この項目を詳細に記述するととても大変だけれども、気が向いたときにちょこちょこ書いていきます
ゲームの成立条件としてのルール †
ルールは、ゲームがゲームとして成立するために必須の要素だと考えられている。 形式面からゲームという概念を規定する場合、「ルールの存在」が必要であることは、まあまず合意がとれていると思って問題なかろう。何をもって「ルールが存在している」ということを認めるのかというのは、なかなかめんどくさい議論を孕むが、そこに関しては「ルールがある」と「ない」がはっきりと分かれるとういものではないだろう。「はっきりとある」「なんとなくある」「あるような気も…する」「ないっぽい」といったようなグラデーション状のは理解のほうが、ベターだろう。「なんで、グラデーションなの?」というのは一次的現実におけるルールの構成…みたいな話ところ後述。
で、もっと論争的なのは「ルールの安定性」の部分になる。ルールの「安定性」がどこまで強く維持されるべきか、というの「安定すべき」派の人も多いけれども、安定性がなくても、「プレイヤー間のルールについての合意」あるいは、「ルールの合意を成立させる仕組み」があればいいのではないか、という見方も説得的なものとして存在している。安定性が不要で、合意の形式だけあればよい、ということはたとえば、「ノミック」のようなゲームをやったことのある人だと一発でわかる。ノミックというのは、最初に数少ないルールが定められており、ゲームの中ではプレイヤーの発案によってどんどんとルールが書き換えられ、勝利条件や終了条件も書き換えられる。勝利条件の設定によってはゲームじゃない何かになってしまうような展開もみせるが、とにかく「ノミック」はルールの安定性はないけれども、ルールの合意の形式だけは存在している。 また、ゲーム理論系だと、共通知識(Common Knowledge)の成立をめぐる議論がかなりいろいろとやられているようで、Common Knowledgeの成り立ちとゲーム理論の想定するようなゲームの成り立ちが繋がっていて云々…といった話もあるらしい。細かく知っている人がいたらおしえてください。
一方で、「ルールの合意」のメカニズムがなかったとしても、「ルールの安定性が信じられている状態」が実現されていれば、ゲームが成り立つという見方もなりたつ。すなわち、ルールについて充分に知っている人間はいないが、ルールは一定の仕組みをもっておりプレイヤーが行動すれば安定的なルールに従ってプレイヤーの行動が評価されるようなもの、はゲームとして成り立つ。有り体にいえば、「取説みずに、いきなりコンピュータ・ゲームをはじめるプレイ」なんかが、まあだいたいそんなような状況だと考えてよいだろう。 また、最低限必要とされるルール、の中に「勝利条件/終了条件」とかを入れ込もうと考える人達も多いが、それは「ゲーム」概念を、終了するメカニズムとして把握したいのならばその条件を入れればいいし、特にそのように把握する気がないのならばその条件は入れる必要がない…というようなトートロジカルな話になってくる。そこのところは勝利をめぐる問題のところで、どこかのタイミングで詳説するかもしれません。
まあ、ぐだぐだと書いてしまったけれども、基本的にはゲームの成立条件としての「ルール」の必要性云々の議論は、形式論的なレベルからの議論をしようと思うと、あんまり細かい話をしようとしてもけっこう不毛だと思ってもらえればいい。 基本的には、「ルールはないとねぇ」という以上のことはむずかしい。ゲームの成立要件問題は、認知論とセットでやらないと意味がないので、細かくはゲームの認知的側面との相性問題でしかありませんね、というところにおちつく。 ゲーム的認知=学習説の観点からいえば、適応プロセスや学習的プロセスが成立するようなルールが成立していればOKということになり、ゲーム的認知=コミュニケーション説の立場からいえば、まあ勝利条件とかあんまいりませんよねー的な立場におちつく。ここらへんは循環的な議論にしかならないと考えていただけると、話がサクっと終わります。
ルールの記述不可能性 †
一次的現実における、曖昧性の重要さ:Informal Ruleの問題 †
たとえば、社会学などではルールを次のような形で分けたりしますよね、ということを人に言われた。具体的に言うと下記のようなバリエーション。
〈1〉慣行(usage)→ウェーバー「慣例」:集団内での画一的な行動様式で、強制力はない。乾杯など 〈2〉フォークウェイズ(folkways)→ウェーバー「慣習」:伝統的な社会的慣行で、サンクションはない。お祈りなど 〈3〉モーレス(mores):サンクションのあるフォークウェイズ。村八分など 〈4〉習性(trait):社会的・個人的な行動様式の体系。なんば歩きなど 〈5〉習慣(habit):型が固定化された行動。朝散歩をするなど 〈6〉法(law):社会規範を遵守するために強制するもの。刑法 〈7〉自然法則(natural laws):自然科学的な観察によって導き出された法則性。重力など 〈8〉コード(code):コンピュータ・プログラムのコード。人々のレッシグ。
