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10月 31日 木曜日


●河本英夫の対談集『システムの思想 AUTOPOIESIS+』(東京書籍 2002)を読み始める。対談相手は西垣通、池田清彦、佐々木正人、松野孝一郎、信原幸弘、新宮一成、前田富士夫、勅使河原三郎。
 わからない部分は豪快にわからない。扱う領域が広いためにどうにも初学者にはやさしくない。それでも、ところどころ面白いが。

●町田のBook off3階で『電子遊戯時代-テレビゲームの現在-』(ビレッジセンター出版局 1994)が、何故か積まれて売られていた。





10月 30日 水曜日


●日本バーチャルリアリティ学会の第七回大会の発表者に自分と同姓同名の「井上明人」さんがいらっしゃることが発覚。
 いやあ、びっくり。
http://sklab-www.pi.titech.ac.jp/VRSJAC7/programDetail.php?pid=135
 もしも、このページを発見したらメールでも下さい。 >防衛大の井上明人さん。

●田中茂範・深谷昌弘『<意味付け論>の展開』紀伊国屋書店 1998
 半分まで読了。
 基本的な理論枠組みはガダマー似の話。第三章<意味知識と言葉使いの共有感覚>が概念・言語分析の方法論を考えていく上で激しくタメになる。上野千鶴子編『構築主義とは何か』とか、ヴィヴィアン・バー『社会的構築主義への招待―言説分析とは何か』とかを流し読みしても今ひとつ具体的な方法論のイメージがわからんかったけれども。
1. 11/01 20:50 構築主義の実践例だと、赤川さんのような言説分析が参考になるかもしれません。『セクシュアリティの歴史社会学』とか。
2. 11/02 10:49 どうも情報ありがとうございます。今度読んでみます。(井上)
3. 11/02 19:28 追記。『岩波現代講座・セクシュアリティの社会学』に赤川さんの短い論文があります。要点はほぼいっしょだったような気が、先に読むならそっちがオススメです。(M・S)




10月 29日 火曜日


●ちょこちょこと読んでいた野矢茂樹『無限論の教室』(講談社現代新書)を一応読み終わるが、一般対角線論法がよく理解できなかったため後半がほぼ全滅。

●冨田勝『ゲーム少年の夢』読了。
 単なる自伝。著者と直接に話したことが少しだけあるのでやや面白く読めたが、知らなければ単なる自慢話の本だろうなあ。

●『バーチャルリアリティ入門』の話。続き。
 P65のバーチャルリアリティの分類も見逃せない。(以下は本書の記述とはかなり変えてあります)
 
[A]伝達された現実
  :電話、テレイグジスタンスなど。
   遠隔地の現実空間とVRを介してつながれる。
[B]構成された現実
  :擬似的に作りだされた現実空間。この分類はさらに以下。
 [B1]現実をモデルとして構成されたシュミレーター
 [B2]現実をモデルとしないアミューズメント・アート

 ちなみにこれが複数の人間が参加するVR空間であった場合
 [A]臨場感通信会議とか
 [B1]共同設計、共同訓練とか
 [B2]VR共同体(ネットゲーとか?)
1. 10/31 12:42 細かいですが、まだシ「ュミ」レーター癖、抜けないですか。
2. 10/31 21:29 a,
3. 11/01 08:33 あ、本当だ。駄目ですねぇ(井上)




10月 28日 月曜日


●舘ワ『バーチャルリアリティ入門』(ちくま新書)をザラッと読む。
 まあ、これはけっこう面白いのではなかろうか。
 テレイグジスタンスとかオーグメンティッド・リアリティとかってぜんぜん知らなかったし。(ちなみに、著者はテレイグジスタンスの第一人者らしい)
 ※[テレイグジスタンス] 雲仙・普賢岳とかでの極限作業ロボットなどに使われているバーチャルリアリティを用いた遠隔操作の技術みたいなものとか。正確にはP169を見ヨ。
 ※[オーグメンティッド・リアリティ]現実空間に情報や映像をバーチャルリアリティとしてつけ加えた空間。

