ビデオゲームの議論における「ゲーム性」という言葉をめぐって -雑誌『ゲーム批評』を中心にその使われ方の状況を探る-


総合政策学部4年 井上明人
学籍番号 79901087
http://www.critiqueofgames.net
2003年1月 慶應義塾大学 総合政策学部 小熊英二研究室 卒業論文
 ※2005年2月 微修正
 

[要約]

 本論文では、ビデオゲームを語る際にしばしば重要な概念として登場しつつも曖昧な用語として定着してしまっている「ゲーム性」という言葉について扱う。

 「ゲーム性」という言葉の指示対象や、「ゲーム性」という言葉とセットにして使われる形容詞や動詞などをデータとして明らかにしていくのと平行して、「ゲーム」や「遊び」といった概念にどのような定義論が試みられているのか、という点を議論し、「ゲーム性」という言葉がいかなる仕組みの中で語られているのか、という点についてみていく。

[Keyword]

 ゲーム性、ビデオゲーム、ゲーム、遊び、

[目次]

第一章 対象の概要

第二章 「ゲーム性」という言葉の指示対象

第三章 形容詞、形容動詞、動詞など

第四章 発話される現場

第五章 総括

第一章 対象の概要

第一節 「ゲーム性」という言葉をめぐって

「ハイスペックを誇る新世代機の登場は、これまで表現力や容量の限界のために眠らされていた、多くの箱を開けた。しかし、その一方で、持て余すほどの新技術に翻弄され、ゲーム性を見失った作品をも、同時に送り出したのだ。」(春生文 「ゲーム批評」1996年6月 9号 25頁)
「「見た目だけ」、「ヴィジュアルばかりを求めてゲーム性がおろそかにされている32ビット機の登場と同時に、こうした評価を受けるゲームが格段に増えた。豊かになった表現力を武器に、広く、浅く、多く、というスタイルを取る32ビット機は、ヒット作を多く生み出すが、その陰には多数のクソゲーの山が築かれているのである。あまりに見た目の演出に走りすぎてゲーム性に対する配慮を忘れ、また趣味性やマニアを重視したゲーム作りを続ければ、ゲームをする層そのものを消し去ってしまう状況を招きかねない危険性をはらんでいる。」(ゲーム批評編集部 1997年上半期11-13号総集編 38頁)

 1971年のアタリ社創業以降、大きく発展してきたゲーム産業は、1983年に任天堂の家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータ(米:Nintendo Entertainment System。通称"NES")を経てそのマーケットを急速に拡大し、1990年のスーパーファミコン(米:Super NintendoEntertainment System。通称"SNES")の登場、1990年代中盤のプレイステーション、セガ・サターン、ニンテンドウ64の登場、1990年代終わりから2000年はじめにかけてのドリームキャスト、プレイステーション2、ゲームキューブ、X-boxなどの登場によって、急速にハードの技術が進化していく中で、「ハードばかりが発展し、ソフトの肝心の部分が忘れ去れている」という上記のような主張が掃いて捨てる程登場した。

 そして、そのような主張がなされるたびに幾度となくセットになって使われる言葉が「ゲーム性」という言葉である。この「ゲーム性」という言葉によって、上記のタイプの言説を繰り返す人々の危機意識は代弁され、「ゲーム性」が「軽視」されたり、「理解していない」と認定された作品は「クソゲー」(糞みたいなゲーム)という言葉で批難されたり、「ゲーム性」が「ない」とされた作品に至っては、時にはそれが「ゲーム」として認定され、語られることすらなくなってしまうという極めて強力な言葉である。その言葉としての強力さとは、ゲーム業界の最大手誌である、作品の売上にも非常に大きな影響力をもつ「ファミ通」の批評コーナーを担当する批評家の一人、上妻電波は、自らの評価基準を語る際にも「ゲーム性」という言葉を使っているというような点にもあらわれている。(※1)

 では、はたして、その言葉は何をさしているのだろうか?「ゲーム性」とは何だろうか?一言で言ってしまえば、「ゲーム性」とは<ゲームの本質>としてみなされている「何か」である

 たとえば、『I.Q』の開発者である佐藤雅彦によれば、ゲームを考える上で重要なのは「やはりゲームはゲーム性です。」(『ゲーム批評』1999年4月 14号 43頁)と説かれ、『女神転生』シリーズの開発者、岡田耕治もまた「ソフトの核となるのはソフトのゲーム性ですから。」(『ゲーム批評』1999年上半期23-25号総集編 144頁)と述べて、いかに「ゲーム性」なるものが、ゲームにとって重要なものなのかと力説している。

 こうした見方は開発者に留まらない。雑誌『ゲーム批評』の編集部の手による記事によれば、近年は「ゲームの本質を伝えることが難しい時代」であるという。そして、その「ゲームの本質を伝えること」の難しさを「ゲーム性の伝達を阻害する」ということとほぼ同義であるという。(同誌、1998年5月号10頁~11頁)。

 こうした例はいくらでも挙げられる。これらの主張にしばしば共通するのは、まず第一に「ゲーム性」という言葉がゲームの本質と結びつく極めて重要なものであるととりあえず措定してしまうこと。そして次に、ゲーム性なるものをを軽視していたり理解していないもの「X」がいまここにある、と非難することである。「X」という箱の中の変数には例えば、「いまどきのゲーム業界の傾向」であったり、「今、売れ筋のゲーム」であったり、「いまどきの、ゲームユーザー」である、といったものが、必要に応じて代入されてくる。90年代以降、この議論形式は、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し………行われてきた

 では、ここでいわれているゲーム性=ゲームの本質、ゲームの核とは一体何なのだろうか?これほど、重要なものと繰り返し強調されながら、その実態について正面きって論じられることがあまりない。

 これが本論文の出発点となる疑問である。

 さて、そして、この疑問から出発して、ひとくされの議論ができないものか、と思いつつ、ゲーム業界最大手の雑誌である『ファミ通』を眺めていたら、この問題について考えるための極めて興味深い、次のような記述を発見した。

 『ファミ通』増刊『クロスレビュースペシャル2001年上半期』(2001,ASCII)にて書かれた、「Q4.クロスレビューで取り上げないゲームは?」という問いに対する次のような答えである。

 「クロスレビューでは基本的に全てのゲームを取り上げている。この"ゲーム"というところがポイント。ゲーム性の低い、またはゲーム性のない麻雀や将棋、コンストラクションツール、占い、予想ソフト、マルチメディアソフトなどについては、ゲームとしての評価ができないということでクロスレビューでは取り上げていないのだ」(24頁、強調は筆者)

 これが、2001年夏ごろのことである。麻雀や将棋は「ゲーム性」がないらしい。そして、そのたった半年後に出された同じ『ファミ通』の増刊「クロスレビュー2001パーフェクトガイド」では、同じ質問に対する答えが次のように記述される

 「毎週数多く発売されるソフトの中には、クロスレビューの対象外となるソフトもある。具体的には、ゲーム性が確立されている麻雀や将棋、ゲーム性を追及したものではない、コンストラクションツールや占い、予想ソフト、マルチメディアソフトなど。これらは○×形式のレビューや欄外で紹介している。」(126頁、強調は筆者)

 驚いたことに、「ゲーム性がなかった」はずの麻雀や将棋がたった2001年夏から冬にかけての半年の間に、「ゲーム性が確立」されている。2001年の下半期に、麻雀や将棋のルールに革命的な変更が加えられて、「ゲーム性」なるものが急速に発展し、確立されたということなのだろうか?いや、もちろん、そういうことではない。麻雀や将棋の世界に大きな変化が起こったわけではなく、大きな変化が起こったのは『ファミ通』サイドの「ゲーム性」に対する見解の側である。ファミ通編集者の脳内における位置づけが変わったのであって、麻雀や将棋のルールはほんの半年の間に大きく変更されていたりはしないのだ。これは、あきらかに「ゲーム性」という言葉の指す対象が統一されていない現状を明瞭に示している。

 「ゲーム性」という言葉は先に述べたように極めて重要な意味をもつものとして認識され、強力な使われ方をしているにもかかわらず、実はゲーム業界の中でも「ゲーム性」という言葉の意味するところは「ゲームの本質」「核」という以上にはたいしたコンセンサスなど持っていないのである。

 もちろんコンセンサスが成立していない、ということに誰も気づいていないわけではない。たとえば、『クソゲー白書』(夏目書房 1998 (任)電子計算機応用遊興柔物研究会)の中の「クソゲー用語辞典」の「ゲーム性」の項では「かなり不明確な用語」と書かれ、雑誌『ゲーム批評』の中でも「ゲーム性とはなんだろうか」という問いかけは何度となく行われている(それに対する明確な答えが書かれることも無いのだが)。

 本論文は、強力に曖昧であるのにも関わらず、ゲームを語る上で強力な機能を担わされているこの「ゲーム性」という言葉に焦点をあて、この言葉がどのような文脈で、どのような意味で語られてきたのかということを探っていく。

 この作業によって、「ゲーム性」なるものの中身が具体的に定義できたりはしない。むしろ、議論すればするほど、この概念がとらえどころのないものだ、ということがわかってくるだろう。しかし、明らかにならないなりにも、この言葉がいつどのように使われてきたのか、についてみていくことは少なからぬ意味をもつ。たとえば、この言葉を探ることは、ゲーム業界が「ゲームの本質」がどのように規定されてきたのか、ということをさぐることでもある。また、ゲームに深く関わる個々人にとっては「ゲームの本質」をどのように規定するか、ということは自らのアイデンティティに関する問題でもありうるだろう。

 第二節 対象と方法、および先行研究

1.対象とする文献

 「ゲーム性」という言葉の使われている用例を具体的に調査するにあたっては、使用者の性質のある程度の同質性と、全ての用例を調べることが作業量として可能であるという理由から雑誌『ゲーム批評』をとりあげ、そこでの「ゲーム性」という言葉の使われ方を中心に見ていく。

 候補としては他にも先にも引用したゲーム業界の最大手誌の『ファミ通』を見ていくという方法もあったが、第一に全資料を入手・調査することが困難であるという理由からこれは断念した。

 雑誌『ゲーム批評』を対象とする積極的な理由としては、数あるゲーム雑誌の中でも『ゲーム批評』が最もゲームの抱える「問題」に意識的・積極的に論じようとしている雑誌であり、批評への気迫は30号(2000年1月号)まで雑誌の裏表紙に掲載されていた「『ゲーム批評』は公正な立場を確立するため、広告をいれません。(ゲーム批評編集部)」という言葉からも伝わってくる。(※2)

 また、同誌の持つ雰囲気を伝えるために同誌の編集方針を参考までに掲載しておこう。(雑誌中では最後から3頁目付近に掲載されている)


ゲームを批評するとは、どういうことなのでしょう。

今日のゲーム雑誌の多くは、メーカーとの結びつきから、

ゲームソフトを公正に表現することが難しい状況にあります。

私たちは「ゲーム批評」の発刊にあたって以下の方針を定めました。

  • 各メーカーとの距離を公正に保ち、「ちょうちん記事」に類する原稿は掲載しない。
  • ゲームソフトには商品(企業力が評価を左右する)と作品(制作者の優劣が評価を決める)の二面性があり、共に尊重するが、商品よりも作品としての立場をより尊重する。
  • 批評の際にはソフトを終わらせ、制作者の意図を読みとる努力を前提とする。ゲームソフトを数時間プレイしただけで点数をつける、といったやり方は行わない。
  • 批評は、感想文でも中傷でもなく、建設的な考えのもとに行う。
  • 批評は、主観に負うものなので、ひとりよがりになりがちだが、広い視野を持ち作品の背景を把握する努力を行う。
  • 批評に取り上げるソフトは、編集部がなんらかの意義があると判断したものにする。
  • 評者および編集部は、ソフト批評に責任を持ち、事実誤認についてはすみやかにメーカー及びユーザーに謝罪する。だが、意見の相違については、納得いく回答が得られるまで意見を撤回しない。

上記の方針のすべてを完璧に実現するには、

私たちは力不足かもしれません。

しかし、ゲームという文化の健全な成長のために、

私たちは努力しています。

そのための「ゲーム批評」なのです。

ゲーム批評編集部


 ただし、この雑誌がゲーム業界に持つインパクトは必ずしも大きくはない。

「私がゲーム開発をしている側だったときに感じていたのは、「ゲーム批評」の批評は現場にはインパクトが無かったんですよ。"批評"としてはあまり意味が無く機能してなかった。」(新清士 98頁 2002年9月 46号)

 ということが、まさに『ゲーム批評』上で行われている対談で話されているように、週刊で70万部(公称)を発行している最大手の『ファミ通』誌上の批評コーナー「ファミ通クロスレビュー」に比べれば、隔月間で10万部(公称)のマニア向け雑誌である「ゲーム批評」のインパクトはさほど大きなものではない。

 また、ファミ通クロスレビューにも、「ゲーム性」という言葉を用いた批評は登場するのだが、ファミ通のクロスレビューよりも、『ゲーム批評』の方が分析に適している理由の二点目の理由として、批評文の長さの問題がある。ファミ通のクロスレビューの場合、4人のレビュアー(批評家)が、一つの作品について、約120文字というスタイルをとっており、たとえ「ゲーム性」という言葉が用いられていたとしても、批評対象とされている作品の何を「ゲーム性」と言っているのかの判断が非常につきにくい。それに対して、『ゲーム批評』では、一つの作品に対し一人~二人の批評家が約1000字~1800字程度の批評文を掲載しており、どのような言葉の用いられ方がなされているかについても類推を働かせやすい。

  ゲーム批評 ファミ通 その他の主なゲーム誌(※3)
ページ数 130ページ程度 220ページ程度 200ページ~270ページ程度
値段 780円 300円前後 300円~550円
発売間隔 隔月刊 週刊 週刊~月刊
広告社数 0~2社 20~30社 10社~30社
サイズ A5 A4 ほぼA4
発行部数 10万(2001/1) (公称) 80万(2001/3) (公称) 20万~60万程度

 参考:ゲーム批評11号(1996年9月号)「徹底比較ゲーム批評vs主要ゲーム雑誌」P87
    メディアワークス広告掲載料金表(ゲーム系)
    http://www.mediaworks.co.jp/d_info/koukoku/ryokin01.html
    モバイルポーチパブ計画一覧
    http://www.goodsde.com/porchi_pab_rist01.html

 ただ、『ゲーム批評』の中だけでは引用すべき記述として適当なものが見つからない場合もあるため、本論文中では、少数だが、『ゲーム批評』以外の雑誌等からも引用を行っている。そのため、実際に調査した文献は『ゲーム批評』のバックナンバーのみではなく、ビデオゲームについて論じた文献にはかなりの量に目を通している。

 なお、雑誌『ゲーム批評』は94年9月から創刊され、48号(2003年一月号)まで調査した。読者の投稿のみで構成される『投稿ゲーム批評 読者あっての本ですから』や『ゲーム批評特別編集 飯野賢治の本』などは対象としていない。

 

2.対象とする用語

 対象とする用語としては、第一節で書いた通り「ゲーム性」という用語を扱う。ただし、海外の文献の訳語として「ゲーム性」という言葉があてられている場合については、それを分析対象とはしない。あくまで、日本語圏の書き手が、はじめから日本語で「ゲーム性」と記したもののみである。

 筆者の確認した限りでは、クロフォードのゲームデザイン論(http://www.scoopsrpg.com/contents/special/acgd/Coverpagej.html)で"Game play"という語の訳語に「ゲーム性」という語が用いられているのと、『ゲーミングシミュレーション:未来との対話』(Richard D. Duke 著、中村美枝子 市川新 訳 2001年刊 ASCII)で"Gaminess"という語の訳語に「ゲーム性」という語が用いられているが、両者を比べてみただけでも、そもそももともとの単語が違っており、安易にこれらに手を広げてしまうことで混乱が起こることを避けるため、英語の"Game play"および"Gaminess"は対象としない。(※4)

3.手法

 手法としては、研究を開始した当初は「ゲーム性」という言葉について直接的に論じたものにあたり、「ゲーム性」という言葉の使われ方を見ていくという予定であったが、いざ文献にあたってみると、「ゲーム性」という言葉を正面から論じたものは驚くほど少なく、途中で当初の予定を変更し、どのような主張をされるときに「ゲーム性」という用語が使われたのか、「ゲーム性」という言葉とセットになって使われる形容詞や動詞は何か、といったようないわば用語分析のようなことをすることにした。

