blog || 瀬上梓

2007年01月12日

作品の網をめぐる快楽

作品をつくるということ。

 「作品をつくる」ということが、他の作品との影響関係において、その上に成立する行為である、ということは、いろいろな知見についての話をひっぱり出してくるまでもなく、大変に常識的なことである。
 知っている人は知っていることであって、わざわざそんな話をするのは正直なところためらわれる話だ。なので、不親切なようだが、その話はいちいち繰り返さない。作品の「オリジナリティ」などをパーフェクトに信じるのが素朴な、あまりにも素朴な態度である、ということは了解しておいてほしい。世の中にオリジナリティがある、などといわれているもののほとんどは、なにがしかの作品の影響関係の中で成立しているし、影響からまったく自由な作品などありはしない。
 たまに、ある作品について、他の作品の影響関係を指摘するようなこと――たとえば、「ガンパレは、エヴァの影響抜きには語れないよね」――を言うと、「ガンパレがエヴァのパクリだなんて言うのは、まったくわかっていない」とかって反応されたりする。だが「影響がある」ということと「パクリだ」ということではない。そういう反応をする人は、作品が作られたり、受け入れられたりするということの基本的なサイクルについての了解が、私とは違っている。完全にオリジナルな作品などはないし、完全なるコピー作品も(海賊版以外は)ありはしない。いかなる作品も、ある程度オリジナルだし、いかなる作品もある程度までコピーである。作品を作る技術を習得する、ということは、すでに流通している技術をマネするということとイコールだ。あまりにオリジナルなものができあがっても、それは受け止められえないだろう。

作品の影響関係について論じるということ

 濃いオタクの人というのは、しばしば、作品の影響関係について論じることが好きだ。とても好きだ。というか、影響関係について論じることこそが、作品について語ることだと思っている節すらある。作品の内実、内容レベルについての批評的な問題を取り扱うのではなく、作品と作品の間の影響関係について論じるだけで他のことはまったく論じないという徹底した態度をとる人すらいる。
 いや、そういう態度をとらないにせよ、ある作品を批評するときに、他の作品との影響関係についての議論をスルーした場合に、怒る人というがいる。「あなたの議論は、あの作品の影響関係をみていない」という形で。これは、すごく根強くある。作品を評価するときに、影響関係について言及しない奴はわかっていない、と思われることがよくある。

 しかし、これは、いったい何なのか、という気もするだろう。

 前の世代が、後の世代にむかってあるものを見ていない、ということを象徴的にあらわす言葉が、競馬の世界だと「シンザンのレースも見たことないくせに」という一言に集約されている。ゲームの世界だと、たぶん、あと10年もすると「ファミコンもやったことがないくせに」とかそういう台詞に変換されていくのかもしれない。後の世代からすると、こういう説教はある意味、不愉快である。そんなこと知ったことではない、と思う。見ていないものは見ていないし、いまから見たところで、リアルタイムに経験されていた当時の興奮などがわかるわけがないじゃないか!と思ったりする。その意味で、ある作品を語る上で影響を与えた重要な作品についての語りというのは不愉快である。「それってどこの権威主義だよ!」という話だ。
 オタク世界の権威主義のようなものは事実上、流通している。これは一歩「濃い」オタクの世界に足を踏み入れようとしたときに、誰もが気にせざるを得ない問題だろう。とりあえず、手塚治虫、宮崎駿、押井守、富野由悠季作品は当然押さえておかないと彼らと話しは通じない。ゲームならばFF,DQよりも、ウィザードリィと、ウルティマと、Rogueは基本中の基本である。トールキンの指輪物語も読んでおかなければだめである。ある種のオタクは、オタク教養を磨きに磨いて上り詰め、こうしたオタク教養、オタク権威主義の再生産というのは行われる。

 しかし、これは本当にただの権威主義なのだろうか?オタク権威主義を体現するような人間もいれば、オタク教養の体系のようなものもある程度存在しているが、作品の関係の網の目の中に本格的に飛び込んでいく、ということは、単にオタク界隈の権威や教養というハク付けを知っていくということでしかないのだろうか?
 これは、オタク界隈の問題でなくてもいい。もっと権威付けされ、もっとも教養としてきちんと認定されてしまった文学史でも、映画史でも、写真史でも、美術史でも可能だろう。どこだって同じような問いをたてることは可能だ。

