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2005年07月17日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

「死の表現」をめぐって

 昨日に引き続き、大手ニュースサイトに死の表現が「ネタ」カテゴリーで取り上げられ*1、あわせていろいろなところから言及いただいているようなので、ご紹介を兼ねてちょうどいい機会なのでダラダラと書きます。

 長文ですが、あまり推敲とかしてないので読みにくかったらすみません。

ドラクエ「あなたはしにました」

 漂流皇室のミレマさんの、ドラクエの露骨さに驚いたとかというのをはじめ、「あなたはしにました」のインパクトはすごかった!というようなコメントをいただいたのが半分近かったです。印象深かった一言コメントは(D.B.E三二型)さんからDQ2「おお ×××!しんでしまうとはなさけない…。」によせられたコメント↓

「情けない」程度で片付けられる幸せと矛盾。

的確な指摘です(笑)

FF「せんとうふのう」

 あとは、FFの「せんとうふのう」に関するご意見がいくつか見られました。特にまとまった形で言及していただいたのがid:Iron-9さん

http://d.hatena.ne.jp/Iron-9/20050716#decease

ゲームにおける死に関しては、ひとつよく覚えているものがある。何年か前、『ファミ通WaveDVD 2003年10月号』でやってた『ファイナルファンタジー10-2』特集で、読者から募集したやり込みビデオを出演者である松本まりかさんが編集者のあらじ谷塚さんと一緒に審査するというコーナーだったんだけど。その中の、レベル1のユウナだけでゲームを進めるというやり込みで、最初の戦闘でパーティーのユウナ以外のキャラクタを戦闘不能にするというのがあった。そのビデオを見終わって、松本さんが「リュックもパインも死亡させちゃうところが、ちょっと極悪ですよねー」と言うや、あらじさんが「死亡と言うか、戦闘不能状態……」と言い直していて。それだけのことなんだけども、見てて衝撃的だった。「死亡って、言っちゃいけないんだ」と。普段RPGやらんからあのジャンルでの言葉の使い方というものを知らなかったのだけども、ああそうなのか、と。あの作品では死は隠蔽されているのか、と。

 それは確かに衝撃的で面白い話ですね。

 ファミ通の編集者とかに対して…というか業界全体レベルでそういった暗黙の制約ってどの程度の保たれているのでしょうね。実際に、そこらへんの表現について厳しく言って回っている特定のメーカーとかが存在するという話は聞いたことがありませんが、そこらはんは誰が取り締まっているわけでもなく、なんとなくの「おやくそく」として、いつのまにかそういう自主規制(?)のようなものが成立してるんでしょうか。わかりませんが。

「隠蔽」の評価をめぐって #01 理論編?

同じくIron-9さんより

 例えば『グランド・セフト・オート3』なんかは、残酷なゲームの代表みたいに言われていて、なるほど、車を盗んだり、通行人を殺したり出来る。でもさ、殺せはするけど、その行動に対してはちゃんとペナルティがあるんだよね。あのゲームの世界では現実同様に警察というものが存在して、犯罪を犯しているところを見つかるとしっかり犯罪者として追われ、悪事を重ねるごと上がる指名手配反としてのランクに比例して警察の追及の手も厳しくなっていく。それに対して、日本国内では人気のジャンルとして楽しまれているRPGはどうなのか。敵を撃って、斬って、殴って、叩いて、焼いて、感電させて、凍らせて。で、経験値やお金やアイテムなんかの、戦闘の報酬を得て終わり。

 死を巧妙に隠蔽することで低年齢のユーザーでも気にせず遊べるようになるのは分かるのだが、でも、「隠蔽してはい終わり」でいいのか? 製作者が「これは死んでいるわけではありませんよ」と言えば、それでいいのか? プレイヤーの操作によってキャラクタが取っている行動は同じで、暴力には変わりないのに、その行為に対する現実的な結果を隠蔽することが、直接的に描くよりも良いことなのか?

 90年後半の低年齢向けユーザーに配慮したコンシューマー市場の「死」の表現について、「隠蔽」でしかないとして評価してしまうのならばIron-9さんのこういった議論は非常に妥当なものだと思います。

 ただ、問題はここで議論になっている「行動」の中身がどのようなものなのか、という点にも焦点があてられてよいのではないでしょうか。たとえば、該当記事のコメントでも少し書きましたが、ゲーム中の命の表現について低年齢向けユーザーを抱え込みながらも一番露骨にものすごい表現をやってしまっているのは、旧エニックスの『ドラゴンクエスト』シリーズの「××はしんでしまった」であるとか、任天堂の『スーパーマリオワールド』にある命の交換をしてしまうシステムだというのがあります。「命を一番粗末に扱っているゲーム」というだけならば神奈川県によって有害図書指定をうけた『GTAIII』よりも『スーパーマリオワールド』のほうが100倍ものすごいことをやっているわけですね。たとえば、『GTAIII』では人を殺せば一応は警察に追われるわけですが、『スーパーマリオワールド』では実の兄弟から命を奪っても、一切罪に問われることはない(笑)

 ただ、ここで起こっていることは何なのかと考えると、本当に任天堂やエニックスが人命というものを軽く考えているのだ!とか、そういった問題ではなさそうです。ここで、任天堂やエニックスがこういったラディカルな命の表現をしてしまう、というのは命に関わる表現の顕在/潜在だとか、命を軽く扱う/扱わないといったこととは別の観点からなされているものだろうと思うのです。