 第二章では、「ゲーム性」という言葉の指示している対象を扱う。つまり、「AやBといったゲーム性は…」「ゲーム性(A)という点から言うと…」「ゲーム性、つまりAでは…」などといった記述における「A」や「B」が具体的に何と書かれているのか、ということである。

 第三章では、「ゲーム性」という言葉とセットで使われている形容詞、副詞、動詞などを見ていく。つまり、「Xなゲーム性をZする」「Xすぎるゲーム性がZしている」などといった記述におけるXやZが具体的に何と書かれているか、ということである。

 実際の作業としては、「ゲーム批評」の全バックナンバーを調査し、「ゲーム性」という言葉の使われている用例をチェックし、発見した全ての用例(ゲーム批評以外の用例も含めて合計で約470の用例)をCSVファイル(※5)に著者(著者の職業),雑誌/書籍名,号数(雑誌の場合),使われた年月日,頁数,文の主題,非指示対象,非指示対象と「ゲーム性」の関係,指示対象,指示対象についての私の解釈の恣意性の度合い(主観的に),形容詞・修飾語・動詞,文章(句読点から句読点まで),前後文脈,その他に私が感じたことなどを入力し検討していった。(※6)

 そして、第四章では、「ゲーム性」という言葉を伴ったさまざまな議論を検討し、前章までの用例を踏まえることでそれらをどのように読み直すことができるかを見ていく。

 ただし、研究をはじめた当初はこういった用語分析的なものにすることを想定していなかったため、用語分析的作業を行う以前の、いわばフィールドワーク的な作業――具体的には、文献を読みこんだり、ゲームを論じる人々との直接の議論、文献の中で対象として論じられている作品にあたること(傍から見れば、ただ遊んでいるだけのようにしか見えないのではあるが)――に費やした時間は、用語分析を行う上での基盤になっている。

 第二章および第三章で行っていることは基本的には淡々とした分類作業を軸としているため、「ゲーム性」という言葉についてのややマニアックな興味、あるいは研究者的な興味を持たない人でもない限りは読み通すほどの気力が続かないと思われるので、そのような興味をもたない方は、章末のまとめを読む程度で、次の章に読み進めていただいてもかまわない。「ゲーム性」という言葉に興味はないが「ゲームとは何か」ということを考えるための枠組みに興味のある方は特に二章の内容を読んでいただきたい。

 また、誤解を招かないようにはっきりとさせておくが、「ゲーム性とはこういった意味に他ならない」「ゲーム性という言葉の意味はこのような形で使うべきだ」といった議論を提出することは本論文の目指すところではない。本論文が目指すのは、繰り返しになるが「ゲーム性」という言葉がどのように使われてきているのか、という現在までの用例の検証作業とでもいうべき行為であり、そもそも本論文におけるような作業では「ゲーム性とはこういった意味であるべきだ」などといった議論をするための根拠を提示しえないのである。

 なお、「470の用例」の「470」という数字は、「ゲーム性」という言葉が一回使われるごとに計上している。同一のインタビューや文章の中で4回「ゲーム性」という言葉が使われた場合、それはそのまま4回使われたもの、として計上している。

4.先行研究

 同じ対象を直接的に扱った先行研究は存在しないが、ゲームに関わる問題を論じていくための手がかりとなる重要な先行研究としては以下の二点については踏まえておきたい。

 [1].ゲームデザイン論

  ゲーム性とは何か、という問とは少し異なるが「ゲームとは何か」という問いについては、ゲームの開発者達自身によって、ゲームデザイン論という「いかにしてゲームをデザインするか(作るか)」という議論の中で問われてきた。クロフォード(※7)、コスティキャン(※8)、日本では田尻智(※9)、ざるの会(日本ビデオゲーム工学会)(※10)のものなどがあり、特に<ゲーム>とは何か、という議論について、中でも比較的明瞭な議論を展開しているものとして「コスティキャンのゲーム論」(※11)は本論文中でも、議論を展開させていくための出発点として扱うこととする。

 [2].遊び研究

  これも「ゲーム性」とは何か、という直接的な問いではなく、間接的なものではあるが、遊び研究の分野では、例えば「遊びの中でも<ゲーム>と<プレイ>の違いは真剣であるか真剣でないかである」などといった様々な定義が試みられてはいるが、しかし、いまだにこれといった定義が提供されているわけではない。

 ゲームデザイン論のような<ゲーム>という問題意識よりも、隣接する娯楽・遊びと言われる領域全般にまで検討が加えられているため、本研究の扱う領域と重なる部分をカバーしている部分も多く、一応の語るための枠組みとしてカイヨワ(※12)や、山田敏(※13 )などは本論文中でも何度か扱う。

 第三節 用語についての注意

 論文中では、「ゲーム」という用語を頻繁に用いるが、特に何の注意もなく「ゲーム」という語が使われている場合は、それがコンピューターゲーム、ビデオゲームのことを指していると思ってもらってかまわないが。特に概念上の区別を強調したい場合に、

 A.野球や将棋・チェス、双六といったタイプのコンピュータを用いない、昔からあるゲームのみを指す場合には【トラディショナル・ゲーム】

 B.トラディショナル・ゲームと区別するために家庭用TVゲーム、コンピューターゲームなどの総称として【ビデオゲーム】

 C.「トラディショナル・ゲーム」「ビデオゲーム」双方の意味を含んでいる場合には単にゲーム、と表記するのとは区別するため、鍵括弧つきで【「ゲーム」】

 と記すこととする。

 また、本論文は、ゲームに詳しくない読者についても一応想定しているため、ゲーム業界で一般的に使われている用語について、以下に簡単に説明を加えておく。ゲーム業界で一般的に使われている用語について解説を必要としない読者は特に読む必要はない。

【RPG】ロールプレイングゲーム、というゲームのジャンルを指す言葉の略称。よく知られている作品としては『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』『ポケットモンスター』などがある。ロールプレイングという名称は、もともとはテーブルトークロールプレイングゲーム(TRPG)と呼ばれる、コンピュータを使わない人対人のゲームから取ったものだが、現在のロールプレイングゲームとテーブルトークロールプレイングゲームはかなり違ったものになってきている。また、『ウィザードリィ』などに代表される海外で発達したRPGと、『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』などに代表される日本で発達したRPGとの違いも激しい。ジャンルの大体の定義としては、主人公の成長要素とストーリーを持ったゲーム一般に使われているといった印象だがジャンルの境界はかなり曖昧である。

 ほとんどの場合RPGと略されるため、本論文中でもRPGと記す。

【FF】世界的に有名な日本のロールプレイングゲームのスクウェアの『ファイナルファンタジー』シリーズの略称。2003年3月現在『ファイナルファンタジー』から『ファイナルファンタジーXI』まで発売されている。関連作品も多数ある。特に本論文中では、ハード性能の進化の象徴的な作品として『FFVII』(1997)を重要な作品として扱う。

【DQ】同じく有名な日本のロールプレイングゲームの『ドラゴンクエスト』シリーズの略称。2003年3月現在『ドラゴンクエスト』から『ドラゴンクエストVII』まで発売されている。関連作品も多数。

【SFC】90年代前半に最も売れていたゲーム機であるスーパーファミコン(※14)の略称。ちなみにゲーム機(「ハード」と呼ばれることも多い)ゲームソフトを遊ぶための機械で、例えば『ドラゴンクエスト』などを買ってきても、それを動かすための対応したゲーム機が必要である。海外ではスーパーファミコンではなくSNES(Super Nintendo Entertainment System)として知られている。

【PS】90年代後半に最も売れていたゲーム機であるプレイステーションの略称。

 以上が、ビデオゲームについての最低限度知っておいてほしい語彙である。論文中に解説が必要だと思われる語を用いた場合には、注などでできるだけ解説を行っていくが、引用文中で特に解説の必要のないと思われる詳細な点についてまでは網羅的に解説することはしない。どうしても気になった方は、ファミコン通信責任編集『ゲーム用語辞典』(ASCII 1993)やインターネット上で個人が編集している用語辞典(※15)を参照していただきたい。

 [第一章のまとめ]

 さて、それでは、第一章で書いたことを簡単におさらいしておこう。

 本研究の分析対象である「ゲーム性」という用語はビデオゲームの批評に留まらず、ビデオゲーム全般について語るための非常に重要なキータームとなっている。しかしながら、その用語の使われ方は極めて不安定な状況にある。

 用語の使われ方としては一定していないが、まず、この用語をとらえるためのてがかりとしては「(ゲーム性とは)ゲームの本質」「ゲームの核となる部分」というような用例からヒントを得ることからはじめていこう。

 本研究では「ゲーム性」という言葉によってビデオゲームがいかなる語られ方をしてきたのか、いかなる形で「ゲーム」の本質規定がなされてきたのか(そして、その本質規定にそう形で議論が形成されたのか)ということを見ていく。あくまで「ゲーム性」という言葉の語られ方がいかなるものであったか、ということを検証していくことが主眼であり「ゲーム性とはズバリこういう意味である」という定義をすることが目的ではないし、本研究における作業ではそもそもそのような定義論を行うための根拠付けを与えることは不可能である。

 また、本研究の対象は日本語の「ゲーム性」という言葉のみであり、訳文に現れる「ゲーム性」は対象から除外する。主要な分析文献は雑誌「ゲーム批評」のバックナンバーである。全体的な構成としては第二章では「ゲーム性」という言葉の指示する対象とは何か、という問題を扱い、第三章では「ゲーム性」という言葉とセットになって使われる形容詞や動詞などを扱う。第四章では、前章までの議論を踏まえて、「ゲーム性」という言葉の使われている個別事例を見直してゆく。

第二章 「ゲーム性」という言葉の指示対象

 第一節 データ分析

 さて、本章では、「ゲーム性」という言葉の指示している対象を扱う。

 具体的には、調査した約470の用例の中で「AやBといったゲーム性は…」「ゲーム性(A)という点から言うと…」「ゲーム性、つまりAでは…」などといった記述があった場合に「A」や「B」が具体的に何と書かれているのか、ということを一文一文を直接に読んでいった。

 だが、文中で「ゲーム性」という言葉がある程度以上明確な形で、他の言い方に置き換えられているものは、約470の用例うちの70、つまり約15%しか明確な言い方はなされていない。

 明確な言い方がなされていない他のものはどうなっているか、というと、

 といった形になっており、ほとんどの場合は、「ゲーム性」という言葉を使う書き手(インタビューでは、話し手)は、その指示対象について曖昧な使い方をしているものと考えてよい。佐藤雅彦など、幾人かの書き手(話し手)の間では、きわめて明確に言い換えが行われているが、しかし、ある程度まで指示対象を明確にしているような書き手(※16)であっても、前年度に「インタラクション」を「ゲーム性」と言い換えていたかと思えば、翌年度には、「ゲームシステム」という言い換えをするなど、変遷も激しいため、どういった立場の人間がどういった使い方をしている、という形で、言葉の使用者を基本的な変数として設定していくことは難しいだろう。

 そのため、議論のための土台として「誰が」その指示対象を設定しているか、ということをそれほど深く問うことに大きな意味があるとは思えないので、指示対象の設定者同士になんらかの共通性を見出していこうという努力は積極的には行わないこととする。

 さて、それでは具体的にどういったものが「ゲーム性」の指示対象となっているのだろうか。いくつか似たような言い回しについてはグループとしてまとめてしまって、簡単に見ていこう。

A. ゲームの普遍性 1回
ゲームの本質 2回
B. 駆け引き 2回
駆け引き(の妙味) 9回
駆け引きの楽しさ 1回
攻防の面白み 1回
C. ゲームの目的性 1回
D. 戦闘部分の面白さ 1回
戦略性 1回
E. システム面 1回
システム 1回
ゲームシステム 3回
F. ルールを使って遊ぶというところ 10回
G. インタラクション 3回
インタラクティブ性 5回
プレイヤーがコントローラーなどの入力機器を用いてゲームの世界と相互影響し、その中でプレイヤー個々の「世界」を構築していくことができる 1回
H. 遊ぶ・娯楽 1回
遊びの本質 1回
ゲームを「遊ばせる」部分 1回
I. パズルの面白さ 1回

 以上が、データであるが、一体なぜこのような形での指示対象のバラツキが起こっているのだろうか。

 さしあたっては、今までに提出されている遊び論、ゲームデザイン論などの論考を参照・整理して次に紹介することを試みる。その上で、あらためてA~Gまでのグループをどのように解釈しなおすことができるのかを考えていくこととする。

 第二節 「ゲーム」と「遊び」の区分

 まずは、遊び論の中のいくつかに共通する要素として、「ゲーム」と「遊び」という区分を見ていきたい。

  ではまず、G・H・ミード『精神・自我・社会』の議論を引用しよう

 「自我の発生における背景的要素の別の組み合わせは、遊戯やゲームの活動のなかに示されている。」(186頁)
 「もしわれわれが、遊戯と組織化されたゲームにおける状況を比べてみると、われわれは、ゲームをしている子供は、そのゲームに参加している他のすべての子供の態度を取得する準備ができていなければならないし、そして、これらのさまざまな役割が相互に明確な関係をもっていなければならないという本質的な相異に注目する。」(河村望訳、1995、人間の科学者 188頁)

 同様に、幼児の自我の発達の際に起こる事態について、中沢新一は「ゲームフリークはバグと戯れる~ビデオゲーム『ゼビウス』論」(『現代思想』Vol12-6,1984)や『ポケットの中の野生』(1997 岩波書店)の中で、フロイト、ラカン、レヴィ=ストロースなどの理論を借用しながら、

 『ゼビウス』や『インベーダーゲーム』のオーソドックスな遊ばれ方について、それぞれ前-資本主義的、資本主義的、と名づけ、それに対して、ゲームフリーク(熱狂的なゲームのプレイヤー達)がゲームのバグ(プログラムのミスによって引き起こされる、製作者が本来予期しない現象)を発見して楽しむという遊び方について「宇宙の意識そのものとの「対話」」と書き、『ポケットモンスター』の魅力を、第一には世界と自己が未分化な時期の、魔術的なものであるとか、多神教的世界といった言葉で表現し、第二には子どもたちが世界を対象化、構造化してとらえる場所として規定している

 また、遊び論の古典として有名なカイヨワの『遊びと人間』では以下のような有名な四分類が行われている。

 1.競争(アゴン):取っ組みあい、運動競技、ボクシング、玉突き、フェンシング、サッカー、チェス、スポーツ競技全般

 2.運(アレア):じゃんけん、賭け、ルーレット、富くじなど。

 3.模擬(ミミクリ):子供の物真似、空想の遊び、人形、おもちゃの武具、仮面、仮装服、演劇、見世物全般など。

 4.眩暈(イリンクス):メリー・ゴー・ラウンド、ぶらんこ、ワルツ、スキー、登山、空中サーカスなど。

 (ロジェ=カイヨワ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学術文庫)

 そして、翻訳者の多田は、この四分類を、ホイジンガの「意志」「ルール」という語を参考に以下のような図として構成しなおしている。

      意志
      ↑
    競争│模擬
ルール←──┼──→脱ルール
    運 │眩暈
      ↓
     脱意志

 さて、これらの「遊び」の分類の試みから何が見えてくるだろうか。

 「遊び論」の古典であり、ゲーム業界一般には「遊び」を完全に分類している、と信じられているカイヨワの四分類だが、これをそのまま枠組みとして使うことには問題があるだろう。カイヨワの四分類の、「模擬」「眩暈」などは分類の枠組みとしては相当にあやしい。それに、「遊び」を体系的に完璧に分類している、と思われているわりには、例えば、パズルはどこに入るのか、積み木や塗り絵はどこに入るのか、といった反論の余地がまだまだきわめて多い体系である。「遊び」を体系的に論じることは試みられ、分類もそれなりに細かいことは細かいのだが、各々の根拠付けは薄弱といった感の強い枠組みであり、これを採用することは控えたい。

 と、いうことでこの分類枠組みは棄却するとして、もっと大枠のレベルで合意のはかられている、というようなだいたいの枠組みをとりあえずは採用することにしよう。それは何か、というと、第一のグループとしては、「組織化」「構造化」「対象化」「ルール」などといった形の語彙によって語られている「ゲーム」という対象の群である。

 第二のグループとしては「魔術的」「宇宙との対話」「気まま」「自由」などといった形の語彙によって語られている「遊び」ないし「遊戯」といった対象の群である。

 「ゲーム」と「遊び」というこの二つの群が具体的にどのようなものとして考えられるのか、いかに指示対象を構造化していくことができるのかを考えるための基本的な議論を見ておきたいと思う。

