なぜ、コンピュータ・ゲームはこれだけ世界的な普及が可能になったのか。 おおざっぱに議論を整理すると、技術の変化、社会の変化、歴史の発展といった変数に注目した三つの仮説に整理できるだろう。
A.コンピュータとゲームの親和性 †
もっともわかりやすいものは、コンピュータという機械の持つ特質と、ゲームという行動様式が持つ特質の親和性を指摘するものである。 一つは、「ルールとコンピュータ」の関係性への着目である。コンピュータはルールのロジックを遺漏なくうつしとることができる。これはゲームの複製技術…とまはいわないが、これがゲームの大衆化を可能にした。 *1 そして、もう一つ、1960年代にコンピュータの発展の中心にいたハッカーたちにおける「ゲームをつくること」と「コンピュータシステムを改良すること」との両者の動機が地続きであったということを指摘するものである。ノイマン型コンピュータ上での世界初のシューティングゲームである「SpaceWar!」*2の作者の一人であるアラン・コウトクはW3C副会長であり、世界で最初のアドベンチャーゲームである「アドベンチャー」を書いたウィル・クラウザーは実はARPANETの技術者である。現在でも、時代を象徴するような優秀なハッカーたちにプログラミングを促した動機がゲーム・プログラミングであったという事例は数多い。 *3
B.ポストモダン社会とのゲームの親和性 †
東浩紀は、現代の情報社会を二層構造で捉えることを提案する。*4東によれば、ポストモダン社会は人間的な欲求の回路と、動物的な欲求の回路とが分離しそれがゲームの消費構造に反映されている、という。 以下、私なりに言い換えると、前者はMMO的なオンライン・コミュニティに参加することによってゲーム世界内での社会性を獲得する欲望へとむかったり*5、あるいは桝山寛*6が指摘するような「コミュニケーション」の欲求を満たすツールとして発展し、これは『おいでよ どうぶつの森』の大ヒットのようなものを生み出している。 後者は、逆にコミュニケーションを極力まで縮減し、コミュニケーションの単位を最小かするようなFPS的なあり方や、記号的に「萌え」のデータベースの中で戯れる現代日本のオタク的な消費形態を生み出す*7。
#この解説は、参考:東浩紀+濱野智史ほか『InterCommunication』No.55 Winter 2006「情報社会を理解するためのキーワード20」の「ゲーム」項目
C.高次のコミュニケーション・メディア説 †
Ricard.D.Duke『ゲーミングシミュレーション:未来との対話』では、ゲームという形式が、テキストによるコミュニケーションや、声によるコミュニケーションを越える高次のコミュニケーション手段として捉えられている。 この観点を下敷きに、進歩主義史観的な発想にたてば、コミュニケーションメディアが、小説/新聞のような文字メディアから、ラジオのような音声メディア、そして映画のような音声と映像を備えたマルチメディアへと発展してきたここ数世紀の歴史的発展の頂点に、ゲームというメディアの到来を据えることができる。
テキトーな図式。 †
なお、以下は2005年の9月頃になんとなく盛り上がって描いた図。「コミュニケーションの次元から」とかって書いているのは、いわゆる「言ってみるテスト」みたいなもんです↓
*1 →参考:[外部リンク] hally「classic 8-bit/16-bit Topics」ゲームのなかのモダニズム http://d.hatena.ne.jp/hally/20051213
*2 http://www1.odn.ne.jp/beni/game/taka_2/spa_war.html を参照。SpaceWarsのことではない。
*3 →参考:水越伸『新版 デジタル・メディア社会』2002 岩波書店、山根信二,馬場章「アプリケーションソフトウェアのビジネスモデルの起源:黎明期のホビイスト市場に注目して」2004『電子情報通信学会 技術研究報告』Vol.104, No.343,SWIM2004-10. pp.7-12
*4 →東浩紀 「ポストモダン 情報社会の二層構造」2005 http://www.glocom.ac.jp/j/publications/journal_archive/2005/09/9.html [外部リンク]
*5 →リチャード・バートルのいう「Socialiser」的なプレイスタイル。
*6 『テレビゲーム文化論』2001 講談社現代新書
*7 東浩紀『動物化するポストモダン』2001 講談社現代新書