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2007年04月04日

メディアミックス、容れ物の魔力 #02~二ノ宮知子『のだめ』 まだ始まらないゲームの話~

#01からのつづき

テレビとマンガ~『のだめカンタービレ』のドラマ化と、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』~

米島:そもそもメディアミックスだの、タイアップだのと言われている作品というのは常にこういう問題はあるわけだよね。同じく漫画の例で言うと『ピンポン』の映画化は松本大洋の原作と比べると著しく見劣りするものしかできなかったし、『NANA』の映画も妙に日本映画的な時間の作り方をする一方で作品にすりよったりして、よく言えば折衷。悪く言えば中途半端なわけのわからないものになっていた。『ドラゴンヘッド』に至っては完全にB級映画に墜ちていて、あれはほとんどギャグに近かった。漫画よりも先に映画を見てしまった人は、悲劇だよね。

瀬上:映画の話はテレビドラマの話とはだいぶ違う気がします。そもそもモニターと観客の間を織りなす関係性が大きく違うので、そこは区別する必要があると思います。
 それはさておき話をテレビドラマに戻して、2006年度に大ヒットした『のだめカンタービレ』のドラマ化について中心的に話をしたいと思うのですが、あれにはどういう感想を抱きましたか。

米島:あれは別格。あれはよかったよ。漫画からドラマへと容れ物を変えながらも上手く成功した例でしょう。もちろん、原作と比べるとある程度は別のものにはなっていたけれども、作品内容自体よりも、メディア間をまたぐということの問題を死ぬほどよく考えて作られてるということに感動してしまったね。
 典型的なのは、知り合いの女性の「マンガとほとんど同じで驚いた。素晴らしかった。」という感想を口にしてたけれど、こういう実感を引き出せる作品になってるわけだよね。

瀬上:原作に忠実に作られていて素晴らかった、ということですか?

米島:いや、そうじゃない。そんな単純なことじゃない。実写ドラマと漫画だとか、ゲームとアニメだとか、そういう形でメディアをまたぐというときに「原作に忠実」だなんてことは事実としてはありえないわけだ。強いて言えば「原作と同じだ、という感覚を抱かせる」ことに成功しているということだと思うのね。

瀬上:なるほど。それは確かにその通りだと思います。メディアが違う以上、まったく同じものができあがるとか、同じに作ったからいいものができあがる、というような話が通用するわけがないですね。では、具体的に『のだめカンタービレ』において「原作と同じだ、という感覚を抱かせる」という、リアリティだけをトレースするような作業があった、ということですか。

米島:そう。まず、その話のそもそもの前提から話をすると、テレビドラマっていうのはここ数十年、ヒット漫画の実写化とかってことのノウハウをけっこう積み重ねてきたんだな、ということを感じたのね。さっきと逆のことを言うようだけれども、ある種のマンガ的なリアリティを表現するということについて、テレビドラマはものすごく頑張ってきたな、ということを『のだめカンタービレ』をみて改めて思った。
 たとえば、『踊る大捜査線』とかはその最たるもので、キャラの作り方とか、あの慌ただしさとか、すごく漫画的な表現を起源としているものが多い。同じコメディドラマでも三谷幸喜のやってるような、喜劇畑のシチュエーションコメディをつくるようなやり方とは、ぜんぜん違ってる。逆に言えば『踊る』シリーズは多分、漫画を読まない世代には楽しくないんじゃないかという気がする。
 でね。『踊る』シリーズの脚本を書いた君塚良一の映画評論『脚本通りにはいかない!』(2002)を読むと、『踊る大捜査線―The movie―』(1998)での脚本作りの技法がいくつか書いてあるのね。それが、実はかなりそのまんま『のだめ』でもやられてる。