第三節「ゲーム」の定義論

 多くの「ゲーム」の定義論は、チェスや将棋、野球、フェンシング、じゃんけん、などといったものを「ゲーム」の典型として見なすことからはじめ、カイヨワの言うところのミミクリやイリンクスに含まれているようなもの――すなわち、子どもの物真似、空想の遊び、人形、おもちゃの武具、仮面、仮装服、演劇、見世物全般、子どもの「ぐるぐるまい」、メリー・ゴー・ラウンド、ぶらんこ、スキー、登山、空中サーカス、などといったものは一般的な「ゲーム」のイメージに含まれないものとして、これを対象としてそもそも想定していない、というものが多い。

 それでは、そのような形で「ゲーム」の定義論を展開させている議論ではどのようなものを「ゲーム」の定義の範疇に入るものだと考えているのか、というと「無数の種類があるゲーム全てに共通する要素があるのだろうか?」という質問に対してコスティキャンはこう答えている。

「確かにある。全てのゲームは「意志決定」「資源管理」「目標」を持っている。これは「チェス」「セブンス・ゲスト」「スーパーマリオ」「バンパイア:ザ・マスカレード」「マジック:ザ・ギャザリング」「ルーレット」の全てに共通する。これこそが「ゲーム」の定義なのだ」(http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html)

 次に『ゲーム批評』誌上で連載されているセガの開発者、名越稔洋は「ゲーム」を以下のように定義付ける。

「俺は、本来「ゲーム」とは「遊び」と同義的な意味がある以上に『勝敗要素のある遊び』や『遊びを更に膨らませる駆け引き』という意味で捕えるのが正しいと思います。
 更にこれらの感覚の全く無いモノを、俺は「ゲーム」と呼びません。
 次に「ゲーム」成立の為の条件とは?これは3カ条です。
 1、ルール:遊びを成り立たせ理解させる(どう遊べば良いのか、どうすれば勝ちなのか、終わりなのか)
 2、目的:勝負の目標、理由がはっきりしていること(勝てばどうなるのか?なぜ勝ちたいのか?)
 3、上達:スキル(コツ)が感じ取れること(どうすればもっと上手に、早く、高得点で、スマートにできるか?)」(30号 2000年1月 名越稔洋)

 いずれの議論も要素として、「ルール」「目標(目的)」などを似た要素として抱えており、ほぼ共通した対象をイメージしていることは了解される。ただ、いずれの議論も「「目的」は「ルール」の一部ではないのか」であるとか「1回ごとにゲームがプレイされる際に生じる多様性の問題はどのようにして片付けるのか」(※17)など反論される余地を数多く残しており、「ゲーム」という対象をくっきりとした形で定義しえているといえる議論だとはいえないが、では「ゲーム」とは一体いかなる定義をするともっともしっくりくるのか、というと、まだ、これらの定義よりも考え抜かれたものというものもほぼ存在していないと言っていいだろう。<ゲーム>の定義論の中には、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの議論を引き合いにだして、そもそも<ゲーム>の便宜的な定義をしないこそ妥当である、などということが主張され、そもそもの定義をあきらめることを宣言しているようなものも見受けられ、現在、提出することの可能な限りで<ゲーム>の定義についてだいたい合意されている要素を挙げるとすれば、「ルール」「目標(目的)」という要素によって定義され、「駆け引き」「戦略」「勝負」「競争」といったものを発生させるものだ、ということがせいぜいであろう。

 議論の枠組みを確定していく上でも、そのような曖昧な定義ではなく、もう少し厳密な議論が欲しいところだが、その議論にはいりこんでいくことは本論文の目的ではないので、とりあえずは、このおおまかな枠組みで「ゲーム」という対象をとりあえずとらえることとしたい。(※18)

 ただ、細かい議論となってしまうが、この枠組みだと、どうしても問題を考えていく上で、最低限度留意しておかなければならないという点を二点だけ、書いておこう。

 [1].ルールのゆるい「ゲーム」

「「ゲーム性」なんてものは、特定のルールがある世界では必ず生じるものなんですよ。日本語だと「駆け引き(の妙味)」と言っていいもので、それは日々の現実空間で普通に起こってるんです。ビジネス、恋愛なんてまさに駆け引きだし、野球やサッカーのようなスポーツがゲームなのも当たり前。ジャンケンや将棋なんてものは、歴史が認めたある種普遍的ともいえるゲームです。で、これらには普通に「ゲーム性」は存在するわけで、つまり「ゲーム性」ってのは何でもかんでも受容可能な概念なんです。」(松谷創一郎 WebSPA! http://spa.fusosha.co.jp/e-enter/000712.html#game

 ここで使われている「ゲーム性」は野球、サッカー、ジャンケン、将棋などを「ある種普遍的ともいえるゲーム」と論じていることからもわかるように、先に議論した<ゲーム>の概念と指示対象としては、ほぼ同様のものを指していると考えてだいたいは問題がないだろう。しかし、重要なのは、「ビジネス」「恋愛」などといったものまでもまた、その対象として捉えることが可能である、と言っていることである。

 この指摘は、「ゲーム」の定義論をするときには、必ず出てくるものの一つと言ってもよいもので、無視できないものなのだが、チェスや将棋などと、ビジネスや恋愛、などとの差を明確にしておくとすれば、前者はそこにあるルールが確定的であり、そこに参加する個人(プレイヤー)が何度遊んだとしてもルールが変更されないという性質のものであり、後者のビジネスや恋愛、などといった種類の駆け引きは、ルールがあるにしてもあまり確定的なものではなく、そこに参加する個人が遊ぶごとにルールが変わったり、遊んでいる最中にもルールが変わるといった性質を持つものである、として区別することができるだろう。

 [2].「パズル」は「ゲーム」か

 「ゲーム批評」22号(1998年9月)の「トレジャー前川正人氏のパズルゲーム理論―パズルの面白さとパズルの定義―」(76~79頁)にて、「ゲーム性」という言葉を使っている。ここでの「ゲーム性」という言葉の指示対象は、記事のタイトルからもわかるように、「パズルの面白さ」のことを指して「ゲーム性」という言葉を使っているのだが、これが、今まで確認してきた「ゲーム」の定義に完全にはあてはまらないものでありながら、「ルール」も「目標」も持った指示対象なのである。

 「パズル」が今までの定義論にあてはまらないのは、たとえば「駆け引きの面白さ」を持つものでもないし「勝負」なわけでもなく、また一定の答えを持つために「1回ごとの多用な展開」もまた期待できない。そのため「パズルはゲームではない」という議論もあるが、「パズルゲーム」などという言葉があるように、パズルが<ゲーム>という定義の対象の範囲内であるという感覚は決して特殊なものではないのだ。

 また、問題が錯綜してくるのは、将棋、チェス、オセロなどといった、ゲーム理論で言うところの、二人零和有限確定完全情報ゲームの場合(※19)である。これらはもし対戦者どうしが考えうる最善の手をうった場合、開始された時点で先手必勝、後手必勝、引き分けのいずれかが決定されてしまう、という証明がフォン・ノイマンなされていることは広く知られている。普通の人間の脳の処理能力では(そして現在のコンピュータの処理能力であっても)、どう考えても解くことはできないのだが、例えば3×3マスの○×ゲームなどでは、普通の人でも最善の手(最適解)を導きだすことができる。言ってみれば、これらは「誰も答えを知らないパズル」と言うこともできるだろう。しかし、将棋やチェスをやっていて、それを「パズル」と思われず、多くの場合、それは「ゲーム」と表記されている。

 さて、以上で「ゲーム」の定義論の基本的な部分はほぼ俯瞰したわけだが、ルールのゆるい「ゲーム」やパズルも含んだ「ゲーム」という概念である「ゲーム」のイメージは人によってさまざまである。

 人によっては<ルールのゆるい「ゲーム」>については、「ゲーム」という単語を「遊び」概念の社会的な名指され方である「不真面目」「真剣でないこと」というイメージと結びつけて、「恋愛をゲームと呼ぶことなど論外」と言う人もあるし、先述のように「パズルは多様性がないのでゲームではない」という人もやはりいるのである。

 それゆえ、まずスタンダードな「勝負」「駆け引き」またルールが確定的なチェスや将棋などと、ルールのゆるい「ゲーム」、パズル含む「ゲーム」といった対象を全て含んだ総称としての「ゲーム」の概念を強調したい場合、便宜的に、<システムとしての「ゲーム」>と表記することにしよう。

 第四節「遊び」の定義論

 さて、今まで処理してきた議論は、遊び論としては、全て定義論ではなくて、定義論についての議論は問わず、分類論のみを問題にしてきた。その主たる理由としては、カイヨワにせよ、ホイジンガにせよ、その定義論は未だきちんと整理されていない、と思われる部分が多いからである。

 それらを採用することができない第一の理由としては、人が他者の行為を指して「遊び」と呼ぶことと、「遊んでいる」本人が、「自分が今、遊んでいる」という感覚の区別、すなわち、社会的に「遊び」と名指されることと、主観的な感覚としての「遊び」の成立という問題への、区別などといった、いくつかの重要な問題点がはっきりと意識されていないということが挙げられる。具体的にカイヨワの挙げている「遊び」の定義論の6つの条件からその矛盾を指摘してみるとすると

「(一)自由な活動。すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう」(P40)
「(六)虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。」(P40)

 というこの二つの条件は、「強制感がないこと」「非現実であるという特殊な意識」などといった遊ぶ当人の意識のありようを問題にしているのに対して、

 「(四)非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。」(P40)

 この条件はあきらかに社会的に「生産」であると見なされるかどうか、という概念に頼っている。これらの混同は「油を売っている」「仕事をしていない」「真面目ではない」という<仕事><真面目>といった概念との関係性によって遊びが定義付けられて語られること、すなわち「非‐仕事」「非‐真面目(不真面目)」=「遊び」という、形での定義論から逃れることができない。この区分を曖昧にしていると、例えば「私にとっては仕事は遊びです。やりたいことを自由にやっていますしね。」というようなことが言われる場合、はたしてそれが「遊び」であるのかどうかを定義論的に処理できなくなってしまう。

 採用できない第二の理由としては、先に挙げた区分である、「ゲーム」と「遊び」という区分について、明確な形ではそれが認識されていない、という問題がある。また、同じくカイヨワの定義論から引用すると、

 「(四)非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。」
 「(五)規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。」

 この二条件は「勝負」や「規則」といったあきらかに「ゲーム」という現象を意識した定義論となっているが、カイヨワ自身が自らの分類論の中で提出しているイリンクス(眩暈)やミミクリ(模擬)といった「遊び」の中ではこれらの条件はかならずしも必要とはされない。

 以上のように、こういった形で議論の混乱が見られる遊び論では、「遊び」の定義論としては採用することができない。では、先に指摘した「社会的に遊びと見なされること」と「当人が遊んでいる、という感覚を抱くこと」、および「ゲーム」と「遊び」の区分、という点での混同を克服した形での遊びの定義論を調べてみると、山田敏(『遊び論研究 -遊びを基盤とする幼児教育方法理論形成のための基礎的研究-』(風間書房 1994))のそれが先行研究を詳細に調べ上げ、実に区分を厳密にした議論を行っているということがわかる。

 山田がその対象としているのは、「ゲーム」と「遊び」の区分でいえば、「遊び」のみを問題としており、「ゲーム」はその対象外。「社会的に遊びと見なされること」と「当人が遊んでいる、という感覚を抱くこと」の区分で言えば、「当人が遊んでいる、という感覚を抱くこと」という感覚の成立のみを問題としており、「社会的に遊びと見なされること」といった形の「遊び」と<名指される>ということについては、それを対象としては扱わない、というこの区別を厳密に行った上で、山田が「遊びになる」――つまり「遊び」という感覚が成立するための三条件として挙げているのは以下の三点になる。

 第1の条件「その活動が、その活動の主体にとって楽しいこと」

 第2の条件「主体にとっては、その楽しい活動自体が目的であって、少なくともその活動が、その外部にある他の目的達成のための単なる手段となっていないこと」

 第3の条件「外部から強制され拘束されている、という感じを主体が持たないということ」

 この三つの条件は、それまで提出されてきた定義論に比べると、対象となる範囲が厳密に意識されているため、かなり鋭いものになっており「遊び」という「感覚」の成立する要件としては、この定義をおおむね支持することとしたい。

(※20)

 さて、「遊び」の定義論について、見てきたわけだが、このような「遊び」の厳密な定義論というのはあくまで、学術的につきつめていった場合にどういう定義を用いればもっとも便利か、といった種類のものであり、考えるための基盤としては有効なのではあるが、実際に「遊び」という言葉を使う使用者の前ではその定義を念頭において考えることはそこまで大きな意味を持たない。

 あたりまえではあるが、ロジェ・カイヨワや、ホイジンガといった名だたる学者たちであっても、曖昧に処理せざるを得なかった概念を研究者でも何でもない人々が、大変労力のかかった議論とリアリティを共有することは多いにありえるにせよ、厳密にそのようなものを頭の中で考えているとはまずもって考えられない。また、ゲーム業界のライターや開発者たちに最も多く読まれている遊び論の著書がカイヨワの『遊びと人間』である(※21)ということ考えても、「遊び」という言葉の使用者がイメージしているリアリティは、「不真面目」「油を売っている」であるとかといったイメージと交じり合い分散しているであろうことは想像に難くない。

 そこで成立している「遊び」という概念は単に「本人にとって楽しい」などという言葉とも交換できるものでもないだろうが、しかし「本人にとって楽しい」という言葉と交換できてしまうこともまた、かなり多いだろう。「ゲーム性」という言葉の内実がグチャグチャとなっているように、「遊び」という言葉もまた、なんとも処理しがたい、絶妙な位置を占める言葉となっている。それゆえ、ここで提示した山田の定義はあくまで、システムとしての「ゲーム」のようなものと概念上の区別をはっきりとつけるための定義でしかなく、実際には「面白さ」「自発的に楽しむもの」「触れて楽しむもの」「いじって楽しむもの」などといったさまざまなイメージに分散しているということは念頭においておこう。

第五節 「ゲーム」と「遊び」を基準にした分類

 さて、それで結局、この「遊び」の定義を採用するとして、「ゲーム」という概念との関係性でものごとを考えていくとすれば、まず「楽しくて自発的な行動」というようなものの集合を考えたときに、その集合の内部で「ルール」や「目的」を持ったものとしての「ゲーム」と「非ゲーム」という分類を考えることができる。

 また、それとは発想を少し切り替えて、「ルール」や「目的」を持ったものとしての「ゲーム」という集合をまず考え、その集合の中で、「楽しくて自発的な活動」である「遊び」であるものと「非遊び」という分類を考えることができるだろう。

 簡単に整理してみると以下のようになる。

 「ゲーム」:「ルール」や「目標」を持った活動

    駆け引き、ゲームの目的性、戦略性、システム面、システム、ゲームシステム

 「遊び」:自発的で、それ自体を目的とし、強制されていない行為。

    遊ぶ・娯楽、遊びの本質

 「遊び」ではない「ゲーム」:強引につきあわされてやらされている麻雀、将棋など。

 「ゲーム」かつ「遊び」:自発的に楽しんでやっている麻雀、将棋など。

    駆け引き(の妙味)、駆け引きの楽しさ、攻防の面白み、戦闘部分の面白さ、ルールを使って遊ぶというところ、パズルの面白さ、ゲームを「遊ばせる」部分

 「ゲーム」ではない「遊び」:自発的に楽しんでやっているスキーや登山やものまね

第6節 いかなる文脈で成立している主張か

 さて、それでは、これらのシステムとしての「ゲーム」ないし「遊び」といったような概念はどのような概念との差異の中で強調される形で使用されるのだろうか。

 以下、「ゲーム性」と対立、ないし差異が前提とされているさまざまなものとの関係性で「ゲーム性」を強調した文章を引用してみよう。

「物語よりゲーム性を追及したRPGの良作(小見出し)」(広尾遊戯 7号 1996年2月  30頁 『風来のシレン』)
「背中合わせのリアリティとゲーム性(小見出し)」(山下章『電脳遊技考』1990年57頁 『遥かなるオーガスタ』について)
「異様に長い召喚獣によるムービーなど、ゲーム性うんぬんよりも、物語、そして映像を見せるという点に全力を投球したVIIは、結果としてプレイヤーの層がごっそり変わったのではないかと思う。」(橋本和明 35号 20001100 45頁 「FFVII、FFVIII再評価総括」)
「でもゲームでは、そのツボがゲーム性とシノギを削っちゃう。」
(「某開発社の製作担当者」38号 2001年5月 40頁 「キャラゲー業界事情」)
「ゲーム機の進化とともに表現スタイルが進化した結果、そこに作家性とゲーム性のジレンマが生まれたような気がしますね。」(渡辺浩弐『大人のためのテレビゲーム学概論』1999年 13頁 対談)
「では、ゲーム性の一部を削ってまで書き出そうとしたストーリーの出来はどうか。」(永沢壱朗 14号 1997年4月 111頁 『テラ・ファンタスティカ』)
「しかし、そういったキャラらしさの表現が、ゲーム性を破綻させるものになると問題だ。」(編集部 38号 2001年5月 40頁 「キャラゲー業界事情」)
「美しいグラフィックと残念なゲーム性(小見出し)」(編集部 5号 1995年9月 19頁 『輝水晶伝説アスタル』)
「ハイスペックを誇る新世代機の登場は、これまで表現力や容量の限界のために眠らされていた、多くの箱を開けた。しかし、その一方で、持て余すほどの新技術に翻弄され、ゲーム性を見失った作品をも、同時に送り出したのだ。」(春生文 1996年6月 9号 25頁)
「「見た目だけ」、「ヴィジュアルばかりを求めてゲーム性がおろそかにされている32ビット機の登場と同時に、こうした評価を受けるゲームが格段に増えた。豊かになった表現力を武器に、広く、浅く、多く、というスタイルを取る32ビット機は、ヒット作を多く生み出すが、その陰には多数のクソゲーの山が築かれているのである。あまりに見た目の演出に走りすぎてゲーム性に対する配慮を忘れ、また趣味性やマニアを重視したゲーム作りを続ければ、ゲームをする層そのものを消し去ってしまう状況を招きかねない危険性をはらんでいる。」(ゲーム批評編集部 1997年上半期11-13号総集編 38頁)