作品の差異において楽しむということ。

 作品を知っている、ということが、作品を楽しむということとどう影響するのか。作品をより多く知っている、ということは、作品をめぐる二次的な消費としての「批評」や「解釈」のゲームを行う上においてだけ楽しまれるものなのだろうか?
 結論から言ってしまうと、そんなことはない。ある作品を享受するときに、その作品に色濃く影響を与えた作品を体験として知っているか、知っていないかというのは実はすごく重要だ。二次的な消費の上においてだけ機能するものだというのならば、おそらくこれほどにまで作品の影響関係について語ることは流行らなかった。先に挙げた例で言えば『ガンパレードマーチ』をプレイする上で、エヴァを知っていてプレイするのと、エヴァを知らずにプレイするのでは、全く別の体験をすることになるだろう。あるいは、『FFVII』をやっている人と、やっていない人では『FFVIII』に対する楽しみ方は違うだろう。

 もっと別の例で言ってみよう。音楽はまったくの素人だが、宇多田ヒカルについて考えてみよう。
 2000年前後の、日本のCDセールスを見てみると、宇多田ヒカルはなぜあれほどに売れたのだろうか?もちろん、宇多田ヒカルの歌が上手いことや、作曲の能力が優れていたということはあるだろう。しかし、世界には宇多田ヒカルよりも優れた楽曲がないわけではない。その同時期に宇多田よりも優れていたり、楽曲がなかったとはいえない。たとえば、日本演歌会の大御所、北島三郎は2000年に新曲を出している。たとえば、3大テノールも日本でCDが売り出されている。
 しかし、宇多田はそういった曲を退けて、記録的な売り上げを誇り続けている。これはなぜか。
 「宣伝がされたから。」
 もちろん、それはあるだろう。ただ、宣伝されるためには「宣伝すれば売れる」という形式の音楽である必要がある。宇多田ヒカルの音楽は、それまでの日本の「売れ筋」の音楽と、連続している。宇多田ヒカルの音楽が、「売れ筋」の音楽とある程度の連続性がなければ、宇多田ヒカルがこれだけ売れることはなかった。それは音楽の素人でもわかる事実だ。その連続性の上に、圧倒的にアメリカナイズされた音と、歌唱力を宇多田ヒカルは持ち込んでいる。それまでの「売れ筋」が、宇多田とはまったく違うものだったら、――たとえば、北島三郎と、三大テノールがミリオンセラーを連発するような市場だったならば――宇多田ヒカルの音楽は決してあれほどまでに受け入れられたはずがない。宇多田ヒカルが好んで聞かれたとき、それは宇多田ヒカルのもたらした音楽が100%に新しかったから、聞かれたわけではない。ほどよく新しく、その中で洗練されていたからこそ、いままでの音楽との「違い」が享受され得ていたのである。
 こののようなとき、我々は作品を差異において楽しんでいる。
 宇多田ヒカルを真に単体を楽しんでいるわけではなく、「宇多田ヒカル的なもの」の断片をそれ以前にいろいろと楽しんで地盤があった上で、はじめて宇多田ヒカルは楽しまれている。それまで演歌しか聞いていない人がいきなり宇多田を聞き始めたという話は正直、あまり聞かない。

 あるいはパロディという手法について話すのでもいい。
「カユ…ウマ…」というのはゲーム『バイオハザード』の有名なネタだが、『バイオハザード』を体験していない人にいくら頑張って「カユ…ウマ…」を説明しても、説明を重ねれば重ねるほどにそれはむなしくなっていくだけだろう。「逃げちゃダメだ!逃げちゃダメだ!」という言葉もエヴァを知らない人には、なんのことだかまったくわからないだろう。パロディというのは「元ネタ」がなければ、何のことであるかさっぱりわからない。パロディは、まさしく「元ネタ」との差異を楽しむ遊びであると言ってよい。「作品の影響関係を体でわかっている」ということは、作品を楽しむ、ということを支えているとても重要な仕込みなのである。