 それは、おそらく*2(1)ビデオゲームを小説・映画・漫画などと連なる「表現」のメディアだとして捉えるのか、(2)それとも「勝ち負け」などを競う「試合」のようなものとして捉えるのか、といったことではないでしょうか

 前者では一般的にいえば、「死」をいかに厳粛なものとして表現するかに重点がおかれ*3、後者において「死」は単なる「試合の勝ち負け」を表現するための便宜的な言葉にすぎないという側面があります。つまり、そのような「ゲーム」観のもとでは、「死」という表記は、対戦相手の「GAMEOVER」「LOSE」といった言葉によっていくらでも置き換え可能なものとして捉えることができます。

 そのような「試合」という観点をベースにすえた場合、ゲームの中における「命」はあくまで「試合」のシステムにおける一つの道具、資源でしかなくなります。そして、「試合」としてゲームを捉えるという観点は、決して現実的な日常世界*4における倫理的基盤を崩壊させようとするものであるよりは、勝ち負けの世界の論理を日常の世界からスッパリと分離してしまうことによって日常の倫理的基盤を強力に下支えするようなものですらあるはずです。任天堂やエニックスが堂々と命を粗末に扱ってしまう感覚は「ゲーム=試合」として捉えるような伝統的なゲーム感*5を下敷きにしている限りにおいては、まったく問題なく道徳的なものであるといえます。*6

「隠蔽」の評価をめぐって #02 FFを題材としたケーススタディ?

(以下、FFシリーズについてのネタバレ含みます)

 さて、ここまでは『スーパーマリオブラザーズ』と『ドラゴンクエスト』に対する話だったので、もう一度『FFX-2』に対して投げかけられたid:Iron-9さんの疑問を、少し広めに再定義して考え直してみたいと思います。

 「90年代後半における低年齢層を含むコンシュマーソフトの間――今回はSFC以降のFFシリーズ*7――で、死の表現に対してやわらかな自主規制をかけていったことは結局ただの隠蔽にすぎないのではないか。」と。

 これに対して、さきほど述べたような観点から実質的に*8NPCやPCが死んでるのか、死んでないのかといったことを切り口として、基盤となっている「ゲーム」観は、<表現としてのゲーム>であるのか、それとも<試合としてのゲーム>であるのか、をみていくことにします。

 とは言ってもあまりに詳細な議論をしていても日が暮れてしまうので、結論から言ってしまうと、「表現」か「試合」かという点についてFFシリーズはとても微妙な立ち位置をとっています。

 周知のように、FFシリーズは、伊藤裕之氏あたりを中心に、「面白さ」の強度をどんどん上昇させようとゲーム内独自論理としてしかありえないような複雑なバトルシステムの実装が行われていったシリーズです*9。この点では、ゲーム内世界=現実の模倣、表現とかっていうよりは、ゲーム=試合というような観点を下敷きにしているといえそうです。また、FF5のギルガメッシュや、FF6のオルトロスのように、戦闘に勝ったとしてもシナリオ上で彼らが「死んだ」ということにはならないようなキャラククターも出てきますし、逆に対ボス戦でプレイヤーキャラクターが殺されても圧倒的に強すぎるような敵ボス戦については負けたとしてもシナリオが進行し、死んだことにならないというようなこともしばしば出てくることになりました。これは、90年代に日本のRPGをある程度やっていたプレイヤーならごく当然のように知っている「おやくそく」です。

 しかし、逆にFFシリーズにおける「死」の取り扱い方が、試合の論理よりも表現における論理を重視してきたというような点も見受けられます。開発スタッフとして一部では強烈に恨まれると同時に熱狂的な憧れの対象ともなっている野村哲也氏の発言を引用します。*10

野村:本当のところをいうと、『FFVII』のテーマは「命」だったんです。坂口さんから「命をテーマに描く以上、生と死を描かなくちゃいけない。とくに死を描かなくちゃいけない」という指示があった。キャラクターの死で、プレイヤーに痛みを感じさせたかったんですね。そうするとヒロインのエアリスの死を描くのが、一番痛くて、重いわけです。ならば、その死をちゃんと描くためにも、エアリスの死を表現することになりました。

 このような発言*11にも明らかにみられるように、FFシリーズは明らかに「試合」としてのゲームのロジックだけではなく、「表現」としてのゲームのロジックによっても作られている作品です*12。二度と生き返ることのないプレイヤーキャラクターの「死」が実際に表現されたり*13。そして、シナリオの中で敵が生き返ったり死んだりを繰り返すわけですが、ここで着目したいのは登場人物や敵がいかなるときに死に、いかなるときに生き返るか、ということです。ラスボスと戦っても、本当の最終決戦になるまでラスボスを倒すことはできないし、味方が死ぬ場合もプレイヤーの行った戦闘の結果として味方の死が決定されるということがないというのは先ほど書いたとおりです。そのような形で「戦闘」と「死」のほぼ完全な分離という仕様の設計*14は、戦闘を純粋な「試合」として成立させているのと同時に、「死」の問題を完全にシナリオ側の優位によって――「優位」というの、たとえば、エアリスの死はプレイヤーが戦闘でどうあがこうが変えられないし、ラスボスが死ぬ時期を決定するのもプレイヤーによっては変えられないという形で――決定するようなものになりました。