 以上、一度に多く引用したが、とにかく、この種類の形で差異を強調するようなタイプの文章には例を事欠かない。

 基本的に、最も多くの場合差異を強調されるのは「グラフィック」である。「ヴィジュアルばかりを求めてゲーム性がおろそかにされている32ビット機の登場と同時に、こうした評価を受けるゲームが格段に増えた。」といった形でグラフィック(ヴィジュアル)を重視するぐらいならば「ゲーム性」を重視しろ、というような論調は第一章でも書いたようにまさに掃いて捨てるほど存在する。

 グラフィックの次にゲーム性と対立したり差異を強調されたりするものとしては、ストーリー、シミュレータ、ギャル萌え(※22)、作家性、コンセプトなどといったものである。

 だが、「ゲーム性」と一番差異を強調されるのは何といっても「グラフィック」である。これは90年代後半に特に顕著な形で言われるようになったものだと考えていい。引用した文章の中に「ハイスペックを誇る新世代機の登場」「32ビット機の登場」という文字が躍っていることからもわかるように、90年代後半には、90年代前半に市場のシェアをほとんど占めていた任天堂のスーパーファミコンというハード(ゲーム機)に変わってソニーのプレイステーション、セガのセガ・サターン、任天堂のニンテンドウ64などといった一段と高性能になったゲーム機がシェアを争い、「次世代機戦争」などというような言葉も生まれた。(※23)

 これらの「次世代機」の特徴はいくつか挙げることができるが、最も目立った特長としては、第一に3D空間の描画が可能になったという点と、第二にCD-ROMメディアが主流になったことで、使用できるデータ量が飛躍的に増えたということだろう。第一の特徴も第二の特徴もともに、ビデオゲームの中で描画されるグラフィックの制約をまったく別次元のものにまで仕上げてしまった。このことがビデオゲームの市場に出回る作品の性質を変えたことは言うまでもない。

 中でも特に印象的な衝撃を与えたのは97年の1月に国内市場で339万本を売り上げた『ファイナルファンタジーVII』であった。また『ファイナルファンタジーVII』のみならず、90年代中盤を通して非常に売れ行きのよかった株式会社スクウェアの発表したソフトの多くが同様の批判を受けている。(※24)

 当該作品の評価はともかくとして、それらの、ハード性能の進化に伴って発表された作品に対する違和感の表明として、「グラフィック性能の進化」や「映画のようなシナリオ展開」に対する反発という側面から「ゲーム性」という言葉の流通が激しくなっていったということは言えることだろう。中には、「ゲーム性」という言葉が『ファイナルファンタジーVII』の後に生まれた言葉である、との勘違いをしている記述もインターネット上でちらほら見ることができる。

 第7節 ゲーム性という言葉の誕生はさぐれるか

 ただ、誤解のないように注意しておくと、「ゲーム性」という言葉は1980年代からゲーム業界の中ですでに流通している言葉である。起源をたどることはできなかったが、おそらく1980年代のアマチュアとプロとの差異がまだそれほど決定的でなかったような、ゴタゴタとしたゲーム業界の中でいつのまにか流通しだした言葉であるととらえることができるだろう。また、この「ゲーム性」という言葉がゲーム業界の中で生まれた言葉であるかどうかも明確ではない。例えば、以下の文章はゲーム業界とは全く関係のない文脈で使われている「ゲーム性」という言葉の例である

 「飲食の新しい営業形態、ゲーム性のあるヤツを思いついて、一発当てたりしてるよね。客が吹き矢でメニューを射て注文する『吹き矢寿司』とか、すぐ飽きられちゃうような店がブームになって、大儲け。」(ナンシー関・町山広美『堤防決壊』文春文庫 2000 38頁)

 ここで使われている「ゲーム性」という言葉はゲーム業界の文脈とは特に関係などないわけだが、「客が吹き矢でメニューを射て注文する『吹き矢寿司』」というものが「ゲーム性のある」「飲食の新しい営業形態」である、というこの文章はほとんどの人がさほどひっかかりも抱かずに読めるものではないだろうか。

 この用例が示しているように、「ゲーム性」という用語は特にビデオゲームと無関係なところでも簡単に成立しうる。そもそも何かの名詞に「性」という言葉をつけることは極めて容易に行うことのできる造語であり、さほど意識しなくてもいつのまにか喋っていたりするようなレベルの言葉である。「音楽性」「漫画性」「映画性」など、「表現メディアの名詞+性」という用語はいくらでも発見することができるし、もっと変わった名詞の語尾に「性」という名詞をつけることで「××っぽい」「××的な」という意味合いを持たせることはいくらでもできるのだ。また、「ゲーム性」という言葉に冠しても「ゲーム的」「ゲームらしい」「ゲームとして」などという言葉がほとんど「ゲーム性」の同義語に近い形で使われている例もまた数多く観察することができる。

 第八節 表現メディアとしてのビデオゲーム

 前節まででだいたいの指示対象については、議論し終えたと言えるわけだが、まだ残っている指示対象が、「インタラクション」「インタラクティブ性」といったものである。はたしてこれはどのような経緯で登場した概念であると見ることができるのだろうか。

 まず、単に、この概念を考えてみると、この概念は非常に幅広いものであるということがわかるだろうと思う。日本語に訳すと相互行為、双方向行為、といった言葉に訳すことが可能であり、ビデオゲームの場合で言えば、主に、ボタンを押したときに、画面内(ゲームのプログラムの出力結果)から、なんらかの反応が返ってくるというようなことを言わんとするようなものなのであるが、これは考えてみればシステムとしての「ゲーム」にも、また「遊び」にも通用するような非常にオールマイティーな語であるということがわかる。

 たとえば、将棋のプレイヤーが駒を動かすというアクションを起こすことで、盤面の駒の位置は変化し、その変化を対戦しているプレイヤーが受け取り、なんらかのアクションを起こすという形でプレイヤーの入力結果が複雑な処理を経て、出力されそのプレイヤーへと跳ね返ってくる。また、シーソーのような「遊び」でも同様に片方のプレイヤーの行為の結果が相手に伝わり、相手が行為を返すことでまたそのプレイヤーへと跳ね返ってくる。

 この語の概念定義というレベルについて言えば、<行為主体>と<環境>との関係で考えるのか、それとも<行為主体>VS<行為主体>というような関係で考えるのか、などというようなことによって、「アフォーダンス」などという概念との関係性が問われてくることになるのだが、前ニ者の「ゲーム」や「遊び」などといったものと比べると、言葉の一般性がそもそも低いのも手伝って、解釈の揺れ幅は極めて小さいものとなっている。

 はたして、この語は一体何を言わんとしているのだろうか、ということをシステムとしての「ゲーム」や、「遊び」との関連性で考えても、この語の登場した経緯というのは理解しにくい

 その理解をするためのヒントとしては、こういったビデオゲームの著作権に関わる問題を考えてみるのが手っ取り早い。以下は、コナミ株式会社と、スペックコンピュータ株式会社の間で争われた通称「ときめきメモリアル・メモリカード事件」における平成10年3月20日付控訴人準備書面(弁護士:柳原敏夫)(※25)の一部、「核心の一―新たなジャンルとしての「ゲームソフト著作物」の問題提起―」よりの引用である。

「コンピュータ用ゲームソフトの著作物としてのジャンルについては、これまで、判例・学説はこれを一方でプログラム著作物と捉え、他方で映画著作物と捉えてきた(東京地裁昭和五七年一二月六日判決「スペース・インベーダー・パート・」事件・東京地裁昭和五九年九月二八日判決「パックマン」事件等)。しかし、このような著作物のジャンルの捉え方では、いずれもゲームソフト著作物というものが本来有している様々なレベルでの表現形式上の本質的特徴部分の全体像というものを十全に把握できない。なぜなら、これをもしプログラム著作物と捉えてみた場合、キャラクターやセリフや背景やゲームミュージックといった、ゲームソフト著作物において表現形式上最も工夫を凝らしたうちのひとつというべきデータ部分(これらはいずれもデータの形式で記憶媒体に保存されている)の法的な保護が完全に抜け落ちてしまうからである。他方、これをもし映画著作物と捉えてみた場合、今度は、これまでの映画著作物にはない、プレイヤーの入力行為によってゲームソフト著作物の具体的なストーリー展開が実現されていくというゲームソフトに固有の表現形式上の特質のひとつである「インタラクティブ性」の法的な保護というものが同じく完全に抜け落ちてしまうからである。その意味で、ゲームソフトの著作物として有する様々なレベルでの表現形式上の特徴部分全体から見れば、プログラム著作物という捉え方にしても映画著作物という捉え方にしても、いずれも、左記に図示した通り、ゲームソフト著作物という全体集合の中の部分集合、しかもお互いにもぴったりと重なり合わない部分集合にすぎない。」

著作物としてのゲーム
URL:http://www.big.or.jp/~daba/copy/980320tokimekiassert1.html

 裁判の細かい経緯については本論文の目的とは特に関係がないので追わないものとするが、ここで重要なことは、「映画」という表現メディアとビデオゲームという表現メディアの差異を主張するための概念としてビデオゲームにおける「インタラクティブ性」という概念が強調されているという点である。これはとりわけ特殊な事例でもなんでもなく、ビデオゲームの著作権をめぐる裁判においては、当該ビデオゲームの「映画著作物」としての成立の可否が問題にされるため、ビデオゲームと映画のメディアとしての表現方法の差異が議論され、そこではほぼ例外なくInter-actという語を冠した言葉が登場するか、またはプレイヤーとゲームプログラムの双方向性、相互行為の中で成立するビデオゲームの著作物としての特異性が争点として挙げられるのである。

 次に、裁判から目を離してみれば、ビデオゲームについて「インタラクティブ」という言葉を用いるものとしては文化庁メディア芸術祭において作品のジャンル、つまり表現メディアのジャンルを分類する上での用語として「インタラクティブ」という言葉を登場させている。「デジタルアート」というジャンルを設ける上で、「インタラクティブ性のあるインスタレーション作品や,コンピュータ・グラフィックス,ゲームソフト等のパッケージソフト,およびインターネット・ホームページ」と「コンピュータによって制作された動画,および静止画」という作品を分類するための用語として用いられ「デジタルアート・インタラクティブ部門」「デジタルアート・ノンインタラクティブ部門」となっている。また、2001年に出版された『テレビゲーム文化論』(桝山寛)の副題は「―インタラクティブ・メディアのゆくえ―」となっており、「インタラクティブ」という語は「メディア」という語とセットになって、映画、マンガ、アニメ、小説などとの表現メディアとしての性質上の差異を強調する言葉として用いられている。

 つまり、他に言い換えをするとすれば、他の表現メディアとの差異を前提としたところでの「TVゲームの独自性」「ビデオゲームの独自性」というような言葉に表現を直すことができるだろう。例えば、「インタラクション=ゲーム性」という表記を行っていた松谷創一郎が後に「ゲーム性」という表記を部分的には放棄する形で、それと区別して「TVゲーム性(映像に触れる楽しさ)」という造語をひねりだしたことは非常に興味深い例であると言えるだろう。

 また、興味深いと感じられるのは、「インタラクション」という言葉が表現メディアとしてのビデオゲームの独自性というような発想を強くイメージしたところで繰り出されている言葉であるのにもかかわらず、それがシステムとしての「ゲーム」や、「遊び」との差異をほとんど強調できないでいる、という点である。そのため、ほとんどいつも「ゲーム」や「遊び」というニュアンスで「ゲーム性」という言葉を使っていた人々が、きまぐれ「ゲーム」の定義論をはじめようとすると「インタラクティブ性」「インタラクション」などという言葉が唐突に繰り出されるというような事態も発生しうる。なにゆえにビデオゲームメディアの<外部>のメディアに対しては、その「表現メディアとしてのビデオゲーム」を主張しうるのに、ビデオゲームメディアの<内部>に対しては「表現メディアとしてのビデオゲーム」を主張できない(しない?)のだろうか。

 「表現メディアとしてのビデオゲーム」を主張する人々は、飯田和敏(※26)の独特の存在感に象徴されるように、そのような立場を打ち出せば、ゲーム業界の他の人間との毛色の違いは、かなり目立つものだし、ゲーム業界における自らの立ち位置に比較的、自覚的な人が多いというか、どう転んでも自覚的にならざるを得ない状況にあると言ってもよい。それなのになぜ、「インタラクション」というような形での差異の強調しか行われないのか、やや奇妙な現象であるように思える。

 第9節 指示対象の関連構造

 以上の議論を踏まえて、再度整理して見取り図を示そう。

見取り図

 見取り図で示した[a]~[g]までそれぞれ具体例を挙げると以下のようになる。

 [a].自発的でなく、楽しまれていない将棋、チェス、ボクシング、相撲など

 [b].自発的でなく、楽しまれていない『シーマン』(※27)『パイロットウィングス』(飛行シミュレーションゲーム。パラグライダーやスカイダイビングなど、様々な飛行を疑似体験することができる。)など

 [c].自発的であり、楽しまれるスキー、ブランコ、登山、ままごとなど

 [d].自発的でなく、楽しまれない『テトリス』や『カルドセプト』(※28)など

 [e].自発的であり、楽しまれる『シーマン』『パイロットウィングス』など

 [f].自発的であり、楽しまれる将棋、チェス、ボクシング、相撲など

 [g].自発的であり、楽しまれる『テトリス』や『カルドセプト』など

 さらにこのカテゴライズにそった理想的論者を想定して説明すると、システムとしての「ゲーム」のイメージを重視して「ゲーム性が重要だ」という議論をする論者からは、[b],[e]のような形のものは毛嫌いされ「ゲーム性が貧弱だ」と非難される対象となるし、ビデオゲームの独自性を重視する論者は、[d][g]のようなものについても非難はしないが、[b][e]に属するようなものを重視するような発言をする。そして「遊び」という言葉を念頭においた論者からすれば[d][b]のようなものよりも[g][e]を、ということになる。

 繰り返すが、ビデオゲームの独自性を重視する論者は自らの立場に「ビデオゲームの独自性」と「ビデオゲームの特に独自ではないもの」という区分をする意識もあり、「TVゲーム性」などといった言葉も飛び出すことになるわけだが、「ゲーム」と「遊び」の領域はたまに区別されたりすることもあるが、基本的にはほとんどイメージがまじりあっていると言ってよい。それゆえに、実際の差異は図の示すようなはっきりとした分離を示しているわけではない。

 [第二章のまとめ]

  では第二章の内容をごくごくおおざっぱにまとめておこう。

 まず、重要なことは「ゲーム性」という言葉の指示対象は、一定していない。

 たとえば、遊び論の分野からの区別を持ち込むとすれば、

   A.ルールをもった「ゲーム」と、

   B.ルールを特に持たない「遊び」の概念の区分で見てみると、

 ルールをもった「ゲーム」というものを「ゲーム性」という言葉の指示するところとして強力に意識する佐藤雅彦のような人もいるが、「ゲーム性」のニュアンスをもっと広げて「楽しいこと」「面白いこと」「遊び」といったようなニュアンスで使う人もきわめて多い。

