Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―

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 「遊び」についての定義は、定義する人によってかなり大きく異なり、「遊び」の研究者の間でも見解が統一されているとはいいがたい状況がある。
 「遊んでいる」という他人からのまなざしによって遊びを定義するのか、「遊んでいる」という本人の意識によって遊びを定義するのか。プロ野球の試合のような「ゲーム」と、子供の鬼ごっことの違いをどのように考えるのか。真面目(仕事)と不真面目(遊び)という 本人の意識ではない第三者のまなざしをもちこんでA 対 非A の対立項で考えてしまうのか。
 などなど、どういった観点から遊びを語るかによって「遊び」の定義が困難である、というのは「遊び」について考える上でまず確認しておくべきことだろう。カイヨワ遊びの定義なども、「全ての遊びに適用可能な定義」とするには無理な点が多い。また、当然、日本語、フランス語、ドイツ語、英語など、言語間でのニュアンスのばらつきだって当然生じている。
 よって、「遊び」とは何か、という定義の問題を考えるとすれば、日本語の「遊び」という言葉に関する用語研究を行って、意味のバラツキとその幅を確認するか、でなければ議論の文脈に応じた操作的定義をするぐらいしか考えられないだろう。
 ただ、操作的定義をするにも難しく、定義の境界例が沢山でてしまったり、定義としての網羅性を大きく欠くか、あるいは定義として過剰に網羅しすぎてしまうようなタイプの定義を作ってしまう。どうしても操作的定義を使いたいのならば、個人的には、山田敏の遊びの三条件が観点が明確で秀逸であるという気がした。ただ、山田の議論だと、「遊び」というか、「面白いという感覚」という別の言葉におきかえてしまってもいいようにも思えたし、議論の観点が違えば、山田の議論は別にどうでもいいかもしれない。
 「遊び」とは何か、を考えることは多分、不毛な結果にしか終わらないだろうから、それをやるなら「遊び」という言葉に操作的定義を促したとして何を論じたいのか、を考えた方がよいだろう。


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最終更新: 2007-02-17 (土) 20:46:09 (3724d)