 このような状況下においては、「殺害行為の実際」は個々人のプレイヤーレベルで、そのリアリティを問うていくしかないのではないか、と思えます。もはや、実際に敵を殺害するか/しないか、というような決定権はプレイヤーには委ねられていない。その中では当然のように、敵を「殺害」するという意識をほぼ完全になくして、「戦闘における勝ち負け」と「シナリオにおける死/殺害」といった二つの事柄をまったく別の次元の問題として処理しているプレイヤーたちの姿―――たぶんそのような感覚こそが90年代以降の日本のRPGプレイヤーたちの実感なのではないでしょうか*15。少なくとも私はそういった感覚の中でしかFFをプレイできていません。ファミ通の某編集者のように「死んだ」をわざわざ「戦闘不能」と呼びかえるほどの神経質さを持たずに、「死んだ」という言葉を「負けた」という程度の意味において気兼ねなく口に出してプレイしている――それが1980年生まれのゲームプレイヤーであるわたしにとっての『FF』の戦闘における「死」のリアリティですし、それはまったく特殊なものでないはずだ、ということを特に力を込めるまでもなくフツーに信じています。

 ただ、私のような感覚が一方にあるとしても、それが全てではないこともまた事実です。id:Iron-9さんの議論は、ゲームの戦闘における「死」が試合としての「負け」ではなく表現としての「死」の延長線上にあるのならば、それをムリヤリ隠蔽するような仕方は、「汚いものにはフタをしろ」というだけの極めておろかな対処にすぎないのではないか、という批判でした。それは、もちろん戦闘における「死」のリアリティが「敵を本当に殺害するということのリアリティ」*16とは完全には切り離しえない限りにおいて有効な批判となりえます。ですが、『FF』をはじめとする90年代の主要なRPGにおけるリアリティは、「汚いものにはフタをしろ」というよりも、それが本当に汚いものなのかどうなのか、行為の汚さのレベルを意味不明な形に落とし込むことで、そこにフタがされているのかどうかもよくわからない状態にしてしまったのではないかと思います。

 そして、このような戦闘とシナリオと「死」の結びつきを意味不明な形に落とし込むという『FF』のやりかた*17をどう評価するか、というと曖昧な対処法でしかないという限りにおいて(ものすごくダメっていうわけじゃないですが)これを全肯定するべきだとも思いません。これは単なる「隠蔽」以上の、スクウェア*18が、苦心の末に編み出した苦々しい方法だったのだろうと思います。だがこのような形で「死」と「戦闘」の関係を曖昧な形で提示している限り、『FF』という作品のとった決断を評価するには最終的にはプレイヤー一人一人の中でいかなる形で作品の受容がなされたのか、ということを丁寧に明らかにしていくしかないのでしょう。

以下、一応の説明図

追記:この記事によせられたコメントなど

id:samonaさんより

レミングス(試合)→ピクミン(表現)という「進化」があっても、逆がないのは何故だろうとふと思った。

なんとなくはおっしゃりたいことはわかるのですが、なんとなくわからないので詳しく解説キボンヌ。

*1:「ネタ」なんですね。やっぱり…ええ。ネタとして扱っていただければ本望!でも、「X51.ORG : 馬のペニスにアナルを突き破られて死亡 米」http://x51.org/x/05/07/1605.php としょっちゅう並列されいているのはビビりました。いや、まあ、単にいま流行りのニュースということなのでしょうが。ええ、うちのサイトはそのカテゴリーなのだということで。

*2:「おそらく」でしかないわけですが。

*3:と言い切ってしまうのにも実はけっこうためらいはあったりします。たとえば、映画であろうが、教養の証として権威付けされているような古典の小説であろうとも、英雄譚などにおいては、英雄が人を敵をバッサバッサと切っていくという行動原理がごく当然視されるたりするものなので、もっと厳密に言えば、その作品ごとの中でいかなる行動原理が当然の前提として置かれているのか、というようなところが「死」の表現にとっての大きなガイドラインとして存在しているような気がします。「死」の表現はそのように前提とされたガイドラインの<内―外>の境界線上で常に行われていて―――例えば、驚くほど敵を殺すことに対して無頓着であるような英雄譚であっても、「敵の死」というガイドラインを潜り抜ける「身内の死」とくに「身内の非戦闘員の死」とかだけは別の問題として扱おうとする志向性が見られたりするといったことがあるので、小説だから、ゲームだから、というようりも、その作品が「死」に対するいかなるガイドラインをはじめに設定しているのか、という問題のほうが実は重要かもしれません。ただ、今回はその話まで含めて話をすると議論に収拾がつかなくなりそうなので、若干の単純化をお許しあれ。

*4:⇔非日常、祝祭空間としてのゲーム、遊びの世界、というような意味で使っています。実際には、ゲーマーにとってのゲームはまぎれもなく日常的な行為であるわけですけれども…まあ、そこのところの言葉遣いはなんとなくで了解していただければ。

*5:もちろん、「もっと」伝統的に言えば、敗北は死に結びついていたじゃないか、ということもあります。古代からスポーツの発祥史をさかのぼっていけば、そこに血なまぐさい状況がからんでいたという経緯はあります(たとえば松井良明『近代スポーツの誕生』を参照)。が、となると、問題はテレビゲームだけではなく、野球やサッカーも問題にしなければならなくなり……そういうことはここで目指されている議論ではないでしょうから、省きます。

