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2005年12月16日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ゲームの社会思想史の試み。

 http://d.hatena.ne.jp/hally/20051213

 の記事がマジですばらしかったです。あらためてhallyさんの力量に敬服いたしました。アタリショックの話と同じぐらい、大きなインパクトのある話です。論文なり書籍なり、ぜひ研究者などが引用できるような形で残していただきたいですね。

 ということで、なんだかhallyさんの記事へのコメントばっかりしている野郎とかに成り果てている感がありますが、これだけの分量に詰めるにはかなり込み入って話になっていたかと思いますので、論旨を私なりに要約させて確認させていただくとともに、理解のおよばなかった点についてコメントしていきたいと思います。*1

 以下、全てわたしのコメントは脚注です。


まず、hallyさんの議論のおおざっぱな図式は以下のように理解しました。
  • プレモダン:実用主義+Juul的ゲームモデルの時代、シリアスゲームの時代*2
  • モダン:娯楽主義+Juul的ゲームモデルの時代、コンサマトリなゲームデザインの時代
  • ポストモダン:娯楽主義の先行によって、Juul的ゲームモデルが崩壊する時代。

この図式は非常に強いインパクトがありますし、とても勉強にもなりました。

以下、もう少し細かく論理展開を要約しつつ、コメントさせていただきます。

(A)、「ゲーム」が人間によって革新可能・デザイン可能という概念が成立する。

【前近代】:ゲームデザイン概念の不在。

 1)ゲームを個人作品化する手立てがなかった

 2)その理由は、ソフトとハードが分離していたためである。特にハードが固定化していたため個人がゲームを能動的にデザインするという発想が成立しなかった。*3

【近代への転機】:近代的な環境がゲームデザイン概念の成立をエンパワーメントする。

 1)ソフトウェア・デザインとハードウェア・デザインを同時に行うという事件が発生する

 2)それは、教育ゲーム、ウォーゲーム、メカニカルゲーム機という三つのジャンル(?)において見出される。

 3)これらの事件はそれぞれ、近代啓蒙思想、決定論的な*4世界認識、工業技術の発展*5という近代化の過程と密接にリンクしている

(B)、(A)に支えられて、実用第一主義から娯楽第一主義への転換が起こる。

【近代】:ゲームデザインの目的の変容

 1)20世紀初頭という時期に、またしても教育ゲーム、ウォーゲーム、メカニカルゲーム機において同時並行的に大きな変化が起こる。

 2)それは、ジョージ・パーカー、H.G.ウェルズ、デヴィット・ゴットリーブという天才パイオニアたちによってもたらされた「実用第一から娯楽第一」という転換だった*6

(C)、(B)の徹底化に支えられて、モダニズムが成立する

1)モダニズムとは:特定のイデオロギーを変数として持つことによって進歩主義的でありうるような状態。常に<伝統>が革新され続ける運動として成立するものと捉えられる。これは、井原[2002]の議論を援用するものである。

→井原[2002]の議論では、ベンヤミン[1936]が参照される。写真という複製技術がルーブルという場所から芸術作品のアウラをひきはがし<歴史>という大きな物語の中に過去の作品を再配置することを可能にする装置として機能すると論じる。これによって、モダニストの芸術家たちは総決算すべき、乗り越えるべき対象としての<伝統>という像を手に入れることが可能になる。モダニズムの成立のためにはこうした前提がある。

→ここでは、モダニズム成立の条件が二つある。一つは、のりこえるべき対象としての伝統イメージが成立していること。二つ目は、どのようにして乗り越えるべきかというベクトルが用意されていること。

2)こうした歴史意識/伝統イメージを成立させるための装置として機能したのがコンピュータである。コンピュータはルールのロジックを遺漏なくうつしとることができる。これはゲームの複製技術…とまでいわないが、ゲームの大衆化*7を可能にし、「ゲームの伝統」という歴史意識を成立させることを可能にした。

3)この伝統を乗り越えるベクトルとして用意されていたのは娯楽第一主義である。その娯楽第一主義はコンピュータ・ゲーム登場以降~90年代中盤までどのようにしてあらわれたかというと、[α]リアリティの追求、と[β]前例なきプレイ体験 という二本柱という形で具体的には現象した(この二つを出してきたのもhallyさんのオリジナル?)

