Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―

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2007年01月05日

ゲームに必要な、この長い時間について。

米島:ダリー。すげー、ダリー。いや、何がだるいって、RPGとかやるのが最近、ついにだるくなってきたわけですよ。本当に。この気持ちをどうにかわかってほしい。

瀬上:そうですか。

米島:いや、だってさ、ほら、だるいわけですよ。さすがに、こう、年齢がね、無理だと言っている。年をとったということではないか、と思うわけですよ。さすがに。時間かかるからね、あれ。いやさ、ほらさ、なんていうか、難しいですよ。子供向けの話を大人がやる、というのは。どうしても限界がある。

瀬上:そうなんでしょうか。僕が最近やったRPGは、ドラクエとFF以外だと、『英雄伝説VI』ですかね。テイルズとか、グランディアとか全部にはさすがについていけていませんが、やる時間があればどうにかやれますよ、まだ。

米島:本当デスカ。それはそれで、ある意味うらやましい。だってさ、あれ、やっぱり子供向けではないですか。どうしても。10歩譲ったとして青少年向け。FFやDQは話の種になるからね、まだどうにかなるんだけれども。テイルズとかやったって話の種になりゃしねぇ。

瀬上:それは、作品内容の問題ではなくて、米島さんの属しているコミュニティの問題なのでは?作品を遊ぶということは結局、作品の内容によりそっているわけではなくて、作品をめぐるコミュニケーション――それを、批評と読んでもいいですが――を行う他人との相互行為の中で楽しんでいるということの告白のように聞こえますが。

米島:いや、それは…そうなのかなぁ。そういうことなのかなぁ。でもさ、正直、社会人となって忙しくなってくるとさ、可処分所得は圧倒的に増えるわけだけれども、可処分時間はおそろしいほどに減るわけさ。わかるだろうさ、みんな。これはけっこう、どうしようもない事実としてあるわけですよ。
 するとね。学生時代とかはさ、ウォッチャー的に遊んでたものとかをさ、別に話す相手がいなくても、ウォッチャーとしてやる、というモチベーションを保ち得ていたわけさ。それがさ、社会人になると、どうだ。忙しいのなんの。…いや、まあ、俺がいわゆる一つの過剰労働なのかもしれないが…それは置いておくとして、だ。
 そうなると、どうしても余暇時間になにをすべきか、ということにどうしてもプライオリティをつけたくなるオレとかがいるわけですよ。どうしても。
 すると、開けてびっくり、あらビックリ。ゲームのプライオリティの下がること下がること。急激ですよ、そらもうあなた。
 もうね、本当に、時間のかかることが嫌になる。スローフードとか言ってる連中は、このスローエンタテイメントをどう思っているのか知らないが、ゲームは、マジでスローだと思うわけですよ。はい。10時間やったあげくに、大変に類型的な話とかがみせられるわけじゃないですか。じゃないですか。
 これがもうだめ。耐えられなくなりつつある。

瀬上:そうなんですか。しかし、昔は、米島さんは「むしろ、10時間をかけること、というのが重要なんだよ。チミィ!」とか言ってませんでしたか?
 話自体の水準がたとえ類型的であったとしても、それまでの10時間に自分の時間を賭しているということそれ自体が、物語の強度を支えているのだ、ということを持論として展開なさっていたような記憶があります。
 僕は、いまだに、その頃に米島さんが言っていたことはそれはそれで十分に真実だと思っています。登場人物たちの台詞がいかに類型的であり、シンプルなものであったとしても、そこにたどり着くまでに払われている時間の中には、キャラクターたちと、プレイヤーの間に、何度も繰り返される無数のコミュニケーションの時間が大量に支払われているわけですよね。その濃密なコミュニケーションの時間を成立させることは、リピート、すなわち「リセット」の可能なゲームというメディアの中でこそ成立している時間感覚です。そして、それこそが、ゲームというメディアのもっている物語経験の優越だろうという議論ですね。もっとも、これを「物語」と呼ぶべきかどうかは議論のあるところかもしれませんが、こうした経験を与えることのできるメディアとしてのコンピュータ・ゲームはやはり、偉大だなぁ、と思います。
 それは、この前プレイした『英雄伝説VI』でも僕は濃厚にそのことを感じていて、たとえば、ゲームの中で、少しシナリオが展開されてゆくごとに、一連の新聞を1号~10数号まで購入することができるのですね。しかも、新聞記者の人とのコミュニケーションもゲームの中では展開されます。で、新聞が発行されるごとに、新聞記者の人との間でそれまでやってきたコミュニケーションが、新聞の活字という形で総括されてゆく。細かで、不確かで動的でローカルな相互行為が、静的でパブリックな一方向メディアによって形を与えられていく感じが、非常におもしろい、すばらしい作品でしたね。ゲームのシステムは普通でしたが、積み重ねてきたコミュニケーションを、ある時点でグイッと引きつけて転換させてしまうことの面白さというようなことを、とてもよくわかった作品だったという気がしていますね。