瀬上:なるほど。テレビドラマを、漫画のようなリアリティで伝える技法がある、と。

米島:そう。具体的に言うと『のだめ』って、すごくの話のテンポがはやい。勢いと流れに乗せて、軽快なギャグ、キャラクター描写、クラシックの音楽が矢継ぎ早に、怒涛のように流れていく話だよね。そのリアリティは漫画もドラマも両方きちんとある。でも、漫画とドラマとを比べると実際には一話一話の長さがまったく違うのね。
 漫画だと、だいたい一話20~30ページぐらいで、話のヤマ+オチ+ヒキが成立してる。一話一話の持っている時間はかなり短いし、話の構成も非常にシンプル。一つのプロットの区切りが、そのまま一つのストーリーとして描かれてて対応関係がわかりやすい。もちろん伏線がないわけじゃないけれど、全体的にシンプル。
 一方で、ドラマのほうは、一話が45分もあるのね。漫画では100ページ~120ページぐらいにあたる分量をいっきに再構成しなおしてて、一つのストーリーの中で、複数のプロットが同時並行的に走り、とても複雑で盛りだくさんな構成になっている。コンクールが展開していた思ったら、突如に恋愛の進展のことが入り込んで、恋愛の話を見ていたかと思ったら変態が出没する事件の話になってる。ガンガン話が変わってすごくスピード感がある。つまり、起承転結→起承転結→起承転結となってるのがマンガだとすれば、ドラマは、起承起起転承転結転承結結みたいなぜんぜん別の構成にしている。というか、そういう構成にしないと、逆に原作を読むのと同じようなスピード感は成立しない、と踏んだんだろうね。
 このテンコ盛りな脚本の構成の仕方は、まさに君塚良一がやっていたことですよ。さっき言った本のなかに、一つのシナリオの中に、テンコ盛りにさまざまなプロットを並行進行させていくことで『踊る』の全体のスピード感を演出した、と書いている。のだめドラマ版でもまさにこれがやられているわけだ。

瀬上:その指摘はいいですね。「テレビドラマ的リアリティ」と「マンガ的リアリティ」の親和性とか技法というのは、たしかに着目すべきものがあるかもしれません。
 ちなみに、僕も全体的には、米島さんと同じで、今回のドラマ化はドラマ化したスタッフがものすごくエライと思っています。ですが、僕はこのドラマ化はすごく成功してると思いましたが、そう思うがゆえにそこにある限界というのも逆に強く感じるところがありました。

米島:なるほど。わからんではない。具体的には?

瀬上:まず成功していたと思える部分について話します。マンガ分析の議論として、2005年に大きく注目を浴びた伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』という本があります。いくつか面白い概念が提示されますが、一番傑作なのは、キャラ/キャラクターという区分けが出てきます。
 「キャラ」というのは非常に抽象的で記号化可能な存在です、たとえばその代表格が『ぼのぼの』『ドラクエ4コマ』のあり方が代表的で、つまり人間的な内面描写がどうこうという話によって人物描写が成立させられているのではない。一応は人間あるいは擬人の形をしてるんだけれども、それはいくつかのすごく抽象的な要素によって規定されている。たとえば『ドラクエ4コマ』におけるクリフトとかは、「<ザキ>を唱えまくるバカ」「アリーナに密かな思いを抱く熱い男」とかそういうイメージを中心に、あとはいくらでもネタとして量産されるような、コミカルな存在です。伊藤剛によれば「複数のテクストを横断し、個別の二次元創作作家に固有の描線の差異、コードの差異に耐えうる『同一性存在感』の強さ」(P108)といったようなものが「キャラ」です。
 一方、「キャラクター」というのは、もっとややこしい。内面的に重層的な悩みとか、実存とかを問いかけてくるような人間描写を伴った<リアル>さを感じさせる存在です。例えば『NANA』だとかのようなものですね。どろどろした人間関係を描く話とかで一定の水準に達しているようなタイプのものは「キャラは弱いが、キャラクターは立っている」というような形で整理される。
 そこで『のだめ』ですが、このキャラ/キャラクターの区分に従って言えば、のだめはキャラクターは弱いですが、キャラは立っている。『のだめ』と違って、実際の音大の風景というのはもっと実存をガチに抱えたような学生がわらわらしていると思います。ですが、そういう複雑な<人間>的な関係性とかを全部コミカルに抽象化する。キャラクター的なものを全部キャラに落とし込んで世界を捉え直す想像力を提示しているのが『のだめ』という作品の持っているパワーですね。
 そして、ドラマ化にあたっては、この漫画的な「キャラ」を感じさせるような配役が強力になされていました。竹中直人、西村雅彦、及川光博、伊武雅刀といった役者はこの10年ぐらいの間に、存在自体がキャラになってしまったような役者だと思います。西村雅彦なんて、実存的な悩みとかの匂いをまったく感じさせない存在に上手いことなっていて、本当に見事な人です。上野樹里とか、瑛太とかの若手もそこらへんはがんばって漂白されようとしていた。これは、テレビというものが芸能人を「キャラ」化してしまう機能と、マンガの「キャラ」立ちというのがリンクしているような部分が、このドラマを成功させていたのではないか、と思います。