差異を語ることと、楽しむこと

 以上、あたりまえの話といえばあたりまえの話だが、ここまでで、実は2つ、違う話をしている。まず、差異の中で作品を「語る」ということについて話した。そして次に差異の中で作品を「楽しむ」ということを話している。
 両者は、リンクしているが、別のことである。
 作品を楽しむとき、作品の受け手が、作品を単体で享受しているケースはほとんどない。他の作品との影響関係の中で、作品を楽しんでいる。エヴァの影響が濃厚な作品を見たときに、エヴァを見たことのない人と、ある人の間では話があわないとうことがあるだろう。それは、やっぱり体験の質が違っている。
 一方、作品の作り手が作品を作る、ということは作品を見たり読んだりする人が何を経験するかとか、何を読み込んだりするか、ということとは別の行為として行われる。もちろん、影響関係を意識しながら、あえて戦略的にものを作る作り手もいるだろうし、一方では、そういった影響関係をなるべく排除することを目指すような人もいるだろう。しかし、その結果できたものが、作品同士の影響関係の網の目の中から抜け出す、ということはとても難しい。作者が何を考えようと、考えまいと、受け手は作品からほとんど無意識に影響関係の中で作品を需要していく。
 オタク的な語りの中で「作品の影響関係」が云々されるとき、作者の経歴がひっぱりだされたり、作品の中の手法が事細かに分析されたりする。
権威的に、あるいは二次消費的な「批評的」語りの中で「作品の影響関係」が語られるとき、しばしば作者や手法というものが検討材料となる。作者という権威を召還しながら語ることによって、作品の影響関係を論じるということが、作品を語ることにリンクするからだ。
 しかし「作品の影響関係」が楽しまれるとき、作者は必ずしも召還されずともよい。そもそも集団制作体制が浸透し、意志決定なども複雑に絡み合うゲーム制作などの現場では特定の作者という概念をたてておくこと自体が困難な場合が多い。さきほどの宇多田ヒカルや、パロディを楽しむときに、宇多田ヒカルという作者の固有名や、パロディを用意した特定の作者の存在を空白にしてしまっても、作品を楽しむ地盤が受け手の中に醸成されているのであれば、作品同士の影響関係の中で作品を楽しむ、ということは可能である。
 影響について「語る自分」と、影響を「経験する自分」がいる。この二つは別のものなのだ。だが、その二つはしばしば、殆ど自覚されることなしにリンクしてゆく。影響関係を「経験する自分」は、影響関係を「語る自分」とほとんど不可分につながっている。それゆえに、「影響関係を語ること」が、作品の楽しみについて語ること、の本源的な問題であるかのような権威的言説が構築されていく。
 「手塚がディズニーの影響を受けている」と冷静に語ることは、手塚の中にディズニーアニメの楽しみを感じることとの臨場感とは、別のことである。

再び、ヒトは影響関係が論じることになぜこだわるのか。

 「作品がある作品との影響関係の中にある」
ということは、作品の楽しみを支えている、非常に重要な要素だ。あまりこういう言い方はしたくないが、作品を楽しむということの本質みたいなものだと言ってもいいかもしれない。
 あるものについて、オタクであればあるほどに、作品を「差異において楽しむ」という、楽しみ方に慣れてくる。あるいは、そのような楽しみ方しかできなくなってきたりする。
それは、人間が作品を経験するというサイクルの中で、かなり普遍的に観察されることであって大なり小なり多くの人が味わっていることである。
 しかし、そのような楽しみ方が「語られる」とき。それは「通」の言葉、あるいは「オタク」の言葉となってゆく。影響関係を語る、ということ自体が、二次消費的な「作品の語り」「批評」を支えることの中でひどく大きな割合を占めてくる。
自らの直接的な楽しみ方に支えられた中で紡ぎ出される、「語り」の言葉は強い。その楽しみ方がいかに重要か、という人を「語る」人は確信をもって、「語る」だろう。
「この影響関係抜きにあの作品を論じることなど、論外である」と。

批評を成立させること

 「批評」の定義を、ここでは仮に「語られている対象となる事柄について、面白いと思えるような見解を得られること」としてみよう。
 そのような観点に立った場合、影響関係についてだけ論じるような「語り」は、批評としては、かなり最低だといえる。もちろん、「濃い」オタク同士のコミュニケーションの中でならば、それは批評として機能するかもしれない。だが、相手が予備知識のない人であれば、単にジャーゴンが並んでいるだけの、自己満足の語りであるようにしか見えないだろう。一部の「濃い」オタクたちは、現代思想などの見慣れぬ言葉でサブカルチャーを語られることをひどく嫌うことがあるが、現代思想のわかる人々の狭いサークルも、「濃い」オタクたちの狭いサークルも、そのサークルの「狭さ」という点においては似たようなものである。現代思想的な話であれば、まだ論理的な話を議論しようという意志のある場合が多いが、オタクが影響関係についてのみ云々するときというのは、論理も何もなく点と点を線でひたすらにつないでいくような作業である場合が多い。その意味でも、きわめてオタク的な作品の影響関係論というのは、どこに帰着しようとしているのか、まったくよくわからない場合が多い。
(もっとも、現代思想の話だって、論理的とみせかけて点と点を線でつなぐような話も多いのだが)