*6:だいぶ前に、GTAIIIが私にはあんまり面白くない、と書きましたがGTAIIIが私にとってあまり面白くないというのも、GTAIIIが下敷きとしているような「犯罪者」としての行動原理をプレイヤーである私自身の感覚に組み込むことができないからかもしれません。「犯罪者」の物語は映画・漫画・小説等でそれなりの数を見て楽しんでもいますが、自らが犯罪者として行動するという行動原理はやっぱり感覚としてついてゆけず、ただ単に「殺す」ためのロジックの欠如した――つまり「敵」でもなんでもない一般市民に対して殺人を行っていくという行為にはどうしても違和感を否めませんでした。

*7:FFTとか、FFCC、FF11はまた微妙に違ってくるので今回は除外して考えます。厳密にはFF4,5,6,7,8,9,10,10-2の8作品。売り上げ合計にすると軽く1000万本越え。

*8:この「実質的」という言い方もカナーリ微妙ではありますが。まあ、物語上で死んだことになってるのか、どうか、程度の意味で捉えてください。

*9:アビリティシステムとか、マテリアとか、ジャンクションとか、魔石とかATBとか…

*10:『ゲームマエストロ vol4』P126-127 インタビュアーは志田英邦

*11:ちなみに、その直後にこう続きます「●志田:ロールプレイングゲームにおいては、全滅すると普通はゲームオーバーです。だから、またやり直す。つまり、プレイヤーにとって死はやり直しがきくものなんですよ。にもかかわらず、『FFVII』のストーリーの中には絶対やり直しがきかない死がある。そこにプレイヤーは反発していたんじゃないですか。●野村:登場人物が死ぬというのは、ロールプレイングゲームではありえない展開ですよね。だからこそ、死がダイレクトに伝わる。エアリスの死が唐突だという意見もあったんです。でも、あえてそうしてあるんじゃないでしょうか。突然やって来る死の哀しみ。あれも離しておきたかった、あれも伝えておきたかった、後悔する哀しみ。それが表現されているんだと思います。」とのこと。見事に「試合」としてのゲーム観と、「表現」としてのゲーム観のミスマッチをたずさえたまま対話が進行していっているという印象を持ちますね。志田さんのつっこみというのは、「表現」としてのゲーム観としてよりも、「試合」としてのゲーム観の中で反発が起きたのではないか、と質問しているのに対して、「いや、表現がやっぱ…」という言うだけというこのミスマッチ。

*12:激しく蛇足かもしれませんが、作られている=成功している という意味ではありません

*13:FF5のガラフや、FF7のエアリスなど

*14:ここではFFの話しかしていませんが、FFを中心にしてメジャーなRPGの多くがこのような仕様でした。また、http://www.critiqueofgames.net/data/statistics/dead.htmlのほうで書きましたが、全てのRPGがそうだったというわけではありません。

*15:これは本当にきちんと調査する人がいるとよいですね。ここまでの議論はなんだかんだ言っても私の推測の域を出ないといわれてしまえばそれまでなので

*16:これって説明が難しいですね。「二度と生き返らないこと」とでもとりあえずしておきましょうか

*17:それは多分、そこまで自覚的に全てがなされたものではなかったとは思いますが

*18:現スクウェアエニックス

2005年07月16日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

「ゲームがつまらないな」と感じた時期 #03

 三ヶ月前に掲載した「ゲームがつまらないな」と感じた時期を年代別に聞いたアンケートに、カトゆー家断絶からのリンクがあり、そのリンクに連鎖する形でいろいろなところからリンクをいただいたようです。

 で、那緒のつれづれ日記の那緒さんによれば

図1をみると1999年~2001年あたりにつまらないと感じる人が多いみたいです。

ちょうどこのころは大作ゲームor続編ゲーム乱発してた時期かと。

 とのご意見をいただきましたが、それは「たぶん」ですが、那緒さんの主観に大きく左右されているものかと思います*1。ゲームの大作化・続編化を嘆く声はもっと前から散見されました。*2

 とは言っても、それが具体的にいつからなのかをあんまり厳密にいえないのが悲しいところで、ネット上をちらっとググッてみたところ続編タイトル/大作タイトルがゲーム市場に占める割合が時系列でどのように変化してきたかを示す統計情報は見つかりませんでしたが*3、これは「続編」については多分エクセルか何かに整理して持っている人がいればある程度すぐにデータとして出せるものだという気がします。

 ということで、以下はデータとして出してみたい、という人向けの提案です。

「続編」
  • 単純に「発売タイトル全体に占める続編タイトルの割合」については、
    1. 今まで出た全ゲームタイトル*4のうちタイトルに類似性が高いものを正規表現かなんかを利用したプログラムを組んで、「続編」タイトルを抽出。
    2. できれば正確性を増すために「続編」にあたるかどうかを人力で確認
    3. 年度ごとに「続編」タイトルが占める割合を算出

 という手続きである程度面白いデータが出てくると思うのだけれど、誰もやってる人が見当たらない…うーん。っていうか、「続編タイトル」を嘆き悲しむ傾向が強いわりにこういったデータがデータとしてすぐに見つからないっていうのは、むしろそのことのほうが問題かも。

