5月 31日 金曜日


900時間
 「禁欲的娯楽」というトピックでちょろっと書いた、シレンにはまっている某女性の『風来のシレン2』のプレイ時間がほどなく900時間になる。

 「900時間」という時間を見せつけられると、ゲーム業界の不況は実は、シレンの所為なのではなかろうか………とか思ってしまう。
 いや、そんなことはないだろうけれど、900時間ってのはすごい。毎日二時間の筋力トレーニングを一年間やったら、けっこうムキムキになるだろうけれども、それでもまだ730時間。
 


5月 30日 木曜日


「きびきび遊ぶ」
「俺は、平日はきびきびと勉強するなり働くなりして、休日はきびきびと遊ぶ、というのがいいなあ。遊ぶっていったって、メシ屋でダラダラと話してるような時間とかってすごしたくないよなあ。遊びと仕事とかがきちんとわかれてないってのが嫌なんだよなあ」


と、いうようなことをある人に言われて、非常に違和感を抱いた。
休日にきびきびと遊びに出かけるってのは、よっぽどはまり込んでいるような趣味でも持っているような人ならばともかく、そうでない人が、レジャーだとかって言って海に行くだとか、映画館に行くだとかデートで遊園地にいくだとってのが、本当に楽しいのかどうか。甚だ疑問に感じる。

「遊び」の定義というのが、そもそもなんなのかというようなことを考えると、今さっきの「きびきび遊ぶ」みたいな発想ってのは、「遊び」の定義が実に明瞭なものであるということを前提としていないと出てこない発想だろうと思うが、実際には、再三言っているように、何が「遊び」であると捉えられるのか、というのはかなり不明瞭なものがある。それは少なくとも【真面目】←→【不真面目】の二元論で考えられるほどにくっきりしたものではないし、 「遊びと仕事とかがきちんとわかれてない」という状況が存在する方がむしろごくごく自然な状況だろうと思う。家でゴロゴロしているのは遊んでいるわけではないけれども、仕事をしているわけでもない。ただゴロゴロしているのだ。別にものすごくゴロゴロしたいわけでもないし、ゴロゴロしたくないわけでもない。

もちろん、そのどっちつかずな状況が時間を無駄使いしているようで嫌だ、という感覚はよくわかる。だけれども、そこで無理に遊ぼうとしている人も多いように思える。その人が何にも興味がなくても社会的に「遊び」と見なされていることを行えば社会的には「あなたは今、遊んでいる」というまなざしをうけることはあるだろうけれども、本人的にはそれは別にあまり満足のいく行為ではないと思う。(もちろん、そこで「私は遊んだのだ」という事実をその人自身の意識の内に刻み込んでしまう、という効果ぐらいはのぞめるかもしれない。ある種のごまかしだと言えるが。)
例えば、ボーリングっていうものが全然楽しいと思えない人や、カラオケが全然楽しくない人や、旅行が全然楽しくない人が、一般的な「遊び」のイメージの範疇の入れられているそれらの行為を行ったからと行ってそのことに何の意味があるのだろうか。それならば、家でゴロゴロしている方が金もかからないし、ぜんぜんよいではないか、と思う。
特に、仕事のできる人………というか、なんというか「いかにも自己管理のできた人」みたいなタイプってなんかそんな感じの人が多いように思う。単に偏見かもしれないけれど。


5月 29日 水曜日


メカってなんですか?
今日、図書館で見つけた本
『ファミコン・シンドローム』(深谷昌志、深谷和子著)というけっこう昔の臨床心理関係の本なんだけれども、これがビデオゲームに関する認識が自分なんかとは相当に違っていて面白い。

「これまでの子供の遊びは(1)何人かの友と(2)屋外で(3)からだを動かしながら(4)メカを使わず(5)自分たちでルールを作りながら遊ぶ、といったことを基本としていた。 」(前書き)

