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2004年09月30日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ぱどタウン その2

とりあえず、色々と読んでいると、どうも、ぱどタウンには男の子よりも女の子の方がかなり多いみたい。なので、「ぱどカレ」*1を募集中とか言ってる書き込みのほうが沢山見受けられる。

それと、発見というか、勘違いしていただけかもしれないが、ぱどタウンでしばしば見かけられる以下のような表記↓


今ハイハ0→に汚暇し㌧

テスト終わってまぢテンションぁげ②とかぁ(´c_`)@ププ

がぁるぅぅ&ぼぉーぃぃどもゎどっちもカモンカモンщ(゜Д゜щ)

絡みまソォ(゜∀゜*)消防ゎゴメン汗汗 話合わn(´Д`;)

王子しゃまもボシュゥとかぁ(*>ω<*)だれでもいぃヵラ柿子してくりゃさぃ@素

愛触みてくれたらまぢ嬉しいってゅぅー@素

(訳:今、ものすごく暇してます。テストが終わって、テンションもあげていきたいんで。ボーイ&ガールどっちもカモンカモン!絡み(話し)ましょう。でも、小学生は話が合わないのでごめんなさい(汗)王子さま(ぱどタウンでの彼氏)も募集してたりして。みんな書き込みしてくださいね(ホントです)紹介文を見てくれたらマジで嬉しいです(ホントです))

 「絡む」「王子しゃま」「愛触」(=IFRAME用紹介文)などは、ぱどタウンの独自用語だが、「カモンカモン」といった半角の多用にはじまり「ぁげ②」(→ぁげぁげ)「ゎ」(→格助詞の「は」)「ボシュゥ」「いぃヵラ」「ハイハ0→」(ハイパー)「話合わn」(話合わん)といった表記は、実は、ぱどタウン独自のものではなくて、かなりの部分が携帯文化を基盤に発達していった「ギャル文字」からの流入らしい。

 なんで、わかったかというと、ぱどタウンを頻繁に利用しているっぽい中一の女の子の自己紹介に「ギャル文字禁止。何言ってんのかわかんないから」と書かれていたから。

 まあ、さすがに誰もがわかるというものではないみたいです。2ch語よりはるかに解読難しいものね。

*1:ぱどタウン内オンリーの彼氏のことらしい。

2004年09月29日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ぱどタウンに登録してみました。

最近「理解できないニューウェーブ」として大変話題の「ぱどタウン」に女子中学生のフリして登録してみました。

確かに、これは、わけが全くわからない…彼らには可読性って概念とかはないのか?

2chとかのように個々人の利用目的に応じていいとこ取りするようなわけにもいかず。どうしよう。

でも、噂に聞いていたのだと、小学生・中学生の群れる無法地帯というイメージだったけれども、登録者は主婦とか、フリーターの子とかが結構いて、予想していたものよりは安心できる空間。

…でもやっぱり、リアル中学生・小学生のフリをしつつ、友達を作ってみるとかできそうにないけど…。

なんか、ぱどタウンとか、ハンゲームとかをウロウロしていると、Blogやはてな界隈がなんとインテリジェンスに溢れた場所だろうか、と思えてしまう。

とりあえず、「ぁげぁげ」って何?

[2004/11/12 追記] 「ぁげぁげ」とは、「テンションあげていこうよ」の意味らしい。

2004年09月26日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

“マンガ表現論”の「失敗」をめぐって

前に夏目房之介の『マンガと戦争』の書評で「夏目流の表現分析だけでは、限界がある、ということを示しているのかもしれない。」ということを書きましたが、私と同様の感想として、夏目さんの露呈してしまった「表現論の限界」を厳粛に受け止めつつ、その先/その以前の可能性について論じたものを見つけました。

瓜生吉則 マンガを語ることの<現在>

http://yossy32.hp.infoseek.co.jp/serica.htm

ゲームを語ることの近未来と、漫画の批評における論議が、ほとんどイコールで結べそうな気がしてきます。

2004年09月25日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

シティ オブ ゴット

シティ・オブ・ゴッド DTSスペシャルエディション (初回限定2枚組)