●あと、桝山寛『テレビゲーム文化論』(講談社現代新書)の議論枠組みが大きくバーチャルリアリティの話に依拠しているのだなぁ、ということを思った。
 『テレビゲーム文化論』の中にも似たようなことが書いてあったけれども、バーチャルリアリティの三要素として
 [A]三次元の空間性
 [B]実時間の相互作用性
 [C]自己投射性
 の三つが挙げられる(P26〜P27)。(※『テレビゲーム文化論』だと、P156で、「インクルーシブ・インタラクション・自律性」とちょっと違うことが書かれているのだけれど………舘さんの方が専門家なので記述の信頼性は多分、舘さんの文章の方があると思う。多分。)[A][B]はいいとして、[C]自己投射性というのは「その環境と使用している人間と環境とがシームレスになっていて環境に入り込んだ状態がつくられているということ」で、つまり、例えば、「ディズニーランドなどで見る三次元の映画」などでは、自己投射性があるが、「目の前のディスプレイを見ているだけ」のコンピュータゲームでは自己投射性はないらしい。(でも多分、バーチャルボーイならば自己投射性がある、と言えるかも)
 で、『テレビゲーム文化論』だけれども、P157に「日本におけるTVゲームの進化史が、そのままVRを構成する三要素とつながってくるのだ」と書かれていて、桝山氏によるTVゲームの「進化論」はほぼこれを土台としていると考えて間違いがなさそう。
 桝山氏によれば、今までのゲームはインクルーシブ(臨場感みたいな意味らしい)を志向するか、インタラクションを志向するかだったが、これからは「自律性」だ。という議論になっていて、だから「ロボットだ」「一人遊びだ」という話だったと思うのだけれども、…………ん?なんか三要素の定義が違うから話が違ってきてしまった。イヤ、なんか話がまとまらなくなってしまった。すみません。

●調べてみたところ
 ダグラス・トランブルではVRの三要素を以下のものとして定義。
 [1]大画面
 [2]インタラクティヴィティー
 [3]揺動(モーション・デザイン、視聴覚以外の体感刺激)
(http://ascii24.com/news/i/topi/article/1999/06/04/print/602566.html)

 また、他のある修士論文ではVRの三要素を
 [1]presence(写実的、投入的)
 [2]interaction(操作的)
 [3]autonomy(ふるまい)
(http://www.itlb.te.noda.sut.ac.jp/~george/PDF/m_thesis.pdf)
 としている。
 "interact"の文字が入っている以外だと、自律性が入っていたりいなかったり、自己投射性が入っていたりいなかったり、写実性とか三次元空間性が自己投射性と一緒になっていたり、とけっこう違う。これはつまり研究者の間でも見解が完全には一致していないということなのだろうか?




10月 27日 日曜日


●逆転裁判クリアー。いろいろとよく出来ているけれども、特に「論敵(=検事)」の表現方法がかなりよく考えられていると思う。
 そもそも、この作品のシステムだと、検事だとか、裁判官とか、証人だとかはAIのようなものとして実装されているわけではない。証人と裁判官は
  証人=クイズ
  裁判官=解答の評価システム
 というものにテキストをはっつけて人格を擬似的に実装しているが、
検事に至ってはシステム上ほとんどいかなる役割も与えられていない。乱暴に言ってしまえば、システム上の地位が与えられている証人や裁判官はインタラクティブな振舞い(と言うにはささやかなものではあるが)
が許されているが、検事にはインタラクティブの「イ」の字もない。
 だけれども、この作品は検事にインタラクティブに動作する人格らしき雰囲気をかもしだすのに成功させている。その雰囲気を与えているのは、「意義有り」「待った」という主人公が「道具」として使用しているフキダシが、検事という存在から発せられるという理由からだろう。つまり、主人公と同様の意思決定を検事もまた行っているような雰囲気を与える。 
 しかも、後半に行くにしたがって、検事の「強さ」をかもしだすために検事からの「意義有り!」の数が徐々にふえていく。それは、「意義有り」と発言される数だけ、論敵たる検事が数多くの意思決定を行う、頭のまわる論敵であるかのような錯覚をあたえるための手法として有効に機能している。

●何の根拠もなくコマンド総当りをしていくシステムから大きな飛躍を遂げるのに成功したことは間違いなくスゴイ。ただ推理ゲームとしての成立という点での期待はだいたいアタリだったけれど、やや期待ハズレといったところだろうか。
 だいたいの意思決定は論理的に推論を加えていけば解けるのだけれども、いくつかの選択肢は意図的に「根拠の無いハッタリ」を言うことで成立いたり、論理的に反論の余地があっても証拠品としてつきつけられてしまったり、証拠としてつきつけることが可能だと思われる証拠品が二つぐらいあったりした時に片方は正解で片方はハズレだったり、ということが、ちょぼちょぼある。
 論理的に不十分だと思われるような作りについては「2」の方で改められていることを期待するけれども、「根拠の無いハッタリ」部分は完全に論理パズルにすることを意図的に放棄して、ある程度のギャンブル性が入り込む余地を作ってあるので、これはまあ、悪いとは言えない。個人的にはギャンブル性が入り込むことにはやや不満を感じる部分もなかったではないが、なかったらなかったで意外とつまらなく感じてしまうかもしれないし、この部分はユーザーからの評判を聞いてどのぐらいの量を放り込むか微調整していくんだろう。