米島:なるほどね。やってないけど、なんかいい作品だったわけだね。そのメタメッセージだけは伝わったよ。そして、瀬上くんがいまだにRPGに飽きていない、ということもよくわかった。それはむしろ世間的にはマイナーですごいことだと思うわけだけれども、とりあえずそういうことだ。
 で、ね、オレも、瀬上くんが何か抽象的に言っていることはわからなくはないですよ。決して。そもそもオレも前に似たようなことをドラクエを肯定するための議論として言っていたわけで。それはそれで、その通りでしょう。ええ。
 しかし、ここで瀬上くんに聞きたいことは、だ、ぶっちゃけ、英雄伝説は全肯定とかできたりするわけでしょうか、ということですよ。

瀬上:全肯定というと?

米島:何の留保もつけずに諸手をあげて、それを肯定できるかどうか、ということですよ。たとえばさ、映画ならば『シティ・オブ・ゴッド』と、『グッバイ・レーニン』はオレは何の留保もつけずに全肯定とかしますよ。マジで。これがわからないやつは、むしろ、鑑賞するための間口が狭いところに固定化されてしまっている可愛そうな人だ、というようなことさえ思ったりしちゃいますよ。たいへんに文化的な差別を孕んだ発想だということは承知していますけどね。まあ。でも、しかし「わからないやつが悪い」とか言うテンションが成立しちゃうわけですよ。マジで。
 しかし、RPGでそれを言えますか。君は、という話をしたいわけ。それが、むり。なんていうか、むり。『タクティクス・オウガ』ですら、『カオスシード』ですら無理です。PC的に、ええっと、Player Character(プレイヤー・キャラクター)的な問題はよく考えられたものであって、Political Collectness(政治的な正しさ)的な問題としてはかなーりあやうい話とかが山のようにあるわけじゃないですか。

瀬上:ポリティカル・コレクトネスですか。まあ、その表現にはとてもアメリカ的なところがあってどうかという表現ですね。ましてや、芸術をめぐる話としては、芸術に対して、政治的、あるいは道徳的に「コレクト」であることを強要するのは、いかがなものかという、基本的な話がありますよね。エンターテイメントに適用される基準が、芸術なるものに適用される基準とは別だという一般的な意識も世の中にはあるわけですが。

米島:いやいやいやいや。PCという表現が嫌いなのは、いいとしてさ、オレがいま、言いたいのは、そのことではないのよ。じゃあ、まあもう少し表現をやわらげるとすれば、あまりにも、素朴でぽかーんとするような発言とかあるでしょ。ミソジニー(女性蔑視)とかホモフォビア(同性愛嫌悪)的なもの、あるいは政治思想的な話とか、戦争の話とかそうなんだけれども。まあ、コレクトネス、というか、あれだなあ、教養が明らかに欠如しているのではないかと思われる雰囲気の何か。

