ネジタイヘイはこの世にいない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 中学校3年生の頃、僕はノートにこんな文章を書いたことがある。

 

虚空の人


或る男がふと自分にはχという息子がいるのだと思う。
        戸籍に  χという名を登録する
   6年経ち小学校にχを入れる
        教師は χという子が毎日出席しているのだと思う。
        成績をつける時もこの子には優秀な点数をつけようか、と思う。
        中学校にχを
        進学校にχを
        一流大学にχを

親である男は死ぬ。

 χ君は優秀です。

        一流企業にχを

        課長 
        部長 
        副社長
        副会長

        χは偉人です。

        「χ」そんな人がいるのか 誰も記憶していない。
 
 

(この小説を第三人称の語りで)      

 
 
 
 

 拙いもので恐縮だが、
 これはつまり、一つには架空の人物が制度的なものの中にあって「現実に」存在してしまえるかもしれないというのは何か恐ろしいものだと感じると同時に、もう一つには少しうつくしいものを感じないでもないというのがあり、中学校3年生の時の自分はこういう文章を書いた。

 しかし、当時はどちらかというと、ただ夢想されたにすぎないものというのが、我々の生活の中に何ら疑われることもなく、不気味に存在してしまうことへのおそろしさといったものを感じるところのほうが大きかったように思う。

 だけれども、先日ネジタイヘイの私的ホームページを見たとき、「虚構が現実を飛び越えてしおうとするのは恐怖である」といった具合の発想を頻繁に躊躇いも無くしてしまうことには微妙に安っぽさがあるような気がした。その「安っぽさ」というのが何なのか―――ということを明確に説明することというのはできないけれども、ネジタイヘイを「ただの虚構のキャラクターに過ぎない」ということで彼に愛着をそそげる行為に対してどこか距離を置こうと考えるのならば、その考えはどうにも馬鹿げた考えだという気がしたのだ。

 批判もあるかもしれない。

 「どうしてそんなに簡単に虚構のものをあなたの現実の中に組み込んでしまうのか」と。

 確かに、ネジタイヘイはこの世にいない。それは全くわかりやすい事実だ。
 彼は誰かの精子であった過去もないし、彼と小学校の同級生であった人物というのも存在などしない。
 ネジタイヘイは架空の人物である。それは間違いない。

 しかし、「ネジタイヘイ」はドリームキャストのソフトの中に作り出され、WWWの上に「ネジタイヘイ」のホームページを作り出し、そこには確かにネジタイヘイの日常が映し出され、記述され、彼は確かに現実的なキャラクターをもち、日常をもっている。

 当然、これを作っているのはルーマニア#203の製作者たちであって、彼らが考え、作り出した人格であって日常であるから、キャラクターを「持たされている」のであり、日常を「もたされている」のだ、というのが正確だ。
 たしかにそうではあるのだけれども、ネジタイヘイはテレビの中で、冴えない生活をして、下らないことを面白がって、ホームページの上でいかにも高校生の書きそうなことを書いている。製作者達は無数の手段を用いてネジを現実化しようとする。ネジタイヘイの日常は本当に「ある」のだ。プレイヤーはそれを一つの架空の日常として了解する。

 存在しないのがもったいないくらいにしっかりと描かれる日常である、いや、存在しないからこそ、それは静かに受け入れられるのかもしれない。あまりにもしっかりと存在しようとしている嘘だからこそ、どうしようもなくせつないのだろう。
 我々は――と言ってしまうことはできないが、少なくとも僕は、彼が嘘でしかないからこそ、愛着を注いでいる。

 もしも、現実に存在してしまったらネジタイヘイは全く凡庸なつまらない青年でしかないのかもしれない。


 
2000/3/8
2001/11/29 加筆・修正