米島:キャラクターのキャラ化というのなら、農大マンガ『もやしもん』なんかも、近いことをやってるから、あれもテレビドラマ的なものに馴染むかもね。どうしても映像化の難しい部分はあるけれど。
 それと、そのキャラ/キャラクターという区分けはテレビの話をする上ですごく有効だと思うね。お笑い芸人の話をするとわかりやすいけど、さまぁ~ずの三村とかっているじゃない。あの三村って、ぶっちゃけ、三村個人を面白いと思っているやつって少ないと思うんだよね。だけれども、三村は芸能界に確たる地位を気づいている。あれは、三村自体が「三村ツッコミ」というキャラとして成功したからだよね。便利な記号になってる。存在自体は空虚だけれども、なんでも放り込める記号として便利だから流通してしまっているのが三村だよね。
 あとは、「踊る!さんま御殿」でみせる、さんまの若手に対する「教育」の仕方とかも象徴的でしょ。とにかく、同じネタでもいいからわかりやすいネタを繰り返すように露骨に強要するよね、ヤツは。細かい話はどーでもいいから、とにかくわかりやすいものになれ!という命令だよね。

瀬上:あれは、人間を削りとって、キャラとしての芸能人を産み落とす瞬間をショーの中で見せてしまう芸当ですね。あの「教育」を表舞台で見せてしまうのは厳しいですね。見ていて僕にはグロテスクで気持ち悪いです。最近のさんまとか、和田アキ子は、裏でやるべきことを表でやってしまう、見境のない大御所になってきていて、テレビを見ていられないです。

米島:まあ、それが逆にショーとして成立させているのが面白いと思うけれどね。裏とか表とかの境界を無自覚にぶちこわしている、あの人たちのああいう頭の悪さがオレは好きよ。タモリとかだと、頭いいから決してそんなことはやらないものね。さんまの若手に対する「教育」は、一方で視聴者へのメディア・リテラシー教育としても役にたってる。
 まあ、いいや。それで、そういうキャラ化というのがテレビ的作法の王道だととしたら、対するキャラクター化?ということを担っているのがワイドショー的空間でしょ。ワイドショーの芸能コーナーっていうのは、芸能人を一個人として掴まえることに全精力を注いでいる。冠婚葬祭のイベントとか、芸能人の不祥事だね。あの瞬間に垣間見える芸能人のキャラじゃない部分を掴みとることによって、あのショーは成立してる。
 そして、このキャラ的な部分と、そこからのズレを見通していたのが、ナンシー関の評論だよね。ナンシー関は、キャラと人間性の配置のズレとか、キャラの成立の可能性とか、そういう話を延々としてる人だった。ナンシー関の批評が好きで、サブカル関係にも詳しい人はすごく多いと思うけれど、ナンシー関の批評と、サブカルのキャラ/キャラクターの話って多分、つながってくると思うんだわ。

