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パフォーマティブ/コンスタティブ

 パフォーマティブ/コンスタティブ、という区分は発話行為論で知られる20世紀イギリスの哲学者、ジョン・ラングショー・オースティン(John Langshaw Austin)によるもの。パフォーマティブとは行為遂行的な発話のことであり、コンスタティブとは事実確認的発話のことである。
 コンスタティブな発話とは、何かしらの事実/事態についての発話であり、真か偽かを判断することが可能なものである。たとえば「私の生物学的性は男である」という発言は、話者である「私」というものの指示の対象が確定できる限りは、その発言の真偽を確認することが可能だ。オカマタレントである前田健がこの発言をしたのならばこれは真であり、和田アキ子がこの発言をしたならばそれは偽である。
 一方、パフォーマティブな発話とは、その発話事態が状況を変化させる言葉であり、真偽による判定はできない。たとえば「おじいちゃん、ジュース買って!」という子供のおねだりは、この発話事態の真偽を確認することはできない。

 ただし、「私の生物学的性は男である」というコンスタティブな発話が、パフォーマティブな側面を持たないわけではない。あらゆる文脈から断ち切られて発話がなされる、ということは現実の状況では考えにくい。前田健や、和田アキ子が「私の生物学的性は男である」という言葉を発したら、その言葉の真偽を機械的に判断することで終わるのではなく、話者がその発言をすることに一体どういう意図をこめたのか、ということを考えてしまうだろう。そして、その発言の聞き手は、発言に対して何かしらの態度決定を行うはずである。たとえば「和田アキ子も、ついに自分が男であることを認めたか(笑)」とか、「前田健は、女になりたいってことを暗に言っているわけ?」とかといった反応を示すはずである。

批評のパフォーマティブな価値。

 「批評」という行為はしばしば、コンスタティブな行為だと了解されることが多い。
 だが、批評や学問といった営みの中で行われる記述や発言も、一般的な発話行為と同じく、パフォーマティブな側面を持つ。
 たとえば、「映画とは何か」という問題を考え抜き、非常に説得的で専門的な議論を積み重ね、100人ぐらいの専門家に読まれるような議論をする。これはきわめてコンスタティブな評価をめざした発想である。
 一方で、「映画とは××だ」と半ば暴力的に言い放つことによって、広く論争を呼び、その論争自体に感化された映画の制作者たちによって「映画」の定義を揺るがすような作品を作られたとする。その場合、「映画とは××だ」という発話は、その真偽や妥当性はともかくとして、言及の対象となる「映画」のあり方自体を変化させている。一見、真偽についてのコンスタティブな発話をしているように見せかけつつ、その実パフォーマティブな役割を果たしているのである。この時こうした発言は、パフォーマティブな価値を持っているといえよう。

 この二つの違いに自覚的でなく、かつ異なる立場の者が話をするとケンカになることが多い。コンスタティブな議論の価値を信じる者は、ひたすらパフォーマティブな――ある場合にはしばしば暴力的な――議論を繰り返す者に対して「いいかげんなことばっかり言いやがって!このバカ!」と批判する。一方、パフォーマティブな振る舞いの価値を信じる者は、ひたすらコンスタティブな議論を目指す者に対して「部屋にこもって議論してたって、何も変わりやしないだろ!てめえが、議論してる間に、議論の対象自体が変わるんだよ、バカ!」と批判する。
 メディア露出の多い批評家は、批評の持つパフォーマティブな役割に対して非常に自覚的にふるまっていることが多い。いや、批評がパフォーマティブなものであることを意識しているからこそ、彼らはマスメディアの中で積極的に発言を行うのである。

観察?
語りの非対称性?
システム論?
コミュニケーション?


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最終更新: 2007-02-20 (火) 00:51:44 (3777d)