 『シティ オブ ゴット』をWOWOWでやっているのをたまたま見たのだけれども、存外に素晴らしい映画だった。今年見た映画の中で暫定No1。

 一言で言うとすれば、ブラジルのスラム街における負の再生産構造を、実話を元に撮った映画。あるいは、なんの比喩でもない『蝿の王』の実話版といったらいいだろうか。

 amazonとかCinemaScapeとかのレビューを見ると、映画ファンによる映像表現への評価の他には、あからさまに社会派ノリのレビュー*1とかが目立つが、単に、負の再生産構造とかを描いているだけなら、多分この映画はそんなに素晴らしいものではなかった。世界の一部が残酷だったり、負の再生産構造というのはそれ自体はごくごくあたりまえの話であって、そういう事態が存在していることを確認するだけの映像ならば、いくらでも作ることはできる。問題は、それがどういう残酷さで、どういう再生産なのかということだ。

 主人公自身は、負の再生産構造からの脱出を果たすわけだけれども、その主人公のスラム世界への視線とか距離感こそが、より一層どうしようもない。

 実のところ、この映画は、後半になるまでそれほど悲惨な雰囲気ではない。悲惨であるどころか、むしろちょっと楽しくなってしまうぐらいにコミカルな映像が少なくない。犯罪があまりにも日常化したスラム街の中で、加害者と被害者の境界は極めて曖昧でしかなく、犯罪を娯楽イベントとして描き、犯罪者を「英雄」として描くような視点すら存在している。

 で、あるからこそ、ここに描かれる悲劇は、単なる「悲劇」であったり「悲惨」な話であるという水準を越え出ている。

*1:っていうか、「残酷な世界を描いてるから」というだけの理由で、まるで遠藤浩輝『Eden』のような作品と同水準で評価するかのようなノリのレビュー。残酷な世界を描いてりゃいいんかい、という。

2004年09月24日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

80年代のゲームの言葉シリーズ(1)

問題。この紹介文は何の紹介文でしょうか。

まず自分の名前を登録すると、画面内のキャラがその名で呼びかけてくれる、という遊びのノリがたまらない。

(省略)

なんと言っても楽しいのは、画面に登場するキャラクターすべてが話し好きなことだ。ある者はヒントを、ある者はただのおしゃべりを答えてくれる。城の外にはデートをする若者までいる。必要なアイテムには「王女の愛」なんてものまである。王女がプレイヤーにたずねる。「○○さまはわたしのことをあいしてくださいますか」、ここで「いいえ」といれたり、悪の竜王から「手をくもう」と言われて「はい」と答えたりすると、物語は意外な展開をする。

 もちろん戦いはあるが、相手によっては逃げてもいい。「にげる」なんてコマンドは絶対にアクションやシューティングにはない。攻撃力もランダムに設定されていて、「渾身の一撃」で相手を倒したりすると、道で一万円札を拾ったような感動がある。

 もちろんゲームは途中でセーブできるし、持っているアイテムは消えない。途中で死んでしまうと、王のお叱りの言葉が待っているし、手持ちのゴールドも半分になってしまう。お金がなければ宿屋にも泊まれないし、武器も買えない。「ゼルダ」もそうだが、金がなければ何もできない資本主義の枠がばっちりとはめられているところが、現代人の自虐性にぴったりとマッチしているのだ。

 私はこの紹介文を読んで、思わずこのゲームをやりたくなってしまった。

 NPCとたくさん会話をすることができて、物語もインタラクティブに展開して、戦闘をするのもしないのも自由、そして、なんとゲームの中に貨幣経済が再現されている、―――などと聞くとどんな未来のゲームかと思うが、語られているのは86年に発売された『ドラゴンクエスト』の第一作目のことだ。

 これは、1986年11月20日初版の小林正樹『大人のためのファミコン必勝講座』に掲載された文章で、当時まだ社会現象化していないドラクエ1というファミコンではあまりメジャーでなかったジャンルを語る際にこういう説明が載ったわけだが、この紹介はとりわけすごい、と思ったので掲載した。