それって偏見でしょ、とかっていうツッコミどころはいろいろあるけれど、一番ウケるのが「メカ」。メカって、何さ。メカって。

●ちなみに、前書きでこんな面白い表記があったりして、この本の著者はビデオゲームのことはほとんど知らないな、という感じがするにもかかわらず、内容はそんなにひどくない。
 むしろ、自分の方にこそ「ゲームをほとんど知らないで本を書く人」=「ゲームにネガティブな偏見を持っている人」という図式の偏見を抱いてしまっていたかもしれないと感じた。


5月 28日 火曜日


筋肉痛
昨日、ちょっと運動しただけでひどい筋肉痛。
しかも風邪をひいています。動けません。もう動けません。


5月 27日 月曜日


ゲームの大学
 実はワタクシ、ビデオゲームの研究書としてしばしばひきあいにだされる、『ゲームの大学』(赤尾・平林)もまだ読んでいないんですが、本屋に注文したら、絶版だって言われてしまいました。

どうしよう。一応、こんなサイトやってんだから、目を通すぐらいはしておきたいのだよなあ。


5月 26日 日曜日


『ゲーム批評』
 現在、わけあって『ゲーム批評』のバックナンバーを集めている。
 今までそろっているのが

 3,5-6,8-9,11-15,17-27,29-33,35-37,41,45

 逆にそろってないのが

 1-2,4,7,10,16,28,34,38-40,42-44

 だな。


5月 25日 土曜日


FF the movie
 今日はストーリーの方を……。
 ………
 ……。

 まあ、ストーリーの方はともかく、海外のアニメーター達のコメントモードも見る。
 なんだが、とにかく、スタッフがやたらと多いなあ、と感じる。
 「この服のデザインは誰?」
 「いや、オリジナルデザインは知らないけど、何か別々の人が作ったらしい。」
 「再編集とか書き直しとか何度もやるけれども、再編集がどのくらい大変か誰もわかってない。」


5月 24日 金曜日


FF the movie
 DVDでFF the movieを借りてきて見る。
 まずはコメンタリーモード(開発スタッフのコメントを聞きながら見る。)で見たのだけれども、色々と面白い話がたくさん。

 「この映画、ゴミとか多いですよね。」
 「ええ、ゴミしか作ってない人とかいたり」
 「とにかく物量が多いですね、作んなきゃいけないものがすごく多い」
 「最初、絶対に終わらないと思って延々と作りつづけてましたよね」
 「でも、色々作ったのにもかかわらず、ライティング(光のあてかた)の関係でほとんど見えてないものとかあるんですよね」
 「おれのあれはどこにいったんだ?とか何回か言われたことあります。一生懸命作ったのに、どうなったのかとかっていうようなね…ハハハ」
 「作った半分も出てないって感じで」
 「はじめ全部だしてた時は、むしろわけがわかんないって感じで」
 「力いっぱい作ってましたね。ハハ」
 「こことか全部で20パターンぐらい作ったんですけど結局これになったんですよね」
 「ファントムとかって、内臓と骨格と筋肉と全部別々につくってあるんですよね」
 「『ここの坂口さんとか取り除こうよ』って言ったらPMの子がどうもわかってなくて『坂口さんって誰?』って言われちゃいまして、」
 「ここの壊れる部分が有名な大変なシーンですね。ここだけで3ヶ月ぐらいかかったとかっていう。」
 「ここのところははじめはちゃんと計算させようとかって話でしたけど、結局ぜんぶ手動みたいな感じになっちゃいましたよね。」
 「この人物とか何気なく動いてますけど、すごくデータ重いから一人ずつレンダリングして……」
 「髪の毛とかは基本的に手動ですよね」
 「ここのシャツのこれってシミですか?」「いえ、チョコボなんですよ、実は。誰も気付きませんけどね。ハッハッハ。」


5月 23日 木曜日


JSFR
 友人がX-box値下げ(\34800→\24800)に伴い、X-box本体とJSFR(ジェットセットラジオフューチャー)を購入したので、いっしょにやらせてもらう。

 前作と変わった点もけっこうあるが、何よりも、前作で「ここをこうやりたい」と思っていたようなわがままがほとんどできるようになっているのがブラボー。ああ、そうだよ、コレ、コレがやりたかったんだよスマイルビット!と思わず叫んでしまいます。