瀬上:ワイドショーはキャラの外側の人間性を掴まえる!という偽装をしながらキャラを作っているという気もしますが、ナンシー関に関してはそうだと思います。消しゴム版画を作っていた、というのも象徴的ですよね。彼女は、芸能人を消しゴム版画の中でキャラをいったん固定したイメージにしてしまって、そこからの距離をとりつつ、その人のキャラクターの話をしていた、とかそういうふうな位置づけもできるかもしれません。

米島:そう。ナンシー関は文章も天才的に上手いけれども、あの消しゴム版画の機能も圧倒的に重要なんだよ。一旦、人をマンガ的な描線に落とし込んで話を始める。もうナンシー関は死んでしまったから、どんどん忘れさられていくしかないんだろうけれど。
 まあ、この話はこのぐらいで止めておいて、あと『のだめ』ドラマ化の<限界>の話だよね。具体的にはどこらへんの話?

瀬上:はい。それも同じく、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』の概念を援用するとわかりやすいのですが、直接的な問題から言っておくと、千秋役の玉木宏とか、清良役の水川あさみらの存在の持っていた違和感ですね。
 キャラ/キャラクター概念に比べると少しわかりにくいところがあって、今ひとつひろまってませんが、伊藤剛はキャラ/キャラクターの区分に加えて身体描写の水準で「マンガのおばけ」/「うさぎのおばけ」という区分を立てています。
 「マンガのおばけ」というのは、マンガだからこそ成立している身体描写であって実写化すると壊れてしまうものですね。たとえば、さかさ絵のおっさんの顔だとか、男だか女だかわからない人間の身体の描画の仕方とかです。これはリアルに描いてしまったり、ムリヤリ実写化しようとすると途端にウソっぽくなってしまう。
 一方で「うさぎのおばけ」というのは、亜人間のことです。アンドロイドとか、ホムンクルスとか、二足歩行で立って喋る動物とかですね。手塚治虫の『地底国の怪人』の中で二足歩行で喋る知性をそなえたうさぎのおばけが登場することからこの言葉は採られています。
 手塚の作品というのは、男だか女だかわかりにくいキャラが多く、その中で沢山の亜人間を描いています。そこのある意味テキトーな描線――つまり漫画ならではのうその描線(マンガのおばけ)――でもって、うその人間(亜人間)を描くことに成功していた。浦沢直樹の『PLUTO』なんかになると、「うさぎのおばけ」(ロボット=亜人間)の身体を描くわけだけれども、身体描写としては記号的な「マンガのおばけ」ではなく、もっとリアルな肉感を持ったアトムを描くわけです。

米島:繰り返すけれど、『鉄腕アトム』「地上最大のロボット」での手塚アトムは「マンガのおばけ」かつ「うさぎのおばけ」だけれども、『PLUTO』での浦沢アトムは「うさぎのおばけ」だけれども「マンガのおばけ」じゃないということね。つまり、身体描線がフィクションであることが「マンガのおばけ」で、設定上のフィクションであることが「うさぎのおばけ」だ、と。そういうことね。

瀬上:多分、その理解でいいと思います。伊藤剛は、この区分と、キャラ/キャラクターの区分とがどう関わってきたか、ということで議論を展開していますが、その話は本を読んでいただくとして、『のだめ』のドラマ化においてこの問題がどう関わっていたかということです。
 『のだめ』は、少女漫画というべきか、レディスマンガというべきか微妙なところがありますが、とりあえず女性向けのマンガとして描かれていますね。女性向けマンガの中でも特に、少女漫画というのは、男性の描き方が特殊です。基本的に美形の男ということになっているけれども、筋肉ムキムキのマッチョとかはほとんど出てこないし、女性の身体と交換可能なような、フェミニンな身体描写がなされています。これは『のだめ』でも同様で、千秋は美男であり、かつあまり<男性>を感じさせるような顔というのはしていない。これは、『のだめ』の描線がそれほどリアル路線でない、ということでもありますが、『のだめ』は性的な身体を露骨に感じさせるようなキャラクター描写がない。いまのところセックス描写もないですし、オカマのキャラクターも違和感なく登場できる、抽象的、中性的な身体描写が一つの特徴になっている。つまり、千秋ものだめも「マンガのおばけ」みたいなところがある。千秋が料理つくったり、のだめが殴りかかったりするようなジェンダー逆転するような描写が数多くありますが、それも「マンガのおばけ」的な描線のテキトーさが可能にしている。
 ですが、これは実写になると必然的に厳しくなるわけですね。西村雅彦とかはもう性的だろうがなんだろうが、どうでもいい世界に突入しているようなところがあるので、気にならないですが、玉木宏はそれなりに男性としての身体を感じさせますね。水川あさみなんかも、女性としての身体を感じる。なので、僕はあの二人がドラマの中ではダメだったんですね。玉木宏は声も低いですし、これはなかなか難しい役です。

