションに話をもってくのはやっぱり韓国においてオンラインゲームが圧倒的に強いからなんだろうなあ、と。
しかし、この(3)random storyはオンラインゲームをモデルとすれば対人的なコミュニケーションを通して成立するものだが、日本のような「やりこみ」モデルを前提とすればこれは脱社会的で非対人コミュニケーションの中でも勝手に成立してしまう。*1
これは例えば、90年代初期に成立した『ドラゴンクエスト』4コマで見られるようなユーザーによる同人的な物語受容と、2003年以降に隆盛している『ラグナロクオンライン』4コマにみられるような同人的な物語受容との違いといっておいいかもしれない。前者は個人的な妄想の中で成立するし、後者は対人コミュニケーションの中で生じた事件を物語化することによって成立している。
日本の文脈ではrandom storyのこの差異は明瞭に理解されうると思うのだが、韓国の文脈でこの差異は理解されうるのだろうか?*2
こちらでもやはり、プレイヤーによる物語の生成作用が語られている…らしい。が、新しい知見がどこらへんにあるかまでは、要約の翻訳ではいまひとつわかりませんでした。
ただ、面白そうだなと思えたのは、プレイヤーがアイデンティティをどのようにゲーム内で獲得するかという話。全景欄氏によれば、ゲームの世界ではゲーマーのアイデンティティは現実とは違いがあり、サイバー上では性別, 人種, 階級のような生物学的アイデンティティには依拠しない。そして、サイバーワールドでは個人は肉体的な束縛をうけずにコミュニケーションを行い、個人のアイデンティティは選択的に自分をどのように表現するか、というところで形成されてくる。これによってオンラインのアイデンティティは、社会的な実験場として成立するのだ、と。
…NAVER翻訳の精度の問題であんまり論旨を正確につかめていない可能性は高いが、アイデンティティを「自由に/選択的に」という話をゲームの中でやりはじめているというのは、これもオンライン・ゲームを前提とした世界の話だという気がして面白い。
たとえば、家庭用ゲーム機の物語論の中では、プレイヤーのアイデンティティが自由に選び取れる/取れないということではなく、むしろプレイヤーがゲーム内世界へといかに現出可能か、ということのほうが問題になる。たとえば、プレイヤーキャラクターとプレイヤーの差ということが、家庭用ゲーム機では常に前提とされ、プレイヤーキャラクターとプレイヤーは「他人」であることが大きなテーマになる。たとえば堀井メソッドにおいて主人公が「しゃべらない」手法の中に、プレイヤー=プレイヤーキャラクターという感情移入の成功を見出し、同時に「FFは感情移入できないからダメだ」といってしまうようなタイプの議論などはこうしたプレイヤ/プレイヤキャラクタの乖離を前提とした議論であるといえるだろう。*3
対して全景欄氏の議論は、プレイヤ/プレイヤキャラクタ間の乖離を同じく問題としつつも、いかなるプレイヤ/プレイヤキャラクタ間の関係性が「理想」なのかなどといった問題意識とは圧倒的に無縁である。単にプレイヤの身体が、プレイヤキャラクタの身体を得ることで、生物学的/社会的アイデンティティから自由になれることこそが、面白いのだ、と話してしまうよう(多分)楽天的な発想をしているように見える。
オンラインゲームにおけるプレイヤ/プレイヤキャラクタ間の乖離をもっとネガティブに語るとすれば、たとえば象徴的なものは「相手がネカマかどうか」「相手がニートかどうか」といったプレイヤキャラクタの後ろに控えているプレイヤキャラクタの身体を予想することにこそいろいろな問題があると思うのだが…、全景欄氏はとりあえずアジってるだけなのだろうか。
あんまりまとまってないですが、オンラインゲームと一人用RPGにおけるプレイヤ/プレイヤキャラクタの乖離問題の処理の仕方の違いをどう論じるかというあたりで、なんか興味深いことが言えそうだな、という予感だけをとりあえず。メモしておきます。
http://j2k.naver.com/j2k_frame.php/japan/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=1625241
ゲームが新しい芸術形式であると論じたり、「アバター」がゲームの世界内/外をつなぐ上で大きな役割を果たすものであると論じたりしているらしい。これだけだと、いまひとつ目新しい部分がよくわからなくて残念。
また、これも昔から言われていることだが、コンピュータ・ゲームがあまりにも男性中心主義的な構造になっているということにも言及しているらしい。
要約が漠然としすぎていてよくわからず。
http://j2k.naver.com/j2k.php/japan/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=133354
