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2006年04月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

RGN/死の表現関連 言及していただいたもの

9日は本当に多くのすばらしい方にお集まりいただきありがとうございましたー!

いやー、手伝っていただく方のツテも、各種広報もほとんど個人のお手製でやっていたので蓋を開けてみて超ビツクリした次第です。反省点も多くのこりましたが、精進していきたいと思いますので、今後もみなさまご来場いただければ幸いです。次回はゲーム論者の誰もがリスペクトするid:hally氏による発表を予定しております。詳細は決まりましたらまた広報ということで。

で、さて、

死の表現のエントリとあわせて、RGNに言及いただいたものをいくつかご紹介させていただきます。いい指摘たくさんもらったので、一つ一つにちゃんと応答しときたいんですがとりあえず、一ぺんにこれだけの量を処理する処理速度と時間がないので、まずは並べてご紹介まで。


http://gamestudy.org/eblog/

韓国の偉大なるゲーム評論家パク・サンウ氏による論文レビュー。日本語の論文を送らせていただいたら、がっちり読んでいただいて、しかもこんながっちりコメントまでもらえるとは…ありがたすぎて恐縮しまいます。。。

But this article leaves something to be desired. First of all, it doesn’t touch the most important games, which deal the death in the revolutionized way. For example, it can be took [Planescape Torment], [Baroque] and [Go beyond my body!].

Also it doesn’t touch the death in MMORPG. In Korean MMORPG scene, the suicide of ‘Drakedog’ becomes the most famous episode. (You can see this episode in this site.) How can we explain the phenomena like this? And is there different between death in single game and death in MMORPG? Maybe these problems can be solved through the co-work of Korean researchers about MMORPG and Japan researchers about single game.

 まさか、韓国の方から『バロック』をやっとけ!と薦められるとは思ってなかったです。前に一度やったことがあったのですが、改めてプレイしておきます。あと、他の事例についてもちょっとすぐにどれのことを指しているのかわからない事例もあるのですが、とりあえず入手するところからはじめます!

 あと、MMORPGの死について考慮されていないという話は、RNGの当日もhallyさんからミス・ノルウェイの事例として提示されましたが、ここらへんの話もぼくの弱いところで面白そうな部分ですねー。

 あと、MMOにおける死の話として単にインターネットの話としてではなく、ゲームにおける死としての特性を端的に語っている名文だと思えるものが、篠房六郎『ナツノクモ』(P23-P24)にあって、引用すると、

  • ところで君はどう思う?特定のプレイヤーを殺したり、消滅させることについてだ。
  • そんな事を、どうして?
  • 何、心理的にどのくらいの影響があるかと思ってね。
  • ―――そうですね。結論から先に言えば、前者はゲームで、後者は只の作業です。外装が生きている状態でPCが接続を切った場合、外装は接続していたボードからただログアウトするだけです。体力が0になった場合、外装は死亡状態になりますが、PCはステータスの低下と引き替えにいつでも復旧することが出来ます。問題は死亡状態でPCが接続を切った場合です。その場合、外装は2分間でそのデータを全てを失い消失します。PCは殺されたところでたいした事はないのですが、消滅させられれば取り返しがつきません。殺すか殺されるかは純粋にゲームの腕の競い合いですが、「仕事」ではあくまで標的のPCの消滅を狙う以上、その後の作業もまた必要になる訳です。
  • ―――作業?
  • ゲーマーの間では、拷問と呼ばれています。そういうのにはあまりお詳しくないようですね。
  • ―――ああ、それで。
  • つまりは、殺されたPCも消滅するのは嫌ですからその場で復活し続ける。消滅させたいほうは相手が諦めて接続を切るまでずっと殺し続けるって状況が出来る訳です。その殺し続けることを称して拷問と言うんですよ。どのくらい忍耐力があるかっていうだけん、只のつまらない単純作業に過ぎないという訳です。

http://hpcgi1.nifty.com/sawaduki/nicky/nicky.cgi?DT=20060409A#20060409A

 当日、せっかく壇上にあがっていただいたにも関わらず、ぼくの圧倒的な不手際によって、本来コメントしていただくはずであったはずの内容をこちらでコメントしていただいてしまった、沢月さん。。。

 今回は、せっかくお呼び立てしたのに、最後にきちんとしゃべるディスカッションの時間がさっぱり足らず本当に申し訳ありませんでした。。。

 要するに、ゲームで作家性を論じるには限界がある。それがゲームを論じる難しさの一つなのだろう。

 だれかが死ぬ場面を描かなければ「死の物語を経験させる」ことができないとは限らない。死ぬ場面の描写がなくても「死の物語を経験する」ことはできるだろうし、それがゲーム固有の表現として立ち表れることは十分に可能だと思う。

