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2006年02月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ゲーム普及の経路依存性と議論構成の違い

 友人から教えてもらったのだが、去年の夏ごろに韓国でガシガシと「デジタルゲーム・ストーリテリング」を題材として扱ったコンピュータ・ゲームの書籍が刊行されているらしい。未追加文献情報のほうにも掲載したが、韓国のほうの書籍紹介はかなりがっちりと要約まで載っておりNaver翻訳で読めた範囲で、軽く紹介してみよう。


ハンヒェワン 『デジタルゲームストーリーテリング (ゲーム 銀河系の ニュー パラダイム)』(2005/8)

http://j2k.naver.com/j2k_frame.php/japan/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=1625238

 欧米における‘ゲーム学(ludology)’と‘物語論(narratology)’との対立などにも言及しつつ、ゲームにおける<物語>の構成要素を三つに分類して論じている。

  • (1)‘基盤的ストーリー(back story)’=既存の映画と等しい方式で構成される
  • (2)‘観念的ストーリー(ideal story)’=ゲーム固有。作者が完結されたストーリーを プレーヤーに一方的に 伝達するのではなく,プレーヤーの選択と行動を通じてストーリーが展開されるようにゲーム デザイナーが 誘導する方式で行われる。
  • (3)‘偶発的 ストーリー(random story)’=ゲーム デザイナーの制限領域を越えて発生するストーリー。ゲームのオンライン化が前提された状況でプレーヤー対プレーヤーというレベルで無数に生成されうるストーリー

 加えて、翻訳結果ではあまり理解できなかったが、著者は「プレイヤー」「コミュニティ」「コミュニケーション」「キャラクター」という要素に着目しつつ、四つぐらいの効果を挙げて、それらが相互に影響しあい変化していく過程を論じている…らしい。

 彼の分類の中にある(1)back storyと(2)ideal storyという区分けは日本でもしばしば用いられるものだが、これに(3)random storyを「プレイヤー対プレイヤー」という形式の中に見出しているところが興味深い。

 日本の文脈であればrandomに生成される物語といえば、オンラインゲームという話を前提にせずに、むしろファミ通のやりこみであるとか、中沢新一が『ゼビウス』のゲームフリークたちのプレイ行動にみられる特徴のような部分:つまり「プレイヤー」が作り手の意図をほとんど無視して独自に物語世界の構築へと踏み出していくようなエンピリカルな側面を抽出して「random story」の成立をみてとるのが一般的だと思う。だが、ここで「やりこみ」ではなくオンラインゲームにおけるプレイヤー間のコミュニケーションに話をもってくのはやっぱり韓国においてオンラインゲームが圧倒的に強いからなんだろうなあ、と。

 しかし、この(3)random storyはオンラインゲームをモデルとすれば対人的なコミュニケーションを通して成立するものだが、日本のような「やりこみ」モデルを前提とすればこれは脱社会的で非対人コミュニケーションの中でも勝手に成立してしまう。*1

 これは例えば、90年代初期に成立した『ドラゴンクエスト』4コマで見られるようなユーザーによる同人的な物語受容と、2003年以降に隆盛している『ラグナロクオンライン』4コマにみられるような同人的な物語受容との違いといっておいいかもしれない。前者は個人的な妄想の中で成立するし、後者は対人コミュニケーションの中で生じた事件を物語化することによって成立している。

 日本の文脈ではrandom storyのこの差異は明瞭に理解されうると思うのだが、韓国の文脈でこの差異は理解されうるのだろうか?*2

全敬欄 『デジタルゲームの美学 (オンライン ゲーム ストーリーテリング)』

 こちらでもやはり、プレイヤーによる物語の生成作用が語られている…らしい。が、新しい知見がどこらへんにあるかまでは、要約の翻訳ではいまひとつわかりませんでした。

 ただ、面白そうだなと思えたのは、プレイヤーがアイデンティティをどのようにゲーム内で獲得するかという話。全景欄氏によれば、ゲームの世界ではゲーマーのアイデンティティは現実とは違いがあり、サイバー上では性別, 人種, 階級のような生物学的アイデンティティには依拠しない。そして、サイバーワールドでは個人は肉体的な束縛をうけずにコミュニケーションを行い、個人のアイデンティティは選択的に自分をどのように表現するか、というところで形成されてくる。これによってオンラインのアイデンティティは、社会的な実験場として成立するのだ、と。