 今ではほとんどのプレイヤーにとって自明視されているゲームの中で「金を使う」という行為をさして「金がなければ何もできない資本主義の枠がばっちりとはめられているところが、現代人の自虐性にぴったりとマッチしている」などという誉め言葉は2004年現在のゲーマーにはまず出てこないし、ドラクエ1のNPCを見て単調だと思いこそすれ、「話好き」などと表現しようなどとは思わない。「ええっ!?そこで驚くの?!」ということに驚いてしまう。

 ここ数ヶ月80年代のゲームの資料をあさっていたのだが、80年代はゲームの受容のされ方は、現在からすると本当に違っている、ということをここ数ヶ月で思い知った。他にもネタがいろいろとあるので、とりあえず、ネタに困ったらこのネタで。


■補足トリビア1

詳しい人にはよく知られている話だが、ドラクエ1が発売されたのは1986年5月。現在では、押しも押されぬ人気作も、ドラクエ1が発売された直後の扱いはあまりたいしたものではなかった。当時、ファミコン雑誌等の水準では「RPG」といえばアクションRPG『ゼルダの伝説』のことであり、例えば、ファミコン通信創刊号(86年6月20日号)などを見てみると、『ゼルダの伝説』や『謎の村雨城』といったソフトの記事が何ページもわたって取り扱われているのに比べて、『ドラゴンクエスト』の記事は見開き二ページの紹介と、エニックス自らの広告ページの合計三ページだけだ。ドラゴンクエスト1が大体的にフォーカスされるのはファミコン通信やコンプティーク、Beepなどといった雑誌ではなく週刊少年ジャンプの記事で行われることで大ヒットにつながっていく。

■補足トリビア2

紹介した小林正樹『大人のためのファミコン必勝講座』は全体的にはあんまりおすすめしません。86年はまさに「ファミコン・ブーム」という年であり、同年の8月10日にも『お父さんに捧げるファミコン講座』ファミコン中年団著、などといった類書も出ていたり、86年はファミコン関連本が沢山出版されています。ほとんどのものが「資料」として読む以外の観点ではオススメできない本ばかりです。

■補足トリビア3

1960年代~70年代前半生まれのゲーマーにとっては当然のことをたくさん書くかもしれませんが、生暖かい目で見守っていただければ幸いです。

2004年09月23日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ハンガリーからのリンク。

ハンガリーサーバーのウェブサイトからリンクをいただいたのだが、何を言われているのやらわからない……

http://konzol.suveg.hu/nonhype/200407.htm

Figyelni valo: On File, a nyomtatott fanzine-univerzum binaris epicentruma (nem, sajnos 1-UP ebben a galaxisban nincsen), meg Critique of games, Akito Inoue ludologiai szempontbol roppant tartalmas honlapja (japanul, Antaru kedveert).

スゼムポントボル ロッパント … タータルマス…? ホンラプジャ? 

何?

2004年09月22日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

英語圏のゲーム研究文献

IGDAのサイトの方に英語圏のゲーム文献紹介の翻訳があったので、読みました。非常によくフォローされており参考になりますが、元記事が2002年12月とちょっとだけ古いようで、ゲームの歴史関係の本などいくつかフォローされていないようです。

 ということで、以下、amazon.comの方でゲーム関係の文献のウィッシュリスト作成中↓

http://www.amazon.com/gp/registry/registry.html/ref=cm_wl_topnav_gateway/104-6805577-8715111?type=wishlist

2004年09月19日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ドラクエVIII発売日、価格決定

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00062ILP8/softbankgames-22/249-6332721-3760342

2004/11/27発売で、9240円。

なんだかやたら値段が高いのはなぜ?10年前のスーパーファミコン時代並みの価格なんですが。

2004年09月18日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』遥洋子

 書評を書いていたらamazonの規定を超える長さになってしまったので載せます。ゲームには何も関係ないですし、あまり万人に「面白いから!」とすすめるような本ではないですが。

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東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ

 数年前に話題になった、タレントの遥洋子が東大上野ゼミで経験を書いた本。あまりのり気で読んだわけではなかったのだけれども、これが意外と面白かった。この本に対する評価は、数パターンあるが、総合的にいえば色眼鏡をつけないで読んでみてよかったな、と。

 まず何よりも評価できるのは(1)

 「タレント」といういわば東大の社会学の大学院ゼミからすれば、まさしくエイリアンともいえる存在である遥洋子という存在が社会学とであったときに、それを自らのタレントとしての実生活といかに折り合いをつけながら、受容していったのか、というドキュメントとして、本書は大変に素晴らしいと思う。

 ソシュールのソの字も知らず、「ヘゲモニーって何?」というような、社会学などは同じ日本の中にいながら全くの異文化としてしか受容できなかったであろう著者が、タレントと学生との二重生活を送りながら数年間の間にこれだけの勉強をこなした、というその単純な勉強量と努力の姿勢について素直に尊敬の念を抱くだけでなく、関西の芸能界という、およそ上野ゼミのフェミニズムなどからすれば無理解、無知な信じられない世界のような場所の中にいながら、それを成し遂げている様子を書いていることが素晴らしいのだ。

 (1A)両極ともいえる二つのコミュニティの中で、常識以下のレベルで通用している倫理基盤がこれほど異なるにも関わらず、それをどのようにして折り合いを付けていくことを彼女が個人として実践していったのか。そして、そこで折り合いを付けていく過程で、著者である遥洋子は、徐々に関西の芸能界のタレントという文化の中を生きるだけの存在でもなく、だがしかし東大の上野ゼミの文化の中を生きるだけの存在でもなくなっていく。ほとんど重なることのない二つの極を同時に生きてしまった彼女は両方の文化の中でエイリアンとなり、どちらにとってもエイリアンであるというどこにも属すことのない立場を手にしてしまう。だからこそ彼女の苦悩は、彼女の苦悩としての独自の魅力を放っているし、そこまで極端でなくとも、社会学的な知を手にしながら実社会の中に偏在する偏見に対してイライラした思いを経験したことのある人にとってみれば共感可能、想像可能な苦悩の言葉だ。

 (1B)また、それは苦悩の独自性という魅力のみならず、その特殊なエイリアンとしての立場が半ば必然的に関西の芸能界という場所の特殊性と、東大の上野ゼミという場所の独自性の双方を同時にあぶりだす。

 東大上野ゼミに準じるようなコミュニティに属する者や、関西の芸能界に属する者にとってみれば、<エイリアンの目から光を当てられた自己の姿を確認する>という極めて刺激的な自己認識の経験となる。上野千鶴子本人が本書に「これは、私の知らない私です」という言葉をよせているが、おそらく本書の中で最も中心的に語られている上野当人にとってみれば、自分の知らない自分を書かれることは目をそらしがたいぐらい興味深い体験だったのではないだろうか。

 だが(2)

 議論の仕方のノウハウ本としては私はこれを支持しない。そもそもの前提からして支持することができない。(2A)「議論」の範疇を、勝負というメタファーでしか捉えていないことに対して、そして、(2B)その「勝ち負け」判定をめぐる捉え方があまりにもナイーブであるという二点に関して私は本書を支持しない。

 まず(2B)に関しては、上野も言うように、アカデミックな根拠をめぐる妥当性の論争などの、勝敗の判定基準が論者間およびその聴衆にとっても予めある程度了解された限られた場でも無い限り、その勝敗を決めるのはその議論に関わった論者およびその聴衆であると言うことできる。その立場においていかなる形が「勝ち」であるのかは、その場その場ごと、人ごとにアドホックに決定される種類のものでしかない。確かに遥洋子が提示するような議論の方法が、「勝ち」に見える状況を作りだす場合が多いことは否定しない。だが、遥洋子の提示する方法が、時には全くピントの外れた状況を生みだしかねないこともまた考慮されてよい。