●で、それとやったあとにゲームの定義をめぐるコスティキャンとかクロフォードの議論を思い出した。
 例えば、ウィルライトが自らの作品であるシムシティを「これはゲームではなくてオモチャだ」と言っているって話とかをコスティキャンはひいてきて、オモチャとゲームはインタラクティブではあっても「目標」があるかないか、という点で違う、というようなことを主張している。
 まあ、それは確かに自分もほとんど同じ議論をやるつもりだったから反対ではないのだけれども(※まあ、ただ「おもちゃ論」をこの議論の前提としてやっとく必要があるんでないの?というツッコミは可)、多分そういったタイプの議論をするとジェットセットラジオシリーズなんかも基本的には「ゲーム」というよりも「おもちゃ」というのが近いのだろうな、と思う。しかしまあ、このJSRは「TVゲーム」「コンピューターゲーム」という形で世間に認知されているわけであって、わざわざ「この作品の本質はゲームではなくておもちゃだ!」というような議論をしようなどという気はあんまりおこらない。
 多分、TVゲームとかコンピューターゲームとかビデオゲームとかって我々が呼んでいるもの、というのはコスティキャンの指摘するような「ゲーム」という部分もまた、ビデオゲームを構成する一部分に過ぎないのではないのか、≪プレイヤーに行為をさせるための構造(※目標と多様性を与えなければプレイヤーは何もしないだろうから)≫というものとして「ゲーム」というものが組み込まれているのに過ぎないのではないか、という気がする。

 と、なると、コスティキャン的な「ゲーム」というものの定義論をやっても、それだけで現在流通しているビデオゲーム、コンピューターゲームというものを語るのには自然と限界が出てくるのではないだろうか。「ゲーム」はゲームにとっての一部分でしかないのだとすれば。


5月 22日 水曜日


コスティキャン
 前々から読もうと思いつつほっておいた、
 コスティキャンのゲーム論を読む。

 なかなかに明晰な感じがして◎。
 4つの章立てから成っているけれども、基本的には
 前半が「ゲームとは何か」という定義論。
 後半が「ゲームを魅力的にする要素は何か」という技術論(?)。

 こういう分け方をしているのは非常に面白いし、見るべきところがものすごく沢山あるけれど、前半と後半がこういう形でわけていいものなのかどうか、というあたりにはけっこう疑問の余地あり。
 例えば、後半の技術論「相互支援と交渉」というところで、「マルチプレーヤーゲームの場合,プレーヤー間の交渉を認めれば,さらには推奨すれば,そのゲームはより魅力的なものになる」というような書き方をしているけれども、それはコスティキャンも言っているとおり「マルチプレーヤーゲームの場合」であって、そうでないゲームにとってはどうなのだろうか、その技術論を話されて意味あるのだろうか。
 そういう技術論を展開する前に、ゲームの分類論が必要なのではないのか、などと思ったりする。コスティキャンの見取り図だと、ゲームの技術論と分類論がまざってしまっている(いや、むしろ、ごちゃまぜにしてしまうことこそがコスティキャンの目論見なのかもしれないが)。

 細かくはまた検討するけれど、とりあえず、ゲームの定義論の「情報」という項目で明らかにこれはダークシードのことを言っているな、と思われる部分にややウケ。


5月 21日 火曜日


吉田戦車の新連載。
知らなんだ。
いつのまにやら、ほぼ日刊イトイ新聞にて
吉田戦車の新連載がはじまっているでは御座いませんか。

http://www.1101.com/sensha/index.html

「その5 ちくられて」がとりあえずヒット。


5月 20日 月曜日


サクラ大戦4
 サクラ大戦4を中古でだいぶ安く売っていたので購入。
 しかし、今回は短い。そしていつものような芸の細かさはない。「ああ、開発のスケジュールがきつかったんだなぁ」という感じが伝わってきてなんとも言えない。
 だけど、まあ、開発期間の極めて短い中で作ったものとしてはすごいんだろうな。多分。開発現場の実情などわからないけど。