 そして、それらとは別にで、映画や漫画、小説などといった他のメディアとビデオゲームの差異を強調するための言葉として

   C.インタラクション

 などといった言葉がでてきている。

第三章 形容詞、形容動詞、動詞など

 本章では、「ゲーム性」という単語とセットにして使われる、形容詞や動詞などを中心に見ていく。

第一節 定義論

まず、入力した470の用例を見ていくと、「ある」「ない」「存在する」「存在しない」などといった言葉が非常に多く使われているということを確認することができる。

 それに類する表現が使われているグループを三種類に分けて以下に提示する。

 A.が存在する、は…として存在し、は存在する、があり、がある、を有している、を有する

 A'.のない、が不在の、の存在しない

 B.の付加、の付与、を付加、を持たせる、が持たされ

 B'.が失われている、がなくなり

 C.を生み出す、を打ち出した、を打ち立て得た 2回、を打ち出している、を打ち立てる、を成立させ、を成立させるため、を生み出している、を生み出す、を生んでいる

 C'.を否定し、を否定する、を破綻させる

 これらはいずれも「ゲーム性」のある・なしを論じることによって、その言葉の使われている対象が、「ゲーム」という属性に属するかどうか、といったことを問題にしているといっていいだろう。

 ここで、発想されているのは、「何がゲームであるのか」そして「何がゲームでないのか」といった集合Xと、集合Xに属さないものは何かということを考える発想、A対非A、というような関係性を考えるような定義論であろう。

 そして、こういった発想は、特に以下のような場面で、重要になってくる。

『ファミ通』が2001年に出した、増刊『クロスレビュースペシャル2001年上半期』で、「Q4.クロスレビューで取り上げないゲームは?」という問いに対して

 「クロスレビューでは基本的に全てのゲームを取り上げている。この"ゲーム"というところがポイント。ゲーム性の低い、またはゲーム性のない麻雀や将棋、コンストラクションツール、占い、予想ソフト、マルチメディアソフトなどについては、ゲームとしての評価ができないということでクロスレビューでは取り上げていないのだ」(24頁)

 と、雑誌「ファミ通」がクロスレビューコーナーで一体何を扱かって何を扱わないのか、おもむろに「ゲーム」であるもの/「ゲーム」でないもの、というものを区分する場において、「ゲーム性のない」という表現が登場してくることになる。

 また、この中で注意しておきたいのは、「ゲーム性のない」という表現と「または」という言い換えの接続詞で結ばれる形で「ゲーム性の低い」という言葉が登場しているということであろう。「ゲーム」であるもの/ないものの境界線が定義論、例えばシステムとしての「ゲーム」という指示対象を前提にした場合は「目標」「ルール」、あるいは表現メディアとしてのビデオゲームの独自性を主張する場合には「インタラクション」などといった要素の定義による議論によって、截然と「ある/ない」という発想をする場合もあるが、このような形で「ゲーム性の低い」もののいわば究極的な形として「ゲーム性がない」という表現が登場してくることになっている場合もあるのだということである。

 次に、A、A'、B、B'、C、C'の表現上の差異であるが、これについても簡単に触れておこう。

 まず、AおよびA'のような表現というのは、最もオーソドックスなものであり、今までの記述で触れてきたところである。

 BおよびB'の表現の特徴は「付与」「付加」などといった表現であるので、そもそもは「ゲーム性がないもの」であったところに、「ゲーム」ないし「遊び」としての性質が備え付けられ、といったようなニュアンスになる。たとえば、以下のような用例にそのニュアンスはよく現れているだろう。

 「これまでミニゲームの集まったソフトと言えば、ストーリーを進めるための手段として、ゲーム性が付加された物がほとんどで、そのストーリーに対しての必要性はあまり重要視されていなかった。ところが、この「スター・ウォーズ 帝国の影」は、同じミニゲームの集まったスタイルでありながらも、その個々は、原作のストーリーに沿った主人公ダッシュレンダーの活躍を特化させた形でのゲーム性の付加であり、あくまでも物語ありきなうえで、主人公との一体感を得られるような形となっている。」(岡元健三 16号 1997年9月 114頁)
 「元来Hゲームにおけるゲーム性の意義は、Hな画像を見るための手段として設定されたものが始まりだ。…(中略)…
 現在では単なるHゲームを見るための障害としての存在を越えて、その過程(システム)を楽しませる程のゲーム性を持たせた作品も多く、そのなかで洗練されていった操作システムも多い。」(加藤サイ九朗 9号 1996年6月 39頁)

 CおよびC'の表現の特徴は主に「新しい」「新たな」という言葉を伴って、「新しいゲーム性を打ち立てた」などといった形で使われることが多い。基本的なニュアンスとしてはAおよびA'とさほど変わるところはないのだが、「ゲーム性」というものを誰かが主体的(積極的)に生み出したり、否定したりする、といったような行為者によって左右されるものであるというニュアンスが強調されている。

 第二節 高い、低いといった量的概念(比較可能な、一元的イメージとして)

   さて、次に「もっとゲーム性を重視」「ゲーム性を追求」であるとか、「ゲーム性を軽視」「よりゲーム性が浅い」といったような形で、「ゲーム性」という言葉のイメージが定義論ではなく、量的なイメージに変換されて、比較されるような言葉使いのなされる場合というのを見ていくことにしよう。

 まず、具体的に肯定的な表現と否定的な表現には以下のような言葉が用いられている。

 [肯定的表現]

  完璧なまでの、確かな、確固たる、奥の深い、考え抜かれた、高い、高度な、良い、練り込まれた、豊かな、深い、水準以上の、卓越した

 [否定的表現]

  甘い、希薄な、浅い、薄い、ゼロの、底の浅い、

 これらの、表現が使われる際の重要な点の一つとしては、前述の対象を定義するようなAと非Aを差別化する条件の設定、つまり「ルール」「目的」の有無といったようなものでは言い換えの表現としては機能しない場合があるということである。例えば、「ルールが高い」などといった表現はそのままではあきらかに奇妙な表現であり、何を言わんとしているのか推測しにくい。

 それゆえ、このような量的な概念として想定されているような場合の言い換えの表現が考えられるようなときには、「高い」「低い」といったような表現を伴ったとしても受け入れられるような形の言い換え表現というのが選択されることになる。これをそれぞれの指示対象ごとに見てみよう。

A.システムとしての「ゲーム」を前提に考えた場合

 このような指示対象を前提に考えられている場合にはおおむね、以下のような言い換えが行われるような形になる。

 「ルールからくる面白さ」

 「駆け引きの面白さ」

 「戦略性」」

 主な言い換えはだいたいこれで事足りると思われる。

 「駆け引きの要素が多く、奥深い」:「ゲーム性が高い」

 「駆け引きの要素が少なく、底が浅い」:「ゲーム性が低い」

 といったような形となる。

 中には「戦略性が高い」≒「難易度が高い」、「戦略性が低い」≒「難易度が低い」といったようなつながりから転義として、「難易度」というような意味で用いられることがある。例としては、ビデオゲーム自体の中に登場するテキストとしてはおそらくはじめて「ゲーム性」という言葉を用いたと思われる『暴れん坊プリンセス』(2001)における難易度(※29)の選択画面で三種類の難易度を選ぶことができるようになっているのだが、その三つの選択肢には以下のような表現が使われていることになる。(括弧内は筆者の注)

 「シナリオどっぷり、戦闘は軽めで」(=難易度が低い)

 「シナリオとゲーム性、半々ぐらい」(=難易度が普通)

 「シナリオよりも戦略を楽しむ」(=難易度が高い)

『暴れん坊プリンセス』の難易度選択画面

(『暴れん坊プリンセス』 2001 アルファシステム)

 B.「遊び」を前提に考えた場合

 これはほぼ、単に「面白さ」と言い換えをすれば十分であるといっていいだろう。

 「面白い」:「ゲーム性が高い」

 「面白くない」:「ゲーム性が低い」

 となる。

 C.「ビデオゲーム」の独自性、という発想を前提に考えた場合

 これについては、なかなかに議論の難しいところとなる。

 矢田真理(※30)はビデオゲームの独自性、という意味での「ゲーム性」の重要な指標とは、「没入感」ではないか、という要素(※31)を挙げ、松谷創一郎はシステムとしての「ゲーム」のような対象における「ゲーム性」を「駆け引きの妙」であるとした上で、それとは区別して、「TVゲーム性」を「映像に触れる楽しさ」と規定している。

 また、もっと漠然としたところでは「インタラクションによる面白さ」といったようなものもある。(※32)

 第三節.多元的イメージ ー多元的比較、多元的ゆえの比較の不可能性ー

   

 さて、次に扱うのは、複数の典型例をイメージした場合、ないしは、複数の集合をイメージした場合に成立する、多元的イメージによって語られる「ゲーム性」の存在である。まず具体例を以下に列挙していくことにしよう

  A.新しい  B.作品名とのセットで   C.ジャンルとのセットで  D.社会的な単位とセット  E.社会的な受容とセット  E.行為とセット       F.システムの一部     G.シンプルな複雑な 

  【その他】

リアルな、ストイックな、スリリングな、自由度の高い、自由な、失われつつある、社会性の中から生まれる、攻撃的な、骨太で斬新な、虚構を生かした、経営めいた、etc......

 これらのイメージは、主に単語の前について単語を修飾したり限定したりする形容詞、形容動詞などが多元的なイメージの成立に貢献することになり、以下のような性質を持っているということがいえるだろう。

 [1]どのようなものでもいいから特定の集合(または、典型)を作ってしまえばそれで表現が成り立つ。例えばD+C+Eみたいな言い方はすぐにできあがってしまい「「日本の」+「RPGの」+「経験地稼ぎをするという」+「ゲーム性」とは…」というような表現もおそらく違和感がなく発生するものだろうと思われる。

 その表現が妥当であるかどうかは別にして、単に表現としては成立してしまうのである。

 [2]ビデオゲームにおける(プレイヤーの)行為、ビデオゲームのシステム、戦略性などの「ゲーム」のはらむ概念とセットになって使われる「ゲーム性」という言葉はインタラクション、ゲームシステム、戦略性、難易度などといったものと言い換え可能だとしても、それとは全く関係のない社会的な単位や社会的な受容のあり方とセットで語られる時の「ゲーム性」という言葉はほとんど「作品性」「作品の性質」だとか、そういった言い換えしか不可能だと思われる場合が多くなってくる。そのようなケースでは、「ゲーム性」の意味は、単語の前につけられた、「任天堂」「日本」「ポピュラーな」などといった集合の定義の方に意味がひっぱられ、

  「任天堂のゲーム性」 → 任天堂の作品という集合に共通の性質

  「日本のゲーム性」 → 日本の作品という集合に共通の性質

  「ポピュラーなゲーム性」 → ポピュラーに受け入れられている作品に共通の性質

 といったような意味合いが強まることとなる。

 また、この時の「ゲーム性」の「ゲーム」のニュアンスは、システムというやや抽象的な概念としての「ゲーム」というようなものとしてよりも、むしろ物体としての「ゲームソフト」というような意味合いが強まっている可能性が強い。

 第四節.定義論、比較論、多元的イメージの関係性について

 前節までの、定義論や比較論、多元的イメージといった形で発想される「ゲーム性」はそれぞれ別の文脈に依存するものではない。

 定義論も比較論も多元的なイメージというものも、すべて同じような文脈の中で同時に発想されうるような性質を持っている。

 その点についての議論は以下に田中茂範・深谷昌弘 の『<意味付け論>の展開』(1998 紀伊国屋書店)から引用することとしよう。

「人間は与えられた情報の中から中心的な傾向を認識する能力を生来的に備えており、それにより典型的表象を漸進的に形成する。もしそうだとすれば、典型化が作用する概念に関する限り、概念内容の共通性を想定することが可能となり、それが意味の共有感覚を支えている、と主張することが可能になろう。
 この話の傍証として、深谷・田中(1996:129-130)で取り上げた次の(女子中学生の間で交わされた)会話をここでも再録してみよう。
 
 A「彼、どんな顔なの?」
 B「彼の顔はね、○○君の顔をもっとショーユにした感じなの」
 A「そうなんだ」
 
  「○○訓の顔をもっとショーユにした感じ」という表現をBが使用し、Aがそれを理解するためには、次の三つの条件が満たされなければならない。

(1)差異化条件

 「ショーユ顔」と「非ショーユ顔」の差異化が図られなければならない。

(2)一般化条件

 「もっとショーユにする」という比較表現を用いるには「いろいろなショーユ顔」があることが前提になければならない。

(3)典型化条件

 「○○君の顔をもっとショーユにする」と表現するには、典型的な「ショーユ顔」(典型値)が基準として想定されていなければならない。」(125頁~126頁)

 この議論を、本論文の文脈に即して考え直すとすれば以下ようになるだろう。

  定義論  → 集合Xに含まれるか否か。A対非A。

  一元的比較 → 集合Xの中での究極の典型的イメージとの距離がどの程度あるか

  多元的比較 → 集合Xの中での複数の「典型」との距離がどの程度あるか

  多元的であり比較不可能 → 「典型」を持たない。あるいは「典型」の拒否・忘却

 このような形で、「ゲーム性」という言葉の使われ方は文脈によって分散しながらも、同時に意味のリアリティを形成することが可能になっているのである。

第四章 発話される現場

 本章では、第二章および第三章の議論を踏まえた上で、「ゲーム性」の言葉の使われ方を見ていき、一体どのようなことがいえるのか、を提示していくことを目的としている。

第一節 対立する要素・融合する要素

 まず、以下に、「ゲーム性」という言葉の非指示対象、つまり、「Aというよりもゲーム性ではないか」「Aよりもゲーム性の方が」「ゲーム性にとってAという現象は問題となる」などという形で、あきらかに「ゲーム性」とは違う要素として、発想されている語彙、すなわち、「ゲーム性」という言葉の使用者が、「ゲーム性」という言葉とその言葉を別の概念として発想しており、言い換え不可能であると考えていると推測される要素をいくつか一覧にしてみた。

 まず、「ゲーム性」という言葉と言い換えが不可能であり、それと対立するというように見られている概念が以下のようなものになる。

[「ゲーム性」と対立すると考えられているもの]

シミュレータ、リアリティ、

ストーリー、物語

物語、そして映像を見せるという点

グラフィック、ヴィジュアル

キャラらしさの表現、原作モノの”原作のツボ”

作家性

 これは、「ゲーム性」という概念が、これらの要素と差異を強調する形で用いられてきたということは第二章で書いたとおりである。

 それよりも面白いのは「Bはゲーム性と見事に融合している」「Bはゲーム性をより奥の深いものにしている」というような形で、「ゲーム性」の指示対象ではないが、「ゲーム性」と融合したりブレンドされたりすることで、「ゲーム性」を「奥の深い」ものにしたり「高めたり」している概念として想定されているのは以下の概念である。

[「ゲーム性」をより奥の深いものにするもの]

シミュレータ化

物語性、映画のような物語性、シナリオ、感情移入

キャラクター性、キャラクター

グラフィック、ビジュアル

シュチュエーションから自然に発生する相互協力

「ドリフトを行う=早く走れる」という虚構

インタラクティブな会話を成立させるために用意されたボールのやりとり

自由度、もっと動きの幅やパターンを広げるということ

欠点

全消しや相殺のアイデア

バグであるはずの現象

コンセプト

 さて、一目見ていただければわかるだろうとは思うのだが、「ゲーム性」と「対立」する、と思われていた要素の主要なものは、同時に「ゲーム性」を「奥の深いもの」にし「高めたり」する要素としても語られているのだ。

 これは実に興味深いことだが、一体、このような現象が何故、起こっているのだろうか。

 一つ一つの事例を観察しつつ、検証していこう。

1.シミュレータ

 まず「シミュレータ」および「シミュレータ化」という言葉だが、「ゲーム性」と対立している、と想定されているものから引用する。」

「バイクや車といったモータースポーツをゲーム化しようとしたとき、常に大きなジレンマに突き当たる。シミュレータに徹するか?虚構を生かしたゲーム性を重要視するか?ということだ。バイクでいえば、スリップダウンを設定するか否かということになる。
 シミュレータとしてリアルになればなるほど、ゲームにはならない、難しくなりすぎるのだ。先にも触れたが、非常に不安定な乗り物であるバイクは、ちょっとしたアクシデントで簡単にバランスを失い転倒してしまう。…(中略)…
 かといって無理な挙動でも転倒しないのであれば、実に嘘臭い。」(中条雅弘 36号 2001年1月 33頁 『MotoGP』)(※33)

