何故にジダンは≪作られた生命≫という問題を自己の悩みとして永劫に問いつづけるということから逃れえたのか。彼はどのような意識によってそれを克服しえたのか。彼にとって生命とは何であるのか――
 「作られた生命」とはゲームと言う人工世界を扱うメディアにとっては大きな問題をはらんでいる。人工世界、人工知能という問題に直面し、そしてそれに真剣に取り組み、それに愛着を感じるという現象が否定し得ない形で出てきた時、その問題はただ知的遊戯や、最先端科学という問題として現れてくるわけではなく、我々にとってそもそも生命とは何であるのか、という巨大な哲学的な問いとして、我々の存在そのものを危機的に問いかけてくるものとして存在してくる。漫画『攻殻機動隊』における、ある人工知能のセリフ
 
    「私は情報の海で生まれた生命体だ」「人間は未だ生命の定義すらできていない」
 
 このような問いかけによって、人工知能は単にヴァーチャルな遊戯的な存在としてのものではなく、我々の生命とは何かということを問いかけてくる極めて不安な存在となったのだ。FFという世界的にも広く受け入れられている人工世界を描く作品において、この問題が一つの究極的問題として扱われなければならなかったのはこのようなことのためであろう。
 しかし、この作品においてジダンの考える生命に対する悩みはかなり楽天的な形での解決を見せているように思える。「誰であろうと助ける」「生きていることに変わりはない」そういった感覚によって楽天的に人工生命と生命との垣根をこえようとする。
 だが、問題となっているのはそういうことではない。「生きている」とはそもそもどういうことであるのか?そのことこそが、人工生命というものに直面せざるを得なくなった我々の問題であろう。ジダンの意識は何も――我々には何も語りえない。
 
©Akito Inoue 2002.1.26