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2004年08月30日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

『ダンジョンズ&ドリーマーズ』書評

またもやamazonが載っけてくれないようなので、amazonに投稿して載せられなかったレビューを転載します。

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ダンジョンズ&ドリーマーズ

★★★★★ 大変な力作

 本書は、2003年8月に米国で出版された米国ゲーム史の詳細なドキュメント。

 おおまかな内容としては、主に前半は1970年代以降、米国ゲーム史を作り上げてきた英雄達―――リチャード・ギャリオット、ジョン・ロメロ、ジョン・カーマック、ウィル・ライト等に焦点をあてて彼らの生い立ちから紹介し、その成功物語を詳細に綴っていく。

 後半は、90年代中盤以降のMMOやFPSなどのオンラインゲームの動向に着目し、オンラインゲームコミュニティを形成するゲーマー当人達を描き出すのみならず、コロンバイン高校の銃乱射事件との関わりや、CPLをめぐる意図、ゲームの開発当事者達の抱えていた問題点など、現在のオンラインゲームコミュニティの状況を極めて多角的に描き出している。

 今までも、任天堂について書かれた『ゲーム・オーバー』や、ポケモンについて書かれた『ポケモン・ストーリー』など、日本のコンシューマー市場について主に<開発者達の成功物語>という観点から描き出した力作はいくつかあったが、米国のPCゲーム市場の歴史をここまで詳細に描いたものは初めて読んだし、何よりも開発者だけではなくプレイヤーにもスポットを当てていることが素晴らしい。

 「開発者の成功物語」という視点からのみ描かれたものも確かに面白いが、単なる「成功物語」ならばゲーム業界以外にだって存在しているのだから「ゲーム」というメディアの革新性を伝えるための表現としては弱くなってしまう。そこで敢えて開発者のみに焦点をあてるのではなく「プレイヤー」達のゲームへの接し方、および、それをめぐる多層性を描き出そうとしたことによって、いかにゲームが新しい存在なのかを垣間見せることに成功している。著者が真剣に頭を悩ました上で、戦略的に本書を仕上げていることがよくうかがえる。心から賞賛を送りたい。

 唯一、不満を挙げるとすれば、ゲームの画面写真が全くないことだろう。著作権関係で仕方のなかったことかもしれないが、文中で挙げられている当該ゲームをほとんどやったことのない人には不親切と感じられるかもしれない。

2004年08月29日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

20代男性右傾化?

北田さんのところから。

・「小泉首相の靖国参拝は…」

「よいことだ」【20代男:55%】【30代男:44%】【60代男:45%】

・「ブッシュの再選を望むか」

「望む」【20代男:30%】【30代男:18%】【60代男:34%】

・「イラクの自衛隊派遣に…」

「賛成」【20代男:62%】【30代男:48%】【60代男:51%】

・「沖縄の米軍基地を今後どうしたらいいと思うか」

「そのままでよい」【20代男:26%】【30代男:15%】【60代男:22%】

・「日本はいい国だと思うか」

「よい国だ」【20代男:54%】【30代男:47%】【60代男:51%】

「20代男」の一人の実感としては、多少の右傾化があるとは言っても、この数字はないだろう、という感覚なんですが。

「20代男が右傾化してる!」という危機感を抱くより先に、自分の場合この調査を行った朝日の調査方法の妥当性に疑問を抱いてしまいました。(#私自身の「実感」の方が根拠として強い、などという気はもちろんございません)

2004年08月24日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

 「w」が「笑」と同じものに見えてきた。

「w」という記号をはじめて見たのは、3年ぐらい前だろうか。

PSOをやっているときに、まわりの人々が「w」という記号を多様しているのを見てまったく意味不明で何をやっているのやら全くわからなかった。その直後に「w」というのは「笑」の意味だということを友人から教わったが、日本語の語彙体系の中に、何か意味不明な記号が一個まじっているような気分がしていた。

その後、とりあえず「w」の意味を教わってからも「w」の表記をみるのは、2chで見かけることが圧倒的に多かったので、「w」には(笑)の楽しそうな雰囲気とは別途に、もっと嘲笑するような意味合いを感じていたのだけれども、気がつくと、最近は「w」もものすごく一般化してきた感がある(少なくとも自分のまわりでは)。

「w」とかいうわけのわからない記号を使う人の気がしれないと思っていたが、いつのまにか「w」と書かれれば、それをきちんと(笑)と同様の意味で瞬時に理解できる回路が成立してきていた、ことに、今日、ふと気がついた。

同様に (^^) や m(__)m (^^;) (^▽^) などといった顔文字の類も、3年ぐらい前はとうてい自分が馴染めるものだとは思ってなかったが、これもいつのまにか馴染んでしまった。

顔文字なんて、絶対に最悪のセンスだと思っていたのに、本当に、ここ2,3年の間に、馴染んだ、というか馴染まされてしまったというか、今年ぐらいからその便利さに屈して、自分でも使うようになってしまった。

自分と同じように「馴染んでしまった」人々がどのくらいの数いるのかわからないけれども、顔文字に代表されるようなネット独自表記の文化的ポジションは1999年や2000年の頃と比べると、ゆっくりとではあるが、確実に変わってきているのではないかという気がする。

一つの文章の中に1つや2つぐらいの割合で、敵意のないことを簡単に伝える(^^)にはもはや全く違和感はなくなったし、最近では、「2行に一つぐらいの割合で顔文字を使う人」すら、特殊な印象はじょじょに薄れゆき、「ぱど厨」の圧倒的な異様さを見てしまったら、それすらもものすごく普通に見えてしまうという構図になってきているように思う。(#それに、携帯メールをほとんど使わないからすれば驚くべきことなのだけれども、携帯メールを多様する女性の多くが、ものすごい頻度で顔文字を使いまくっているようだし。この前、実の姉から顔文字だらけのメールをもらって、ビビってしまった。)

