ゲームとして取り扱い可能な形式 †
ゲーム内において愛情、友情、忠誠心など、あるいは人気、魅力、正義心、等々そういったものを有機的な形(動的に変更可能な形)で表現しようとすると、魅力値がいくつなのか、とか「好き」のフラグがたっているか、とかどういう属性に属しているのか、とかそういう形での表現に落とし込まれざるをえない。 当然、それを複雑化していけばかなりいろいろなものができるのだが、複雑化をしていくというよりも、あらかじめ用意されたテキストや条件制限などを使っていかに単調さをごまかし、隠蔽していくか、というやりかたの方が一般的である。
数、でしかないということ †
ゲームがいくら感動的であっても、所詮、数値化可能なもの/反復可能なものだろう、ということに気づくと多くのプレイヤーは醒めてゆく。 代表的なのが、恋愛シミュレーションゲームでの「フラグ」だろう。 恋愛シミュレーションゲームで、特定の異性が、主人公を好いてくれるかどうかというのは、フラグが立つかどうか、ということにかかっている。そもそも主人公を好きになるというフラグが用意されていない、異性にいくら執着したとしてもフラグが存在しない異性は好きになることはない。また、どんなに特定のキャラにアタックをかけたとしても、フラグの立つポイントを抑えているかどうか、ということが最大の問題となる場合が多いので、そこのところのあまりにデジタルな感触に萎えてゆくプレイヤーが多い。
一方で、こうした感触が逆輸入し、現実の恋愛でも「あの子、オレにラブラブになるっていうフラグが立ちそうだYO!」といった会話をするゲームプレイヤーも少なくない。
「数」であることの恍惚 †
一方でゲームのコミュニケーションが「数」であることに対する恍惚を表明するというゲームプレイヤーもいる。もっとも自覚的に宣言しているのは、ゲームバランスとは何か、トレードオフとは何か、ということストイックに追求するような作品の制作を続けているアマチュアゲーム作家のporn氏だろう。 たとえば、porn氏の思想は次のように記述されている
カードでもいい。麻雀のようなテーブルゲームでもいい。まるで現実の自分の預金残高のようにその数値を愛した心理状態とサイコロの偶然とが創り出した一瞬に、一度でも奇蹟を感じたことがあるなら、そして再びそれに手を伸ばそうと思うのなら、あなたは我々の同志だ。
その瞬間は聖域だ。“感じた”という一点においては確実に事実だ。どんな現実も手出しはできない、完全に自由な精神領域だ。その尊い奇蹟を、今一度再現したい。生涯を費やして求めるだけの価値が、その黄金にはある。これは妄想ではない。思想である。その実現を求めるための議論と実験の反復なのである。
一方、porn氏が言及しているのはあくまで、日常世界とは隔離された場所としてのゲームでの数字のやりとりの話だが、RMTなどではフィクションであったはずのゲーム中の数値が、現実の価値とリンクしている。 ゲーム内での数値によって成立しているコミュニケーションは一見するとフィクションそのものだが、それをフィクションだと感じずに日常世界の価値と交換可能だ、と感じるプレイヤーがいれば、それはいくらでも、日常世界を浸食しうるのである。