●その他にも、言うまでもないけれど、机をたたく音とか、フキダシだとか、ハッタリの部分がすごくよく作ってあることで、「裁判ゲーム」としての雰囲気をきちんと成立させているし、人物のコミカルな表現だとかも見事。総合的なクオリティも高い。
1. 10/31 12:43 細かいですが、「異議あり」ですな。連発してるので一応。




10月 26日 土曜日


●日垣隆『いのちを守る安全学』(新潮OH!文庫)読了。
 専門家四人との対談集。
 単なる雑学本かな、と思って手にとったのだけれども、読んでみると人選がかなり良いようだし、日垣さんもかなり勉強している様子。特に面白かったのは小西聖子×日垣隆[犯罪被害者になった時]、と中西準子×日垣隆[化学物質との正しい付き合い方]。ぜんぜん知らない話なので興味深い。

●『ブラックジャックによろしく』三巻
 この作品の監修をしている長屋憲(医療情報研究所)さんの講演を一度聞かせていただいたことがあって、一巻・二巻はほとんどその講演の内容そのままみたいな感じだったので解説/啓蒙マンガっぽい雰囲気を感じていたが、三巻に入ってようやく講演の内容とは違ってきた。
 でもなんだか、どうしても、あまりにも典型例を描きすぎているような感じがぬぐえない。うーん。

●高橋留美子『犬夜叉』一巻〜二七巻
 つまらなくはないけれど、らんまのほうが面白かったような気がする。

●伊藤潤二『ぎょ』一巻〜ニ巻
 『富江』を読んでも伊藤潤二の醍醐味というのが今ひとつよくつかめなかったけれども、『ぎょ』はなんだか微妙にヒット。微妙に。

●稲光伸二『フランケンシュタイナー』
 なんかこう、同人趣味とでも言ったらいいのだろうか(よく知らないけれど)。ノリがいい。




10月 25日 金曜日

ゲーム学会
●大阪電気通信大学の対馬勝英教授をすえて、ゲーム学会が成立、と。
hTTP://WWW.DMIC.ORG/GAME/
人工知能研究の教授をすえるっていうのはなんだか心情としてはわからないでもないチョイスだなあ。

毎日の記事を読んでみてもやっぱり内容が方向性がチョイとつかめない。
http://www.mainichi.co.jp/news/flash/shakai/20021024k0000e040081001c.html
まあ、方向性はありません、というのが今のところの方向性なのかな。




10月 24日 木曜日


 今年の5月ぐらいからたまに2chで書き込んだりしているのだけれども、板・スレによる人の層の違いっていうのはけっこう激しいものがあってつらい。だけれども、まともな話をしようと思えば、まあ結構できないことはないなあ、と。
 ただし、そのためには経験的に以下の2つぐらいのことが言えそうな気がする。




どこのスレであってもそれなりにまともな話をしようとしつこく書き込んでいれば、それなりの話をしてくれる人がよってくる。

ただし、スレによってはなかなかよってきてくれないので、だいぶねばらないと大変。専門板などはある程度は話のできる人が多い。






10月 23日 水曜日


●『逆転裁判』が期間限定スペシャルプライスとかっていうんで安く売られていたので\2580で購入。

●いまのところは、期待しすぎていたためか、予想していたよりも「オォー!」というのは少ないが、たしかにこれはまあ、巧いこと作ったなあ、と。
 基本的な選択決定のシステムではそれほどあまり大胆なことはやらないで、それ以外の構造の部分をきちんと作って裁判ゲームとして成り立たせているっていうのは、「斬新」というよりもむしろ手堅く作る老獪さみたいなものを感じる。若い人が作ったらしいけれども。
1. 10/25 17:10 『逆転裁判1』の偉大なところは、『ZORK』とかの昔から作ろうと思えば作れるシステムだったのに、これまで誰も作らなかったものを作った点だと思います。
2. 10/25 17:11 ゲームデザインのオリジナリティとしては近年稀に見るかなと。(茂)




10月 20日 日曜日


 友人から借りた『エースコンバット04』をとりあえずイージーモードでとりあえずクリアー。

 茂内さんも誉めていたけれども確かにこれはスゴイ。

 ちなみに、私にこれを貸してくれた友人は「あまりに出来がよかったから途中までしかやっていない」という理由で、行き詰まって貸してくれた。

 「あまりに出来がよかったから途中までしかやっていない」というのは逆説的に聞こえるかもしれないけれども、基本的には私が『ゼルダの伝説―ムジュラの仮面―』について書いたこと(最初の設定だけで満足してしまってそれ以上、ゲームとしてどうこうしてやろうというテンションが起きない)と同じようなことだろうと思う。