ただ、まあ社会学だと…というのもあれだけど、基本的には一次的現実(日常的現実)の話になるので、この分類だと二次的現実(≒マジックサークル)の問題は扱わないわけです。なので、ゲーム=二次的現実に限定するという立場をとるのであれば、一次的現実におけるルールの問題は直接には関係しない、ということになります。で、その立場からすると、上記のようなルールのありようのグラデーションのようなものを扱う分類体系の話はちょっとずれる、ということになります。 むろん、「一次的現実におけるゲーム」を扱う立場をとれば、貨幣システムや、恋愛システムの中にも一定のルール、相互行為、etc...を見いだしてそれもゲームということができますし、スポーツなんかは典型的に一次的現実と二次的現実の境が曖昧なタイプのゲームもあるわけです。で、一次的現実におけるルールの曖昧性を問題にする遊び論や、コンピュータ・ゲームの論者なんかももちろんいて、Stephen Sniderman[1999]*1やLinda Hughes[1983]*2なんかは、ルールの記述不可能性の問題を扱っています。 Snidermanが扱っている問題は、たとえば一つにはテニスやサッカーなどにおける「態度」「フェアプレイ」なんかの問題。「フェアプレイ」の程度問題なんかは、細かい記述の難しい事例が多くて、人間の行為を記述したり、コンテクストを記述したりするのが難しいっつー、AIのフレーム問題的な話とこの話はつながります。 また、Hughesの議論は、ルールの記述が存在しないことがゲームを成立させているようなルーウィ・ルールという逆説的な事態をもってきて、ルールの曖昧性が逆にゲームの場をささえるということがありますよね、という話をしております。 いずれにせよ、一次的現実における「ルール」…というか、振る舞いの規範やパターンというのは、ほとんどの場合、曖昧性をそなえており、曖昧性自体が重要になる、ということすらあるわけです。
定石の問題:構成的ルールの問題 †
ルールの記述不可能性のもう一つの問題として、定石や、必勝法なんかの問題があります。これは、ルールそのものに記述してしまうと、まあ、どうしようもないわけですが、
「定石」の区分けについても、いろいろなバリエーションがあり、
- 最適解:二人ゼロサム有限完全確定ゲームにおける最適解。将棋や、囲碁におけるそれ
- 創発的な均衡点:最適解であるかどうかは、関係ない。たとえば、「ノウハウ」としてなんとなく定着しちゃってるものとか、そんな感じよね。
- 必勝法:「このタイミングで、ABABAB↑、を押せば確実に勝てるぞ!」みたいな。最適解のような論理的展開でもなく、人の行為を通じた創発的な展開によってもたらされるものでもなく、公式のコードやルールの中に予め組み込まれたものの部分。
みたいな区分けがあります。 「定石」の概念をルールに含めるかどうか、というのはこれも論争的なトピックで、ルールの概念を1.「公式ルール」と2.それ以外のルールとしての、前述の一次的現実における慣習やらなんやらの「非公式ルール」3.それと、定石のような「構成的ルール」の三つに分けるような論じ方をする人もいる。「公式ルール Formal Rule」という区分けを登場させるならば、定石はふつう、Formal Ruleには入らないので、そういう区分けで納得してくれない?ダメ?という提案。
公式ルール/非公式ルール/定石系 みたいな三分類は、アナログゲームの場合は、その分類でおおむね問題なし。けれども、コンピュータ・ゲームの話になると、それが破綻するという、ややこしさがある。どうして破綻するのか、というと、「説明書読まないでプレイ」するという状況が一般的なので。 たとえば、アナログの将棋と、デジタルの将棋では必要なチュートリアルは異なるわけです。デジタルでは、「相手の王(玉)を取る」「駒を一ターンに一手を動かす」というだけで、将棋は最低限プレイできてしまって、「それなしではプレイできないもの」という公式ルールのありようが、アナログゲームと、デジタルゲームでは変わります。 マリオで言えば、1−1を最初にスタートしたときに覚えておくべきことは、十字キーの→(右)を押しながら、Aボタン(ジャンプ)を押す動作ができること。ファイアフラワーや1upといった「ルール」は段階的に覚えていけばよいものでしかなくなるわけです。段階的に覚えていけばよく、かつ、それがなくても、ゲームクリア可能、という点では、ファイアフラワーや1upといった「ルール」は、ゲーム自体を有利にすすめるための「定石」や「テクニック」などと区別がつかなくなります。
前述のような理由から、コンピュータ・ゲームにおいては「公式ルール」なる概念を形式的に立てても、実感的な認識としては定石/必勝法とあまり区別ができないような状況がうまれてしまうわけです。 で、井上(2010)分類では、フォーマル/定石 といった区分を用いていません。
- 「How to Play」のレベル:はじめてのゲームプレイ開始時に覚えておかなければプレイすることができないコントローラー操作など。
- 「勝利法 How to Win」や「上達法 How to improve」:最初におぼえていなくてもいいが、ゲームをプレイする上で重要になってくる諸規則。
- 「How to enjoy」:一次的現実やプレイヤーとゲーム自体の関係性を規定するルールとしてのといったレベル。ストーリーなどの情報や、ゲームのプレイ方法に関する精神論的な部分(攻略本は見るべきではない!)とか。 の三分類で、やったほうがいいんじゃないか、と考えております。
フォーマル・ルールの細かい議論 †
フォーマル・ルールの部分の定式化については、Järvinen, Aki (2003) *3あたりの被引用率が高いらしい。