 あと、

  • ゲームの売り上げに占める「続編タイトル」の傾向については
    1. 毎年ファミ通とかが公表しているコンシューマーゲームの売り上げ上位100タイトルなどの情報をなるべく昔の分まで入手する。*5
    2. で、そのうちから続編タイトルと思われるものをピックアップ(自動 or 人力)
    3. 売り上げ上位における続編タイトルが占める割合を算出

 というのを通時的なデータとして出していければ、これも面白いデータができるはず。ただ、これだとコンシューマーの売り上げ上位という中から抽出しただけなので、厳密にゲームの市場全体における続編タイトルが占める売り上げは見えません。ので、まあ、この方法で出される数値はあくまで「指標」として用いるという形になるでしょうか

「大作」

 また、「大作タイトル」については厳密に線引きをするのが難しいですね。何をもって「大作」とするかですが、たとえばそれが「ゲームの開発費が莫大なもの」という基準で「大作タイトル」というならば、開発費についての揃ったデータが必要になります。ですが、開発費については『CESAゲーム白書』とかでさえあまり正確な数値を把握できていないことなどで、個人のレベルではそういったデータを入手することはとてつもなく難しいでしょう。それに、開発にかかる費用というのも、年を重ねるにつれて平均値となるタイトル一本あたりの開発費用がどんどん変わっていっているはずなので*6、そこでどういった線引きを採用すればいいのか、という問題もあります。あるいは、開発費全体で見るのではなく、宣伝費用だけで見て「大作」を規定するという方法もあるかもしれませんが、なんにせよ元となるデータの入手からして困難だという問題があります。

 次に、データとして入手するのは大変ですが、「開発スタッフの人数」が多いものを「大作」とするならば、手間と時間と人手をかければ、データ入手は可能ですね*7。ただ、そうは言っても入手しやすいスタッフリストは大半がヒットしたゲームのものばかりなので、「人気ゲームの大作化傾向」の調査であって、「ゲーム市場における大作の割合」調査とは別の調査になってしまいそうです。あともちろんこれについても、何人以上ならば「大作」なのかという線引きの問題がついてまわります。

 最も現実的に簡単な方法としては「大作」=「人気ゲーム」という形で操作的に定義してしまって、ゲームタイトルの売り上げの二極化傾向とかを調べるっていうのならば、そんなに不可能なことではないと思います。さきほども言及した、ある程度充実したゲームタイトルの売り上げデータが入手できればいいわけですから。それをもとに「負け組」と「勝ち組」の二極化傾向みたいなものがどの程度変遷してきたかを調べるぐらいのことはできるのではないでしょうか。*8


 と、提案してみるだけでナンですが……まあ可能そうなものについて可能な範囲で自分でもチラッと手をつけてみるかもしれません。できればこういう提案だけを定期的に貯めていって「卒論間際の学部四年生のみなさんとかどうよ?」みたいな連携が図れればいいっすな。

 というわけで、卒論間際の学部四年生のみなさんとかどうよ?

*1:とは言っても、そのような主観を表明していただくことに全く価値がない、などということを言うつもりではありません。むしろ、そのような主観が抱かれているという状態そのものが興味深いことでもあると感じます。…というか、そういう話以前に「たったニ、三行の記述にマジレスカコワルイ!」みたいなことを言われると、「すみませんでしたー!!」と体育会系的に、条件反射的に、キツツキのように謝ります。

*2:あまり意識的に調べてないですが、単純に、「続編タイトルばっか増えて嫌だわ、プンプン」みたいな話の起源的なものはは90年代初期からとっくに見られたはずです。たしか。80年代にもかなりあったかと思います。たしか。さすがに70年代にはなかったはずですが、やや似たような議論ならば、1976年12月『電子技術』誌第18巻第12号P51に「脱ボールゲームへの展望」と題して、当時のビデオゲーム市場が、「"脱ボールゲーム"になることは必至」などといった話が見られます。このとき「ボールゲーム」といわれているのは初期の単純なテニスゲームや、PONGなどのことです。●●●追記:yms-zunさんからのトラックバックで、「続編」「大作」とは少し話が違いますが、http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040402 にて「最近のゲームはつまらなくなった」式のコメントが1986年にはすでに存在している、という情報をいただきました。ありがとうございます。

*3:続編+ゲーム+統計 とかでググッてみて出てきたのはhttp://www.dj-joker.com/fukyou/yomi.cgi?mode=RePlay だけでした。

*4:手近なところでは、『広技苑』とかを利用すればコンシューマーのゲームタイトルについてのデータはかなりそろいます。ある程度きちんとしたお金が出せるなら松原圭吾氏などを召還するのがベストでしょう。なお、ZOEさんにさっき教えていただきましたが、http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/game/etc/hatsubaibi/ で広技苑のデータを元にしたゲームタイトルのリストを公表してますね。

*5:これについて、ある程度は zoocar's page →http://zoocar.cool.ne.jp/ さんがまとめていらっしゃいますね。

*6:これは年を重ねるにつれて開発費が高騰しているという単純な話ではなく、新しいハードへと移行するときに新しい環境になれば、当然開発のノウハウがいくつか使えなくなるので新ハードでの開発初期は、非常に開発費が高騰したりすることになるみたいです。新ハードが出て数年を経れば開発コストを抑えるためのノウハウとかミドルウェアとかが充実してきたりするので、そこで開発費用が下がったり。

