blog || 瀬上梓

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2006年10月01日

FPSと殺人技術

9月13日にカナダで起こった乱射事件の件について、次のような報道がなされた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060915-00000039-mai-int

<乱射男>ネットに銃構えた写真投稿 死亡原因は自殺と判明

 【ニューヨーク坂東賢治】カナダ・ケベック州モントリオールのドーソン・カレッジで13日、銃を乱射し、学生20人を死傷させ、現場で死亡した男がインターネットのサイトに銃を構えた写真を投稿し、「死の天使」と名乗っていたことがわかった。AP通信などが14日、報じた。また、詳しい解剖の結果、警察に射殺されたのではなく、自ら頭を撃ち、自殺していたことがわかった。

 同通信などによると、男は同州内に住むキンビーア・ギル容疑者(25)。黒いトレンチコート姿でライフル銃を持つ姿を写した写真や自分の名前の入った墓碑の写真などをインターネットに投稿し、99年4月に米コロラド州のコロンバイン高校で起きた銃乱射事件をモデルにしたネットゲームで遊ぶのが好きだなどと自己紹介していた。

 また、「人生はいつかは死ななければならないテレビゲームのようなものだ」「銃を愛する」「黒いトレンチコートを愛する」などの書き込みがあった。事件の約2時間前の時間表示がある書き込みがあり、「クレージーな気持ちだ」「朝からウイスキーを飲んだ」と記していたという。

(毎日新聞) - 9月15日10時59分更新

 銃乱射事件とゲームの関係は前からとりだたされている。マイケル・ムーアは『ボウリング・フォー・コロンバイン』でアメリカ製FPSのことをそれほど問題としてとりあげていなかったが、近年の銃乱射事件には間違いなくアメリカ製FPSがなんらかの役割を果たしていると思う。
 もちろん、それが直接の動機になったとは必ずしも考えられない。この手のゲーム内暴力は、暴力に関する欲望を喚起する一方で、ゲーム内で暴力を働くことでそれがガス抜きとしても機能するという側面が見られる。短期的な「攻撃性」については、上昇する傾向にあるという点が坂本章の研究では言われているが、長期的な影響は正直なところまだ断言は難しい状況だろう。

 しかし、ゲームが人間を殺すミクロなテクノロジーとして機能しているのは確かである。
 『America's Army』という米軍製のゲームを挙げるまでもなく、アメリカのFPSは軍事教育において立派な役割を果たすと同時に、「アメリカの正義」をガンガンと再生産する道具にもなっている。銃乱射事件という無軌道な犯罪を発生させる装置としては機能していないかもしれないが、2001年のアフガン戦争や、2003年からのイラク戦争において、こうしたFPSがアメリカ軍の作成を遂行するのに一定の貢献をはたしてきたであろうことは、もはや事実であろう。ゲームが「犯罪」を増加させているか減少させているかどうかはまだまだグレーだが、「戦争」を遂行するテクノロジーとして機能したことに関しては真っ黒だと言っていい。
 また、アメリカでFPSが「アメリカの正義」を生産しているとき、地球の裏側のパレスチナでは、『Under Ash』というゲームが開発され、パレスチナ人がイスラエル人と戦闘する「パレスチナの正義」を生産するFPSが生み出されている。このゲームは現在シリーズ化され、『Under AshII』も開発されている。
 もちろん、ゲームが戦争を遂行するテクノロジーとなったのは昨日や今日の話ではない。話は数百年前にさかのぼる。将棋、チェスはもちろんだが、18世紀、19世紀において戦争の大局をシミュレートする道具としてボードゲームが使われていたのはよく知られるところである。こうした事情はピーター・P. パーラ 『無血戦争』に詳しい。この本の中では、例えば、第二次世界大戦においては、日本海軍はミッドウェイ作戦の直前に、この作戦のウォーゲーミングを行い、史実とほぼ同様の結果――主力空母群の壊滅――を得たなどといったことも書かれている。