 (2A)に関しても、本書はあまりにもナイーブだ。本書は「議論」という行為を「ケンカ」との延長でしか考えいない節がある*1。議論はケンカであるとは限らない。「議論」という言葉で括られた現象を捉えるモデルは様々だ。例えば「議論」をとらえるメジャーなものの一つに勝ち負けではなく、「互いの合意を形成する行為」とか「論者が互いにより妥当な結論に至るための相互協力行為」といったモデルがある。そういったモデルで「議論」を捉えているものにとってみれば、本書は「はぁ?捉え方があまりにも一面的すぎるんだけど」と一顧だにされずに終わるかもしれない*2。あらゆる観点から書くべし、というのではないが、せめて「議論」をめぐる捉え方が数種類あることを前提として、自らの観点が限界をはらんでいることを自覚して欲しいと思う。

 そして(3)

 いきなり下世話になるが、本書から濃厚に滴り落ちてくる「上野千鶴子への憧れエキス」のようなものが、強烈で面白い。上野千鶴子を高く評価している人間は多くいるが、その多くは2chで言われるような「信者」であるわけではない。私は、プライベートの上野千鶴子はちょっと…という感じだし、著者のような信仰の感覚とは程遠い。それは学者としての上野への評価とは別問題として「気が合いそうかどうか」「個人的に好きになれそうかどうか」とかそういうレベルの話としてだ。

 だが、著者の上野を語る口調は、「神様との食事会」「神様に…」という表現を恥ずかしげもなく用いる。もちろん、それは文章の上での比喩としての「神様」ではあるのだが、だとしても、著者の上野信仰はあまりにも眩しい。何といったらいいのだろうか。教会の中で、信者と神との邂逅の風景―――神におそるおそる告白する信者と、それに暴力的に教え正す神の姿が展開される情景を描いているような。芸能界と東大上野ゼミという両極が接触したときに、東大の中にいきなり宗教的空間が発生してしまったのを見ているような感触だ。その異様な風景に、「なんじゃこりゃ」と立ち止まり思わずまじまじと見入ってしまう。

 最後に(4)

 本書は上野千鶴子ゼミで勉強したフェミニズム関連の記事についても多くのページが割かれており、フェミニズムのお勉強本としても機能するだろう。もっとも、その紹介は整理されて提示されているとは言いがたく、はじめは日常語ばかりでがんばっていたのに、後半になるにつれて言葉が一般読者向けではなくなってしまっていったり、雑多な問題意識や論点が不安げに並べられている風景を指して「未熟」ということもできるだろう。人文・社会科学系の教養のない読者はもしかすると後半になって読むのをあきらめた人もいるかもしれない。だが、その雑然としたした文章こそが彼女自身の苦心した感触が生々しく伝わってきて素敵だった。

*1:あるいは、書籍として流通させるためのマーケッティング的な戦略としてそのような短絡的ともいえるわかりやすさを採用したのかもしれないが。

*2:私はそれで本書を敬遠していた。

2004年09月16日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

Steve Reich Works 1965-95

amazonギフト券を貰ったので、せっかくだからたまには本とゲーム以外のものを買おうと思い、スティーブ・ライヒの1965年~95年までの仕事をまとめたボックスを購入。我ながらひさびさにちょっとした小金を放出した気分です。

 中期以降のライヒの仕事は期待通り、どころか自分が思っていた以上に素晴らしくて感動してしまったのだけれど、初期のライヒの作品のあまりのイカレっぷりにもまた驚きました。初期の仕事の一つである『It gonna rain』なんかがまさに「単調なリズムの繰り返し」以外の何者でもなくて、たとえてみれば、「キズの付いたCDがデータの読み込みに失敗して同じ1秒ぐらいのフレーズを延々とリピートしながら、徐々に読み込んでいる場所が0.1秒単位で進んでいく」ような壮絶な仕上がりです。(おそらく、本当に傷つきCDだったとしても気が付かない)。