 …NAVER翻訳の精度の問題であんまり論旨を正確につかめていない可能性は高いが、アイデンティティを「自由に/選択的に」という話をゲームの中でやりはじめているというのは、これもオンライン・ゲームを前提とした世界の話だという気がして面白い。

 たとえば、家庭用ゲーム機の物語論の中では、プレイヤーのアイデンティティが自由に選び取れる/取れないということではなく、むしろプレイヤーがゲーム内世界へといかに現出可能か、ということのほうが問題になる。たとえば、プレイヤーキャラクターとプレイヤーの差ということが、家庭用ゲーム機では常に前提とされ、プレイヤーキャラクターとプレイヤーは「他人」であることが大きなテーマになる。たとえば堀井メソッドにおいて主人公が「しゃべらない」手法の中に、プレイヤー=プレイヤーキャラクターという感情移入の成功を見出し、同時に「FFは感情移入できないからダメだ」といってしまうようなタイプの議論などはこうしたプレイヤ/プレイヤキャラクタの乖離を前提とした議論であるといえるだろう。*3

 対して全景欄氏の議論は、プレイヤ/プレイヤキャラクタ間の乖離を同じく問題としつつも、いかなるプレイヤ/プレイヤキャラクタ間の関係性が「理想」なのかなどといった問題意識とは圧倒的に無縁である。単にプレイヤの身体が、プレイヤキャラクタの身体を得ることで、生物学的/社会的アイデンティティから自由になれることこそが、面白いのだ、と話してしまうよう(多分)楽天的な発想をしているように見える。

 オンラインゲームにおけるプレイヤ/プレイヤキャラクタ間の乖離をもっとネガティブに語るとすれば、たとえば象徴的なものは「相手がネカマかどうか」「相手がニートかどうか」といったプレイヤキャラクタの後ろに控えているプレイヤキャラクタの身体を予想することにこそいろいろな問題があると思うのだが…、全景欄氏はとりあえずアジってるだけなのだろうか。

 あんまりまとまってないですが、オンラインゲームと一人用RPGにおけるプレイヤ/プレイヤキャラクタの乖離問題の処理の仕方の違いをどう論じるかというあたりで、なんか興味深いことが言えそうだな、という予感だけをとりあえず。メモしておきます。



イゾングヨブ『デジタルゲーム, 想像力の新しい領域』(2005/08/05、95p、 ISBN 8952204182)

http://j2k.naver.com/j2k_frame.php/japan/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=1625241

 ゲームが新しい芸術形式であると論じたり、「アバター」がゲームの世界内/外をつなぐ上で大きな役割を果たすものであると論じたりしているらしい。これだけだと、いまひとつ目新しい部分がよくわからなくて残念。

 また、これも昔から言われていることだが、コンピュータ・ゲームがあまりにも男性中心主義的な構造になっているということにも言及しているらしい。

イ・ゼヒョン(著) 『インターネットとオンラインゲーム』(コミュニケーションブックス、2001.03.01 、368p 、ISBN : 8984990299)

 要約が漠然としすぎていてよくわからず。

李インファ, ゴウック, 電縫官, 強心号, 全敬欄, 梨駐英, ハンヒェワン, イゾングヨブ『デジタル ストーリーテリング』(黄金枝刊、2003.10.20)

http://j2k.naver.com/j2k.php/japan/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=133354