 ただし、90年代中盤以降、『ダンジョン&ドリーマーズ』において扱われている『ウルフェシュタイン3D』『Doom』『Quake』などの3Dのバーチャル空間をリアルタイムレンダリングで動かす技術と供に登場したFPSはこうした、ゲームの歴史とはまた別のイノベーションを引き起こしている。『無血戦争』が描くようなウォーゲームとは、基本的にはボードゲームであり、個々人のプレイヤーには普段はとうてい実行不可能なマクロな戦争技術である。それに対して、米国製FPSが切り開いた戦争技術としてのゲームは、ごくミクロな戦争技術である。このミクロな戦争技術は、デーブ・グロスマン(『戦争における「人殺し」の心理学』)も言うように、個々人の「暴力」を促す装置としても容易に機能しうる。
 実際、コロンバイン高校で銃を乱射した高校生は人の頭を正確に射ったというし、FPS的で身に付けることの可能な人殺しの技術は身につけていただろうと思われる。

 私はこういうゲームが、犯罪に貢献していないのだ、と。世界の悲劇を深めていないのだ、と擁護する気はない。『Under Ash』は即刻開発をやめてほしいと思っているし、『America's Army』のようなゲームもこの世から消え去ってほしいと思っている。(だが、同時に純粋な一人のゲームプレイヤーとしては、これらのFPSゲームが並みのゲームと比べても悔しいことに十分楽しいゲームであることも認める。)
 ただ、しかし、だからといってゲームが悪いものである、とはまったく思っていない。これは、ゲームが、ただ、単に普通のメディアになったのだ、ということだろう。物語を語る文字メディアも、絵画も、音楽も、映画も、インターネットも、今まで強力に戦争に貢献してきたし、ミクロな人殺しの技術としても機能してきた。これらのメディアが戦争や殺人技術に加担してきていなかった、などということを言う人は単に勉強不足である。(※音楽がミクロな殺人技術に貢献してきた、という事例は知らないかもしれない。戦争自体に音楽が加担してきた歴史は大量にあるけれども。)
 ゲームもまた、戦争をする人々の道具となった。ゲームが戦争を引き起こすというよりも、戦争を引き起こしたり、戦争を遂行する人々によってゲームが使われるようになった。もとから戦争の道具としての側面はあったが、改めてまた別の地位を得て戦争の道具となった。
 悲しいことではある。
 もう、ゲームというメディアそのものを全肯定することはできなくなった。

■追記1.
ちなみに、問題となっているコロンバイン高校のゲームはこちら。
http://www.columbinegame.com/
参考http://www.kanshin.com/keyword/367085
http://blog.livedoor.jp/borisgoto/archives/50457815.html

■追記2.
 ただ、今回とりあげられたような
 「99年4月に米コロラド州のコロンバイン高校で起きた銃乱射事件をモデルにしたネットゲーム」が、単に「不謹慎で悪いゲーム」というフレームによってしか語られないのは、とてもバカらしい。不謹慎かもしれないが、それは批評的でもありうるし、政治的でもありうる。わかりやすい話をすれば、9.11を題材にした映画や小説は大量に出回っており、それは政治的、社会的な事件を考えるさせるための「題材」として扱われている。また、9.11をネタにしたゲームも大量に出回ったがそれは、全て「不謹慎ゲーム」として扱われた。本当に不謹慎な感じのするゲームが不謹慎として語られたのはまだしも、マジメにビル爆破解体を遊ばせるゲームであった『ビルバグ』というPS2のゲームまでもが、不謹慎なのではないか、ということを理由に内容に大幅な変更を迫られ発売延期を余儀なくされたということがあった(雑誌『コンティニュー』に詳しい開発者インタビューが掲載されている)。メディアが小説や映画からゲームになったとたんに、どうして単に「不謹慎」というフレームでしかくくられないのか、と。
 当たり前だけれども、9.11を題材にした映画を撮ることは遺族にとって必ずしも心地好いものになるとは限らない。映画が撮られる文脈は理解してくれるかもしれないけれども、親族や友人の死を、一定のフレームの中に回収して語ってしまうことは、いかなるメディアを通したにせよ、それを不快に思う人はいるだろうし、「不謹慎」ではありうる。