数値表現の問題(数のコミュニケーション)と、テキスト表示の問題を嫌うゲームのあり方をまとめて「テキストレス」と呼ぶことにする 文章や数値を用いないこと。アクションゲームなどでは珍しくもなんともないが、RPGやアドベンチャーゲームにおいては『ICO』『L.O.L』などがある。また、近年の売れ筋の和製RPGでは、人がベラベラとしゃべるが、80年代のRPGでは記憶容量の乏しさも手伝って、しゃべるということがあまりなかった。
文章や数値表現はなぜ、嫌われるか †
文章や数値による表現を行うか行わないか、は、コンピュータ・ゲームにとっての一つの肝であると言っていい。なぜか。 簡単にいえば、その空間が「ゲームであること」を伝える手段として、文章や数値の表現は存在しているわけであるが、それはゲームをゲームとして成り立たせる一方において、ゲームをゲームでしかない、と認識させるものともなり得てしまう。「数のコミュニケーションなど嘘くさい!」という立場である。
『ICO』などでは、その徹底ぶりは激しく、HPを排除した結果として「一緒にいる女の子がさらわれるかどうか」がHPの役割を果たし、ヒントを出され方も言葉によるのではなく、ヒントとなる場所がゲーム内の登場人物によって指し示されるだけだった。 『ICO』がこうした形に落ち着くまではかなりいろいろな困難を乗り越えている。通常の手段である、数値や文章によるゲーム状況の表示をまったく行わないことは、ゲームをゲームたらせるためにはかなりの茨の道であるといえるだろう。たとえば『ICO』の次回作として制作された『ワンダと巨像』はテキストや数値による表現が極力抑えられてはいるものの、右下に小さなメーターを付けざるを得なくなっている
状況の構築 †
では、テキストレスの表現を目指すことはコンピュータ・ゲームというメディアの特性とはまったく親和性のないことなのかというとそんなことはない。 むしろ、1970年代や、80年代のコンピュータ・ゲームにおいてはテキストレスな表現こそが支配的だった。そして、当時は、テキストレスであることこそがゲームの感動を作り出していたといってもよい。あるゲームプレイヤーは『ドラゴンクエストII』の感動を表して「テキストなどなくともこれだけ強い感動を得られるということに驚いた」と言っている。 このゲームプレイヤーが感じているのは、粗く言ってしまえば、ゲームという経験が映画や、小説とはまったく別の経験に裏打ちされている、ということだが、より具体的にいえば、リピータブルであるがゆえの、繰り返しの日常生活の表現や、経験の積み重ねによる感情移入の成立といったことをこのプレイヤーは感じていたのだろう。
生活表現 状況主義