「5つのルールタイプがある。最初のふたつは、どのような種類のゲームにとっても必須のものである:
1.その個数や地位や価値などなどを述べることによってゲームの構成要素(components)を決めるルール。また、構成要素の機能、言い換えれば、メカニズムの中での役割を特定する。 2.手続き(procedures)とその他の要素の関係を決めるルール。言い換えれば、許されている手順とその帰結を規定するルール。 3.ゲームの環境(environment(s))、つまり、構成要素と手続きの物理的な境界を規定するルール。 4.ゲームの主題(theme)がどのように実装されるかを指定するルール。 5.ゲーム環境の枠内で手続きを実行するのにインターフェースがどのように使われるかを規定するルール。これは、プレイヤーの進行状況についての情報をプレイヤーに与えるルールによって補完される。」(松永伸司訳)
ということだそうです…。 フォーマル・ルールの問題について、込み入って議論してもらったのは、たぶん、国内だと松永さんの議論が2011年1月現在では暫定的には一番込み入っていて(http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20101211)、 命令/対応、制約/構成などといった概念を多層的に組むことでいいかんじになるはず!みたいな議論をしていただきました。細かくはUST(http://www.ustream.tv/recorded/11372611)をご参照ください。
とりあえず、松永さんの議論を引用しつつオレ理解で書いてしまうと、
- Layer 1 ルールの形式
- 命令的形式を持つルール:「〜せよ」「〜するな」「〜しなければならない」「〜してはならない」などの形式によって規定されるルール。
- 対応的形式を持つルール:「AならばB」という条件式の形式によって規定されるルール。
- Layer 2 ルールの機能(Via サール:構成的規則 constitutive rule / 統制的規則 regulative rule )
- ルールの制約的機能:行為者の行為を限定、制約する機能。つまり、プレイヤーの行為の可能域(できる/できない)を形づくる機能。
- ルールの構成的機能:まさにそのルールの存在によって記述可能になる事態を構成するか、あるいは、そのルールの存在によって可能になる目的―手段関係を構成する機能。
- Layer 3 その他
- 目的とか手段とか:「多くのゲームでは、その目的となる事態そのものがルールの構成的機能によって構成される。たとえば、「勝ち」、「ゴール」、「1点獲得」などと記述される事態は、そこで機能しているルールなしではありえないものである。また、たいていの場合は、その事態とともに、どうすればその事態になるかという目的―手段関係も同時に構成する。」
といった多層レイヤーで、把握をしていて、レイヤー間の要素が疎結合…みたいな図式のようだが、細かい感触は、何度かはなしてもらったけれど、いまひとつ(僕が)わかっていない。まあ、多層レイヤーで把握したほうがいいよね、というのは全くの同意なのだけれども。
認知問題としてのルール †
とりあえず、先述しているように、認知問題と形式問題の両面をセットでみていかないと話はどうにも解けないわけで、認知の側面から話を再構築しないと全体像はつかめない、ということになります。 ただ、ルールと自由の問題とかしだすと、スーパーめんどくさくて、ルールを課す、ということはある意味で「不自由」を課すということなわけです。でも、一方で、ゲームをプレイするというのは、自発的に不自由な構造の中にコミットすることなわけで、自発的に縛られるってなに?マゾ?マゾは自由なの?自由じゃないの?なぞー、みたいな話になっていったり、ここのところは詳説しはじめるとめんどいので、いま現在説明するのは保留…
とりあえず、増田さんのルール・ブレイキングの項目とかにジャンプ!
→自由、不自由、二重創作性、言語ゲーム、拡大ルール、制限ルール
参考 †
- RGN第二回
- RGN第三回
- 増田泰子から、ルール・ブレイキングの問題が提唱された
- RGN-u第三回 http://www.ustream.tv/recorded/11372611
- 松永伸司から、ゲームを成り立たせているルールの多層性の問題についての指摘がなされた。 レジュメは:http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20101211
*1 Unwritten Rule http://www.gamepuzzles.com/tlog/tlog2.htm
*2 Beyond the Rules of the Game: Why Are Rooie Rules Nice?
*3 “Making and breaking Games: A Typology of Rules”. In: Copier, Marinka & Joost Raessens (eds.), Level Up: Digital Games Research Conference, Utrecht, 4 - 6 November, Utrecht University, pp. 68- 79. <http://www.digra.org/dl/db/05163.56503.pdf >