 オタク的な影響関係の「語り」は、どこまでいっても同じところをぐるぐるとまわっている。おそらく、それはつきることがない。
 論理的にものごとを語ろうとするならば、普通は、「あるものがあるものの影響関係にある」というときに、そこで影響関係があるということの意味は何なのか、ということを問いただす。しかし、影響関係があればなんでもいい、という話になっていくと、もうこれは際限がない。意味などなくとも、楽しみは成立する。そして、その楽しみこそが参照点となり議論はどこまでも続いてゆく。

 特に自覚的な一部の人をのぞいて、濃いオタクが「作品の影響関係」について語るというのは、そういうことだと思っている。それは、論理的であるよりも何よりも、作品の影響関係の網の中でまどろむことの悦楽に浸ることなのだ。


 

2006年10月01日

FPSと殺人技術

9月13日にカナダで起こった乱射事件の件について、次のような報道がなされた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060915-00000039-mai-int

<乱射男>ネットに銃構えた写真投稿 死亡原因は自殺と判明

 【ニューヨーク坂東賢治】カナダ・ケベック州モントリオールのドーソン・カレッジで13日、銃を乱射し、学生20人を死傷させ、現場で死亡した男がインターネットのサイトに銃を構えた写真を投稿し、「死の天使」と名乗っていたことがわかった。AP通信などが14日、報じた。また、詳しい解剖の結果、警察に射殺されたのではなく、自ら頭を撃ち、自殺していたことがわかった。

 同通信などによると、男は同州内に住むキンビーア・ギル容疑者(25)。黒いトレンチコート姿でライフル銃を持つ姿を写した写真や自分の名前の入った墓碑の写真などをインターネットに投稿し、99年4月に米コロラド州のコロンバイン高校で起きた銃乱射事件をモデルにしたネットゲームで遊ぶのが好きだなどと自己紹介していた。

 また、「人生はいつかは死ななければならないテレビゲームのようなものだ」「銃を愛する」「黒いトレンチコートを愛する」などの書き込みがあった。事件の約2時間前の時間表示がある書き込みがあり、「クレージーな気持ちだ」「朝からウイスキーを飲んだ」と記していたという。

(毎日新聞) - 9月15日10時59分更新

 銃乱射事件とゲームの関係は前からとりだたされている。マイケル・ムーアは『ボウリング・フォー・コロンバイン』でアメリカ製FPSのことをそれほど問題としてとりあげていなかったが、近年の銃乱射事件には間違いなくアメリカ製FPSがなんらかの役割を果たしていると思う。
 もちろん、それが直接の動機になったとは必ずしも考えられない。この手のゲーム内暴力は、暴力に関する欲望を喚起する一方で、ゲーム内で暴力を働くことでそれがガス抜きとしても機能するという側面が見られる。短期的な「攻撃性」については、上昇する傾向にあるという点が坂本章の研究では言われているが、長期的な影響は正直なところまだ断言は難しい状況だろう。

 しかし、ゲームが人間を殺すミクロなテクノロジーとして機能しているのは確かである。
 『America's Army』という米軍製のゲームを挙げるまでもなく、アメリカのFPSは軍事教育において立派な役割を果たすと同時に、「アメリカの正義」をガンガンと再生産する道具にもなっている。銃乱射事件という無軌道な犯罪を発生させる装置としては機能していないかもしれないが、2001年のアフガン戦争や、2003年からのイラク戦争において、こうしたFPSがアメリカ軍の作成を遂行するのに一定の貢献をはたしてきたであろうことは、もはや事実であろう。ゲームが「犯罪」を増加させているか減少させているかどうかはまだまだグレーだが、「戦争」を遂行するテクノロジーとして機能したことに関しては真っ黒だと言っていい。
 また、アメリカでFPSが「アメリカの正義」を生産しているとき、地球の裏側のパレスチナでは、『Under Ash』というゲームが開発され、パレスチナ人がイスラエル人と戦闘する「パレスチナの正義」を生産するFPSが生み出されている。このゲームは現在シリーズ化され、『Under AshII』も開発されている。
 もちろん、ゲームが戦争を遂行するテクノロジーとなったのは昨日や今日の話ではない。話は数百年前にさかのぼる。将棋、チェスはもちろんだが、18世紀、19世紀において戦争の大局をシミュレートする道具としてボードゲームが使われていたのはよく知られるところである。こうした事情はピーター・P. パーラ 『無血戦争』に詳しい。この本の中では、例えば、第二次世界大戦においては、日本海軍はミッドウェイ作戦の直前に、この作戦のウォーゲーミングを行い、史実とほぼ同様の結果――主力空母群の壊滅――を得たなどといったことも書かれている。

