社会反映論 †
メディア表現の変容を、社会の変容を原因として説明するような仕方のこと。たとえば、「90年代のサブカルチャーは、社会に蔓延する世紀末の雰囲気を受けて、終末をテーマとしたものが激増した」といったような見方は、「社会の雰囲気=世紀末的」というのが説明変数であり、「サブカルチャー作品のテーマ=終末」が被説明変数となる。 逆に、文化やメディア表現の変容によって、社会の変化がもたらされるとするようなタイプの議論は、言ってみれば観念論(?)。作品/社会の両面の双方向的な因果性を志向するのは言ってみれば、弁証法(?)だろうか。 また、宮台真司はこれらのいずれとも異なる立ち位置として、『サブカルチャー神話解体』(1993)の中での分析を「システム論的」分析として位置づけている。
反映論に対する評価 †
たとえば、漫画評論の分野で、反映論的な議論をしているものの一つに、夏目房之介『マンガと「戦争」』がある。夏目はこの中で、同時代の社会が「戦争」に対していかなるコードをもっていたか、によって、戦争の表現そのものが変容していった点について議論する。だが、同時に、夏目はこの本の後書きでは、本当は反映論ではなく、表現論をやりたかったのだが、戦争表現を通史的に書こうと思ったときに、反映論をとらざるをえなかった、ということを告白している。 ここで夏目が、反映論に対して距離を取ろうとしている理由の一つは、「反映論」を行ったときの自らの議論が「社会」をどのように規定するか、という問題によってどうとでも言えてしまうことへの忌避であろう。つまり、反映論は、メディア自体を語ることとは無関係に成立しえてしまう。社会を語ることによって作品が語れてしまう、ということは、作品の表現そのものの内実をそこまで詳細に読み込んでゆかなくともよい。作品の表現手法/内実を分析することに賭けている夏目からすればそうした分析から距離をとろうとするのは、ある意味あたりまえの態度と言えるだろう。
一方、こうした態度にたいして積極的に反映論を支持する立場がありうる。それは言うまでもなく、「社会」という変数こそが、作品にとって重要な役割を果たしている、という立場である。同じく漫画をめぐる言説としては、大塚英志『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』ではは、そのような立場から手塚を分析してみせる。大塚は、戦後のイデオロギーと密接に関わった者として手塚を描く。
以上のように反映論を採用する/距離を取る、という二つの立場があるわけだが、どちらが正しいというわけではないだろう。 夏目は、社会について政治的に語ることからの「中立」を求めるが、それは「中立」であると同時に、表現が政治性を持つことを忘却させる装置としても機能する。表現は常に社会と関わる。「社会/政治について語らないこと」、が「社会/政治からの中立性」と読み替えられるのならば、反映論から距離を取る態度はそのナイーブさを批判されてもいいかもしれない。 社会反映論は、社会について語る。それゆえに、作品そのものに対してどこか不誠実なところがある。だが、作品そのものの内実のみを論じることも、同様に社会に対して不誠実なところがある。それは、分析がいいかげんだ、ということではない。分析の方法はいくつもあり、反映論にせよ、表現論にせよ、その一つの立場なのである。
参考 †
- 大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』2005 角川書店
- 夏目房之介『マンガと「戦争」』講談社現代新書、1997
- 宮台真司、石原秀樹、大塚明子『増補 サブカルチャー神話解体』1993=2007 ちくま文庫