blog || 米島芳紀

« 2002年03月 | メイン

2004年03月23日

デクリメントゲーの興隆!とその理屈。

ダビスタからセブンへ

 『セブン』と『ダビスタ』が自分は大好きなわけですが、『セブン』で感動的なことの一つは、キャラクターの能力がピークを過ぎると衰退に入るということ。
 ほとんどの育成RPG的なもの、というのは、パラメーターが成長したらパラメーターは成長したままどんどん強くなっていき、強さはインフレ状態になり、しこたま強くなっていったり、金持ちになっていったりするだけのものが多いのだけれども、『セブン』ではほうっておいたら評判も下がるし、人材の質も下がる。何もしないでいると状況は悪くなってっくる。パラメーターは常によわめのデクリメントをうけている。
 デクリメントがあるからこそ、プレイヤーの作業は終わらない。まさしく怠惰は世界を腐敗させしまうのだから、気を抜いて退屈なプレイをすることを許してくれない。

「衰退」をデザインとして可能にさせるもの

 もっとも、こういったキャラクター世代交代システムの中で、ここのキャラクターのパラメーターが「衰退する」という発想がとりいれられた大本はなんと言ってもダビスタで間違いない。(いや、まー、うるさいこと言えばもっといくらでもあるわけだけれども。日本ファルコムのアレとか。)「世代交代」「経営シミュレーション」というジャンルにとってダビスタは間違いなく一大インパクトだったわけだ。それはたとえば、桝田省治の『俺の屍をこえてゆけ』にも生かされているし、『サカつく』にも『セブン』『ヴィーナス&ブレイブス』にも生かされてる。「馬」がピークを過ぎれば能力が衰退する、というのは競走馬の世界においてはごく常識的なことであり、年月や世代交代といった要素をとりいれたときに、薗部たんの頭の中に「衰退」という要素がデザインされべきものとして考慮されたのはごく当然だったと言えるだろう。で、もちろん、人間だって能力は衰退するわけだ。人間の活躍するRPGやウォーシミュレーションの分野に能力の衰退という概念が希薄であったことがむしろ不思議に感じられるぐらい。だけれども、そういう発想はずっと軽視されつづけてきたのは、やっぱりいくつかの理由があるだろう、と。

 (1)まず最初に、RPGなどでは主人公達の成長するタイムスパンが非常に短いので、衰退する暇さえあたえられないからそういうことを考慮する必要がないということ。
 (2)そして、次に「衰退」という要素をとりこむことでゲームバランス調整が困難になり、それまで積み上げられてきたRPGのバランス調整の発想が根底から覆されてしまうということだ。
 前者の理由はともかく、後者の理由は深刻な問題。主人公達の能力が世代交代時に衰退してしまうという問題をかかえこんだ『ロマンシング・サガ2』や、『サガ・フロンティア2』などはこの問題にあからさまに直面して青息吐息になりながら、なんとか開発を終了させた感が超濃厚だった。中でも正直にこの問題を考えこみすぎてしまった『サガ・フロンティア2』はゲームバランスの面で大きな破綻をきたしてしまうという失敗に陥ってしまっていて、普通にプレイしているとラスボスが強すぎて、まったく倒せない上に鍛え直すポイントもほとんどないという、クソゲっぷりを発揮するという最悪の状況だった。

 では、『俺の屍をこえてゆけ』や『セブン』はどうやってそれをクリアーしていたのか?いや、そもそも、『ダビスタ』はどうして、「衰退」という要素を組み込みながら、破綻せずに済んでいたのか?

 答えは簡単。「敵の強さ」のバランス調整を、ゲームの進行とは無関係なところで行えばいい、ということだ。
 たとえば『俺の屍をこえてゆけ』をみてみる。『俺の屍をこえてゆけ』では、いくつかのダンジョンが用意されており、そのいずれも、ダンジョンの入り口では弱い敵、真ん中ではもうちょっと強い敵、最後の方はものすごく強い敵が出てくるという仕組みである。最初のうちはほとんどダンジョンをクリアーすることができずに、ザコ敵を相手にポイントを稼いでいることしかできない。
 そして、代を重ねて強くなっていけばダンジョンもクリアーできるようになってくるが、もし、パーティが弱くなってしまっても、ちょっとだけ後戻りして、またザコ敵を相手にして次の代に賭ければいいことだ。
 もっとわかりやすいのは、やはり『ダビスタ』。ダビスタでは、そもそもライバルが襲い掛かってきたりすることがないので、成長ペースがかなりプレイヤの自由になるわけだ。ある程度の最低限度以上の強さを持つ馬を生産できていれば、牧場が経営危機に陥りゲームオーバーという危険もない。強い馬は強い馬で勝手に戦ってくれればいいし、弱い馬は弱い馬なりに戦っていれば、それでも牧場経営は成り立つのだからどんなに衰退していても、よほどひどい状況に陥らない限りはいくらでものんびりと再起をはかればいい。

 「衰退」をゲームデザインに持ち込んだときに、ゲームバランスが破綻してしまうのは、そういう再起が図れる状況を作り出せなくなってしまうゲームである。サガ・フロンティア2はその点ではまったく持ってダメだった。最弱の世代でラスボスに挑まざるを得ない状況であるとか、そういう不具合が簡単に起きた。
 『ヴィーナス&ブレイブス』もそういう問題は完全にクリアーできていたとは言えないが、全般にゲームバランスを緩めに設定する((『セブン』のクロニクル年代記ではバランスがきつめだったので、けっこうたちゆかなくなることが多かった。もっとも、サガ・フロ2に比べればまったく問題のないレベルだったが。))ことでなんとか対応していた。できれば、最強のパーティの時にラスボスに挑みたかったものだが、ラスボスの登場はこちらの都合に合わせてくれないという設定にしてしまっていたので、どうしてもそうならざるをえない。

もうちょっと厳密に

 もうちょっと厳密に言うと、「衰退」のときの衰退幅の問題だといえる。衰退幅を大きく下がりやすいものにするのならば、能力が衰退したときでも、ゲームプレイを続行可能な状況を作ってやらないといけない。衰退幅が小さいのならばそれはそれでいい。プレイが怠惰になると、しっぺ返しのくるようなシステムを構築したいのならば、そういうものでもいいだろう。その点ではセブンはまったく問題ない。

どうして衰退するのが面白いのか

 どうして衰退するのが面白いのか?
 その説明のしかたはいろいろあるだろうけど、
 (1)難易度が高いが、プレイヤーにとって「納得のできる難易度の高さ」となりうる、とか。(適当)
 (2)常に衰退していくからこそ、全盛期、最強の一瞬というのが刹那的でよい。その刹那感に燃える。
 (3)愛着のあるキャラクターが衰退する様子をみていくのが、はかなく、哀愁がただよって萌え萌え。
 とかでしょうか。


 とにかく、漏れはこうしたゲームをデクリメントゲーと名付けてみたい。
 そして、今後も、『セブン』のスタッフの皆様には是非頑張っていただきたく候。