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2007年04月08日

メディアミックス、容れ物の魔力 #03~日常性 もうそろそろゲームの話~

#02 からのつづき

日常性

瀬上:うーん、もうちょっとメタ化、一般化しておきたい、というか後につながる話にしたいですね。
 ここで、『セクシーボイスアンドロボ』の話まで戻すと、マンガ的な「キャラ」のリアリティについては、『のだめ』は申し分なくやってくれたわけで、これは、『セクシーボイスアンドロボ』では多分難しいだろうとか、そういう話もできる気がします。
 一番最初の議論で、『セクシーボイスアンドロボ』の主人公は、英雄と少女の間を往復する、という話がありました。あれがつまりキャラ/キャラクターを往復する、ということともしかしたら位置づけられるかもしれない。だから、『セクシーボイスアンドロボ』がもし上手くテレビドラマとして作り得るとすれば、ニコのヒーロー的な活躍にフォーカスを当てていく、ということになるのではないか、とか、そういうことが言えそうです。

米島:いや、その手法は結局、黒田硫黄の醍醐味である日常描写を、ぜんぜん表現できないわけだから。だめでしょう。

瀬上:あ、いや、すみません。キャラ的、というのは非日常的ということではありません。たとえば、伊藤剛は『あずまんが大王』『ぼのぼの』こそが、キャラ的なものだ、という話をしているわけです。あれはあれで日常描写のマンガですね。もちろん、それは黒田硫黄じゃないですけれど、日常は描けるだろうと。

米島:うーん、つまり「日常」を描くというのがなんなのか、ということかな。

瀬上:そうですね。まず、僕が言う「キャラ/キャラクター」の問題と、「日常/非日常」の問題は少し問題の軸が別のことなのではないか、という気がしますね。それと、米島さんが、黒田硫黄に関して言っている「日常」というのは、実は単に日常というよりも「卓越した日常」とか「優美な日常」とかそういう形容詞が必要なのではないか、と思います。

米島:ふむ。つまり、何が言いたい?

瀬上:うーん、何と言えばいいのか、ストレートに言うと、「日常」あるいは「日常性」というのはマジックワードだ、ということですね。失礼な言い方かもしれませんが、米島さんのようなタイプのインテリは、これをマジックワードだと思わずに素直に礼賛することで、知的であろうとしているようなところもあると思います。

米島:あ、なんとなくわかってきた、瀬上くんらしくまわりくどいがつまり、アレだろ。「日常的な言葉とか、日常生活に密着したものの考え方」とかがスバラシー、カッコイー、とかって思っているんじゃねぇの?テメー?っていう、そういう話だろ。それは、まあ、その通りだと言えば、その通りですよ。いや、実際そう思っているからね。では、まあ、日常性礼賛みたいな発想がどうしていけないのか、と。

瀬上:いけない、とは言いませんが、マジックワードだと思うのでそれを認識しておいてくれ、ということですね。日常性、という言葉は、自由、美、倫理、真実、現実とかそういうタイプのどうしようもなく厄介な概念と同レベルに扱いにくい語です。正直なところ、日常性とは何か、というようなことを語るのはとても難しい。それはもちろん僕もあまりきちんと整理して語れません。
 例えば、日常、という概念と結びつきやすい概念の一つに「大衆」「土着」といった言葉があります。古い話ですが、「大衆」と言ったら、一方には「扇動されやすい愚民」というイメージがある。そして、「大衆」は近代社会的なものですが「土着」というのは前近代的な場所で生きる、地域ごとのミクロな権威とかミクロな宗教にロックインされている「愚民」のイメージを持っている。丸山眞男が、批判したような日本人像ですね。一方で、これはポジティブに語ったら共産主義的な「労働者よ団結せよ!」の世界で、左翼インテリが救い出して取扱うべきものこそが「日常」という話になる。大衆という概念が「労働者」とか「市民」いうものに読み替えられたりする。これはどっちが正しいという話ではなく、そういうヤヌス的な概念だということですね。