 ちなみに自分がこの作品の中で誰が一番好きですか、と聞かれれば、それはもう、大神くん。
 でも、さすがに25にもなって上司の女性に子供扱いされている、というのはいいかげんにきついかも。20代前半ぐらいだとまだカワイイんだけどなあ。氷川キヨシとかも年くったらどうすんのかなあ。


5月 19日 日曜日


アメリカン ヒストリーX
 エドワードノートン主演のアメリカンヒストリーXをDVDで鑑賞。エドワード・ノートンムキムキ。

 南部の保守オヤジとか、ネオナチ+KKKみたいのとかが登場する映画で、アメリカでどういう受容のされ方をされたのかが気になる。
 アメリカでのこの種のレイシズムがどういう形で形成されていくのか、ということの実情とかってよく知らないけれど、なんだか、ちょっと「問題を語ってみたぜ、オラ」という雰囲気がいささか前面に押し出されすぎているきらいが強くって、「ハァ……」という感じになってしまう。もうちょっとなんか欲しい。主人公の弟はたった一晩で自分のイデオロギーをそんなに簡単に手放してしまわないでさ。何を描きたいのさ。
 主人公のオヤジがアファーマティブ・アクションへの反感をぶっちゃけてるシーンとかがあったけれども、アファーマティブ・アクションへのアメリカ国内での軋轢とかって実際にはどんな感じになっているのだろうか。知らないからなあ、自分。まあ、それはいいにしても、アファーマティブ・アクションの字幕が「差別撤廃」になってたのにはちょっとビビッた。いいんかい、それで。仕方ないのか。


5月 18日 土曜日


 最近、ゲームを素で楽しむってことがあんまりないよなー。とかってことをたまに思う。それは、ゲームの所為というよりも、数をこなしちゃってる人間は多分、ほとんど必然的にそういうおいこまれかたをしてしまうんだろうけれども。


5月 12日 日曜日


ふり遊びとごっこ遊び

 高橋(1989)は、ソロのpretend playを「ふり遊び」と称し、複数の子どもが参加するgroup pretend play(または,social or collaborative pretend play)を「ごっこ遊び」と呼ぶことを提言している。……(中略)……複数の子たちが参加するふり遊びには、コミュニケーションの問題が介在するために、ふり遊び(ソロのふり遊び)とごっこ遊び(複数の子どもが参加するふり遊び)を概念的に区分する必要がある。複数の子どもが参加して、一つの「ごっこ」の物語を共同で作るに際しては、参加者間のコミュニケーションが不可欠なのである。
 『遊びの発達学』P10



 えーっと、どうして以上の文を引用したのか、というと、RPGとネットワークRPG、それとテーブルトークRPGという3つのものをどう捉えるか、ということを考える上で、役に立つかな、ということで。
 とりあえず、問題だと思ったことを羅列。
●TRPGなんかはまさしく、group pretend playだろうなあ、と思うのだけれども、TRPGから名前を継承したRPGは、ソロのpretend playと言えるのだろうか?
●TRPGとネットワークRPGを同じgroup pretend playと呼んでいいものだろうか?(ネットワークRPGの場合などは特に、プレイヤーはわざわざ演技をしているだろうか?)
●想像力によって補う形式を前提としたふり遊びのための道具である人形などのようなものと共通の要素をゲームに見出せるだろうか?