 音楽理論とかでグチグチ言えちゃうタイプの人は、いいのだろうけれども、そこらへんの部分の教養データベースが貧弱な私にはちょっと無理でした。ええ。

 高校の頃の合唱部の友人に『ライヒ・ベスト』を貸したら「おまえ、これはオレに対する嫌がらせか?」という予想だにしていなかった反応を返されて、ライヒを素で好きな私はしょげてしまったことがありますが、『ライヒ・ベスト』はさておき、これを貸して「嫌がらせ」と言われても、まあ、仕方ない。初期のライヒの仕事はさすがに私ですら、愛好する対象の音楽として聞くことは無理があるかもしれない…というか、ありました。これに小金をはたいてしまった自らに若干の後悔の念を覚えつつ、まあ、でもトータルで言ったらオトクだった…かなあ。やはり、ろくな金も無いのに、ブルジョワめいた消費はやめておこうか…などとヘタレた気分に陥った次第。

 

 次に音楽CD買うときは、声明のCDでも買おうかな、と。amazonで「声明」を検索してみたけれど、さすがにこの「永平寺~声明・只管打坐の世界~」は買いえないという気分がしましたが。

内容(「CDジャーナル」データベースより)

曹洞宗の修行道場である福井の永平寺で録音された声明(読経)と只管打坐(ひたすら座禅をする)の修行風景ある。太鼓が五つ打たれ,朝5時を知らせる「更点」から始まり,座禅をお開きにする「大開静」から就寝を知らせる「開枕鈴」までを音でたどる。

誰か買ってみませんか?

2004年09月12日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

ただし、「処刑」は除外

a toneさん「宇宙と保険」

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/1793/

災害保険の支払い対象は、非常に幅広く、あらゆるケースを考えていらっしゃるようです。網羅するって大変です。

2004年09月11日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

『サーヴィランス』は「やるドラ」の中では改心の出来でした。

サーヴィランス 監視者

これはいいです。「マルチシナリオ」でもなく「マルチエンディング」でもなく、いわば「マルチパースペクティブ」。ようやく「やるドラ」というジャンルが、リアルタイムで物語進行が行われるという要素を足枷としてではなく、武器として、リアルタイムムービーを用いることの可能性を見せ始めたな、と感じさせてくれました。

購入したその日にクリアーできるぐらいのボリュームです。

具体的にどういうシステムか、というと、複数のモニターを切り替えて、特殊警備部隊(攻殻機動隊の公安九課のような組織)を、サポートするデータ解析屋さんをやるわけです。攻殻好きな人に説明するとすれば「少佐」や「バトー」ではなく「イシカワ」をやるゲームだとでも言っておけばいいでしょうか。

まず(1)データ解析をその時々に適切に行わないとゲームオーバー、という形のシステムを用意してやることで、プレイヤーに常に緊迫感をもたらすことに成功し*1

(2)複数モニターで映像が同時進行されることによって、モニターの数だけやりなおす価値がある――そのことがリプレイ(リトライ)することによって、プレイの一回性が損なわれないような構造を成立させることに成功させているわけです。しかも、複数モニターで物語が別途にリアルタイムで展開されるということは、逆に言えば、一回のプレイではプレイヤーは物語を完全に追うことができず、リプレイ(リトライ)することこそがプレイヤーにとっても最適なプレイ環境として機能しうる形になっている。

これらは2001年に同社から発売された『BLOOD』なんかだと全部、失敗していた要素だったのですが、それを基本的なシステム設計をがっちり考えなおしたことによって、物語ゲームとしての「やるドラ」の孕んでいた問題点のほとんどの部分を上手くまとめあげてしまっています。

拍手。ほんとにエライ。

*1:しかも、解析対象を見つけるための難易度設計も程よいです

2004年09月10日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

amazonギフト券あたった。

アマゾンの本に最初のレビューを書くと抽選で3000円のギフト券があたる!というのがあるのだけれども、77個のレビューを書いて、はじめてあたったようです。

うーん、時給に換算すると、一時間300円ぐらい…

2004年09月08日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

『絶対絶命都市』をやりつつ

絶体絶命都市

開発者の側の発想として『逆転裁判』に近いものを感じました。ゲームの基本となるシステムは、昔からあるものを流用しながらも、プレイヤーが行為する文脈――言葉や映像などの部分を大胆にいじることで、従来のゲームからの脱却を華麗に果たしている、という点で『逆転裁判』的だなあ、と。