米島:いや、オレはマルクス万歳な人じゃないよ。

瀬上:それは、そうでしょう。米島さんの場合は、ジャーゴン(専門用語)使いまくるインテリ批判みたいなところですよね。ただ、高度に技巧的・制度的・専門的なジャーゴンとかを「非日常性」とか「浮遊したもの」として括ってしまって、「地に足のついた」ものとして「日常性」を持ち上げる、という理屈の立て方は、左翼系の人がけっこう好きなことが多いですね。

米島:いや、それは大丈夫。それはさすがにわかっている。むしろ、オレがインテリ批判というか、ジャーゴンから遠ざかるのは、自分が間違いなく理解できている、と思える概念しか使いたくないからだよね。わかっているんだか、どーだか怪しい言葉を、インテリぶって使いたくない。おれの日常性礼賛というのはそういう話ですよ。理解可能な概念でものを考えたいし、話したい。オレ自身のリアリティとつながるもので考えたい、ということだよね。

瀬上:その感覚は非常によくわかります。米島さんはある種の誠実さを志向しているがゆえに、そういう発想をされているわけですね。その点、僕は微妙に自信のない言葉でも、ちょくちょくと議論をメタ化、一般化させるために使っていたりして、それは不誠実だともいえます。もちろん、なるべく理解していない言葉は使っていないつもりではありますが、浅学非才の若造ゆえの大きな限界の壁があります。
 しかし、言い訳すると、インテリぶりたいから不誠実に日常的でない言語を使うのではない。言ったそばから「不誠実な」な言葉で失礼しますが、たとえば「不気味なもの」という概念があります。これは、フロイトや、ハイデガーがそれぞれ別々の形で論じていて、きちんと論じるとややこしいですが、フロイトはたとえばドッペルゲンガーのようなものを存在を不気味と言い、ハイデガーは宇宙空間への人間の進出や、人間を不死に向かわせるテクノロジーを不気味と言う。西谷修(1990『不死のワンダーランド』講談社学術文庫 P210~)によればこの二つにはある程度共通するところがあって、両方とも自分自身の生命の外側にある<不死性>である。ただ両者の違いを言うと、フロイトの場合は、そういった<不死性>というものは人の意識が封じ込めていたはずのものが現れてしまう時に不気味として感じられる。ラカンによれば「象徴界から排除されたものが外界から回帰すること」です。一方、ハイデガーは人間の知性とか技術といったものが、人間という存在の死すべき身体の有限性を超え出てしまうような中で自由であるかのように振る舞うことです。
 おそらく、この説明では非常にわかりにくいと思います。前者が『サイレント・ヒル』とか『ひぐらしのなく頃に 祟殺し編』的な恐怖に近いかもしれない。『サイレントヒル』は、人間の身体があるべき形をしておらず、ハンス・ベルメールの関節人形のようなものがウロウロしています。あの世界が不気味なのは、「人間の身体」の隠されているべきはずの可能性というのが現れてしまっているからですね。『ひぐらしのなく頃に 祟殺し編』では、まさしくドッペルゲンガーが出現して、主人公である<私>の意志とは無関係に動き回り、<私>が泥の中をはい回っていたはずの時間に、ドッペルゲンガーが悠々と暮らしている恐怖におびえます。自身の在り方が、自身のコントロールから離れたところに立ち現れるから恐ろしい。
 一方、後者は宮崎駿の現代社会批判みたいなものに近い。『もののけ姫』では、森にいる死と生を司る獣神を人々は殺してしまう。そして、現代の『平成狸合戦ぽんぽこ』の頃になると人々は、森の神を殺してしまったことすら忘れていってニュータウンとかを暢気に建設している始末です。ここでは、死と生を司るはずの超越的な存在が忘れ去られていることが、不気味というか、むかつくようなところがあるわけです。これについても『ひぐらし』の話ができますが、また後にするとして…。とにかくこちらは、自身の在り方が全てコントロールできると思いこんでいるところが恐ろしい。
 米島さんは、自分がきちんとコントロールできる思考をしたい、とおっしゃいましたね。ですが、米島さんがコントロールできると思っているもの、というのは一体なんなのか。そのようなことを問うことができるわけです。たとえば、この日常性という言葉自体もそうですが、日常に染みついているように見えている概念とか言葉というのは実は非常に時代的、地理的な束縛を受けている。たとえば、童貞とか、同性愛とか、ああいった概念の扱われ方というのは、ある社会では素晴らしいものだったり、ある社会では排除され、忌避されるものだったりする。恋愛、狂気、麻薬、コンピュータ技術者、離婚、日本人、韓国人、ロマン、夢など、かなり色々な概念が当時の社会の知的な権力者である、学者、医者、裁判官、聖職者とかによって良いとか悪いとかが述べられる。あるいは出版メディア、TVメディアといったものによって「変態」と「同性愛」が結びつけられたり、「童貞」と「未熟者」「不潔」が結びつけられたりする。