4)こうして、コンピュータ・ゲームのモダニズムは成立する。コンピュータのモニタの中に映し出された数多くのゲームが「過去の伝統」として見出されつつ、ゲームデザイナーたちは「過去の伝統」のゲームより、より強力な[α]リアリティの追求、と[β]前例なきプレイ体験を求めてゲームを作り続ける。これがゲームのモダニズムである。

(D)、(C)モダニズムがゆきずまる。それはモダニズム自体が必然的に内包していた結末でもある。そして、ゲーム(デザイン)がポストモダン化する

1)[α]リアリティの追求[β]前例なきプレイ体験が、どんどんと高いレベルで達成されてしまい、乗り越えが不可能か、あるいは困難な水準にまでやってきてしまったのが現代である。

2)新しいものを提示しようという運動だけは残っている。しかしそれは、[α]リアリティの追求[β]前例なきプレイ体験というメソッドでは提示できなくなる。

3)近代的ゲーム像とは異なるゲーム像が提示されることになる。*8

以上、要約でした。

 コメントは脚注に。特に、ゲームにおけるモダニズムの成立について記述されている「コンピュータとモダニズム」の部分の論理展開がかなり高速にドライブされて省略がいろいろとはさまれていたように感じましたので、もう少しそこらへんを敷衍して語っていただくと理解がしやすかったか、と。

 何か基本的なところの理解が抜けている点などありましたら教唆いただければ。

*1:できればhallyさんのところの掲示板に貼り付けようかと思ったのですが、字数オーバーといわれてしまいました…

*2:しかし、これだと「すべての前近代のゲームはコンサマトリな娯楽でなかった」という話にもきこえかねない。「ゲーム」の思想史というか、「ゲームデザイン」の思想史として語ったほうが妥当なのでは?

*3:ここでhallyさんは<ソフトウェア・デザインだけでは「ゲームの作者」「ゲームのデザイン」という概念が流通/成立しない>ということを暗に前提としている―――というか省略されているのかな?と。

*4:ここでいわれている「決定論的な世界認識」とは<神によって決定された世界>という宗教的なものではなく、ニュートン的な近代科学思想によってたつ「自然法則によって世界は決定可能。計算可能」というような発想によるもの、ということを強調しておいたほうが誤解がないかと思います。あるいは、ここは、近代科学主義的な世界観としないで、「軍事の近代化とリンクしている」とかって方向性で論じるのはナシでしょうか?

*5:ここは単に「産業革命」とだけ言ったほうが、インパクトを受ける人が少し増えるような気がします。いや、それだけだと胡散臭く思われる可能性もありますが…

*6:この転換は「個人がゲームデザインする」という環境を前提にしてもたらされるものだった、とするところにhallyさんの主張の独自性があるのではないかと推測します。ただ、この主張がどういった経緯で出てきているのかが見えにくかったです

*7:ここで「大衆化」という概念をえらびとったのはhallyさんのオリジナルでしょうか?「普及」と「伝統」をつなぐメゾ概念として登場させられているような気が。少なくとも井原[2002]の議論からはだいぶ独自路線をいっている気がするので、ちょっと読んでいてこの概念の位置づけに混乱しました。

*8:ここは議論として若干つらいものを感じました。hallyさんの議論では近代的ゲーム像はコンサマトリな「娯楽主義」の産物として捉えられたはずですが、hallyさんがポストモダンであるとして位置づけるNintendogsなどの水木潔作品は、コンサマトリな「娯楽主義」という軸だけで言うと、近代的ゲーム像の延長戦上にあると捉えてよいということになると思われます。たしかに「精細なグラフィックスとオーディオ」によって達成されたゲームではないですが、「娯楽主義」を「精細なグラフィックスとオーディオ」などとしたのはhallyさんが独自に結びつけた定義であって…ちょっとレトリカルな記述になってしまっているのではないでしょうか…。そして、また、ここで、hallyさんが近代的ゲーム像の否定として、「ゲームであってゲームでないもの」としての近代的ゲーム像として参照しているイメージは、コンサマトリな「娯楽主義」によるものではなくて、むしろJesperJuulやGregCostikyanが定義するようなモデルです。しかし、hallyさんは残念ながら今回は、JuulやCostikyan的なゲームのモデルが成立してきた経緯を語っているわけではありません。だけれども、ここではいつのまにか近代的ゲーム像が、(a)娯楽主義+(b)Juulの古典的ゲームモデル、という二本立てになってしまっています。しかし、hallyさんの言う水木氏の「ポストモダン的立場」とは、ゲームが(a)娯楽主義から脱却すること、ではなく、むしろ(a)娯楽主義が強力に駆動されることで(b)Juulの古典的ゲームモデルが否定される、という図式であったはずです。▼なので、hallyさんが水木氏のゲームをポストモダン化として位置づけるためには、「近代的ゲーム像とは(a)娯楽主義である」という議論だけでは十分でなく、「近代的ゲーム像とは、(a)娯楽主義と(b)Juulの古典的ゲームモデルがセットになった状態である」ということまで論じておかないと、この後の議論が空回りしてしまうように思います。ポストモダン化ということで、おっしゃりたいことはもちろんよくわかるのですが、(a)娯楽主義と(b)Juulの古典的ゲームモデルがセットである、というところまで論じるところまでいけたらサイコーですね…。これを論証するのは大変に骨の折れることだとは思いますが。