*7:→たとえば、ざるの会の、スタッフ調査プロジェクト → http://www11.ocn.ne.jp/~zaru/zaru/etc/staff.html 、物凄い勢いでスタッフロールを集めるHP → http://www.geocities.jp/staffroll_game/ 、物凄い勢いでスタッフロールを集めるスレ(2ch) →  http://game10.2ch.net/test/read.cgi/gsaloon/1103463873/1-100 、あとスクウェアのものに関しては手前味噌ですが、ケヒトさんの作成された → http://www.critiqueofgames.net/data/ros/index.html も。

*8:というか、その程度のものならば、たぶん90年代初期ぐらいからどこかでマーケティング用データとして出回ってるっぽいですね。

2005年07月15日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

FF10+ファミコン

ヤヴァイ!FF2の記憶がよみがえる!みたいな雰囲気で、むしろこっちのほうPS2版より面白くやれてしまうかもしれない……いや、実際ちょっと面白そうだ…まずい。

2005年07月08日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

3日前の日記を更新

 http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050705#p2

 を書きかけで放置していたのを更新。

みんな大好き塊魂

みんな大好き塊魂

 デター!!

2005年07月05日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

リアル・タイム・マシーン展行ってきました。

 そんなわけで、四日の月曜にid:dotimpactさんの個展「リアルタイムマシーン」展に行ってまいりました


Real-Time-Machine for Arcade

 コントローラー一個で、ゼビウスの基盤二枚に指令を出し、別々のディスプレイで動作がわかるという代物。本当は同じゲームのはずなのに、コントローラーから出される指令のズレが蓄積してゆき、次第に双方の動きを別々に統制することが必要とされてくる。だけれども、脳みそを二つに分割することのできないプレイヤーは、チュドーン、と2,3分ぐらいでおっちんでしまう。


Real-Time-Machine for TVgame

 こちらも、コントローラー一個で複数のRomに指令を出すという代物だが、こっちの場合は、意図的に時間が1/60~2/60秒フレームずつぐらいずらされており、コントローラーから一番遠くにあるモニターに映し出されるマリオはコントローラーの動きに対してほとんど遅延なく動作するが、プレイヤーが見つめるコントローラーの近傍にあるモニターでは、コントローラーからの操作の入力とディスプレイへの出力が、0.1秒~0.2秒程度の遅れを演出する。

 外付けTVチューナーを持っている人はわかるかもしれないが、ちょうどTVチューナーにステレオケーブルをつないでゲームをやろうとしたときに生じる遅延がちょうどこんな感じである。アクションゲームはおろか、ほんの0.1秒や0.2秒といった遅れによってRPGすらまともにプレイすることができない。


PONGed

 目に映る見え方としては、プロジェクターによって隣室に対戦相手のフィールドがうつしだされ、それと対戦しようとしているだけなのだけれども、部屋と部屋をまたいで球が打ち返されてくる間の処理には、実は地球の裏側あたりにある複数のサーバーが経由されている。

 サーバーA、サーバーB、サーバーCを経由した球が2つ、3つと同時に打ち返され、「地球」という物理的空間を介した「リアルタイム」の限界が、狭い空間のモニター上に顕在化する形で提示されるという仕組み。


 「リアルタイム」概念について何か書こうかと思って検索してみましたが、とりあえず「リアルタイム」でざらっと検索してみて、リアルタイム風呂沸かしゲーム「風呂」を考えた人は神だと思いました。

ゲーム中の時間はすべてリアルタイムで進み、浴槽に水をいっぱいにためるには本当に30分以上待たなければならない。お湯を沸かすのも、約20分ほど必要だ。操作は「水を入れる/止める」「湯を沸かす/止める」のみといたってシンプル。根気よくやればクリアは簡単だ。


↓以下、感想など。

というのはさておき、もう少しちゃんと書きます。

(↓以下3日後。つまり7月8日に追記)

 「もう少しちゃんと書きます」などと書きかけで放置してから、数日が経過してしまいました。

 しかも、待ってくださったみなさんには申し訳ないのですが、「もう少しちゃんと」などと言っているほどにヒマな時間が再来週ぐらいまで、あんまりないことが発覚してしまい、とりあえず何を書こうとしていたのかをメモ書き程度に記しておきます。*1

1

 id:dotimpactさんが、言わんとしているように<リアルタイム>というのはhttp://www.atmarkit.co.jp/flinux/embedded/rtos01/rtos01a.html とかによれば、「レイテンシ(遅延)」「デッドライン」「ソフトリアルタイム」「ハードリアルタイム」みたいな様々な道具たてを媒介にしてできあがっている人工概念であって、我々にとって一見すると自明すぎるがゆえに問われることがほとんどないような「リアルタイム」という「時間」が人工的にデザインされているっていうことを、dotimpactさんの今回の試みは改めて気づかせてくれた。

2

 <PC/ゲームの中の時間>というのが、<PC/ゲームの中ではない現実>の時間と比較される中で、その「リアル」概念が形作られているよーな感じもすばらしい。dotimpactさんいわく「<雷の光>(ピカピカッ!)に対する<雷の音>(ドッドーン!)の遅延が許容されて、ゲームにおける<時間>が許容されないのはなぜなのか」みたいな話ももっともで、ベタな話だけれども、人型ロボットが「人間になりたい」などという話がくだらないというのと同じような意味*2で、「PC/ゲームにおける時間」を「自然の時間」の劣化コピーとして捉えようとしてしか捉えられない価値感はもっと相対的に捉えられていいのかもしれない。

3

 で、なにゆえにdotimpactさんは「リアルタイム・マシーン」と題して「遅延」というものを前面に押し出してきたのか、というと、それはたぶん人工的に形作られ、人力の努力に支えられて発達してきた「リアルタイム」概念のそのような性質をもっともあらわに、わかりやすく見せつけるのが「遅延」なのだ!…たぶん!
 それはたとえば、リアルタイムの定義「(コンピューターのOSの場合)一定時間以内に処理を終了させることができる性質のこと。」(Byはてなキーワード)というような言い方があらわすように、「リアルタイム」の成否は、「遅延」の成否によって測定されるという性質を持っているからなのだ!…たぶん!

