Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―

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 プレイヤーの意識とゲームの主人公の意識というのが一致しない場合、プレイヤーはゲームに対して冷めているという状況があり、プレイヤーの意識とゲームの主人公の意識が一致する場合、プレイヤーはゲームにのめりこみやすい(もちろん、一概にそうだと言えるものではないが)。そのようなプレイヤーの意識とゲームの主人公の意識という二つの「意識の距離」をどのように作り出していくことができるか、というのはたとえば、ファイナルファンタジーとドラゴンクエストの対立、としてしばしば語られてきた。

 そして、ドラゴンクエスト支持者の典型的な言説は以下のようなものである。
-1.ゲームでは、プレイヤーがゲームの世界に没入したほうが楽しい。
-2.ゲームの世界に没入していく上で、その回路/インターフェイスとして機能するのは、主人公(プレイヤーキャラクタ)であり、プレイヤーキャラクタとプレイヤの間に意識の乖離があると、ゲーム内世界への没入が難しい
-3.よって、プレイヤとプレイヤキャラクタの意識に乖離が生じないように、プレイヤを無口にしているドラゴンクエストはすばらしい。

 という論法である。

 だが、これに対する反論もありうる。
 ドラゴンクエストに対するファイナルファンタジーという立ち位置からそれを見出すとすれば、「あえて」プレイヤとプレイヤキャラクタの間に意識の二重性を成立させるということを前提として提示しておいた上で、その二重性を物語の小道具として使用してゆく手法を展開してゆくのがプレイヤ/プレイヤキャラクタの間の意識の二重性のもう一つの展開のさせ方であろう。((たとえば、これはFFXにおける、スタッフインタビューにて野島氏が議論していることなどが参考になるだろう))

 この意識の二重性に着目した形での議論は少なくない。
 茂内克彦((http://www.intara.net))は『エースコンバット04』において、プレイヤ/プレイヤキャラクタの意識の乖離/同一化が常に曖昧なままで物語が進行していくことに着目する。そして、物語のクライマックスにおいて、「語りの主体」「プレイヤーキャラクタ」「敵キャラクタ」といった要素がいきなり顕在化されて表示されることになる。ここでは意識の二重性が曖昧に処理されていた状況から、いっきょに「敵/味方」「プレイヤ/プレイヤキャラクタ」という強烈な区分が提示されることによって、物語世界の悲劇性を描くことに成功しているのだ、として茂内は高く評価する。
 東浩紀は『Ever17』を例に出しつつ、ゲームプレイヤがゲーム内世界のNPC(=ギャルゲーというジャンルにおける目的報酬として機能する「少女」たち)と出会うための小道具としてこの二重性が機能していることを論じる。『Ever17』においても、『エースコンバット04』と同様にプレイの中盤までにおいてはプレイヤとプレイヤキャラクタの関係性は極めて曖昧に描かれる。ここでは物語の終盤まではプレイヤがプレイヤキャラクタが一人だと信じていたものが、実はプレイヤが信じていたような形態とは異なり、実は二人の異なる人間であったことが明かされる。そこで、この二人のプレイヤキャラクタを同一のものとして処理していた「メタ意識」の存在がゲーム内世界のNPCによって見出され、とうとうと語られることになる。この「メタ意識」とは言うまでもなくプレイヤの意識である。通常モニターの中のゲーム内世界と外の世界とがほぼ完全に分離していることを前提としているゲームプレイヤは、この「メタ意識」がゲーム内世界の人間に見出されることによってはじめてゲーム内世界に入りこむための経路を与えられるのである。

 プレイヤをゲーム内世界に呼び込むための方法論としてこうした「意識の二重性」が使われるゲームをほかに挙げるとすれば、『MOON』や『ベイグラントストーリー』といった作品も重要な位置を占めるだろう。