 たとえばアトラスのRPG「 BUSIN」(PS2)。主人公は仲間と協力し、人助けをしつつ事件を解決していくかに見える。だが実際に主人公がやっていたのは、とうに死んでしまった街で、死による終わりを迎えられなかった人々を正しい神のもとに導くことだったということが、終盤に明らかになる。主人公があがくのは生きようとしてではなく、仲間を助けようとしてでもなく(なぜなら、仲間は既に死者だから)、仲間や人々のライフストーリーを終わらせるためだった。直接死ぬ描写がなくても、進むほどに重苦しくのしかかってくる死の重みを感じるゲームだったと思う。


http://realtimemachine.sakura.ne.jp/collisions/event/RGN01.html

dotimpactさんレビュー。

感想への応答は個人的にメールしましたが、ほとんんど言い訳がましいものになってしまったので。。。もっと、きっちりとしたコメントをあらためてさせていただきたいところです。

ゲームにおける死はその複数性(ルール)や固有性(物語)そのものではなく、その二つのレベルの(ゲーム作者による)操作と対比において、そのリアリティ(あるいはそこにある限界)が浮かび上がるものである、という主張は十分可能だろうとも思えました。ゲームはプレイヤーに、ある立場を与え実際に手を下させることができ、そのプレイヤー自身の体験は覆せないとすれば、ルールや物語のレベルでは隠蔽されてしまう、たとえば「死」を、プレイヤー自身の体験によって担保する形式というのはゲームにはありえるのではないでしょうか。井上さんが発表で例示された(詳細は伏せる)「いままでプレイヤーが『倒した(殺した)』と考えていたものにある時点でプレイヤー自身がなり代わり、まったく同じルールで倒されて(死んで)しまう」というような表現は、ゲームが原理上死を記号的に扱わざるを得ないという限界に拮抗するものになりえるはずだと僕は考えます。

http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060407

http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20060408/id:tdaidoujiさんへのコメント)

 こちらも全体的にいい指摘。さまざまなコンテクストを参照しながら話がすすむので、いろいろなコンテクストも同時にわかって、おもろい。

それと、dotimpactさんのコメントにもありましたが、プレイヤー/プレイヤーキャラクターといった 要素に着目しつつ期待の裏切りなどの問題について言及していく方向性を示唆していただいくことが多いのですが、これってやっぱり『ポートピア殺人事件』あたりのころからずーっとある話なので「裏切り」だけで話を整理してみるというのも面白いのかもなー、と最近思ったり。

 あと、コメンテーターのハマノくんからコメントあったとおり、物語/文学の区分についての議論の混同みたいな部分も多くの方にツッコんでもらいました。いや、まーこれは本当にそのとおりだと思うので、どうにかしたいですねー。

あと、

tdaidoujiさんのコメントではゲームバランスの話を「フェア/アンフェア」という区分けによって語っているのもいい議論のたてかたですね。

ゲームにおけるフェア、アンフェア、すなわちゲームバランスという話になる。ゲームとしてフェアであることを尊重するほど記号性は高まり「死」は遠ざかる。「強いリアリティを持った死の表現」を求めるてのは、制度を、システムを、ゲームであることを破壊することに他ならないわけで。

http://gmk.9bit.org/note/20060409-immortal.htm

 ゲーモクさんからは、コメンテーターのid:AYSさんからの発表にもあった、『アウターワールド』の事例よりもさらに、キターーー!雰囲気のする『ウイザード・オブ・イモータル』についてご紹介。

死んで死んで死にまくらなきゃ乗り越えられないのに、セーブはフロアごとでしかもパスワード制、コンティニューは回数制限ありという厳しいゲーム内容を目の当たりにすれば、今を精一杯生きることの大切さを嫌でも考えさせられるだろう。トラップだらけでクリアもままならぬダンジョンはままならぬ我が人生と重なり、ことあるごとに無惨な死に様をさらす主人公は明日の我が身としか思えない。ゲームの死はリセットできる言うけれど、じゃあリセットを繰り返せばクリアできるとでも言うのかよ馬鹿野郎。


http://d.hatena.ne.jp/SiFi-TZK/20060409

終わった後に気づいたという、id:SiFi-TZKさん。よろしければ次回はどうぞ。

FFの野島氏と植松氏が「人の死を扱いたい」「人の死なないゲームがいい」という正反対な発言をしていた対談が思い出される

おおー、これはすばらしい。ネタ元どこだったか探しときたいですね。

http://d.hatena.ne.jp/Dryad/20060409

実は会ってみたら、前から顔を知っている人だったということが判明したid:Dryadさん。

今回のぼくの枠組みを、リネージュ2の事例に適用して論じることを試みていただいております。

  1. ゲームの世界観を元に、「死の固有性」を中心としたシリアスな物語として再編する。
    • 上記の公式ストーリーなど。戦闘シーンは、必ずしもゲームの仕様に忠実ではない。
  2. 「死」は登場人物の持つ背景ストーリーの中でのみ語られ、戦闘の結果として死人が出ることが徹底的に回避される。
    • 「お約束」に沿った、ゲーム的な戦闘シーンの描写。
  3. ゲーム世界においては「死の複数性」を前提としつつも、「ゲーム内のキャラクターを操作する現実のプレイヤー」を物語世界の範疇として取り込むことにより、ゲーム世界における「死の固有性」を担保する。
    • プレイヤーがゲームを継続する意欲を失ったり「現実に死亡」することにより、ゲーム世界におけるキャラクターは「真の死」を迎える。

http://d.hatena.ne.jp/work_memo/20060410

急用でこられなくなったid:work_memoさん。アルフレッド・シュッツ「多元的現実論」から、UOやPSOの事例にまで言及しつついろいろな話を列挙していだだきましたー。言及のあったもので未読のものはなるべく読んでおきまする。