 ただし、90年代中盤以降、『ダンジョン&ドリーマーズ』において扱われている『ウルフェシュタイン3D』『Doom』『Quake』などの3Dのバーチャル空間をリアルタイムレンダリングで動かす技術と供に登場したFPSはこうした、ゲームの歴史とはまた別のイノベーションを引き起こしている。『無血戦争』が描くようなウォーゲームとは、基本的にはボードゲームであり、個々人のプレイヤーには普段はとうてい実行不可能なマクロな戦争技術である。それに対して、米国製FPSが切り開いた戦争技術としてのゲームは、ごくミクロな戦争技術である。このミクロな戦争技術は、デーブ・グロスマン(『戦争における「人殺し」の心理学』)も言うように、個々人の「暴力」を促す装置としても容易に機能しうる。
 実際、コロンバイン高校で銃を乱射した高校生は人の頭を正確に射ったというし、FPS的で身に付けることの可能な人殺しの技術は身につけていただろうと思われる。

 私はこういうゲームが、犯罪に貢献していないのだ、と。世界の悲劇を深めていないのだ、と擁護する気はない。『Under Ash』は即刻開発をやめてほしいと思っているし、『America's Army』のようなゲームもこの世から消え去ってほしいと思っている。(だが、同時に純粋な一人のゲームプレイヤーとしては、これらのFPSゲームが並みのゲームと比べても悔しいことに十分楽しいゲームであることも認める。)
 ただ、しかし、だからといってゲームが悪いものである、とはまったく思っていない。これは、ゲームが、ただ、単に普通のメディアになったのだ、ということだろう。物語を語る文字メディアも、絵画も、音楽も、映画も、インターネットも、今まで強力に戦争に貢献してきたし、ミクロな人殺しの技術としても機能してきた。これらのメディアが戦争や殺人技術に加担してきていなかった、などということを言う人は単に勉強不足である。(※音楽がミクロな殺人技術に貢献してきた、という事例は知らないかもしれない。戦争自体に音楽が加担してきた歴史は大量にあるけれども。)
 ゲームもまた、戦争をする人々の道具となった。ゲームが戦争を引き起こすというよりも、戦争を引き起こしたり、戦争を遂行する人々によってゲームが使われるようになった。もとから戦争の道具としての側面はあったが、改めてまた別の地位を得て戦争の道具となった。
 悲しいことではある。
 もう、ゲームというメディアそのものを全肯定することはできなくなった。

■追記1.
ちなみに、問題となっているコロンバイン高校のゲームはこちら。
http://www.columbinegame.com/
参考http://www.kanshin.com/keyword/367085
http://blog.livedoor.jp/borisgoto/archives/50457815.html

■追記2.
 ただ、今回とりあげられたような
 「99年4月に米コロラド州のコロンバイン高校で起きた銃乱射事件をモデルにしたネットゲーム」が、単に「不謹慎で悪いゲーム」というフレームによってしか語られないのは、とてもバカらしい。不謹慎かもしれないが、それは批評的でもありうるし、政治的でもありうる。わかりやすい話をすれば、9.11を題材にした映画や小説は大量に出回っており、それは政治的、社会的な事件を考えるさせるための「題材」として扱われている。また、9.11をネタにしたゲームも大量に出回ったがそれは、全て「不謹慎ゲーム」として扱われた。本当に不謹慎な感じのするゲームが不謹慎として語られたのはまだしも、マジメにビル爆破解体を遊ばせるゲームであった『ビルバグ』というPS2のゲームまでもが、不謹慎なのではないか、ということを理由に内容に大幅な変更を迫られ発売延期を余儀なくされたということがあった(雑誌『コンティニュー』に詳しい開発者インタビューが掲載されている)。メディアが小説や映画からゲームになったとたんに、どうして単に「不謹慎」というフレームでしかくくられないのか、と。
 当たり前だけれども、9.11を題材にした映画を撮ることは遺族にとって必ずしも心地好いものになるとは限らない。映画が撮られる文脈は理解してくれるかもしれないけれども、親族や友人の死を、一定のフレームの中に回収して語ってしまうことは、いかなるメディアを通したにせよ、それを不快に思う人はいるだろうし、「不謹慎」ではありうる。