米島:つまり、瀬上くんが言いたいのは、オレが「わかってる」と思いこみやすいものこそが、「わかってない」のではないのではないか。「言葉をコントロールできた気になっている」ようだが、実はそれって裸の王様なんじゃねーの、と。そういうことだろ。おまえ裸のくせに不愉快だ、裸だと気づいた時の寒々しさを承知しとけよボケェ!と。

瀬上:これは、米島さん個人への批判というよりも、日常性という概念をどう考えるか、という話だと思うんです。つまり、素朴に「日常が素晴らしい」ということはできない。日常って概念は、実はなんだって放り込める。例えば幸村誠の『プラネテス』『ヴィンランド・サガ』が扱うのは、現在の我々からみれば非日常にしか見えない宇宙飛行士や、中世の北欧でいっつも戦闘ばっかりやっている戦闘集団です。彼らの間抜けだったり、生や死と言った大問題を日常茶飯事のように扱ってみせる「異様な日常」を描くことに力が注がれている。あるいは『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンジー』では人がしょっちゅう死んだり生き返ったりしますが、あれを何度も何度も反復することこそが、ゲームの「プレイヤーキャラクターの日常」ですね。ですから、これはけっこう何でも放り込める概念なんです。「日常」と「非日常」の差異をいかなる形で設定するか、という側面がかなりある。一般の人が簡単にはアクセスしにくいものを「非日常」ととりあえずくくるとかそういう話でしかないようなところがある。

米島:「神」とかはけっこうどこの文化圏でも、アクセスしにくいものの領域に入るんじゃないの?

瀬上:うーん、宗教によるのではないでしょうか。確かに神というのは、世界の向こう側の存在として規定されることが多いですが、毎日アクセス可能な神だっている。例えば、木の神、森の神、土の神がそこらじゅうに偏在していて、毎日神と接していると考えながら生きていくということだって可能でしょう。