 

そして、以下二つが肯定的な使われ方をしている例である。

「ラリーの楽しさをよりリアルに伝えようという意図が感じられる…(中略)…
 砂利や雪面などの路面状況を眼で見るだけでなく、路面を捉えるタイヤの感覚を筐体の振動により腰で感じることができるのだ。もちろん「ツーリングカー」で採用されたグリップするタイヤの粘りをハンドルで表現することも忘れられていない。「セガラリー2」は画像だけでなく優れた体感もあわさってリアルなレースゲームになっているのである。…(中略)…
 シミュレータ系とゲーム性の二つの方向性を持つレースゲーム。」(山内智和 22号 1998年 9月号 117頁)
「編:それで「電車でGO!」を作られて。良く現実とゲームが同じではつまらないと言われますが、シミュレータの分野ではちょっと違いますね。
 齋藤晃:ある程度リアルなところに面白さやゲーム性を見出す遊び方をしますから、シミュレータは通常のゲームとは違いますね。」(16号 1997年9月 64頁)

 また、このような形での「シミュレータ」という形の価値が否定的な意味をもたされたり、肯定的な意味をもたされたりするということが変化しているのは、上記の例に限った事例ではない。それは、有名なクロフォードと、コスティキャンの各々の議論においても、「ゲーム性」という語彙ではなく「ゲーム」という言い方だが、かなり似たような構造の相違が発生している。

 当該部分を引用することとしよう。

「主観的な世界の再現と、客観的な世界の再現の違いは、ゲームとシミュレーションの差を考えるとわかりやすい。シミュレーションは、実際に起きる現象をさまざまなパラメータを用いて精密に表現しようとする。一方、ゲームでは、その現象をできるだけシンプルに表現しようとするのだ。シミュレーションの研究者は、あまりに複雑で計算が追いつかないとか、現象がややこしすぎて理解できないという場合に、仕方なしに現象の単純化を行う。それに対して、ゲームデザイナーはデザイナー自身が一番大事だと思っているパラメータにプレイヤーの意識を集中させるために、喜んで現象を単純化するのである。両者の目的には明確な差があるのだ。シミュレーションは、何かを計算したり評価したりするために行われるのに対して、ゲームは娯楽のため、そして何かを教育するために行われるのである(もちろん、その中間的なものも存在する。たとえば、教育のためにシミュレーション的な要素の多いゲームが行われる場合など)。」(クロフォードのゲームデザイン論 1982 http://www.scoopsrpg.com/contents/special/acgd/Chapter1j.html)
「前述したように、雰囲気というものはゲームをとても魅力的なものにしてくれる。そして、現実に存在する何かをシミュレートするというのは、この雰囲気作りのための1つの有効な手法なのである。」(コスティキャンのゲーム論 1994 http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html)

 どうだろうか。

 これらの議論についてまず言えることは議論の中で用いられている語彙は同じもの(「ゲーム性」「シミュレータ」)であっても、その対立構造は別のもの、として構成されているということだろう。特に「ゲーム性」の指示対象のありようは、議論のたびにズらされていっているのだが、一見するとやや気づきにくいかもしれない。

 それぞれの議論のパターンを見ていくと、「ゲーム性」と「シミュレータ」の関係が否定的に扱われている場合は、いずれも「難易度」か「面白さか」という指標において、語られている。

 「シミュレータとしてつきつめていったら難易度が高くなりすぎて「ゲーム性」が低くなる。」

 というような形で、だいたい前後文脈まで合わせて読むと、<シミュレータとしての正確性>を取って、難易度を高くしすぎるか、あるいはそれをあきらめて「難易度を一般的に受け入れられるようなレベルのものにすることによって発生する面白さ」をとるか、というような解釈をすることができるだろう。ちなみに、「ゲーム性」という言葉の解釈の仕方の一つに「難易度の高さ」という解釈が可能であるということは前述のとおりだが、ここでは「難易度の高さ」は「ゲーム性」にとっての対立概念としてあらわれているので、「難易度の高さ」というような解釈が可能な余地はほぼないものであって「ほどよい難易度」というような意味合いとして解釈するのが妥当だろう。

 そして、次に、「ゲーム性」と「シミュレータ」の関係が肯定的なものとして語られている例であるが、こちらの議論の場合は「シミュレータとしての性質が醸し出すリアルな雰囲気」によって「面白さの程度」や「プレイの仕方」が高められたり作られたりするという議論になるだろう。『電車でGO!』のインタビューで開発者の斎藤晃が用いている「面白さやゲーム性を見出す」という言葉の使い方は比較的珍しいタイプのものだが、「プレイの仕方」「独自のインタラクションのあり方」などといった、いくつかの解釈ならば前後文脈と合わせても問題のないような形で読むことができる。「雰囲気」によって発生する「面白さ」「快感」「臨場感」、および「リアリティの追求」が生み出す「リアルな操作感覚(から発生する<面白さ><臨場感>)」といった関係で問題が語られており、ここでは「難易度」の調整の問題をどのように解決したのか、ということが問題の中心となっているわけではなく、リアリティを追求したことによる臨場感の生成、というようなほぼ全く別の議論が、同じ言葉を用いてなされているという状況になっているのである。

 そして、ほぼ全く違う議論をしているのであるから、「シミュレータ」と「ゲーム性」が対立している、と書かれていたことの中で問題になっていたことというのは、「シミュレータ」と「ゲーム性」が融合している、と書かれていたものの中で解決しているわけでは全くないのである。

 それゆえに、先に引用した、「シミュレータ」と「ゲーム性」の関係が肯定的に書かれている文章では、リアリティによる臨場感の生成といったような形での「シミュレータ」と「ゲーム性」との「融合」という関係以外にも、このような記述が費やされることになる。

 「何かをちゃんとシミュレートしようとすると、単に雰囲気作りのために名前だけ拝借するのと比べて、まず確実にゲームが複雑になってしまう。だから、全てのゲームがシミュレーションという手法を取り入れるべきだと言うつもりはない。
 しかし、シミュレートという手法は、ときとして真に驚くべきパワーを発揮することがあるということもまた事実なのである。」(コスティキャンのゲーム論 1994 http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html)
 「当初はコミカル路線でという話もあったんですが、そうするとシミュレータ好きの人も一般の人からも敬遠されるだろうということで、最後までリアルな方向で進めました。それでも「電車GO!」もシミュレータと言いながら、制動距離などをアレンジした面もあるんです。本当は信号などももっと複雑ですし。でもやりすぎると一般のお客さんに受けなくなってしまう。一般の人が持っている鉄道のイメージをできるだけ拾っていきながら、同時に鉄道マニアの方にも納得してもらえる最低のルールは守っていくわけです。」(斎藤晃 16号 1997年9月 64頁)
 「レースゲームに限らずリアル指向のゲームは得てしてマニアックな敷居の高いものになりがちなのだが、「セガラリー2」はコース幅を広く設定し、対戦時も「ツーリングカー」では取り入れなかった順位別速度補正も復活して、一般層も気持ちよく乗れ、遊べるようになっている。」(山内智和 22号 1998年 9月号 117頁)

 以上のように、「シミュレータ」に徹した時の難易度の向上をどう処理するのか、という問題については「シミュレータ」と「ゲーム性」が融合した、という文脈では語られていないのだ。

2.「グラフィック」対「ゲーム性」、「ストーリー」対「ゲーム性」

 では、その他にグラフィックやストーリーについてもその対立・融合の事例を簡単に見ていくことにしよう。以下はそれぞれ「グラフィック」と「ゲーム性」、「物語」の関係性について肯定的に語った文章である。

 車バカ一代(読者) 34号 2000年9 125頁 「DC版『首都高』は偉大なB級ゲーム?」

 「そして、DCならではの美麗なグラフィック。ゲームで遊びながら画面に映る風景は瞼の裏にうかぶもう一つの首都高である。『電車でGO!』を初めて遊んだ時に感じた既視感と同じものを感じた。はっきり言ってSFCやPSではここまで表現はできない(PS2では楽にできるかもしれないが)。なんだかんだ言ってグラフィックの進化はゲーム性にも大きな影響を与えているのだ。」

 米光一成 43号 2002年3月 94頁 『ICO』

「少年は少女と出会う。…(中略)…
 少女の手をしっかり握り、悪の手から逃げ出すために霧深き古城の中を冒険する少年。
 しかも、これが、ただ物語の必要性だけから発生しているのではなく、ゲーム性に深く結びついている。
 …(中略)…少年であるプレイヤーは、飛んだり跳ねたりしながら、少女と一緒に進む方法を見つけなければならない。…(中略)…さらに感動的なのは、いきづまって呆然としていると、少女がある場所を指差している。そこへ行って、あれこれやっていると、先に進むキーを発見できる。少年は知恵では劣っている…(中略)…
 そういったシュチュエーションから自然に発生する相互協力がゲーム性に融合している。画面に登場する2人のキャラクタがいとおしくなる。…(中略…
 ゲーム性の高い物語の展開のヒントはこのゲームの中にあると確信する。」

 そして、それらの発言の前提となっているといえるような典型的な形での「グラフィック」と「ゲーム(性)」、「物語」と「ゲーム(性)」という対立軸の否定的な状況認識は以下のようなものである。

 「もともと物語とか言葉といったものが不要であったゲームに、そうした要素が入ってきたのは、書物を出発点とするRPG、AVGの登場と時期を同じくしている。「敵が襲ってきた!倒せ!」程度で十分だったゲームの中の物語は肥大化の一途を辿り、また物語を伝える媒体としてのゲームの役割もますます大きくなっている。そして今、ゲームは、自動イベントの多用や、ムービーの挿入という形でこれに対応しようとしている。だがそれが安易に使われているゲームも非常に多い。垂れ流されるCGムービー。ゲーム部分との齟齬。洗練されていないセリフ等々。これはテーマの未消化などという物語の本質以前の問題。いかに伝えるかというテクニカルな問題である。CGの表現的な質の向上や秒間フレーム数など、ゲームの技術の向上は確かにあった。だが物語を伝えるという部分におけるゲームの技術はそれほど向上してはいないように見える。」(古圧浩二 1999年上半期23-25号総集編 『メタルギアソリッド』67頁)

 これらの議論は「シミュレータ」と「ゲーム性」の関係性ほどに明確な形ではないが、これらの議論についても同様の指摘がある程度は可能であろう。

 まず、「グラフィック」と「ゲーム性」の関係性の話で言えば、ネガティブな形で論じられている時に問題になっているのは、「垂れ流されるCGムービー」という語に要約されているといってもいい。「垂れ流されるCGムービー」とは特に『ファイナルファンタジー』シリーズにしばしばよせられる批判で、ある程度までゲームをすすめると、物語の展開を伝えるためにCGムービーがゲームのプレイ途中に突如挿入される。その時間中にはプレイヤーは操作することができず、ただムービーを見るしかなくなり、「ゲーム」とは全く別の体験を強制されることになる。荒く言えば、そのような形の批判なのだが、ここで肯定的に書かれている「グラフィック」と「ゲーム性」の問題は、そのような問題に対する反論なのではなく、むしろ「グラフィック」の向上によってひきおこされる臨場感の問題であり<操作不可能な時間>に対して、それを「ゲーム性の剥奪」ではないか、という議論とは異なる性質のものである。(※34)

 次に「物語」と「ゲーム性」の関係であるが、この議論(※35)も奇妙な状態にあると言える。それまで批判を浴びてきている問題と言うのはビデオゲームという表現メディアの中で「一つの物語」が可能かどうか、という問題であるのに対して、ここで論じられているのは、「プレイヤーとゲームプログラムとのインタラクションの体験の中で生成される物語というのは素晴らしい」という話である。(※36)

 さて、それでは、これらの指示対象のズレの発生という現象は何故発生しているのだろうか。

 それはおそらく語り手が「グラフィック対ゲーム性という対立」「物語対ゲーム性という対立」「シミュレータ対ゲーム性という対立」という言説を自身の中に内面化し、それを前提としたところで発話をしているからではないだろうか。それゆえに、語り手は他の言葉を選びとるのではなく、何よりも<メジャーな(対立)要素>と「ゲーム性」という言葉の構造の中で思考をしてしまっているのではないだろうか。

 その議論を支持する根拠としては、「××とゲーム性の融合」といった言説が最も多く発生しているのは、「マイナーな(対立)要素」&「ゲーム性」という関係性における場合ではなく、「メジャーな(対立)要素」&「ゲーム性」という関係性の場合の方にこそ、こういった「融合」の議論がしばしば登場しているという事実だろう。

 テクニカルタームの登場や、そのテクニカルタームによってある種の議論が盛んに論じられるということは、そのテクニカルタームによって語りうる問題を意識に上らせることで特定の議論を深めるために大きく機能する。と同時に、そのテクニカルタームが登場したために議論はそこで止まってしまう可能性をはらむ。ある特定のテクニカルタームによって考えることが大きな権力を持つ限りにおいて、その権力の内部において行われる議論は、そのテクニカルタームのはらむ限界をも同時に抱えてしまうことにならざるをえない。

 「ゲーム性」と<物語>、<グラフィック>、<シミュレータ>といったものとの「対立」の言説は、そういった限界をはっきりと示すものである。

第二節 指示対象と発想の構造

 ここまで議論したことで、だいたい「ゲーム性」という言葉が

  1.どのような指示対象を意識するときに

  2.どのような発想(定義論か比較論か、など)を伴うか、

 ということを、縦軸と横軸にとって、「ゲーム性」という言葉に込められる意味がどのように変化してくるのか、ということをまとめると、大枠では以下のような図に集約される。

→言葉の表現(形容詞)

↓議論の対象(指示対象)
「ゲーム性」の有無
(ゲーム性がある/なし、という表現の場合)
=ゲームの定義の問題とセット  
ゲーム性の一元的比較
(ゲーム性が高い/低い、という表現の場合)
=ゲーム評価の絶対軸
ゲーム性の多元比較
(××的なゲーム性が高い/低い、という表現の場合)
=多元的なゲーム評価
ゲーム性の比較不可能性
(新規の/独自のゲーム性、という表現の場合)
=経験の新規性/独自性の表現
「遊び(=面白さ)」の特質が問題とされている場合 面白いと感じられるかどうかによって、ゲーム性の「ある」「なし」が問われる。面白さを成立させているものの中身は何でもよい。 どの程度面白いか、によってゲーム性の「高い」か、「低い」かが決まる。面白さの中身は何でもよい。 あるタイプの「面白さ」が存在していることを前提とされて評価される。たとえば「ドラクエ的なゲーム性で言えば、ドラクエVが一番だった」といった表現。 独特の/新規の面白さが感じられるかどうかで、「独自の」「新規の」という褒め言葉がつくかどうかが決まる。(面白さの中身はどういった種類のものに支えられていてもよい)
「ゲーム」の特質 ルール・目標・自由などの「ゲームの成立要件」を満たすかどうかによって、ゲーム性の「ある」「なし」が問われる 駆け引きや、戦略性、トレードオフといった要素の充実度合いによってゲーム性の「高い」か、「低い」かが決まる。 あるタイプの「駆け引きの面白さ」のようなものがが存在していることを前提とされて評価される。たとえば「二人零和ゲームでは、囲碁を越えるゲーム性を持つゲームはない」といった表現。 独特の/新規の駆け引きや、トレードオフのシステムの実現と感じられるかどうかで、「独自の」「新規の」という褒め言葉がつくかどうかが決まる。
「ビデオゲーム」の特質が問題とされている場合 インタラクティブな要素があるかどうかによって、ゲーム性(テレビゲーム性)の「ある」「なし」が問われる インタラクティブな要素がどの程度充実しているかどうかによって、ゲーム性の「高い」か、「低い」かが決まる。 あるタイプを持った「面白さ」が存在していることを前提とされて評価される。たとえば「ドラクエ的なゲーム性で言えば、ドラクエVが一番だった」といった表現。 独特の/新規のビデオゲームならではのインタラクションを実現していると感じられるかどうかで、「新規の」、「独自の」という褒め言葉がつくかどうかが決まる。

 やや、大胆な図と見えるかもしれないが、実際には二列目の「遊び」と「ビデオゲームの独自性」を主張するというような場合は、定義論にせよ、比較論にせよ、基本的な発想の仕方にたいした違いはないので、さほど大胆なことを言っているわけではない。