 しかしそれっていうのは幸せなことなのだろうか、不幸せなことなのだろうか。ウウム……
1. 10/25 10:21 うーん、なんとなく「先を見たい」と思わなかったのも事実。驚くほど目新しいものをそれほど感じなかったのさね。(友人)
2. 10/25 17:12 AC04、どの辺がスゴいと思いました?(茂)
3. 10/25 17:13 私にとっては驚くほど目新しい点がいくつもありました。続編にオリジナリティなし、というのは偏見といういい例かなと思っています(言いすぎ?)。(茂)




10月 19日 土曜日


 遊び研究関連の文献をさがしていて思うのだけれども、社会学だとかの分野だととりあえずホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、カイヨワ『遊びと人間』を挙げておく、という感じのものが多いが、心理学系だと、ホイジンガのホの字も、カイヨワのカの字もなく、
 精神分析系であれば、フロイトやらラカンやらの「いとまき」の話になったり、児童心理学系であれば、グロースやボイデンテイク、ピアジュ、エリクソンという名前が出てくる。(ピアジュあたりは児童心理学の話になれば名前が出てこない方がおかしいようだけれど)
 フロイト、ラカンあたりは微妙に積極的に読みたいと思えないところがあるのだけれども、グロース、ボイデンテイクあたりはちょっとどんなものなのか読んでみたい。




10月 18日 金曜日


 人間の性格をおおまかに5つぐらいに分類するという某性格診断をやることになって、やってみたら「あなたはSMAPで言うとクサナギ君タイプ」の性格らしい。
 それは一体どういう性格なんだろうか……





10月 17日 木曜日


 石田春夫『人は遊ぶ―ホモ・ルーデンス再考―』という本が、books.or.jpでは検索でヒットするのだけれども図書館に行ってもさっぱり見当たらず、注文して入手。

 副題に「ホモルーデンス再考」などとあるからアカデミックなものを期待していたのだけれどもそういう期待はかなり激しくハズレた。これはほとんどただの遊びに関するエッセイ集。
 ブレーンストーミングのネタ本として読む程度ならばまあ多少は読めるだろうか。
 
 




10月 12日 土曜日


 だいぶ古いけれども550円で『ゼノギアス』を購入できたのでやってみる。

 98年頃の作品としては実際これはかなりクオリティが高いなあ、と感じるが、まあまだはじめたばかりなので。




10月 11日 金曜日


●dotimpactさんのところの掲示板を読んでいて知ったのだけれども、今になって『MOON』のサントラが発売されるんだそうです。
http://www.lovedelic.co.jp/pub/sketch/main.html
 にしても、値段が高い…。




10月 10日 木曜日


●「ベストセラー雑学本にはあんまり純粋な興味でもって接近したくない」という、我ながら「アホだなぁ」と思ってしまう下らないプライドを持っているので、あんまりその手の本には手をださないのだけれども、ほぼ日刊イトイ新聞の『海馬』をけっこう純粋な興味でもって買ってしまった。
 ああ。




10月 8日 火曜日


 ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を文庫版(中公文庫)で手にいれられたので、読んでいるが、カイヨワよりも鋭いな、と思えるところもあったり、駄目だな、と思えるところもあったり色々。例えば、カイヨワにおいては狭義の意味でのゲームという現象と「遊び」を分かつという発想は希薄だが、ホイジンガでは「闘争としての遊び」と「表現としての遊び」という分類の発想があって、そこらへんなんかはなかなか微妙に鋭いかなぁと思う。(カイヨワにもそういう発想はあると言えばあるのけれども、ホイジンガの方が濃いかなぁ、と。)
 全般に目につく欠点らしき欠点としては、「遊び」という言葉の意味についての意識がカイヨワよりもかなりずっとユルイ感じがする。これは読んでいて意味をとらえづらい時があるので少々つらい。あと、章立てが細かすぎて全体構成をつかみづらい。できれば、三章か四章ぐらいにしてしまってあとは第一節とか第二節という形にしてほしかったなあ。ホイジンガ。

 と、あと、ちょっと目に付いた面白い記述が以下
「この緊張の要素こそ遊びの中では特に重要な役割を演じている。緊張、それは不確実ということ、やってみないことにはわからない、ということである。」(36頁)
 このあと「だから…」に続く記述は必ずしも同意できないのだけれども、この「緊張」という言葉についての考察はなかなかに面白いところを衝いているように思う。
 おそらく「緊張」ということは心理的なものと身体的なものとのイメージがかなり交じり合ってしまっている言葉で、心理的に「緊張する」と言ったとき、それは「この後どうなるかわからない」という不安だとかと結びついていて混沌としたものがあるが、身体的には「ガチガチに固まる」という硬直したもののイメージがある。(と思う)