瀬上:ああ、おっしゃられていることはわからないではないです。日本のサブカルチャーが教養の欠けたものだとはまったく思いませんけれども、ある種の教養がまとめて抜け落ちたままでもある程度、維持できる場所ではありますからね。
 たしかに、あまりに素朴な女性/老人/子供といったものに対する扱いやら、政治制度に対する議論やらがありますね。あれは、さすがに少しげんなりするところが、なくはないです。『オウガ』シリーズと、『カオスシード』は問題ないと思いますが、『英雄伝説VI』だと確かにそこは厳しいものはあります。国家なるものについて語るわりに、近代国家なる概念についての基本的な教養があまりに欠如している感じがありましたね。むしろ、僕はその欠如からくる素朴さが、おもしろくすら感じられましたけれどもね。

米島:それは、ウォッチャー的に、ということでしょ?やっぱり時間があるんだよ、瀬上くんは(笑)
 そのさ、サブカルチャーの世界においてある種のステレオタイプがまんま許されているというのは、一つは、1941年生まれの巨人である宮崎駿と富野由悠季といった人々の責任じゃないかと思うんだよね。もっと言ってしまえば、手塚の責任じゃないかと思っていてさ、宮崎は手塚に強烈なコンプレックスを抱いて青年期をすごし、富野はさっくり虫プロに入っているわけですが、で、彼らは同時に60年代の左翼的な世界にも強力な影響をうけている。もっとも、そこらへんの影響関係をそこまで詳しくわかっていないけれど、彼らは女性をめぐる話とかの認識に関しては、せいぜいリブのような過激な女性運動あたりで打ち止めでしょう。もう少し理論的なフェミニズムの話とか知らないだろうし、そこに意識がはたらいてないんじゃないか。やっぱり。で、手塚とかも、『きりひと讃歌』(1968)とかをみてると女性描写はかなり厳しいですね。ってか、オレの記憶だと手塚の世界で、レイプが非人道的なものとしてきちんと描かれてるのって手塚末期の『陽だまりの樹』(1981~86)の描写ぐらいで、あとはけっこう、男のはけ口みたいにして、女性を犯すようなろくでもない描写が多いでしょ。
 で、さ、そういうところとかさ、けっこう「どうでもいいもの」として許されてきちゃってるんだよね。ありえないことに。本当にありえないと思うのだけれども。そこらへんは、斎藤美奈子が『紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』(2001)で、とっても快調にまとめてくれてるけれど。とにかく、サブカルチャーってさ、やっぱりかなりの部分は子供向けだからさ、ステレオタイプで許されてしまうと、読者からの批判は期待できない。クリエイターが努力してないとは思わないけれども、そういう批判の機能しがたい悪い場所になってしまっているのではないか、と思うわけですよ。
 で、そこで生産されるものはどうしても、一定レベル以上の教養を身につけた層からすれば厳しいものが再生産され続けているという気がしてならんわけです。

瀬上:米島さんがおっしゃっているのは、サブカルチャーというよりも、子供向け文化の問題ですね。確かに、その指摘は半分あたっているとは思うのですが、そもそも、宮崎駿は一部のフェミニストからはむしろ支持がありますし、半分は外れているのではないかと思います。
 米島さんは、批判、あるいは批評ということが機能する場所、ということをおっしゃりましたけれども、それは実はものすごく高度な条件を必要としているものだと思うのですね。たとえば、美術評論家の椹木さんは、まさにいま米島さんがおっしゃった「悪い場所」という表現でもって、日本の美術界への辟易を示されていますし、批判的、批評的なものがある程度まで恒常的に機能する場所というものをつくりあげることはとても難しい。その意味で、日本のサブカルチャーを米島さんのおっしゃるような意味で悪い場所だといってしまうのには僕は警戒を覚えますね。もちろん、個別の議論には賛同しますし、斎藤美奈子『紅一点論』の議論は確かにおもしろい。だけれども、それは個別の議論であって、それがサブカルチャーそのものから離れたくなるほどに致命的な話かというと、それはないです。
 そういう話でいえば、日本のサブカルチャーだけじゃなくって、世界のそこらじゅうにある、どういう文化であっても、嫌いになれてしまう。たとえば、僕は現代美術の界隈で政治・社会・経済をめぐる議論がされるとき、ほとんどの場合その基本的な想像力の乏しさにどうしようもないものを感じますね。