米島:なるほど。それで、結局、話を再確認しようか。まず、日常性という概念がマジックワードだということはわかった。それで、それがどうした、と。

瀬上:『セクシーボイスアンドロボ』の話ですね。「日常性」に関わる概念をこれだけ色々といった後で、再度、黒田硫黄の「日常」がどう素晴らしいのか、を言い直すことができます。
 まず、先ほども言ったとおり、卓越した日常、あるいは優雅な日常の生き方をしているのがニコです。それは、一巻のはじめの日常的な観察能力の高さからもわかる。そして、ニコは世界をコントロールできる可能性があると信じている。彼女は、日常の中に潜む無知蒙昧とか罠とか愚かしさから無縁、というか、簡単に考えると彼女は日常性の中に潜む愚かしさを超え出るような存在かと思える。これはつまり、ニコがツンデレで強気のエリートお嬢様ならばわかりやすい話です。エヴァのアスカとか、ガンパレの芝村舞とか、あるいは攻殻の草薙素子みたいな人間として描かれていればわかりやすい。「愚民たちを観察するためにバイトしているの。遅くとも10代のうちにはハーバード大学を主席で卒業して、その後は20代のうちには財務省の事務次官になって愚民どもを統治する予定なの。」とか言ってくれれば、いいですね。日常を卓越して生きることに心血を注いでいるならわかりやすい。
 でも、そうじゃない。ニコはバカで愚かな世界を統治したいんじゃなくて、それを愛しているんですね。彼女自身も積極的に愚かであろうとしていて「サーカスみたいなあ。くそ暑い仕事うっちゃって。」とか言うわけです。それも黒田硫黄に描かせてしまうと、日常のルーティンで面倒がることすら美しく描くわけです。ニコ自身が「私がしたいのはね、この世界にちょっとしたドリームを与えるような…」「そういうことなんだ。」という言うとおり、しょぼくれた日常をいかに愛せるか、いかに美しく生きることが可能か、と言うわけです。だから、彼女は愚民を統治したいわけではない。占い師とか、人に夢を与える存在としてのスパイになってみせたい、とかいうわけです。だから、しょぼくれた日常にツンツンデレデレじゃない。ツンがなくて、デレなんですね。
 ラストのセリフで、「死んだ女性が美しい」と言って自殺しようとする女性に対して「それって死んだからきれいなんじゃなくて、死んだのがきれいな人だったんじゃないの?」とニコが言いますね。ただの実も蓋もないセリフのようにも聞こえますが、これは非常に自己言及的なセリフですね。日常を肯定的に捉えてみせる想像力にあふれているから日常が美しいのであって、日常そのものが美しいわけではない。あるいは、日常を卓越して生きる(ことができるはずの)ニコが美しいのであって、日常そのものが美しいのではない。

米島:なるほど。ツンデレじゃなくて、デレデレだ、と。

瀬上:あ、いや、それはただのたとえです。

米島:大丈夫、わかってる。さっきの、キャラ/キャラクターの話に戻すと、キャラが非日常で、キャラクターが日常という話になるのか、と思っていたけれども、単純な対応じゃないわけだ。あと、金網に手なすりつける話は、瀬上くんの言う「卓越した日常性」の中に生きていて、世界をコントロールできると思っていたのが、できなかったことの不気味さに悶えるという理解になるの?

瀬上:いや、そこは微妙で実は両義的なものとして捉えることもできるわけです。つまり、「卓越した日常性」だと一応呼んでみましたが、彼女自身は実はけっこう勝手な奴で、世界がコントロールできると確かに思いこんでいる節がある。しかし、同時に世界の愚かしさとか、しょぼさとか、汚さの中に分け入っていくつもりの人です。そういう愚かしさとか、しょぼさとか、汚さを愛した時点で、彼女自身もそういう愚かしい世界――<地獄>――の中に巻き込まれてしまう。地獄の美しさを愛しているがゆえに、地獄に落ちる。地獄をコントロールできるつもりで、地獄を愛していた。コントロールすることは超越的な立場からやるわけですが、愛することはその対象と戯れながらやるわけですね。その違いを受け止めるというか…。うーん、どういえばいいのか。死すべき身体の世界を豊かにしたい、死すべき身体として生きたいと言いながら、彼女は死なない身体の世界からしか、アクセスできていなかった。彼女は、観念においては、死すべき世界を愛すると言いながら、彼女は自分自身に関しては、唾棄すべき不死の世界にいるものと思っていた節がある。死すべき世界から、死すべき世界の住民に向かって働きかけるべきところを、不死の世界からのコントロールになっていた。それがはじめて、死すべき世界の身体になったのが、三日坊主の事件だろうと。
 あと、「占い師か、スパイになりたい」というセリフは、社会的にフィクショナルな存在になりたい、と言っているようなものですね。つまり一般的な考えからすると、設定的なフィクション――ウサギのおばけ、亜人間――になりたいと言っているように聞こえる。ですから、ここは両義的なところなんです。彼女は、死すべき世界を豊かにしたい。だけれども、それは彼女自身が不死の存在に近い亜人間になることによって達成されようとする。

米島:すまん。何言っているのか、わからなくなってきた。たぶん、さっきのハイデガーとかフロイトの区分を云々しているんだろうけれど、何言っているかわからんと、考えすぎじゃねぇ?とかしか思えん。

[ つづく ](つづけたい)