先に挙げた数人の共著+αで、2003年に発刊されている。
例によって要約だけしか除けないので細かい論旨はわからないが、「デジタルストーリーテリング」というテーマを三方向から説明している。
一つはインフラとしての「デジタル」というものと密接に結びついた形での「デジタルストーリーテリング」とは何かを論じ、次にプレイヤーを楽しませるという観点からの「エンタテイメント・ストーリテリング」としてデジタルストーリーテリングの斬新さを読者論的な方向性(?)から語る。そして、情報をいかに効率的にばらまくかという点からの「インフォメーション・ストーリーテリング」としてもデジタル・ストーリーテリングの可能性を語り、日本でいうところの物語マーケティングの手法や、エディテイメントソフトのような方向性においてもデジタル・ストーリーテリングはすごいんだ、という話をしている…ような印象。
やはり似たような点が気になるのだが、Naver翻訳だと「主人公 キャラクターは 利用者の 意志を 実質的に 具現する 存在なので 利用者の 選択が すなわち キャラクターの 選択が なって 彼 二人の 仕分けは 無意味だ」としている箇所。
もちろん、読者/主人公という区分けがコンピューター・ゲームのストーリーテリングにおいては従来の小説や映画と同様のフレームで語れないという議論はわかる。だが、読者(プレイヤー)/主人公という区分けが「無意味だ」とまで言ってしまうのは先に挙げたようなプレイヤ/プレイヤキャラクタの乖離が常に問題とされてきた日本の文脈からすれば明らかに異質な議論をしている――ように見える。
http://j2k.naver.com/j2k.php/japan/news.egloos.com/l28
これはウェブ上から。2000年に書かれたものですが、この方の場合はオンラインゲーム市場のみについて言及しているというよりも1980年代初期からMSXなどに触れてUltimaやSimcityシリーズに触れた上で新しい芸術ジャンルとしてのゲームという議論になっている様子。韓国におけるゲーム言説も1980年代からの系譜というのは存在しているようですね。
あと
http://j2k.naver.com/j2k_frame.php/japanese/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=90595
http://j2k.naver.com/j2k_frame.php/japanese/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=1507726
などといった気合の入った書籍も出版されているようです。
以上、ざっくりとまとめると一番気になったのはやはり、韓国における「ゲームの物語論」ではプレイヤ/プレイヤキャラクタの乖離が問題化されていないということです。くりかえしになりますが、これはやはり普及したジャンルがRPGだったのか、あるいはMMOだったのかというジャンルの格差が言説形成に影響をおよぼしているような感覚を覚えます。この話、もう少し根拠付けて論じられれば面白そうなので、今後もう少し追ってみたいと思います。
*1:とはいっても、もちろん、これも「ファミ通」という場所で自慢することを目指してやるユーザーは、社会的なコミュニケーションを希求している…という反論も成り立つわけですが…
*2:と、書いた直後に横からコメントされたので追記。「この本で、back story → ideal story → random story という語り方をしているのは、まず第一にこの本の著者は進化論的な議論をしたいのではないか、と。そして第二に、この議論は技術決定論的な傾向があるのではないか。で、あと、そもそも『ドラゴンクエスト4コマ』と『ラグナロク4コマ』に違いを見出すという方向性もあるが、実は両者において物語消費の形態がそんなには変わっていないということこそ面白いのではないか、と。つまり、技術的にはまったく違うものを、大塚英二が『物語消費論』で指摘したようなフォーマットで消費してしまえる日本のサブカルチャーの特殊性に着目してみるほうがいいんじゃないか、と。」つまり日本ではrandom storyの消費形態は「個人的な妄想の中で成立するし、対人コミュニケーションの中で生じた事件を物語として消費してきた」ものではないか、と。
*3:茂内克彦 2002「ビデオゲームにおけるメディア特性――物語性と主人公に着目して」http://www.intara.net/ron/syuron/ などはこうした問題意識を前提にしつつ、堀井メソッド的でない形でのプレイヤ/プレイヤキャラクタ間の関係性を描ける!という話をした好例