米島:なるほど。どの役者が気持ち悪く感じるかというのは、オレとはポイントがちょっと違ってて、オレの場合はオカマ役の小出恵介が厳しかったんだけれど、女性漫画家のマンガ表現が中性的身体だ、というのは、まあ確かにそうだ。
 少年マンガとか、青年マンガだと男性/女性の性的身体の描き分けは過剰なほどはっきりしてる。それに加えて、男のマンガは、ジェンダーの描き分けもはっきりしている作品ばっか。
 個人的には、少女漫画の場合は性的身体は描き分けず、ジェンダーの描きわけで男女が区別されているように思う。けれども『のだめ』の場合は、性的身体もジェンダーも、全部ぼんやりしてるよね。そもそも主人公ののだめが、<女性らしさ>とは別の次元で生きている。セクシュアリティ(性的志向性)はかろうじてヘテロ(異性愛)ということになっているけれども、ジェンダーもセックスも曖昧になった場所の中での、ヘテロだからなー。それって何なんだろうか、という気もするよ。
 『NANA』なんかは、ジェンダーがけっこうがっちりしてる中で男女が共同生活してたりするので、がっちりヘテロな感じの人間関係が前面に押し出されてるけれど、『のだめ』の空間って女性のホモソーシャルな空間が拡張されてるっぽい感じがするんだよね。完全に勝手な憶測だけれども、作者の二ノ宮知子って女子校出身者だったりするんじゃないか?あるいは、そうではなくとも、『のだめ』の一巻の一番最初に、女友達同士数人だけで、まったく色気のない場所で弁当をかっ喰らってたシーンがあるけれど、あの風景が作者の原風景なんじゃないかという気がするよ。
 まあ、その話はいいや。話を戻そう。「マンガのおばけ」の話はそうとして、「うさぎのおばけ」の話はどうなの?

瀬上:「うさぎのおばけ」に関して言うと、伊藤剛が使っている本来の意味とは少しズレてくるのですが、のだめの場合ネコの表現ですね。擬人化ならぬ、擬動物化の表現というのがあります。昔、井上雄彦の『スラムダンク』でも、「ゴリ」とか「キツネ」とかってやっていたのと同じ表現ですね。人間を動物としてデフォルメとして描く手法です。亜人間は出てこないんだけれども、人間を捉える視線の中で、主人公にネコの毛を生やして、ネコ人間のような描き方をしたりする。「ネコのおばけ」が随所に登場する表現が頻繁に出てきます。あれを映像化するのは相当に苦しいことをやっていますよね。映像化しようがないから、強引なCGとか着ぐるみで誤魔化している。

米島:ああ、あったね。あったあった。あれは、でももう、仕方ないだろうなあ。原作にそういう表現があったという時点で、その表現を無視するか、誤魔化すかしかなくない?
 いや、スタッフは頑張ってると思うよ。ものすごく。

瀬上:それはもちろん、そうです。

米島:結局、『のだめ』ドラマ化について、まとめると(1)キャラ立ちサイコー!よくやった!(2)ただ、マンガ独自のウソ身体と、ウソ人間設定だけは覆せなかった。残念!というまとめでOK?

[ つづく ](次は日常性の話。)