シュッツというのはそーいう社会学者がおりまして、「多元的現実論」ちゅーことを言ってたりするのです。第二次世界大戦後くらいだったか。んでどーいう話かっつーと、もともとシュッツの問題関心としては科学論なんですが、日常ぽけらーと生きている自分を振り返ってみると、現実構成の様式が変容してる時、リアリティがちょいズレてる時がある。代表例として挙げているのが「夢」とか「科学的思索」とか挙げてまして、シュッツは挙げてませんがコンピュータ・ゲームとか本読むとかメディア経験なんかも大多数ソレにあてはまると思うんですけど、とりあえずべたーっと同じ「日常」が続いているんじゃなくて、それぞれ自律したルールを持つ現実ちゅうのがちょこまかとあって、んでその中に他者と出会い相互行為をしていく「至高の現実paramount reality」ちゅーのがあり、その場その場で主体が現実として生きているという意味では各「多元的現実」は対等なんだけれど、至高の現実はそれらに卓越してるんだみたいなことを言っていたような前世紀のうろ覚えな記憶なのです。

じゃあなんで至高の現実は至高なのかっつーたら、シュッツは明示してはいないのでよくわからんのですが、一つはそこで死ねるから。『アヴァロン』は、セピアソフトフォーカス気味の「ゲーム外の現実」と、やっぱりセピアの「ゲーム内の現実」が交互に描かれていくんですが、「ゲーム内の現実」からさらにもう一段入った「裏モード」に突入すると、それはフィルターをまったく通さない、現実のポーランドの都市の描写になってるわけです。おそらく、主人公のアッシュより観客の方が軽くぶたまげるのですが、そこで結局アッシュがなにさせられるかというと、字義通りのネトゲ廃人としてリアルでは病院で介護されている昔の知り合いと「なにがリアルなのか」をめぐっての対話と殺し愛。「ゲーム内現実」ではCMとかで流れていたように、3Dで逃げまどっていた人々(基本的には実写をコンピュータ処理してると思うですが)が、一瞬静止して、2Dの薄い板に描かれたような絵にそのまま変化し、ついでそれが飛散するという描写がされているのですが、「裏モード」で殺された死体はどーなんのか。それが「このモードがリアルなのか非-リアルなのか」の最終的な試金石となるわけですみたいな。

死んで肉体が腐っていくのはリアルのみ。死して屍拾う者なし。

また、こんどお会いできる日を楽しみにしております。

http://d.hatena.ne.jp/shiroham/20060409#p2

歴史的に遡ると「ゲームにおける死」なんてのは「試合における負け」とか「鬼ごっこにおいてタッチされた」くらいの意味しかそもそもはなかったわけで,そんなところに過剰に思い入れるのはそもそもナンセンスじゃねーかなーと思ってしまうのですよ.

こちらはRGN当日のツッコミだと、hallyさんの前半部のつっこみに近いですかね。ナンセンスじゃん!と思ってしまう感覚が成立するというはまったくそのとおり。ぼくの立場は、その感覚がごくふつうなものであることを前提としつつも話をするみたいな感じでしょうか。

http://poem.6666.to/angelus-novus/note.html

あとこちらからも大変いい指摘が。

 しかし、それなのになぜかわれわれはゲームから倫理的なものを受け取りうる。しかもそれは普通考えられているようにストーリーを通じてだけでなく、ゲーム性によって表現される次元においても、われわれは倫理的なものを受け取りうるのだ

 まったくその通りですね。完全同意。


http://d.hatena.ne.jp/kenjiito/20060410

 で、最後に。こちらは全然別の視点ですが、いろいろと当日中すばらしいコメントをいただいた伊藤憲二さんから。ゲームを「研究」と言う視点から語ることについてのこれまたすばらしいエントリ。泣ける!っていうか泣いた!

そもそもゲーム研究者がゲームについて独占的に語る権威を持つということ自体が幻想なのである。ゲームについて語る権利は誰にもであるべきだ。ただ、そのなかに色々な種類のものがあるに過ぎない。ゲーム研究者のゲームについての分析が、一プレイヤーのゲームについての洞察より優れていると考える理由はないし、さらに言えば優れている必要すら必ずしもない。アカデミズムのなかでなされた分析は他の場所(たとえば2ch)でなされた分析とは別の機能を果たすというだけのことである。



とりあえず、研究会おわって体がヒーヒーいってるので、FF12をクリアーまでプレイすることを当面の目標にして生きていきたいと思います。