ゲーム的な時間 †
また、ゲームにはゲーム特有の時間が流れている、という指摘はたとえば、ジェレミー リフキン*1などによっても指摘されているが、では「ゲーム特有の時間」とは何か。 「ゲーム」の様態が多様であるのと同様、「ゲーム特有の時間」にも様々なものがある。
物語にとっての時間 †
「時間」がいかにして構成されるか、という問題は「物語」にとって重要な問題となってきた。そもそも、「物語」という経験は、「時間」と不可分である。
アシュタサポテの「観測、指し示し、時間性」(林[2002])や、ゲームを語ろうの「ゲームはいかにして物語となるか」などを参照。
代替不可能性〜ひぐらしのなく頃に〜 †
時間は、時間を投入されたものに対して、代替不可能性を用意する。(賭けられているもの参照) たとえば、そういう話をあからさまにやっている話の一つは『ひぐらしのなく頃に』である。ネタバレになるが『ひぐらしのなく頃に 礼』収録の賽殺し編では、(以下、反転して読んでください)主人公の古手梨花は、自分が100年以上にわたって、何度も何度も繰り返し死に続け、ゲームオーバーになり続けた悲惨な世界から、文字通り血の滲む努力の後にようやく、その悲惨な世界を抜け出す。だが、悲惨な世界を抜け出したとき同時に、血の滲む努力を投入してきた世界そのものから追い出され、別の世界へと投げ込まれてしまう。このとき、古手梨花は血の滲む努力の果てに幸せを勝ち得た世界へと戻るか、あるいはまったく別の世界の中で微睡むのかという選択を迫られる。苦渋の果てに、古手梨花は、自身の努力の果てにつかみ取った世界に戻ることを決断する。このとき、最終的な選択を指示したものは、言うまでもなく時間を投入したことこそが、その選択自体の代替不可能性を高めている*2。 あるいは、「不思議のダンジョン」シリーズにおいて、長い時間をかけ、深くもぐった場合と、短い時間で浅くもぐった場合ではどちらに価値を感じるのか。ファイナルファンタジーで、プレイ時間2時間のセーブデータと、200時間のセーブデータではどちらが消されたらショックなのか。そういうような事例で考えてもらってもよい。
リアルタイム †
→リアルタイムを参照