 先に挙げた数人の共著+αで、2003年に発刊されている。

 例によって要約だけしか除けないので細かい論旨はわからないが、「デジタルストーリーテリング」というテーマを三方向から説明している。

 一つはインフラとしての「デジタル」というものと密接に結びついた形での「デジタルストーリーテリング」とは何かを論じ、次にプレイヤーを楽しませるという観点からの「エンタテイメント・ストーリテリング」としてデジタルストーリーテリングの斬新さを読者論的な方向性(?)から語る。そして、情報をいかに効率的にばらまくかという点からの「インフォメーション・ストーリーテリング」としてもデジタル・ストーリーテリングの可能性を語り、日本でいうところの物語マーケティングの手法や、エディテイメントソフトのような方向性においてもデジタル・ストーリーテリングはすごいんだ、という話をしている…ような印象。

 やはり似たような点が気になるのだが、Naver翻訳だと「主人公 キャラクターは 利用者の 意志を 実質的に 具現する 存在なので 利用者の 選択が すなわち キャラクターの 選択が なって 彼 二人の 仕分けは 無意味だ」としている箇所。

 もちろん、読者/主人公という区分けがコンピューター・ゲームのストーリーテリングにおいては従来の小説や映画と同様のフレームで語れないという議論はわかる。だが、読者(プレイヤー)/主人公という区分けが「無意味だ」とまで言ってしまうのは先に挙げたようなプレイヤ/プレイヤキャラクタの乖離が常に問題とされてきた日本の文脈からすれば明らかに異質な議論をしている――ように見える。


李燿薫氏「ゲームは芸術だ」http://news.egloos.com/

http://j2k.naver.com/j2k.php/japan/news.egloos.com/l28

 これはウェブ上から。2000年に書かれたものですが、この方の場合はオンラインゲーム市場のみについて言及しているというよりも1980年代初期からMSXなどに触れてUltimaやSimcityシリーズに触れた上で新しい芸術ジャンルとしてのゲームという議論になっている様子。韓国におけるゲーム言説も1980年代からの系譜というのは存在しているようですね。

あと

パク・サンウ氏『ゲーム 世界を革命する力』2000

http://j2k.naver.com/j2k_frame.php/japanese/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=90595

パク・サンウ, 朴懸垂 『ゲームが言葉を歩いて来る時』2005(たぶん何かのあちらの熟語が上手く訳せていないっぽ。)

http://j2k.naver.com/j2k_frame.php/japanese/book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=1507726

などといった気合の入った書籍も出版されているようです。


 以上、ざっくりとまとめると一番気になったのはやはり、韓国における「ゲームの物語論」ではプレイヤ/プレイヤキャラクタの乖離が問題化されていないということです。くりかえしになりますが、これはやはり普及したジャンルがRPGだったのか、あるいはMMOだったのかというジャンルの格差が言説形成に影響をおよぼしているような感覚を覚えます。この話、もう少し根拠付けて論じられれば面白そうなので、今後もう少し追ってみたいと思います。

*1:とはいっても、もちろん、これも「ファミ通」という場所で自慢することを目指してやるユーザーは、社会的なコミュニケーションを希求している…という反論も成り立つわけですが…

*2:と、書いた直後に横からコメントされたので追記。「この本で、back story → ideal story → random story という語り方をしているのは、まず第一にこの本の著者は進化論的な議論をしたいのではないか、と。そして第二に、この議論は技術決定論的な傾向があるのではないか。で、あと、そもそも『ドラゴンクエスト4コマ』と『ラグナロク4コマ』に違いを見出すという方向性もあるが、実は両者において物語消費の形態がそんなには変わっていないということこそ面白いのではないか、と。つまり、技術的にはまったく違うものを、大塚英二が『物語消費論』で指摘したようなフォーマットで消費してしまえる日本のサブカルチャーの特殊性に着目してみるほうがいいんじゃないか、と。」つまり日本ではrandom storyの消費形態は「個人的な妄想の中で成立するし、対人コミュニケーションの中で生じた事件を物語として消費してきた」ものではないか、と。

*3:茂内克彦 2002「ビデオゲームにおけるメディア特性――物語性と主人公に着目して」http://www.intara.net/ron/syuron/ などはこうした問題意識を前提にしつつ、堀井メソッド的でない形でのプレイヤ/プレイヤキャラクタ間の関係性を描ける!という話をした好例