 ただ、やや大胆に見えてしまうかもしれないのは、一列目の「ゲーム」という指示対象を想定にしている場合だろう。

 これが定義論として発話される場合、すなわち「ゲーム性がある」「ゲーム性がない」という議論をする場合、その発想は「ルール」「目標」などといったものに解体され、「ゲーム性が高い」「ゲーム性が低い」などといった使い方をする場合は、「駆け引き(の面白さ)」「戦略性」「難易度」といった概念になる、という議論になっているのだが、定義論的な言い換えと、比較論的な言い換えが同時に行われているという、この議論にぴったりの文章があったので、以下に引用しよう。(傍線部は筆者)

「TVゲームは主に「ゲーム性(駆け引き)」を軸 に一元的に支持され、語られてきましたから。ただ、「ゲーム」とはいいますが、ゲームは世の中にたくさんあります。将棋も囲碁も野球もサッカーもゲームです。これらは歴史が普遍性を認めたといってもいいゲームでしょう。
 しかし、飯田さんの2作目『太陽のしっぽ』は、暴力的までにゲームの目的性、つまりゲーム性を否定しました。そしてそれは保守反動層から「クソゲー」とのレッテルも貼られました。
 たしかに、駆け引きの妙味(=ゲーム性)がないという点では「クソなゲーム」でしょう。ただ、そもそもTVゲームって、「ゲーム性」を軸に考えたり評価したりしていいのでしょうか?
 この話は、「TVゲームとは何か?」という本質論にも発展します。なぜなら、飯田さんは「ゲーム性(=駆け引き)」ではなく、「TVゲーム性(=触れる映像)」に重点を置いていたのですから。」(松谷創一郎 飯田和敏インタビュー総括 http://www.naked.co.jp/pic/interview/iida/iida_05.html)

 この引用文では、「ゲームの目的性、つまりゲーム性」という表現と「駆け引きの妙味(=ゲーム性)」という表現が同時に使われておりながら、書き手にはそれが違和感として感じられていないのである。いままでの議論を踏まえていないと、この異なる二つの言い換えが同時に行われている、ということは了解しづらいかもしれないが、定義論としての「ゲーム」を考えたときには「ルール」「目標」といった定義の仕方になるし、そういった「ルール」や「目標」によって構成された「ゲーム」は具体的にどのような指標によって測定される変数を持つのか、と考えたときには「駆け引きの妙味」や「難易度」「戦略性」といった指標によって測定されることになる。また、この文章の書き手である松谷創一郎は「ゲーム性」に対して「TVゲーム性」などという言葉を作り出すなど、「ゲーム性」という言葉の指示する対象に関して、かなり自覚的な珍しいタイプの論者であると見てよい。

 そのような指示する対象について、かなり自覚的な論者である松谷の中からこの二つの言い換えが同時に行われているというのは、ある同一の指示対象の中で、定義論を展開するか比較論を展開するかということによって、言い換えの対象となる言葉が変わってくるということを如実に示していると言えるだろう。

第五章 総括

第一節 結論

「ゲーム性」という言葉はきわめて曖昧な表現として流通している。しかしながら、同時に、「ゲーム」や「遊び」と言う別の言葉と曖昧に結び付けられる形で言葉として機能し、文脈に応じて会話の中でなんとなく納得されたりもする。また「ゲーム」や「遊び」という言い換え表現で足りる場合もあれば、「共通の作品の性質」という程度の意味でしか翻訳不可能な、きわめて空虚な表現として成立している場合も存在する。

 そのような意味の分裂は、どのような志向性によって「ゲーム」というメディアに接近しているのかによって積極的に「ゲーム性」の定義がなされる形(※37)で分裂が発生していく場合もあれば、「グラフィック」「ストーリー」といった「ゲーム性」の仮想敵が設定されるなかで、「グラフィック」要素や「ストーリー」要素に還元されない<何か>として消極的に「ゲーム性」がイメージされる中で発生していく場合(※38)もある。

 繰り返しになるが「ゲーム性」という言葉についての絶対的な定義を提供することはこの論文の目的とするところではない。恣意的に括られた「ゲーム」という対象領域の中で各人が自らの考えるその「本質」を主張するという行為の泥沼の中に自ら入り込んでゆく気はない。ただ、本論文を通じて了解してもらいたいことは、「ゲーム性」という言葉がこのような形で分裂を発生させているのだ、というその状況自体である。

 もし「ゲーム性」という言葉について、一定の形で厳密な定義を与えようとしても、常にそれには反論される可能性がついてまわる。第一には、「宝くじ」や「パズル」をゲームに含めるか含めないか?「ノベルゲーム」をゲームとして認定する認定しないか?など、「ゲーム」をめぐる対象領域設定(つまり定義の問題)が各人ごとに分裂している。第二に、ビデオゲームというメディアにどのような欲望――あるいはアンチの欲望――を携えて接近していくのか、という接し方もまた各人ごとに分裂している。「ゲームに美麗なグラフィックなど無駄」と思っていれば、「グラフィック」という敵を浮き立たせるためのものとして「ゲーム性」なるものが表象されるだろうし、「ゲームにストーリーなど無駄」と思っていれば、「ストーリー」という敵を浮き立たせるためのものとして「ゲーム性」なるものは立ち上がるだろう。

 そして、それらの状況の「分裂」を「お前は間違っている」というような形で否定することもできない。各人の欲望の持ち方や、主観的な「ゲーム」の対象領域設定を「間違っている」などとする絶対的な根拠を用意することは難しい。ビデオゲームに数学問題を解く楽しさを求めていようとも、反射神経を使う楽しさを求めていようとも、あるいは擬似恋愛体験を求めていようとも、各人の嗜好の問題である、としか言いようがない。もし非難しうるとしたら、そのような嗜好のレベルでの罵倒や中傷というようなものにしかならないだろう。そういう場合に持ち出される「ゲーム性」という言葉は、文化的ポジションをめぐって他者との差異化や特権化を目指すようなネタでしかないだろう。

 もっとも、「定義をしてはならない」というわけではない。そのような恣意性を前提とした上での便宜的な定義をたちあげていくことは可能だろうし、「ゲーム」を語るための道具だてとしても、一定の有効性をもつものとなるかもしれない。そのような研究や議論は歓迎されてよい。

 ビデオゲームについての本格的な議論をしようと試みる論者の数はまだまだ少ないが、ある作品を非難したり、賞賛したりしようとする熱狂は、すでに多くのゲームファンが体験しているところだろう。本論文を通して、「ゲーム」を語ることの政治性、「ゲーム」と接することの多様なありかたを少しでも了解していただけるならば、本論文にも多少の価値があった、と言えるかもしれない。

第二節 本研究の限界

 次に、本論文を書いていく上で「限界」としてのしかかってきたことをいくつか書いておこう。これらの中には、単に筆者自身の能力の問題という部分もあるが、かなり根本的な問題も存在している。

1.言葉の指示対象をめぐる無限の参照構造

 指示対象を追っていく、という二章のような形が純粋に指示対象を追っていくだけでは成立しえなかったのは、もしもそれを純粋にやってしまった場合、無限の相互参照の構造を追っていくというとめどない行為に陥り、果ては国語辞書でも作らざるをえないということになってしまうためである。

 たとえば、「ゲーム性」という言葉の指示対象および非指示対象がなんであるか、ということを統計的に出してきたとして、さて、それでは、そこで「ゲーム性」という言葉がインタラクション、遊び、ゲーム、などといった言葉に置き換えられた時には、今度はまた「インタラクション」が、どのような語との言い換えの中で使われているのか、「遊び」という語がどのような語との言い換えの中で使われているのか、「ゲーム」という語がどのような語との言い換えの中で使われているのか、という作業をやりはじめてしまうと、次に「インタラクション」が「双方向性」「相互行為」「コミュニケーション」「アフォーダンス」などという言葉と言い換えられていることがあるとわかったとしても、今度はまた、「コミュニケーション」や「アフォーダンス」がどのような語との関係で使われているかを調べなければいけないということになる。「アフォーダンス」という言葉などならば、心理学徒のギブソニアンと、その語を佐々木正人経由あたりで知ることになった人々ぐらいしかいないので、それで多少の意味のバラツキはおさえられるかもしれないが、「コミュニケーション」などという語に登場されたら、その語の関連性などはっきり言って収集がつかない。もしもそういった作業を飽きるまでやりつづけたとすれば、そのツリー構造は無限に広がっていき、ただひたすらに言葉同士の参照関係がやたらと増えていき、研究としては破綻しまうだろう。

 それゆえ、第二章では、やや反則気味ではあるのだが、概念分析の枠組みについての詳細な議論を参照し、それを議論の土台として用いるという作業を行ったわけである。ただ、この参照の仕方は、カイヨワ一人を参照するとかホイジンガ一人を参照するとか、これといった絶対的に頼りになるような枠組みというのはほとんど無かったために、私の方でかなりいろいろなものを切り貼りするような結果になってしまった。(これをやっても「遊び」という語の登場にはだいぶタジタジになってしまったのではあるが。)

2.意識的な論者

 他に、こういった形の一つの単語を延々と追っていくという作業としてはその単語が誰によって、どういう文脈で発せられたか、という分析を行っていく手法もあるにはあるがのだが、単語の使用者にそれほどに独自の考えが多く見られるわけでもなく、多様な主義主張が乱立という程に乱立しているわけでもないゲーム業界を前提にして、そのような分析が施せるのか、といえばそれもまた難しい。もちろん、主義主張というのが全くない、というわけではなく、例えば一時期ネット上に登場した「ゲーム」や「遊び」という概念を前提にした上での<ゲーム性>支持を標榜する「ゲーム右翼」や、それに目の敵にされることとなった、PCの「ギャルゲー」「エロゲー」の中でも特に、「ノベルゲー」と呼ばれる種類のものや、また「遊び」というよりかはシステムとしての「ゲーム」という意味での<ゲーム性>に対するアンチのような形の存在感を出してきた飯田和敏と、飯田和敏をめぐるさほど多いとはいえない議論、そして最もメジャーなものとしておおまかに言うと「グラフィックやシナリオ以外の部分の面白さ」というような意味の「ゲーム性」の「欠如」を声高に主張する、『FFVII』以降の「ゲーム性」という言葉の使われ方など、いずれも興味深いものではあるのだが、いかんせん、それらを魅力的な「議論」として描くためにはこれといった議論の担い手(※39)があまりにも少なすぎる。彼らのリアリティを書き出すことは、当然面白いことに違いないし、それはまたそれで価値のあるものでもあるだろう。もしも、そのような議論というのをある程度きちんとまとめた形のものがあったならばそれは読みたいには違いないのだが、なかなか論文の「ネタ」としてはいまひとつ食指が動かなかった。それらの象徴的な事件の担い手達を追って対立劇を描いてみたとしても、どうしても、そこまでたいした話が書ける気はしなかった。そして、何よりも気乗りがしなかった理由は、そのような事件を追うということが、結局は私という一人の語り手の単なる立場表明と結びつけられて終わるのではないかという危惧である。私の中にいずれかの立場を強く支持したいという気持ちがあるわけではないし、直接に立場を主張するようなものを書こうという意志などをもっているつもりはないのだが、おそらく90年代中盤以前の「ゲーム」のイメージを強烈に保持しつつ「遊び」や「ゲーム」としての「ゲーム性」の重要性を主張する人々からすれば、彼らと対等かつ一定の評価を下すべきものとして飯田和敏らの存在を描いただけでも、それは彼らを「対等な存在」として書くという行為を選択すること自体がすでに一種の「立場表明」であるとみなされうる可能性を秘めていると言える。飯田らを「イロモノ」というラベリングのもとで一定の書き方をするのか、あるいは90年代中盤以前の「ゲーム」の方法論への重要な反逆者として書くのか、という選択をした時点ですでに、「中立的」であることは成立しえないであろう。それゆえにそのような方法を取ることには強いためらいがあり、これを「論文」の形で書くこと自体にどこまで意味を見出せるのか疑問であった。

3.「面白い」という意識

 「遊び」という語にせよ「ゲーム」という語にせよ、あるいは「表現」や「芸術」という語にせよ、扱うのが実に困難な言葉であるが、これらの言葉の扱いを特に困難にさせているのが、「面白さ」という言葉だろう。これがもう少しうまく扱えれば、議論はもう少しスマートに展開できていたのではないかと思う。

 「遊び」という概念が、「仕事」や「真面目」の“裏側”の概念としての意味と、「面白さ」と意識の成立という意味とで二重の意味を含んでいるという話は第二章で述べたとおりである。

「ゲーム」という概念については「ルール」や「目的」といった形式的な定義によって「ゲーム」という概念を設定できるかもしれない。だが、しかし、「ゲーム」という概念から、「ゲーム性が高い」「ゲーム性が低い」といった量的なイメージからの言葉使いがなされている時、そこでいわれているのはほとんど場合、駆け引きの「面白さ」の程度であったり、戦略を練る「面白さ」の程度などといったものなのである。また、「ゲーム」に似た概念として、フロー体験(※40)などといった概念との関係性も考えてもいいかもしれない。

「表現」や「芸術」といったものの場合は直接に「面白さ」といったものから評価されることばかりではないが、これらも「面白さ」を基準にして語られることから決して無縁な存在ではない。

 「面白さ」という意識の成立の有無は、いずれの場合にもそれを評価するための基準としてついてまわってくる。そこで語られる「面白さ」が直接に肉体的な「快感」を伴うものであるのか、頭を駆使する手ごたえのことを言っているのか、見事な新奇性からくる驚きのことを言っているのか、実存哲学的な奥深さの話をしているのか、それはわからないが、「面白い」という言葉はとにかくどこにでもつきまとってきて、評価軸として機能しはじめてしまう。この「面白い」という意識をなんらかの形で解体するなり、なんなりして扱う手法を持ちえないことには、このような研究では常に大きな限界として立ちはだかってくる。

 また、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』の四分類が議論としての不十分さを孕みながらも、枠組みとして使いやすいのは、それが「遊び」の分類論としてよりかは、「面白さ」の分類論として機能しえているからだろう。

4.雑誌『ゲーム批評』

 最後にこれは、対象設定の問題として、94年に創刊されたゲーム批評という雑誌を選んだことによって分析が可能になった点もあったわけだが、それ以上に分析がいたらなかった点を書いておく。

 まず、90年代中盤以前の状況をきちんととらえることができない。これは、「94年創刊」ということが直接的な要因である。

 また、一般ユーザーの典型的反応をフォローするためには『ゲーム批評』という雑誌から分析していくことはむしろマイナスに働いてしまった。90年代中盤以降から激しくなっていったFFシリーズに対する一般的な批判などは、いまひとつ捉えづらい。一般的なイメージとしては、「ゲーム性」という言葉の使用される回数はFFVIIを契機にして一気に増加していったという印象があるが、雑誌『ゲーム批評』に関して言えば、FFVII以前からスクウェア批判が行われており、その文脈で「ゲーム性」という言葉は数多く使われていたため、FFVIIを境にして「ゲーム性」という言葉の使用が増加したなどという事実はない。FFVII以前とFFVII以後の「ゲーム性」という言葉の使用回数はほとんど変化していないのである。

謝辞

 最後に、本論文を書く上で指導教官の小熊英二先生の他にも沢山の方にご迷惑をおかけしたが、特に多くの文献を貸して下さった上に多くの相談にのっていただいた茂内克彦さんと、アドバイスを下さり、引用する上でも絶好の文章を提供してくださった松谷創一郎さんのお二人には特に感謝の意をのべたい。

 また、全員のお名前を挙げることはできないが、本論文を書く上で議論につきあってくださった多くの方々にも感謝を申し上げたい。

【参考文献およびURL】

【注】

※1. 「ややもするとアラ探しに終始しかねないので、できるだけそのソフトのよい部分を抽出するよう気をつける。ドット絵世代なもんで、グラフィックよりはゲーム性を重視する傾向アリ。……」(ファミ通増刊『クロスレビュースペシャル2001年上半期』2001 23頁)

※2. 30号からはゲーム業界以外の広告ならば掲載しても問題ないのではないか、との指摘もあり、ゲーム業界外の広告掲載をはじめた。そして最近では編集方針は変えないことを前提に、ゲーム業界からの広告についても検討をはじめている。

※3. 参考とした記事ではすでに休刊となった『ゲーメスト』『じゅげむ』や、現在名称を変更している『ハイパープレイステーション』『セガサターンマガジン』などを比較対照としているが、これらの事情は現在でもあまり大きく変わるものではない。