 

2006年04月08日

平等・自由・友愛をめぐる言説とそのアーキテクチャ。

以下、書きかけ没原稿。

1. 序

 東浩紀の言う情報社会の二層構造論を、コンピュータ・ゲームをめぐる事例においてどのようにたち現れるかということを論じる。
 コンピュータ・ゲームを語ることとは、単なる趣味の話でしかないとおもわれがちだが、情報社会の到来と時を同じくして爆発的な発展を遂げたこのメディアは情報社会の特質を色濃く反映した嫡子である。


2.情報社会の二層構造

2.まず、東の情報社会の二層構造論について簡単に確認しよう。
 東は、ポストモダンの社会秩序が、価値中立的なインフラ/アーキテクチャの層と、価値志向的で、人間的なコミュニティ/イデオロギーの層に大きく分けて捉えられることを示した。
 この構造はコンピュータ・ゲームの話にそのままあてはまる。
 コンピュータ・ゲームは、一見、無機的なゲームのアーキテクチャにいかに人間的な層を見出していくかということに奔走するメディアであった。これは、コンピュータ・ゲームがもつ、「人間の娯楽としてコンピュータを扱う」という属性から考えればごく当然の帰結であるとも考えられる。たとえば、2001年に『テレビゲーム文化論』(講談社現代新書)を書いた桝山寛は、コンピュータ・ゲームの特質を「対話型のメディア」であるとし、テレビゲームの一つの極端な進化系としてAIBOのようなロボットを位置づけている。また、90年代に日本のコンピュータ・ゲーム市場を席巻したRPGというジャンルが目指していたものは、単純な入出力構造しかないコンピュータ・ゲーム内の人物や物語に対して、いかに人間的な振る舞いをさせていくか、ということでもあった。
 単なるアーキテクチャを人間が戯れるためのものとして作り上げようとしたとき、そこには不可避的に人間的なコミュニケーションの層が立ち現れるということ。まず、このことを確認しておこう。

(※この「アーキテクチャの層から人間的な層が用意される」という構造はコンシューマーゲームにおいては、システムから物語がたちあがるというような、永田えり子[1993]のような話になるが、オンラインゲームにおいては、システムからコミュニティがたちあがる、というような話になる。たとえば魏[2006]。)

3.ででお事件

3.さて、『FFXI』という有名なオンラインゲームがある。
 日本で最大のゲーム雑誌である『ファミ通』に掲載されたこのゲームの攻略記事をめぐって、2003年春ごろにネット上で大きな騒ぎが起こった。
 騒ぎの発端は、『ファミ通』の編集者の一人である「ででお」氏が、『FFXI』をプレイする上で、『FFXI』というゲームのアーキテクチャの中で効率的にプレイするためにはどのような方法が適切なのか、ということを少し荒い口調で主張したことにはじまる。((http://pomum.org/?%C0%D6%A4%C0%A4%B1%A4%AB%A4%CA%BA%C7%B0%AD%A4%CF))

 これに対して2ちゃんねるのなどで『FFXI』について語っていた人々が激怒する。2ちゃんねるで「祭り」として盛り上がっただけでなく、事件の経緯をまとめる「まとめサイト」が登場したほか、『ファミ通』を発行する株式会社エンターブレインの出版物への不買運動も提唱され、メールでの抗議文を送るものや、電話での直接抗議を行うものさえ現れた。こうしたやりとりを経て、この騒ぎが起こった翌月には『ファミ通』本誌に短い謝罪文が掲載されるまでに至る。
 当時行われた電話抗議の内容を、当時のまとめサイト((http://web.archive.org/web/20031008133602/http://www.geocities.co.jp/Playtown-Toys/6058/dedeo.htm))から引用しよう。(括弧内は筆者による補足)