 「緊張し、張詰めた線」
 「緊張してドジをしている人」
 「本番が近づいて緊張してくる」
 「緊張感のある作品」
 「緊張感を持って仕事している」

 これらの「緊張」という言葉の使われ方はけっこう違う。
 っていうか「(緊張して)アガル」というのと「集中している」「気をはりめぐらせている」というのはかなり別の意味だろう。
 




10月 7日 月曜日


 ある人の研究のプレゼンで「××というのはこうやれば論破できるし、△△というのはこうやれば論破できる」などと得意げに言っていたのを聞いてちょっと微妙な気分に陥る。

 「××という議論には■■という側面からの問題を指摘することもできるだろう」とかって言うのならばわかるけれども、論破できるというのをそんなに威張ってどうしようというのだろうか。






10月 6日 日曜日

シムピープル
●昨日、友人が来てデスクトップの調子を直してくれたので、いまさらながらではあるが、だいぶ前から買ったまま放ってあった『シムピープル』をプレイ。

●これは、寸評で扱うには手に負えないが、まずはこのような形の(狭義の意味ではない)「ゲーム」を仕立てたということに感動する。と、同時に、『シムシティ』でも見られたことだが、そこにシステムとして表現されているウィルライトの人間観(シムシティでは都市への観点)に対して、プレイヤーである自分の側から当然のようにして出てくる違和感がある。(シムシティについてはたしか岡田斗司夫も似たようなことを言っていたと思うが)
 その違和感を根拠にウィルライトの人間観を非難しようとかそういうこともいいかもしれないが、そのような違和感を出現させるということ、違和感が意識されるということ――そのようなものが論評すべき対象となりえているということ自体が嬉しくてたまらない。

●話は全然違うが、メールマガジン[ARG](ACADEMIC RESOURCE GUIDE)で、9.11の特集として、WEB上で読めるジジェクやウォーラーステインやらの9.11関連の論説などをまとめてリンクしている。
http://www.ne.jp/asahi/coffee/house/ARG/142.html




10月 5日 土曜日


●なんだか今週は、運勢でも悪いのだろうか。
 特にストレスがたまるような時期ではないはずなのだけれども、腹立たしいこと(3日のことはそうではございません)がやたらと多かった。




10月 3日 木曜日


 ご指摘をいただいたので、一昨日の文芸春秋の記事についてあらためて、引用させていただきます。

「まったくといっていいほどβ波が出なかったのは、ブロック系ゲームでした。これは、異なる形のブロックを水平に埋めていくゲームで、最初のうちは、ブロックを回転させたり、左右に動かす思考をするので前頭前野は活動していました。ところが、ゲームに慣れると前頭前野を通さない簡単な回路(図参照)を提供してしまうのです。
 ほかのジャンルのテレビゲームも、慣れてくるとβ波は出なくなります。一般的に思考型と思われている囲碁や将棋も例外ではありませんでした」(週刊文春2002年10月3日号、55頁)

 この記事についての一昨日のような書き方をしてしまったことは全くの私の側の落ち度であり、誤解を与えてしまった皆さまには深くお詫びをいたします。

 ご指摘をくださった方、本当にありがとうございました。
 このようないい加減な仕方で資料の引用をしてしまったことについては深く反省しております。まことに恥ずかしい思いです。もしよろしければ今後ともよろしくお願いいたします。




10月 2日 水曜日


山田敏(やまださとし)『遊び論研究 −遊びを基盤とする幼児教育方法理論形成のための基礎的研究−』 風間書房 1994

という700頁もある、がっちりと先行研究のまとまった本を発見。
日本十進分類法の「376.1」の棚のあたりの探し方が非常に甘かったなあ……と。もう一回「376.1」の棚をあらいましょう。




10月 1日 火曜日


●少し遅くなったが、今週も、我らが森教授の「ゲーム脳」記事の連載されているという週刊文春を購入。
 今回の爆弾発言はすごいです。将棋や囲碁は「思考型」のものではないらしいです。これは新発見!(笑)
1. 10/03 13:46 「思考型ではない」とは書いておらず、「一般的に思考型と呼ばれるゲームも〜だった」という風に書いてありますね。よく読みましょう。
2. 10/03 14:51 おっしゃるとおりです。表現に飛躍がありました。申し訳ありません(井上)