※4. Game playという語は、例えばアメリカの大手ビデオゲーム情報サイトGamespot(http://www.gamespot.com)などでは、 "Graphics"、"Sound"、"Value"などといった要素にならんで"Gameplay"が作品を評価する最も重要な要素の一つとして扱われている。 この"Gameplay"という語に関しては、同Gamespotに掲載されている説明によれば"This includes everything from the game's interface to itscontrol and how well balanced it is--basically, how well a game plays and howenjoyable it is to play."とのことである。 日本語圏の「ゲーム性」という言葉のニュアンスと似ているような気もするが、これだけではなんとも判断がつきかねる。 英語圏のゲーム業界にとってはこの語が非常に重要な役割を持つ語であることが類推されるが、本論文はは英語圏のゲーム業界/ゲームマスコミの事情については割愛する。今後の展開としては、こうした海外の文脈との比較を考えていくことは重要であろう。

※5. エクセルやロータス123などの表計算ソフトウェアで編集可能なファイル形式。

※6. 用例を入力したCSVファイルについては、筆者のウェブサイトhttp://www.critiqueofgames.net上に公開しておく予定である。これはこれでこの研究とは別の意味でも主観があまり入っていない形のデータベースとして、ある程度の価値をもつものだと思うので、他の研究に役立たせることができる場合があるのならば、是非役に立てていただきたい。

※7.クリス・クロフォード 元ゲームデザイナー。80年代前半ごろ活躍していた。

※8. アメリカのゲームデザイナー

※9. 『ポケットモンスター』のゲームデザイナー

※10. アーケードゲームの開発者

※11.http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html

※12. ロジェ=カイヨワ1990『遊びと人間』講談社学術文庫

※13. 1994『遊び論研究』風間書房

※14. 「スーパーファミリーコンピュータ」ではなく「スーパーファミコン」が正式名称である。

※15. 鳶嶋工房 http://homepage1.nifty.com/ton_b/Game/Terms/index.html

Gamer's Site http://www.geocities.co.jp/Playtown/6725/game/dic/gllosary.html

http://bannin.net/game3/gamenote.htmなどがある。

※16. 水野隆志、松谷創一郎などは指示対象の変化が顕著である。水野隆志の指示対象がなぜ変化しているのかは不明だが、松谷創一郎の場合は「ゲーム性」という言葉について悩み、考え直しつつ、意味合いを変化させていっているようである。

※17. ここで言っている「問題」とは、すぐ後で「パズル」をゲームとみなすかどうかという問題と似たようなものとして思ってもらえればわかりやすいと思うが、簡単に解説をしておくと、以下のようなものになる。

A.  プレイヤーが取りうる選択肢

B.  推奨される選択肢

 この2つの層を考えたとき、まず「A」のレベルでの選択肢が一つしか存在しないものが「ゲーム」とみなされるのかどうか、という問題がある。次に、「A」のレベルでの選択肢が複数存在していたとしても、「B」のレベルでの選択肢が一つしか存在しない場合にそれを「ゲーム」とみなしてよいのかどうか、という問題があらわれる。

※18. もちろんこれは便宜的なものにすぎない

※19. つい最近まで将棋は「千日手」と呼ばれるケースが存在するため、二人零和有限確定完全情報ゲームではなかった。最近になって数学的に千日手の存在が証明され、ルールが改められた。

※20. 西村清和『遊びの現象学』(1989)における「遊びつつ遊ばれる」という議論を考えると完全に支持できるものではなく、まだ議論の余地を残しているものと思われる。特に第2の条件についてだが、西村の「遊びつつ遊ばれる」とはどういうことかといえば山田の言う「目的」「手段」という語彙にそって考えると、例えば、シーソーという遊具を考えてみた時に、まずシーソーにすわって、地面を蹴る、という行為は「目的」であるのか「手段」であるのか、それははっきりとしない。地面を蹴る、という行為は遊んでいる当人によって主体的に(=積極的に)行われるものであり、それは、シーソーという遊びを持続させるための「手段」を行なっている(積極的に遊びの対象を「遊んでいる」)ものともいえるし、シーソーの片方の遊び手が地面を蹴ることによって、もう片方の遊び手は、シーソーによるイリンクスを享受すること、つまり受動的に受け取る(「遊ばれる」)ことが可能となる。例えば、片方の遊び手が地面を蹴ったことによって成立するこのイリンクスが「目的」だと仮定しよう。では、シーソーで「地面を蹴る」という行為をしているときは、「遊び」ではないのだろうか?「地面を蹴る」主体は、おそらく遊び相手にイリンクスを与えることを楽しんではいないだろうか、そして、片方が強く地面を蹴ったとき、もう片方の相手が、それにつられて(対抗して)地面をさらに強く蹴り返し、そこで互いに自分がどれだけ強く地面を蹴ったか、ということによって、次に自分の方へと返ってくる衝撃を予想しているとき、また、そもそも、「地面を蹴る」という行為を楽しんでいるとき、「地面を蹴る」という行為は、手段であると同時に目的でもあるのだ。遊ぶ当人達にとっての<手段>と<目的>は交じり合い、シーソーで遊ぶ当人達はシーソーを主体的に「遊ぶ」と同時に「遊ばれて」いる存在となる。

 もっとも、これは「シーソー」という「遊び」の<内部>現象であり、山田の言うところの<外部>とはそもそもの議論が異なると思われるかもしれない。そこで、第二の論点として「遊び」が遊ぶ当人の生活全体から完全にきりはなされて存在することが、可能であるかどうか、という点について考えるとしよう。山田は、その点についても極めて明瞭な議論をしている。

 「ついでに「遊びの純粋性」「遊びの不純性」について触れておくならば、それは、ここで挙げる三つの条件のいずれにも関係し、それぞれの条件を満たさない程度に応じて「遊びの不純性」は増すわけであるが、特にこの第2の条件は、いわゆる「大人の遊び」の持つ「不純性」と強く結びついている。すなわち大人の社会での「遊び」の中には、その活動の外部にある目的を達成するための手段として位置づいている場合がかなりあると考えられる。後に述べるような、立身出世のためのゴルフの例がそれである。もちろん、子どもの遊びにおいても、同様のことは全くないとは言えないが、大人の場合と比較すれば、それほど多いとは考えられない。いずれにしても、そのような遊びは、その程度遊びの純粋性を欠いた「遊び」であると考えることができる。」

 と、「遊び」の<外部>と<内部>が完全に分かれるものでないという認識がなされている。この点についても筆者は同意するものであるが、しかし指摘しておきたいことは、遊びの<内部>の中での手段‐目的という意識が成立するとき、それが、また、<内部>の中で、手段―外部、目的―内部、という意識が成立するのではないか、ということだ。「大人の遊び」が出世の手段としてのゴルフ(=「遊び」に進入してくる「遊び」の外部)などと、それ自体を楽しむことを目的としたゴルフ(=「遊び」の外部といくぶんか交じり合った「遊び」の内部)、などとの境界が曖昧にまじりあうのと同じように、さきにシーソーの例で書いたように、遊びの内部で、手段―目的の対立が判然としない状況はあるのだが、また同時に、「大人の遊び」の中で、手段―目的の意識が明確にわかれることがあるのと同様に、遊びの内部で手段―目的の意識が明確に分けて意識される瞬間もまた存在するのではないか、ということだ。そのような場合には、そもそも遊びの<内部>であったものが、突然<外部>と感じられてくるようになるのではないだろうか。

 またカイヨワの定義する「自発的活動」について、同じく西村は遊びの完全な自発性がありえないということを主張しているが、山田の議論でも確かに、「外部からの強制」「それ自体が目的」という概念を提示している限りにおいて、同様の批判が可能か、と思われるかもしれないが、山田の場合は、遊んでいる当人が「完全な自発性」を持つかどうか、を問題にするのではなく、「自発的に遊んでいる」というような意識・感覚が持たれているかどうか、という遊ぶ当人の意識の問題を論じているため、その行為が「本当に自発的か」どうか、という批判についてはかわすことができるだろう。また、遊ぶ当人が、遊んでいるうちに「楽しくない、もうやめたい」という思いがわいてきたときというのもまた、問題だが山田に言わせれば、おそらく「楽しくない、もうやめたい」という思いがわいてきた時点で、それは「遊び」としての性質を失ってくるものだということになるだろう。

※21. ゲーム関連の書籍で、比較的バイブル扱いに近い形で読まれていると言われるのが『ポケットモンスター』の開発者でもある田尻智の書いた『新ゲームデザイン』や赤尾晃一・平林久和の『ゲームの大學』であり、両方の本がカイヨワについて言及している。しかも平林久和の言及の仕方では、翻訳者の多田道太郎が、ホイジンガの概念を参考に分類した、意志⇔脱意志、ルール⇔脱ルール、の分類をあたかもカイヨワ自身が分類したかのような誤解を抱かせるような書き方がなされており、まぎらわしい二次資料となってしまっている。また、2001年に講談社現代新書というような比較的メジャーな流通経路で出版された桝山寛『テレビゲーム文化論』でもカイヨワが無批判に持ち上げられており、カイヨワの影響はいっそう広がっている。

※22. 「萌え」という言葉については東浩紀『動物化するポストモダン』2001 講談社現代新書 に詳しい。

※23. ちなみに「次世代機」の「次世代」とは90年代前半に支配的であったスーパーファミコンの次、という意味での「次世代」である

※24. たとえば、次のようなものがある

『ゲーム批評』8号 編集部 1996年4月 35頁 「スクウェア幻想の真実 総論」

「そして、なによりスクウェアのゲームは本当に面白いといえるのだろうか。これまで弊紙では、何度かスクウェアRPGを取り上げてきたが、その論調はどれも、グラフィックは美しいが、ゲーム性やストーリー性に乏しいという内容に終始した。」

※25. 控訴したのは原告側であるコナミ株式会社である

※26. 『太陽のしっぽ』『アクアノートの休日』『巨人のドシン』などで知られる開発者

※27. 人面魚を育てつつ、その人面魚との会話を楽しむ作品。プレイヤーはマイクを通して人面魚に話かけ、音声認識プログラムを通して人面魚はプレイヤーの言葉に反応して何らかの言葉を返す。例えば「シーマンかわいい」と話かけると「あたりまえだろ」などといった返答を返してくれる。プログラムは「こう言えば常にこのような返答をする」というほど単純なものではなく、時と場合によってさまざまなバラエティをもっている。

※28. モノポリーとカードゲームを複雑にかけあわせたような対戦ゲーム

※29. このゲームでの難易度とは高度な戦略を必要とするかしないか、ということだといってよい。高い難易度を選択した場合、敵の基礎体力(HP)が高くなり、思考ルーチンや攻撃パターンも高度で多彩なものになる。

※30. (株)マルチメディア総合研究所主任研究員

※31.http://www.kyoto-one.ad.jp/gap/1gap/4rep/lec/online/07_1.html

※32. 言葉の使用者が「ゲーム性」という言葉のニュアンスをあまりにも混乱させている例なので本文中に記すのは控えるが、扱うのがさらに難しいところで、再三引用しているファミ通クロスレビューの基準の「ゲーム性」のある/ない、という問題がある。

 これは、ある人に言わせれば「それは<ゲームデザイン>の有無の問題だろう」という話だが、それではいったい「ゲームデザイン」とはどういう行為なのか、という議論が残る。

 「ゲームデザイン」とは何か、ということをビデオゲームを表現メディアである、というような見方を前提にした、やや大胆に定義を試みるすれば、それはおそらく、表現にとっての「対象」と「方法」の問題である、ということができるのではないだろうか。

 つまり、ビデオゲームによって表現したい「対象」をいかにしてビデオゲームという形式のメディアの「方法」にいかにおとしこめたのか。「対象」を表現するために「方法」を試行錯誤して、表現としておとしこんでいく作業をいかにおこなったのか。

 その「方法におとしこんでいく作業」のことを「ゲームデザイン」と呼ぶことはできないだろうか。「方法」とは、本論文中で用いている呼び方を使うのならば、システムとしての「ゲーム」として成立させる方法」というように言ってもいいし、「「遊び」として成立させるための方法」というような言い方をしてもいいだろう。

 ただし、ビデオゲームというメディアが他の表現メディアと違う点としては、そのようなモデルで考えないでも―――「対象」を欠いた「方法」だけ―――でも独立に存在することの可能なメディアだということである。それは例えば、トランプをビデオゲームでやることを考えれば、そこにいかなる表現される「対象」も存在していない、ということは自明であろう。しかし、そういったゲームのシステムのみが存在するようなものであったとしても、システムそのものに試行錯誤がみられれば、おそらくファミ通のクロスレビューはそれを取り上げるであろうと思われる。それは表現対象を持たないだけであって、「方法」の模索があるということでそれを<ゲームデザイン>がなされている、と見ることは感覚的には可能だろう。

 では「方法」を試行錯誤することが<ゲームデザイン>なのか、というとおそらくそれもまた異なる。「方法」がほぼ全く同じであっても、表現対象が違えば―――例えば全く同じシステムを用いた別の名称の、別の物語を持つRPGなどであったとしても―――それは<ゲームデザイン>がなされている、として評価されることはありうるだろう。つまり、そこでは「方法」の問題ではなく、「表現対象」の側が問題にされていることになるように思える。だが、それはまた、このように言いかえることもできる、「<表現対象>に対して、今までに存在する数多くの<方法>の中からの選択を行ったものである、から、それはやはり<方法>についての模索があったのだ」と。

 それは例えば、「方法」という面ではさほど目新しいものではなかったにも関わらず、今まで誰も行わなかった「表現対象」と「方法」の組み合わせを成立させた『逆転裁判』(2001 カプコン)に対して、「素晴らしいゲームデザインである」との評価がなされたことを考えれば、その発想のリアリティは了解されるのではないだろうか。

※33. この後に続く文章は「この嘘のつき方の程度が重要なのだが『MotoGP』ではモードの切り替えで解決するとともにリアルさを残しつつゲームとして完成している」

※34. ただ、この反論はいささかつらいものなのかもしれない。「グラフィック」と「ゲーム性」の関係性を肯定するか否定するか、という二元論的なレベルで考えている議論ならばこのような切り方でも問題はないのだが、これは全否定か全肯定か、というよりも、部分肯定にとどまっているようにも見える。

※35. こういった、いわばミミクリの手法に関する問題は、『DQ』VS『FF』の形式でも古典的に論じられてきている。米光のこの『ICO』評は、その議論の焼き直しといってもいいだろう

※36. ただし、この米光への私の反論というのも少し苦しいものがあるかもしれない。もちろん、この米光の議論は「一つの物語」か「プレイヤーの体験へと依存した形の物語か」という奇妙な二択の議論の中で発せられ、後者の側を支持するというものでしかないのだが、「一つの物語」という発想自体がそもそも不可能である、ということについてまで同時に反論することをも目指しているものと見るのならば、米光は議論している対象間の関係性をあやまっている、という意味での「勘違い」ではないかもしれない。

※37. 本論文第二章

※38. 本論文第四章第一節

※39. 本論文中では、そのせいもあって、どうも松谷創一郎の文章が非常に目だっている。実際に、「ゲーム性」という言葉について意識的な論者が松谷だけである――という訳ではもちろんない。ただ「ゲーム性」という言葉について意識的である論者は多くの場合、それに批判的になり、そもそも使わなくなってしまうというケースのほうが多いようである。そのため、この言葉に意識的でありながらも「ゲーム性」という言葉によって議論することを目指そうという発想をする松谷の存在が目立ってしまうこととなった。

※40. 遊び論でしばしば参照される、チクセントミハイの「フロー体験」(M・チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』世界思想社 1996)をいう概念を参照してみると、そこでは「最適経験とは、目標を志向し、ルールがあり、自分が適切に振舞っているかどうかについての明確な手掛かりを与えてくれる行為システムの中で、現在立ち向かっている挑戦に自分の能力が適合している時に感じる感覚である。」(91頁)といったことをいわれており、これはかなり本論文中で提示した「ゲーム」の概念に酷似している。ただ、その大きな相違点を挙げるとすれば、フロー体験では、そこに「楽しみ」「喜び」「面白さ」といった意識をともない、かつ「目的」が行為者の意識の中にきちんと内面化がなされているという点があるが、本論文中で提示した「ゲーム」の概念は、単に形式として「ルール」や「目的」を備えているか否かということであって、必ずしもそこに「面白さ」の意識を伴わなければいけないということも「目的」がプレイヤーの中に内面化されていなければならないということも条件ではない。ただしかし、もしかすると、形式としての「ゲーム」がプレイヤーの意識の中に内面化された場合、それが「フロー体験」となり、「面白さ」を伴うのかもしれない。そこで<形式としてのゲーム>と<プレイヤーの中に内面化されたゲーム>という区分を成立させることももしかしたら可能かもしれない。