米島:いや、違う。そういうことじゃない。「嫌いになる」ということじゃないんだよ。
「好きになれるか」。「時間を投入できるか」ということなんだよ。したい話は。
たとえば、いま、『グッバイ・レーニン』のすばらしさを全力で訴えろ、といわれたら、それはできる気がするんだよ。でも『ドラゴンクエスト』を一から十まで全肯定することは、どこか無理がある。もちろん、『ドラゴンクエスト』はすばらしいし、肯定されるべき部分、語られずにおくのがあまりにも勿体ない部分は死ぬほどたくさんあるんだよ!それは!
 でも、『ドラゴンクエスト』を『グッバイ・レーニン』と同じ水準で評価できるか、と言ったらそれは無理ですよ、と。もっと、陳腐な例で言えば『ドラゴンクエスト』と『シンドラーのリスト』を同列で並べて語ることはやはり可能ではない。『シンドラーのリスト』は全肯定しないけれどさ。まあ知名度でこの例を挙げるけれども。

瀬上:なんとなくわかってきました。それはつまり、政治的な言説とかを紡ぎだせるかどうか、という問題ではないでしょうか。米島さんがおっしゃりたいのは、「オレは戯れだけではもう無理だ」という話のように聞こえます。コンサマトリ(自己充足的)なものだけで生きていくことは苦しい、という自己表明のように聞こえますが。

米島:それはそうなのかもしれない。大変、率直に言ってしまうと、社会的な問題と完全に切断されたところでだけ、戯れていることができるというのは、すごいと思うよ。オレには、それはできない。難しい。無理だ。
 「政治を語ったり、社会を語ったりするのが、かっこいい」という言葉のファッションの問題じゃないんだよね、それは。そうじゃなくて、「政治や社会から、徹底的に断絶されている場所」に何十時間も身柄を投入し続けられることが、むしろすごいと思うんだよね。社会的なフィードバックから完全に無縁な閉じた場所に何時間も居続けることがすごいと思う。

瀬上:それは、いわゆる「萌えフォビア」の話ともつながるのかもしれませんね。ただ、社会的なフィードバックから「閉じている」ということは、どうでしょうね。閉じているということを、言葉にしてしまった瞬間にそれは、閉じたもの、として再定位することが可能になる。

米島:ああ、はい。たしかに、社会的なものから閉じられたところにいることを、あえて自覚することで、そこに「断絶することの価値」のようなものを肯定的に見いだすとかって論法はありうるだろうね。
 たしかに、そういうことを言っている人は出てきているし、それはそれで何がしかのものになるのかもしれない。でも、オレはいまのところはやはり、そういう言説とかって心の底では信じられていなくって、たとえば、ドラクエを社会的なものとして語り直すことはかなり無理矢理感の漂うことだと思っているわけですよ。それこそ、そんなことやってたら「やーい、カルスタ野郎」とかって、石を投げられかねない気がしてしまう。前にカルスタ以前というか、志田さんが『ヴィーナス&ブレイブス』を小泉政権批判だとかってムリヤリ語っていたけれども、ああいうのはさすがに説得力を欠くし、無理がある。『Mr.インクレディブル』は痛烈なブッシュ批判になっているけれども。

瀬上:もちろん、そんな風にして、政治的なもの/社会的なものとしてドラクエ単体を米島さんが「ムリヤリ」語る必要はないのではないでしょう。いまのところ、ドラクエ単体、というよりも、ゲームという消費行為の全体を、消費社会論的に語るという方向性とかはある程度まで成功している気がしますが、僕らはたぶん、そういうことはあまりできない気がします。だから、僕は、ドラクエを語るならば、ドラクエもっている技法の問題を語るというのが一つありうるのだろうという気がしているのですが。