ドラスティックに「新しいゲーム」などというものを提示することが極めて困難になってしまった現在、この作品のような形で、システムとしては従来のものを用いつつプレイヤーの行為する環境事態に工夫を加えることで、プレイヤーの中で主観的に立ち現れる行為の感覚を変質させてしまうというのは、方法論としていま、一番クレバーなやり方なのかも。

2004年09月06日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

『3年B組金八先生』に自分のボーダーラインを知る

3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!

ネット上での世評通り、「金八先生」というところから想起されるもの以上にはよかったですが、「このゲームは私の興味対象から外れるな」ということをはじめて感じさせてくれました。その意味では、貴重といえば貴重な一本となりました。ゲェム右翼の気持ちにはじめて共感できるものを感じたとでもいいましょうか。

作品のクオリティはさておくとしても、表現手法上そそられる部分が皆無だったことが「私の興味対象から外れる」最大の理由です。

  • (1)道筋から外れるとほぼゲームオーバーになるのみ(「マルチシナリオ」というよりも、「マルチエピソード」。)
  • (2)道筋を展開するための手法は行動回数制限型のコマンド選択AVG

というつくりでして、本作を支持するファンですら、「まあ、あんまりゲームであることを期待してはいけない」ということを認めざるを得ないほどに、あんまりゲームではなかったです。最後までやるにはやったんですが、攻略サイトを見ながらやって、プレイしながらアニメ作品を見ているような気分でした。

 別に、「映画的ゲームなんていらない!」的な主張をしたいわけではなく「ああ、もう、これはよく出来たアニメ作品だな」といった感じで、別にこれはこれで全然アリだな、とは思うんですけれども。まあ、この作品ぐらいまでのラインにいくと、私の興味対象ラインの境界線からはみ出しちゃうなあ、という自分のボーダーラインを自覚してしまった、という。*1

 4話目ぐらいまでは微妙に萎える話でしたが、5話目ぐらいしてからのシナリオのクオリティは、職業的シナリオライターの方の仕事としては、確かにゲーム界隈の中では稀有な部類に属すると思います。

*1:このボーダーラインが狭いのか、広いのかはわかりませんが。私は自分のことをかなり広いほうだと思っていました。

2004年09月05日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

Jasonの悩み。

Yahooのアドレスあてに、合計三通もJasonからペニスの悩みが送られてきた。メールの出だしはこんな感じ。

Hello,

I'm jason and this email is my story with my Penis .

I had a small penis and not really strong erection . My girlfriend was unhappy and …

もう一歩でヤマジュン「やらないか」の境地に至る名スパムでした。一通だけでなく、同時に三通も送りつけてきたこともポイント高かったです。

2004年09月04日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

 残骸をプチリニューアル。

http://www.geocities.jp/cog_inoue

 現在の、「http://www.critiqueofgames.net」にコンテンツを置くより以前に、コンテンツを置いていた、Geocitiesの方のページのスペースが寂しく残っていたので、残骸をプチリニューアルしました。全くもってとりとめのないコンテンツを、ダラダラと公開してあるだけではありますが、google page rankについて調べた記事とかはけっこう気にいってます。

2004年09月01日(はてなダイアリーバックアップ用ミラー)

 mixiを無造作に見て回ってみた。

mixiを無造作に、200人ぐらい、カチカチカチ、と見て回ってみました。

で、気づいたことは一つ。

職業欄を見てみると、「大学・大学院生」「クリエーター系」「IT関係」の三種類が圧倒的多数を占めている。

これってつまり、ウェブ界隈をうろうろしていて、友人・知人もみんなウェブ上をうろついている確立の高いタイプの職業がこのタイプの人たちだけってことなのだろうか。「公務員」「役員・管理職」といったプロフィール登録もできるはずなのに、どうしてだかさっぱり見かけない。