ゲームの要素を、現実のさまざまな活動に応用していくこと。 広い意味では、その応用のすべてを指す。 より狭い文脈では、2011年前後に生じてきた主にアメリカでの「ゲーミフィケーション関連ITベンチャー」企業を総括する概念である。ただし、日本においては、そのインパクトはいまひとつ生じていないため、概念だけが導入されている。
とりあえず、良く聞かれる質問については、FAQを別途、書いたので参照されたし。 http://www.critiqueofgames.net/2012/08/faq_1.html
もう少しだけ詳しく知りたい方は、拙著『ゲーミフィケーション』(2012)を。 ただ、本のなかもまだ入門的な範囲なので、 より、詳しい情報については、英語圏の状況をウォッチしていただければと思う。 なお、当概念は、さまざまな経緯があって、筆者(井上)と、株式会社ゆめみの深田さんが、国内でのエヴァンジェリスト的な立ち位置になっているため、下記は、個人的な感想のようなものになるが、少し書いておきたい。
さて、 2012年現在、この言葉はIT業界のバズワードとして扱われているわけだが、 個人的には、ゲーミフィケーションは、ウィリアム・モリスが19世紀にやっていた生活と芸術を一致させようとする「アーツ・アンド・クラフツ運動」のようなものだと思っている。ウィリアム・モリスの運動は、いまや「モダンデザイン」を成立させるきっかけになった大きなものだが、運動当初は、はっきり言って、意味がわからなかっただろうと思う。 いまでも、アートとデザインの違いについては、興味のない人にとってはなんのことやらまったくわからないものなわけで、縁遠い人に理解されるかどうかはわからないが、50年ぐらいしたら、いつの間にか社会の中に根付くものとして成立していればそれでいいのではないだろうか、と思っている。 これは一義的には「運動」なので、「運動」のなかでは、定義を行ったり早急な<学問化>が逆機能を起こしてしまうこともあるだろうと考えている。「正しいゲーミフィケーション」などないのだし、ただ単に運動として機能すればいいのではないだろうか。 海外で、かつては、私と非常に似た立ち位置だったはずのIan Bogostが、ゲーミフィケーションに対して、批判的なことを書いている(http://bun045.wordpress.com/2011/08/14/byi/)が、それに対する再批判は、いろいろなところで喋らせていただいているが、もう一度書いておこう。
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料理にたとえていえば、 今のアメリカのゲーミフィケーションというのは、要するに料理の調味料を売っている調味料商人みたいなもんである。「いい調味料ができました!これを使えば味付け簡単!あなたのリアリティが大きくかわる!」と宣伝をしている状況に近い。BadgevilleやBanchballは、単に使いやすいゲーミフィケーションのツールを売って成功しているというのに過ぎない。 一方で、Bogostの批判は、「砂糖ぶっかければ料理がおいしくなるとか、貴様はアホか!料理はもっと複雑な手順や加減が必要なんだよ、ばーか」と言っているように聞こえる。 それはまったくその通り。
だが、私の立場、「良い調味料は、良い調味料で、やはり価値がある。その調味料だけで料理ができないのであれば、レシピ集でも作ればいいじゃない」という感じ。 トライアンドエラーで、いろいろな人々が調味料が使えるかどうかを試せばいいのであって、調味料商人の宣伝がうさんくさいかどうか、というのは調味料そのものの価値を下げるわけではない。胡椒商人が、たとえ、「胡椒は万能の調味料!」と誇大宣伝をしたとしても、胡椒の美味さはある。万能の調味料ではなくとも、極めて価値のある調味料であるには違いない。 では、どうしたら胡椒のうまさが、もっとも良く活きる料理を作れるのか、ということこそが重要で、そのためには、トライアンドエラーの数を増やせばいい。何も、とにかくイケイケドンドンで特攻隊をやれ、というのではなくて、可能な範囲でMVP(ミニマム・バイアブル・プロダクト:最低限なんとかなる製品)みたいなものを作って、探索的にまわしていけばいいわけで、新しいものを作る、というのはそういうプロセスだろうと思う。
この話はとにかく、いろいろと誤解が多い。 まあ、でも誤解が多いのも、「運動」が広がっている、ということだろうとは思う。
運動として、うまく多層的/多面的に展開していければいいな、と思っている。