5月 9日 木曜日


ゲーム理論
 ゲーム理論の被験者の実験のバイトをやる。
 ゲーム理論には別に詳しいわけではないので、別にたいしたことを思ったわけじゃなかったが、ゲーム理論で名指されているところの「ゲーム」とか、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの「ゲーム」とかって何をもってして「ゲーム」というように呼ばれているのかしらん、というのがちょっと興味アリ。

 一応の仮説は、

1.ルールのよって行動のパターンが限定されていること
2.行為の方向性が目標や評価システムによって決定されていること
 ただし、
 (a)それはゲーム参加者による多様な展開、創意工夫が期待されるような幅をもたせた形で、完全には決定されていないものでなければならない
 (b)ゲームの参加者のとった行動(選択)の差によって結果が異なるものでなければならない。

 というあたりかなあ、と思っているけれど。どうだろう。
 誰か「ゲーム」という概念の成立をきちんと追うような作業をした日とっていないのだろうか。


5月 7日 火曜日


おもちゃ論
 うーー。オモチャ論について、友人T.Oと話したことをメモっとこう。(その場の思いつきの議論なので、別にきちんとした根拠とかはなし)

1.模倣としてのオモチャ。
 人形、ミニカー、子供用のプリンター

  ○物語性の付与(※1.人形)
  ○他者の代理(※2.いとまき)
  ○大人の道具のミニチュア(※3.子供用ミシンとか)

 ※1.ソロのふり遊びの場合と
   ごっこ遊び(複数の子供が参加するふり遊び)の場合と両方ある
 ※2.精神分析系の、フロイトの「いとまき」(象徴、母の代理)
   ……喪失(孤独)と、回帰の繰り返しの経験なんだとか…
   遊びの媒体というのは基本的にはすべからく満たされない他者の
   代わりなのであって……という話。
   西村清和の議論なんかもこれにやや近い。
 ※3.支配できなかったものを支配できる喜び。権力。
   ミニカーなどの場合は代替物だけど、
   子供用ミシンとかは、「小さな実物」

2.工作用の媒体、道具
  ・積み木、LEGO
  ・プラモデル
  ・塗りえ

   クリエイティブな遊び?

3.不思議現象系
 ・ヨーヨー(他に、訓練追求の楽しみ、技術を磨く楽しみもあるけど。はじめての場合は「不思議」)
 ・万華鏡(「キレイ」という側面もあるけど)
 ・手品全般

4.パズル
 ・ルービックキューブ
 ・クロスワードパズル ・ピクロス
 ・知恵の輪   ・迷路

5.ボードゲーム
 ・将棋、チェス、人生ゲーム、モノポリー  

 ゲームを成立させるためのツール。
 (そういう側面から見るとバットやグローブやボールも)

 ※これだけ一人遊びじゃない?


5月 6日 月曜日


Self-Reference
ルーマンの概念、わけのわからないものがいろいろあるけれど
Self-Referenceってやっぱり訳がしっくりこない。
「自己準拠」でもあったり「自己言及性」でもあったり、

Reference:参照、参考、参考文献、引例、出典 / 基準、見本 / 言及、論及、指示 / 照会、信用照会先、問い合わせ / 関連、関係
 / 証明書、保証書、推薦状 / 回付、委託

 と、こりゃあ日本語でムリに考えるよりもReferenceを多義語としてそのまんまうけとった方がいいんだろうな。


5月 5日 日曜日


2chのゲーム板はなんだか読んでて今ひとつ面白みにかける。
罵倒にせよ、誉め言葉にせよあんまり気の効いたのが少ない。

「このスレたてたらこのくらい人が集まる」という参考程度にはいいのかもしれないが。なんか面白いスレはないのか。


5月 4日 土曜日


蟻氏宅へおじゃまする。


5月 3日 金曜日


ああ、絵を飾る小コーナーでも作るか。


5月 2日 木曜日


タブレット
 タブレット(WACOMの9800円のやつ)を使って描いたのははじめてなんだけど、慣れなきゃ使いにくいことこの上なかったけれども、慣れればこれはなかなかにグッド。

 PhotoShopだけしか使ってないのでPainterとかも欲しいとこだけど、まぁブラシをカスタマイズなりなんなりすりゃあ、ある程度までPhotoshopでも色々できる。

 ああ、でも、確信的な一本の線が描けない。やっぱり現時点では到底鉛筆にはかなわない。


5月 1日 水曜日


逃避行動
 色々と読まなきゃならないものとか書きゃなきゃいけないものとかがたくさんあるのだけれども、逃避行動に出て絵を描き始める。