4

 ということを含めて、ゲームの話にもって行きたかったわけですが…いまひとつゲームの話とじかに接続する方向性をあんまり思いつかず放置。なお、意味不明に掲載だけしておいた右の画像は、昭和54年10月30日発行『マイコンプログラム全集1』(電波新聞社)の目次ページです。「リアルタイム」ネタですぐに思いついたのがこれだったわけですが、これ、1979年の段階で*3便宜的にゲームジャンルを分類しているもので、「反射神経ゲーム」(おそらく、今で言うアクションゲーム)の下位ジャンルとして「リアルタイムゲーム」という位置づけで「もぐらたたき」「ブロック崩し」といったものが紹介されております。その下位ジャンルがどういう基準で設定されているのかは正直よくわからんのですが、まあ、こんな昔から「リアルタイム」という概念がゲーム界隈でなかなか意味不明な雰囲気で使われており、わけはわからんが面白いかもね。と。

5

 なんて、うだうだしていたら、id:ABAさんがすっごいまとめてるYO!↓

遅延を活かしたゲーム、実はたくさんあった

 この話も面白いけれども個人的に、今回のdotimpactさんの試行にフィットする話はシューティングゲームの「処理落ち」を利用してプレイヤーの技術向上を錯覚させるような部分の技術とかかな、とちょっと思った。

 たとえば、「退場させられたゲーム」さんのところの『怒首領蜂』評

怒首領蜂では、通常のシューティングを遙かに凌ぐ量の弾が画面上を覆い尽くす。しかしこの弾はスピードが非常に遅く、これも計算か弾がダンゴ状に重なり合うこともあまりなく、実際避けるのはさほど困難ではない。プレイヤはこの弾幕を避けることに恍惚を覚える。

 ここで言われているように、処理落ちによる錯覚によって『怒首領蜂』ゲームの中の時間のリアリティが、モニターの外側でゲームに接するプレイヤーの意識を逆転して支配し始めている。これはたとえば、あからさまに『マトリックス』ばりのスローモードを実現してみせた『ビューティフルジョー』すらこの境地には追いついていなくって*4、処理落ちがあったのかなかったのか、その明確な境界線の不在こそがかえって「現実の時間 > ゲームの時間」ではなく、「ゲームの時間 > 現実の時間」みたいな逆転を演出するのに一役買ってるよね、っていう。*5

 だいたい、こんな感じで。

*1:ってか、このブログのタイトルはそもそも「メモと寸評」なんだった。忘れておりました。

*2:「人型ロボットが常に人間にあこがれる」などという発想は、それってあまりに素朴な人間中心主義じゃない?というような意味で。

*3http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050412#p1 でも書いたように、「アクション」とかそういったジャンル分類の名前がゲーム誌レベルで急速に普及しはじめる1983年以前のもの。

*4:「ゲームの中の時間のリアリティが、モニターの外側でゲームに接するプレイヤーの意識を逆転して支配し始める」という観点から言えば、ということです。

*5:『ビューティフルジョー』の場合、<通常速度>と<スロー速度>の間に明確な境界線が存在するというだけでなく、両者の切り替えはプレイヤーによって操作可能なものとして成立している。それゆえに、ゲームの中の時間に対する支配はどこまでいってもほとんど絶対的と言っていいぐらいににプレイヤーの側の意思に委ねられている。そのような「明確な境界」と「操作可能性」との間で、時間はコスティキャン的の言葉でいえば「資源」として常に意識されてゆくことになる。そのような「資源」としての時間ではないような「時間」を成立させている、という点でいえば『ICO』とかなんかもこの話の行き着く先として面白いかも。

2005年07月04日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

リアル・タイム・マシーン

 id:dotimpactさん、こと 田中孝太郎さんによる [リアル・タイム・マシーン]展が、今日から!(9日の土曜日まで)

■「リアルタイム」とはコンピュータが生み出した言葉と言っていいでしょう。すべてがあるがままの現実世界と私たちとの間にコンピュータが介在するとき、そこでなにかが起きるタイミングが「リアル」であるかが問われはじめます。コンピュータとネットワークに日常的に触れることになった私たちは、この「リアルタイム」の感覚に、すでに現実以上のリアリティを感じているのではないでしょうか。現実にはモニターが画面を描き換える1/60秒の瞬間には光は5000kmしか進めず、コンピュータの処理速度やネットワークの速度がどれだけ上がったとしてもそこには必ず遅延が存在します。しかし、すでに「リアルタイム」の世界に生きている私たちにとって、その「現実」の遅延は、むしろ現実感を後退させるものになるでしょう。まるで、ふいに時間を飛び越えてしまったかのような。