Q.(読者の抗議) (「ででお」氏の主張は)スタイルの強制に思える。もう少し他PCに配慮した記事作りをしてほしい。できれば謝罪やいきすぎにたいする訂正を。 しゃれに受け取らないものもすくなからず読者にはいるはず。

A.(ファミ通編集部からの回答)
紙面の都合もあり訂正をするわけにはいかない。
攻略記事なのだからもっとも効率を重視した戦略、ありかたを考えるとああなった。
自由なスタイルを推奨してしまうと攻略記事のつくりようがない。

 このやりとりは、この事件の構造をよくあらわしている。おそらく、『ファミ通』の編集部のこの回答はごく正直なものだ。ファミ通編集者は『FFXI』のプレイヤーにゲームのプレイスタイルの強制をするつもりはなかっただろう。彼らは、単に『FFXI』というゲームの中での効率的な振る舞いについて議論したに過ぎない。だが、ここで行われた「いかなる振る舞いがこのゲームのアーキテクチャにとって効率的か」という議論は、『FFXI』のプレイヤーによって「ゲームプレイの自由が侵害された」という解釈を得てしまったということだ。
 アーキテクチャの層において言及していたはずの議論が、人間的なコミュニケーションの層において解釈され批判されてしまった。このディスコミュニケーションこそが、事件を大きなものに発展させたといってもよいだろう。


4.示唆

4.この事件は、ともすればネット上で頻発する取るに足らないサイバーカスケードの一種にしかみえないかもしれない。確かに、この事件はメディア環境に浸りすぎたゲームプレイヤーたちの引き起こしたサイバーカスケードであるという側面は存在している。
 だが、これは情報社会における議論のあり方について次のA,Bのような点で極めて示唆的な事例であるといえる。

(A)アーキテクチャ的に最適な振る舞いを素朴に語れない。

 東は、アーキテクチャの層と人間的な層が解離的に成立するということについて言及したが、アーキテクチャの層と人間的な層を成り立たせているものが構造的に強く結びつくコンピュータ・ゲームのようなメディアにおいては、アーキテクチャにおける振る舞いだけを素朴に議論することが極めて難しくなる。アーキテクチャについて議論することが、コミュニケーションに対する弾圧として受け取られてしまうという難儀な性質をかかえている。
 だからといって自由なプレイスタイルについて振る舞いの戦略をあたえるような「攻略記事」を書くことは原理的にありえない。『FFXI』をめぐる『ファミ通』編集者の記事でプレイヤーたちに高い評価を得たのは、いかなる批評的な言辞や、振る舞いの戦略でもなく、ただ単にファミ通の編集者が『FFXI』をどのように楽しんで遊んだか、ということを語った体験日記だった((永田泰大『ファイナルファンタジーXI プレイ日記 ヴァナ・ディール滞在記』エンターブレイン、2003))。そこでは、アーキテクチャについての最適な振る舞いが論じられることはまったくない。

(B)作品=アーキテクチャ自体の質を語らない。

 また、この事件において『FFXI』というゲームタイトルのよしあしというようなことをゲームプレイヤーたちはほとんど語っていない。ゲームプレイヤーたちはゲームそのものについて語るのではなく、「プレイヤー」を語っている。作品そのものは論じるべき対象としては存在しておらず、この事件の議論のなかでは『FFXI』の「作品論」はほぼ完全に背景化され、問題にすらされていない。
 『FFXI』をいかに攻略するか、という議論をするにせよ、『FFXI』においていかなる規範の妥当性を論じるにせよ、そこではプレイヤーのふるまいだけが問題として出てきており、アーキテクチャ=作品の秀逸さはまったく問われていない。((もちろん、この事件の文脈とは別に、アーキテクチャの優秀さを問うようなコミュニケーションも存在している。しかし、作品=アーキテクチャの問題を論じる人々はリチャード・バートル[1996]の分類を用いれば、Killerや、Acheverや、Exploreといったタイプのプレイヤーであり、ここで議論にのぼっているSocializerのようなプレイヤーたちのことではない。))


 A,Bの二点は次のことを意味する。

 あるアーキテクチャにおける最適な振る舞いを論じるということが、コミュニケーションの層/人間の層の最適化へとはまったくつながらず、背景化されてしまうか、もしくはその「敵」として見出されるかという感覚がここには横たわっている。
 オンラインゲームにおけるその他の議論、たとえばRMT、BOT、Cheatの議論もすべて同一の構造をもっている。アーキテクチャに関する議論が、自由で平等なコミュニケーションにとっての「敵」として発見されている。

