■テレビゲーム文化論 再考


 前回の、書評はちょっと卑怯な書き方をしてしまったかな、と思ったので、もう少し細かく検討していこう。

 では、もう少し細かく読んでいくとしてどこを読むのか、というと、まずプロローグはそんなに細かく読む必要はないので省略。一章、二章についてもこれは『ゲームオーバー』や『新電子立国4』の内容をまとめたものなのでこれも省略。四章も「文化なんだ!」という主張をしたいだけなのでこれも省略。
 ということで、ある程度きちんと読む場所としては三章「相手をしてくれるメディア」、第五章「テレビゲームが身体を持つとき」の二章分に絞ろう。
 
 
 

第三章 遊び相手論

 桝山氏の示す遊び相手の種類は整理すると、だいたい以下のようなものになる。
 [競争者]  テレビゲームの中にそもそも組み込まれている
 [観客]  テレビゲームには組み込まれていない
 (というか、重要なはずの「観客」の話がいつのまにか論点からはずれて、別の話題に……)
 [旅の道連れ]  同じゲームをやった友人
 [話し相手]  どこでもいっしょ、シーマン
 
 いきなりだが疑問点を羅列しよう。

■Q1.
 「旅の道連れ」と「話し相手」にはどういう差があるのだろうか。「コミュニケーションの楽しみ」という共通項でくくれるのではないか。

■Q2.
 Q1とは逆のことを言うようだが、どこでもいっしょの井上とろやシーマンは純粋に話相手と言い得るだろうか?シーマンやトロとしているコミュニケーションを本当にコミュニケーションと呼んでいいのか。確かにコミュニケーションではあるかもしれないが、それは対人間のコミュニケーションとはまた別種のコミュニケーションと考え、携帯電話と並べて「話し相手メディア」とかっていう括りをしてしまうのはいかがなものだろうか。

■Q3.
 桝山氏の「遊び相手から話し相手へ」というような構図は妥当だろうか。そもそも「遊び」と「話し」を分けているのは何か。また、それをあたかも進化であるというように書いているがそれは本当に進化だと言えるのだろうか。それを「進化」と呼んでしまうのはあまりに安易な気がしてならない。
   
 
 
 

第五章 身体論

 桝山氏の構図では「テレビゲームからロボットへ」ということになっている。
 どうして、「ロボット>テレビゲーム」なのか、というと、遊び相手として身体を持っているかどうか、ということで親しみやすさを誘うインターフェイスとして優秀かどうか、ということが決まるから、というように桝山氏は考えているようである。

「身体を持たない」ゲーム機にぬいぐるみの犬と同じような親近感を持つ人はいない。

 という、この言葉からわかるように、とにかくロボットやぬいぐるみのような身体を持った遊び相手というのはインターフェイス的に、遊び相手としてすぐれているのではないか、というのが桝山氏の議論だが、

■Q1.
 どうしてNPCのことを中心にしかTVゲームの身体論を論じることができないのだろうか?
 他にもPCの身体論という方向性だとか、プレイヤー本人の身体論という方向性だってあるし、プレイヤーとPCの身体の関係性を論じる方向性だとか、PCとNPCの身体の関係性だとかプレイヤーとNPCの身体の関係性だとか、色々と論じることは可能だろうと思う。
 そのようなテレビゲームの多様な身体論の可能性を考えてみれば、テレビゲームでの身体の現れかたというものをロボットに劣る、などという言い方はあきらかにできないのではないだろうか。

■Q2.
 もの言わぬぬいぐるみと、豊かな反応を見せるNPCと比べたとしてもぬいぐるみの方が必ず親しまれるものだろうか?単純に疑問が残る。

■Q3.
 ぬいぐるみや娯楽ロボットとつきあわないタイプの人間にとってのテレビゲームとはそれじゃあ何になるんだろうか?

■Q4.
 人工知能という側面のNPCではなく、物語の脇役だとかといったNPCの側面についてはどのように考えるのだろうか?
 


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