■「リアル・タイム・マシーン」展では、操作が遅延するコンピュータゲームを実際にプレイし、「遅れた現実」を体験できる作品を展示します。すでに「リアルタイム」の感覚に慣れている私たちにとって、そこには想像以上に違和感があるはずで、その違和感によって私たち現実感の輪郭をたしかめることができるかもしれません。

 平日の7時までに表参道にはせ参じることの可能そうなゲームばっかりやってる首都圏の愚民のみなさんは、会社帰りや学校帰りに見物しにいきましょう。

2005年07月01日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ビデオゲームバトン

 昨日の日記で駄々こねたら、id:samonaさんからバトンを手渡されたので慎ましく答えてみたいと思います。

1.Total volume of the game files on my computer(コンピュータに入ってるゲームファイルの容量)

 この前まではウィル=ライトと、シド=マイヤーの作品がそれぞれ2,3本ぐらい入って合計10GBぐらい?でした。が、いまはフリーセルとかしか入ってません。

2.The game(s) playing right now(今進行中のテレビゲーム)

 ここのところ三週間ぐらい触れてないです。ゲームはお休み中です。

3.The last video game(s) I bought(最後に買ったテレビゲーム)

 『ベルウィック=サーガ』かなあ。多分。

4.Five video games I play to a lot, or that mean a lot to me(よく遊ぶ、または特別な思い入れのある 5 作)

 悩んだ末にとりあえず、現在の気分はこんな感じです。

一本目:『タクティクスオウガ』…と答えようと思ったが、それだとありきたりすぎる気もするので、ここは『伝説のオウガバトル』(SFC版)で。

    • 一生ゲームファンであり続けてもいいな、と思わせてくれた一本。プレイヤーの行為/行動選択の「構造」を設計するということの中に表現をつめこむことが可能なんだってことを知って、メディアとしてのゲームの素晴らしさをはじめて強く思い知った。トータルな出来云々ではなく個人的な思い入れという話で言えば『タクティクス・オウガ』より上。プレイしたのは中学生の頃。

ニ本目:『カオスシード』(SS版)

    • これは、マニア筋で評判が高いらしい、ということで比較的最近になってはじめてやってみて、ぶったまげたという作品。マニア筋で評判が高いという作品の中には、マイナーなマニア受けという地位にしかないことが強く惜しまれる作品というのもいくつかありますが、そういう観点から一本選べ、と言われたら『カオスシード』を何をさしおいても筆頭に挙げたいと思います。同じような観点からいくと次点は『セブン~モールモースの騎兵隊~』。

三本目:『シムシティ』っていうか主なウィル=ライト作品。(『バンゲリング=ベイ』のぞく)

    • だいたいどんな人に対してでも「ゲーム」というものが馬鹿にできない何かだということをもっともわかりやすく知らしめるための一本でもあり、もう少し個人的にはウィル=ライトのような姿勢でゲームを作っている人間が世の中にはいて、それが世界的に受け入れられているっていう状況それ自体が何よりもうれしい。で、そういったもろもろのことを象徴してくれる一本として挙げました。さらに個人的な話としてはSFC版のオープニングはあらゆるゲームのオープニングの中で一番好きです。

四本目:『塊魂』

    • なんか、古いものばっかり挙げているのも何なので、ここ2,3年で一本選ぼうということで一本挙げてみるとこれです。ゲームをプレイするっていうことを、たとえば「知覚の冒険」みたいなものとして捉えたときに、『塊魂』ほどまでに世界の見え方を新しくしてくれたものって今までになかったです。似たような観点で、次点:『ジェット・セット・ラジオ』。

五本目:『ドラゴンクエスト5』(SFC版)

    • まあえらい単純な理由ですけど、小学生の頃に発売と同時にプレイして大感動だったので。今の年齢ではじめてプレイしたら別の感想を抱くだろうと思いますが、子供の頃のそういった体験というのは他には換え難いものだろうという理由で。
5.Five people to whom I'm passing the baton(バトンを渡す5名)

 かなり唐突にバトンを渡された(という渡してしまった)方もいらっしゃるかと思いますが、どんな方なのか知りたい!という当方の身勝手な興味からバトンを回させていただきます。

 ご迷惑でしたら答えていただく必要等はありませんので、気付かないフリをなどをしてスルーしていただければと思います。

ミュージック バトン

 さっくり答えます。

1.Total volume of music files on my computer (コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)

 7GB。

2.Song playing right now (今聞いている曲)

 スティーブ・ライヒ『The Cave』

3.The last CD I bought (最後に買ったCD)

 AJICO『深緑』

4.Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)

 ゲーム関係でチョイスします。曲名がわからないもの多いですが。

すぎやまこういち『ロトのテーマ』(ドラゴンクエストのオープニング曲)

    • この曲がモニターから流れてくるだけで、「あぁぁぁ!」となるのは、おそらく同時代のほとんどのゲームファンに共通する現象でしょう。ほとんど同じような理由で、FFのオープニング曲、ロマサガのオープニング曲もそれが流れてくるだけで、いろんなものがフラッシュバック。

光田康典『クロノ・トリガー』中の「現代」のフィールド曲

田中公平『レナス』中のピアノ曲

植松伸夫『ファイナルファンタジー2』中の城の曲

鈴木慶一?『MOTHER』のオープニング曲

5.Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5人)

 放置します。