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ゲームにおいて「観客」というを語る場合、古典的な映画/演劇などにおける「観客」とは、数多く異なる点があるということに注意がなされる必要がある。通常は「観客」概念にあたるものは用いられずに「プレイヤー」という概念によって語られる。
以下、いくつかゲームにおける「観客」概念に焦点をあててゆきたい。
*解釈と評価 [#k622b1d8]
-A.評価する制度としての観客
--「評価」という緊張感をもたらされることでゲームが成立する。
--解釈者という意味ではなく、ゲームの勝者/敗者を評価する「制度」としての観客概念。
--ゲームを成立させるシステムの一部としての観客
-B.解釈者/受容者としての観客
--テクストを解釈する存在としての観客。読者、解釈者とほぼ同義。
--ゲームの表現に対しての観客
通常、「観客」「読者」といった概念が文芸批評などで用いられる場合、後者の意味のみで足りる場合が多いだろう。
しかし、「ゲーム」「遊び」を成立させるために不可欠な要素として重要になってくるのは前者の「評価する他者としての観客」である。これは一人遊びの場合は「内在する観客」概念によって代替されるものと捉えられる。物語などの「表現」を成立させるために重要になってくるのは後者の解釈者としての観客であるが、ゲームにおいては観客は作品そのものを成立させるあまりにも直接的な制度なのである。
*モニターの外の身体としての観客 [#l767d600]
--主人公ではなくゲームの外に存在しているプレイヤーの身体について。[[見る人とやる人]]を参照されたし。
--主人公ではなくゲームの外に存在しているプレイヤーの身体について。[[見る人とやる人]]を参照のこと。
*作品を成立させるイニシアティブ [#lcf85c25]
-A.魅了されるものとしての観客
--映像美などを堪能する側の存在(⇔映像を作る側の存在としての創作者)(受動的な存在) ※「プレイヤー」というものの中では映像美を堪能する側としての体験と、映像を作る側としての体験は同時に存在している。
-B.作品を評論する存在としての観客
--映像美や、作品の手法について、ケチをつけたり、論理的に議論する存在としての観客
*画面内視点の自由と、観客の動作の自由 [#t90053bf]
加藤幹郎『映画館と観客の文化史』P17〜P20では、「映画館」と「パノラマ館」が対比的に語られている。以下、要約する。
「パノラマ館」とは、三六〇度の視界によって設計された空間である。だが、三六〇度の視界をもっていることがわかるためには、円形プラットフォームを実際に歩いて回る必要がある。プラットフォームを一周することではじめて、観客は異世界のただ中に投げ込まれていることを理解する。「パノラマ館の醍醐味は、そこを観客が回遊してみなければならない」ことにあるという。
「映画館」は、観客のこうした回遊を禁止する。映画館では観客は座席について正面のスクリーンを凝視することが期待されている。一九〇五年の最初期から現在に至るまでこの構造は変わらない。そのかわり、観客が動かずとも、「いながらにして世界のどこへでも出かけて、また元の世界にもどってくる視覚的回遊性」を与えられている。ここでは、観客は身体的「動性」と引きかえに、視覚的/想像的「動性」をあたえられることになる。
パノラマ館と映画館は、観客に対して別の態度を要請する場所として今日まで続いてきているわけだが、これに対して状況を一辺させるのが、「インタラクティヴ・ヴィデオ・ゲーム」ではないか、と加藤は言う。
「たとえばゲーム・センター内でのゲーム・プレイヤーの様子を見てみよう。彼は両眼を覆う備え付けの電子ヘルメット(ヘッドマウント・ディスプレイ)」をかぶり、立ったまま、その場でぐるり三六〇度回頭しながら視野(ヘルメット内のスクリーン)のなかにいるはずの対戦相手を索敵している。このゲームプレイヤーの身体運動は傍から見れば滑稽きわまりないが、明らかにこの「観客」は「鎖のために首を回すことさえかなわず、眼前のものしか見守ることのできない」古典的ハリウッド映画の観客とは異質の存在となりおおせており、回頭しながらも異世界に没入できる、パノラマ館同様の強い動機を与えられているのである。
*関連ワード [#o9b03e29]
[見る人とやる人][内在する観客][緊張感][二重の身体][解釈][プレイヤー][遊びつつ遊ばれる]