逆に考えると、もしかすると数年後には、逆に「全く顔文字を使おうとしない」「使うことを拒否し続ける」人のほうがそこでは相対的にマイノリティとなってしまい、「特殊な人々」としての地位を獲得してしまう可能性もあるわけだ。

で、現在「ぱど厨」としてネット進出してきた人々は、10年後、20年後ぐらいになっても、今のところ異様なものにしかみえない「ぱど厨」の表記を使い続けるのだとしたら、一体どうなるのだろうか。そのときはまた、今の「ぱど厨」すら普通に見えてしまう、新たなる異様さを兼ね備えた文字表記を用いる人々が登場するのだろうか。

2004年08月20日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ここのところ、80年代ゲーム雑誌、関連書籍等をあさってます。

 数週間前に、ファミ通800号記念でくっついてきた付録のファミ通創刊号を読みこんでみたら、これが思っていたよりも、ずっと面白くて、ここのところ、80年代ゲーム雑誌、関連書籍を中心に資料を収集しております。

 とはいっても、「ビデオゲーム史」そのものは、『電視遊戯大全』以来、ビデオゲームの歴史についてまとめていらっしゃる桝山さん他、80年代当時にゲームマニアだった現レトロゲーマーのみなさま(たとえばhttp://retropc.net/あたりの方々)や、クラシックビデオゲームオデッセイ(http://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/)の寺町電人さんなどのデータベースを目の前にしてしまえば、ちょっとそれに対抗しようという気力はおこらないものがあり、いつソフトが発売されたか、とか、いつハードが発売されたかなどといったことではなくて、「一体、いつ、ゲームにまつわる言葉が普及してきたのか」(あるいは輸入されたのか)、そして、それに対する合意形成や読み替えが行われてきたのか、ということに着目して資料を読んでいます。いやー、誰も言及していない(筈の)ネタがいろいろざっくざっくしてますね。まだまだ。

 そして、そのおかげで、この数週間でだいぶ70年代末~80年代にかけてのゲームの歴史に詳しくなってしまい、上野の国立科学博物館で開催されているテレビゲームの展覧会に行って、昔のゲームハードの現物とかを見たときに思わず、「うぉぉぉ!はじめて現物見た!!」とかいう、極めてオタッキーな反応をしてしまいました。

 現在ヤフオク等のネットオークションを中心に利用して資料収拾をしているのですが、もし、このサイトをご覧になっている方で、「80年代のゲーム雑誌」(あるいはパソコン雑誌)を譲ってくれたり、貸してくれたり(あるいは売ってくれたり)してもいいよ、という方がいらっしゃいましたら、是非ご連絡ください。

2004年08月16日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

任天堂DSと、ゲームウォッチ

オールドゲーマーの皆さんにとっては常識だったことかもしれないが

の2つが似ていることを今更気付いた。

まあ、当時ものごころついてなかったしな。

2004年08月15日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

 「my picture」と名づけられたファイル達。

p2pのファイル交換ソフトを用いて、「my picture」と名づけられたファイルをあさっているヴォーゲルさんという人がいるんだそうな↓

http://www.10eastern.com/foundphotos.html

これがまた、大変に面白い。ヴォーゲルさんいわく「誰か知らない人が共有している写真は,想像力を広げる。意図的でなく共有されたものは,もっと面白い」

2004年08月07日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

夏目房之介『マンガと戦争』

 以下はamazonに二週間前に投稿したレビューなのですけれど掲載してくれなかったようなのでこっちに載せときます。

 誉めてはいないものの、それほど批判的な文章でもなかったので、ちょっと不思議。

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マンガと「戦争」

 戦後マンガをいろいろととりあげて時代ごとの作品・作家レベルでの「戦争」イメージの変遷をたどる、ということが目的、とのことで、手塚から宮崎、庵野と幅広く、夏目さんなりの表現分析をベースとしたそれなり以上に鋭い分析者としての解説が加えられる。だが、全体的には、『マンガはなぜ面白いか』などと違い、それほど力をこめずに自由きままに書いているような印象があった。

 だが、「力がこめずに」というのは、夏目さんのようなかたちで真剣にマンガの「批評」「分析」にとりくんでいるようなスタンスの人にとっては、むしろそれこそが、苦痛であり、妥協の産物なのかもしれないな、と思って読んでいたら、あとがきには、予想通りそういうことが書かれていた。

 夏目さん自身が告白をしているとおり、マンガの緻密な表現分析をベースにして、批評を展開していく夏目さんの真骨頂ともいえる部分が本書では十分に発揮されているとは言いがたく、夏目さん自身が批判的であったはずの、作品を時代・社会的変化の単純な鏡のようにして扱うという反映論の立場を導入せざるをえなくなっている。

 このような苦い選択を夏目さんがしなければならなかったと言うのは、本書のような「戦争イメージの変遷を追う」という目的をかかげた場合に、夏目流の表現分析だけでは、限界がある、ということを示しているのかもしれない。

 だが、表現分析が多くの限界を含んでいるとしても、ここで夏目さんが採ったような反映論にゆかなくてもいいだろうという気はする。分析のための手段は他にもあるはずだ。

 表現分析以外の多彩な分析手法をどれだけ獲得していけるのか―――それこそが、今後のマンガ研究をより豊饒にするための手立てではないだろうか。