米島:いやー、瀬上くんのそれも対外に、開き直ったオタクという感じがするんだよね。映画オタクがオーソン・ウェルズ『市民ケーン』を褒めているのを聞くのは、非映画オタクにとっては何をいっているのやらさっぱりわからない技法をめぐる称賛に満ちてるわけだよね。たとえば「パン・フォーカスがうまい」だの、「プロットとシナリオをつなぎ合せる省略の技法が云々」という話とかをするのが奴らは大好きなわけだけれども、映画の技法に興味をもったこともなければ、興味を持とうという気もない人間にとっては、ああいった言辞を弄することの価値ははっきり言って理解不能でしょう。ああいった議論が、映画オタの外側に対してはどうやって機能しうるのか、と。

瀬上:なんだか、今日の米島さんはえらいネガティブですね…。なにかあったんですか(笑)?
 まあ深くは追求しませんが、米島さんがRPGをやらない、という理由は、結局のところ、好きになれるかどうか、という話と批評可能かどうか、という問題がリニアーにつながっている気がしますね。時間がかかるという問題は、そのダメ押しみたいな感じがします。

米島:いや、何もないさ。何もないかな?かな?
 仕事がクソ忙しくて、三ヶ月間土日がない。とか、クソ忙しいのに、人に断りもせずに問答無用でヘビーな仕事を入れられてたりとか。信頼を失うかどうかぎりぎりのスケジュールで仕事してるところに、意味不明のわがまま言ってくる奴がいるとか。二つぐらいデスマーチを同時に抱えてるとか………そういうことはまったくないさ!ああ、ないとも!正確にいえば、それが日常化しているので、それは「事件」ではない、というべきかもしれないけれど…。
 とにかく、まあ、そんな感じで、引き籠もりニートな精神とは乖離しつつ社会生活を送ったりしているオレがいたりするわけですよ。引き籠もりニート的な生活をしているときならばRPGの一つや二つ…
 まあ、とにかく、社会生活が忙しいわけです。どうにかしてほしいわけです。仕事に関係のないところで莫大なエネルギーは浪費できないわけです。ヨ!

瀬上:それは、話が前に戻っているので…話を戻すと、米島さんは、(1)社会的/政治的な話に接続可能で、(2)全肯定できそうな何かであれば(3)RPGというジャンルであっても、いいのではないのですか?

米島:それはそうなのかもしれない。そういうものは数年に一度もあるかないかでしょう。やはり。

瀬上:僕は、そこらへんは『ひぐらしのなく頃に』が存在していることで、オールOKですけれどね。

米島:その作品チョイスはやはり、瀬上センセイのオタク化が危機的に進行しているということのように思えるのですが……。本人目の前にして言うのもあれですが、『ひぐらし』のあのオタくさい…というか、オタ以下の絵でプレイできることが、何かの立証になってるように思うけれどね。だってあれ、田舎の高校で戯れることの幸せを味わう作品とかでしょ?ムリムリムリ。圧倒的にムリ。
 瀬上はオタクで、米島は究極的にはオタクではない。というそういうことではないか、と。あるいは、オタの世代論的な話かもしれないけれども。

瀬上:いや、それは単に『ひぐらし』をやっていないだけですよ。『ひぐらし』はそういうものを遙かに凌駕して非常にすばらしい。やってみれば、この作品がいかに社会的なものにも接続可能か、ということがわかるはずです。認知限界や、自由意志といった古くて重要な哲学の問題と、ゲームとは何か、戯れとは何かという我々が手にしている問題がこの作品では見事に接続されていますよ。本当に、これをやらないのは勿体ないですね。ひぐらしを最後までやって、それでも一辺の価値も認めない人を僕は想像ができませんからね。

米島:いや、それは本当にそうなのかもしれないけれども、そういう語りをしてしまう、ということ自体が、気まずいと思うんだけれどね……。まあ、そんなに言うのであれば、『ひぐらし』をやってみますわ。あれは何でやればいいの?

瀬上:絶対に、PC版ですね。アニメ、漫画はもうまったく別のものだということで。

米島:そう…わかったわ…。じゃ、ま、もう、忙しいので、今日はこのへんで…ではでは。

瀬上:では。

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