Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―

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  西村清和が『遊びの現象学』の中で提唱している「遊び」の捉え方。遊びに参加する「遊び手」が「遊び」をいじる自由な主体ではなく、「遊ぶ」ということは「遊び手が遊びを遊ぶ」と同時に「遊びに遊ばれる」ということではないか、と提案している。 
 
  例えばゲームセンターでバーチャファイターの対戦をやっているプレイヤーは、バーチャファイターを遊ぶと同時に対戦相手によって遊ばれている。ちび太やキャサ夫、ブンブン丸(有名な強豪プレイヤー)などはバーチャファイターの遊び手であるが、同時に彼らは「バーチャファイター」を構成するシステムの一部になっていると言ってもいい。 
 
  一人遊びの遊びにおいても、自分が何か世界に対して行為する(遊ぶ)ことによって、そこで何らかのフィードバック(遊ばれる状況)が生じる。つまり、遊び手は、「遊び」に対して一方的な支配力を持った主体としてのみ存在しつづけるのではなく、受動的に反応を受け止める客体としても存在していなければならない。そのような主体と客体の間をいったりきたりする状態というものを「遊び」を捉えるための新しい視点として提唱している。 
 
  この見方が面白いのは、たとえば伝統的な遊び論の、「手段と目的」という考え方をまず前提として、「遊び」や「娯楽」を手段ではなくて、享受される「目的そのもの」だ捉えるタイプの発想に意義を提出しえている点にあるだろう。西村の議論では、主体が自律的な制御のもとで遊びを遊ぶ、といったものが発想されず、主体が客体にもなりうる。そもそも「手段―目的」などといった明確な区分は存在しておらず、手段と目的とが渾然一体となり、交じり合い、わけがわからなくなったところにこそ「遊び」という現象が立ち上がってくるのだ。 
  この見方が面白いのは、たとえば伝統的な遊び論の、「手段と目的」という考え方をまず前提として、「遊び」や「娯楽」を手段ではなくて、享受される「目的そのもの」だ捉えるタイプの発想に意義を提出しえている点にあるだろう。西村の議論では、主体が自律的な制御のもとで遊びを遊ぶ、といったものが発想されず、主体が客体にもなりうる。そもそも「手段―目的」などといった明確な区分は存在しておらず、手段と目的とが渾然一体となり、交じり合い、わけがわからなくなったところにこそ「遊び」という現象が立ち上がってくる。 
 
  このような新しい捉え方を提示しえた点は極めて興味深いが、このような西村の議論がそれ以上にどういった点で評価できるのか、私には今ひとつよくわからなかった。まさか、「遊び」現象に共通の特質とはこれだ!という定義を提出したいわけではないだろうし、「面白い」という感覚が成立するための心理学をやりたいわけでもないだろう。
  この観点は旧来の、ホイジンガ―カイヨワといった社会学・文化人類学の路線や、フロイト、ピアジュなどの心理学系の遊び論の議論ともまったく違う第三の道を提示しえたという点において高く評価できるものだろう。
 
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 -記事[[:井上明人]]
 -カテゴリ[[:概念]][[:定義]][[:先行研究]]