 彼らは、よくできたアーキテクチャによって強力にコミュニケーションがエンパワーメントされるオンラインゲームという情報社会に住まう。でありながら、アーキテクチャによってコミュニケーションの自由を束縛されるような議論を何よりも強く忌避しているのである。

 人間によってデザインされたアーキテクチャと、人間自体とがここまで強く結びつくメディアを前にして、人々が紡ぎ出す言説のありようは、まさに大きな変遷を迎えようとしているのではなかろうか。


 

2002年03月20日

瀬上梓についての詳細。

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▼ 氏名:瀬上梓(せのうえ あずさ) 

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▼ 生年月日:1981年11月11日
▼ 職業:一応、大学院生
▼ 居住地:神奈川県

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▼ 好きなゲーム:『シムシティ』、『シムズ(=シムピープル)』、『シム・アント』、『シヴィライゼーション』、『伝説のオウガバトル』、『タクティクス・オウガ』、『ファイナルファンタジー・タクティクス・アドバンス』、『ひぐらしのなく頃に』、『ガンパレード・マーチ』、『The Tower』、『シーマン』、『LIVE A LIVE』、『AZEL』、『カオスシード』、『ICO』、『ワンダと巨像』、『Roomania#203』、『MOON』、『L.O.L』、『レミングス』、『ドラゴンクエスト5』、『ファイナルファンタジー7』、『街』、『ヴィーナス&ブレイブス』、『クォ・ヴァディス2』、『サクラ大戦』シリーズ、『英雄伝説6』3部作、『サーヴィランス』、『逆転裁判』シリーズ

▼ よく読む本の著者:上野千鶴子、小熊英二、西村清和、東浩紀、加藤尚武、立岩真也など。

▼ 好きな映画:『A』『A2』、『フルメタル・ジャケット』、『ロジャー&ミー』、『ゆきゆきて神軍』、『オリバー・ツイスト』(2006)、『メトロポリス』(2001)、『Mr.インクレディブル』など

▼ 好きな漫画:岩明均『ヒストリエ』『ヘウレーカ』、武富健治『鈴木先生』、黒田硫黄『茄子』『セクシーボイスアンドロボ』『大日本天狗党』、ゆうきまさみ『じゃじゃ馬グルーミンアップ』、諸星大二郎『無面目』、手塚治虫『人間ども!集まれ』、相田裕『ガンスリンガー・ガール』、こうの史代『夕凪の街 桜の国』、木尾士目『げんしけん』、西島大介『凹村戦争』、滝沢麻耶『リンガフランカ』、よしながふみ『フラワー・オブ・ライフ』、幸村誠『プラネテス』『ヴィンランド・サガ』、宮崎駿『風の谷のナウシカ』、古谷実『シガテラ』『ヒミズ』、加藤伸吉・杉元伶一『国民クイズ』、福本伸行『無頼伝涯』 など

▼ 好きなアニメ:『無限のリヴァイアス』『時をかける少女』(2006)、『攻殻機動隊Ghost in the shell』、『攻殻機動隊Solid State Society』、『攻殻SAC1』『攻殻SAC2』、『アニマトリックス』『かみちゅ!』『電脳コイル』『コードギアス 反逆のルルーシュ』『精霊の守り人』『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』など

▼ 人によく勧める本:キング、コヘイン、ヴァーバ『社会科学のリサーチ・デザイン』、西村清和『現代アートの哲学』、加藤尚武『現代倫理学入門』、上野千鶴子『差違の政治学』、中島敦『李陵・山月記』、アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』

▼ 好きな音楽:スティーブ・ライヒ、椎名林檎、菅野よう子、光田康典、弘田佳孝、崎元仁

▼ 好きな芸能人:藤井隆

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▼ 身長と体重:167cm 53kg
▼ 血液型:A
▼ よく服を買うところ:UNITED ARROWS、GAP
▼ ジェンダーとセックス:いちおう男
▼ セクシュアリティ:ギリギリでヘテロ……だけど、かなりノンセクシュアル気味。
▼ 国籍:日本
▼ お酒:付き合い程度
▼ タバコ:吸いません


(※いちおう、架空の人物です。)