« DiGRA 2007論文募集中 | メイン | メディアミックス、容れ物の魔力 #02~二ノ宮知子『のだめ』 まだ始まらないゲームの話~ »
2007年04月02日
■メディアミックス、容れ物の魔力 #01~黒田硫黄 そのうちゲームの話~
黒田硫黄『セクシーボイスアンドロボ』
瀬上:こんばんわ。
黒田硫黄の傑作『セクシーボイスアンドロボ』が今年(2007年)の4月10日から、日テレのドラマになるそうです。今日は、それを記念して放映前に一つメディア間の表現の違いとかそういう話について、だらだらと話をしたいと思います。
米島:どうも、おばんです。まー、いきなり身も蓋もない結論から言うと、ぶっちゃけドラマ化とか、ほとんど期待してないつーか、だめなんじゃないかと思うけれどね。オレは、基本的には実写化否定派よ?『のだめ』とかは例外的によかったけれど、『セクシーボイスアンドロボ』はムリっしょ。予言しよう。もちろん、原作が傑作、という点は瀬上くんと同意見だとしても、ね。
瀬上:うーん、大なり小なりそういう感想は僕も抱くかもしれませんが、そういう予言は僕は保留しておく側に立ちたいと思います。
それとこの話のあと、メディア間の横断ということでいうと『セクシーボイスアンドロボ』だけでなく、2006年に大ヒットした『のだめカンタービレ』の話もしていきたいと思います。また、『ひぐらしのなく頃に』『サクラ大戦』『メタルギアソリッド』なんかの話もできればと思っています。宜しくお願いします。
さて、とりあえずは、話のきっかけとして、去年書いた『セクシーボイスアンドロボ』について書いた評論がありますので、これネタにすることから話をはじめたいと思います。
以下がその評論になります。
黒田硫黄『セクシーボイスアンドロボ』~ニコが握る金網はなぜ悲しいのか~
1 問題
私はセクシーボイスアンドロボが傑作だと思っています。
なぜ、セクシーボイスアンドロボが傑作だと思えるのか。この話はもちろん、複数の側面から語ることが可能です。作品というのは、いかにすぐれたものであろうがなかろうが、あまりにも多くのものから成り立っているというのは自明のことなので、そのすべてについて遺漏なく捉えることはできません。小林秀雄のいうように、「われわれは作品について語りつくすことはできない」。原理的に。
そのごくあたりまえの前提をだしたうえで、セクシーボイスアンドロボについて<私が>語るとすれば、焦点にすえておきたいのは、主人公であるニコという少女の感性の問題です。
2 観察の強度
主人公である14歳の少女ニコは大変に頭のいい女性として描かれています。それは成績が優秀だという意味ではなく、臨機応変に頭がきれて、なによりも、中学生という年齢にありながら世界そのものを透徹した形で見つめるということに対する確たる自信をもっている少女です。いや、世界を透徹した形で見つめる――というのはあまりにもいいすぎかもしれませんが、少なくとも、14歳という多感な時期でありながら自らを取り囲む世界と自らがどのようにつきあっていけばよいのかということに対して、過剰なほどに自覚的であろうとしつつ、実際に並みの14歳とは比べ物にならないほどに世界とうまくつきあっている、並外れて容量のいい子供です。
そうした彼女の自負と天才は、一つには彼女の日常場面での観察能力や、会話の面白さの中にあらわれます。例えば、物語がはじまった直後のニコの人間観察のセリフは印象的です。
(『セクシーボイスアンドロボ#1』7頁)
「あの人は/イライラしながら/もう20分。」「イライラ/すんのが/好きなのかしら。」「声は明朗、/そして平板。/ポーズを/崩さず/地位に/執着。」「だから、/女より/上じゃないとだめ。/金を渡さないと不安…」「会っても/ニコリとも/しない/だろうね。」
「あっちは/誰でもいいの、/やれれば。」「低く細い声、/話すことは/「あーそうだね」と/愚痴。」「自信が/ないから/5分も/待ってない。」「わたしー、/そんなに/かわいく/ないしー。」「て言うと、/俺でも釣り合うや/って思う。」
この分析は、少女の圧倒的な能力を感じさせる凄みのある描写です。
一方で、日常の会話も魅力的です。
(同掲書、P136)
少年達「バーカ/バーカ」
ニコ「これこれ/君たち。」「かわいい子/だからって/いじめちゃあ/だめでしょう。」
少年達「るせーー/うるせーー」「ばーーか/ぶーーすばーーか」
ニコ「男子って/語彙が/少ないねえ。」この会話はそこまでの凄みを感じさせるものではありません。日常の会話であるのだから、そこまで凄みのある発言は過剰に過ぎます。そこまで過剰ではない程度に、ところどころ気の利いた一言や、シャレた一言が随所に織り込まれます。彼女の中学生離れした能力は、ただ天才的なものとして描かれるだけでなく、こうした何気ない会話の中の節々に現れます。これによって、読者はこの少女を生々しく受肉した存在として享受することが可能になっています。現実的であるからこそ彼女の非現実的な優秀さの描写はより強度を持ちます。
3 世界像の成立と機能。
彼女の感性の話に戻りましょう。
世界を透徹したかたちでみつめようという自信は彼女の圧倒的な優秀さを起源としています。ただ、それと同時にその過剰ともいえるほどの自信のありようは彼女の思春期の証でもあります。現実に対する透徹した世界像――だとして自分が考える世界像それ自体によって彼女は自らのありよう、彼女自身のアイデンティティのような部分をささえる機能も果たしているように思えます。 たとえばそれが極端に現れるのが第一話のヤマ場です。彼女は警察が関わるような犯罪を彼女一人だけが解決できる機会を偶然にも持つことになります。彼女は武術の心得があったりする14歳ではなく、単に頭がいいだけの14歳です。冷静に考えれば、自分自身の危険を考えて女の子が一人で関わるのはあまり賢い判断とは言えません。彼女は自分に言い聞かせます
(『セクシーボイスアンドロボ#1』P24~P25)
「まだ私/中学生だし、/電話でエロ話するのとは/違うのよ。/誘拐犯人なのよ。」
「のこのこ/ついてって/何をするの?/何ができるって/いうの?」と。しかし、その後に「よく/考えて!/考えて/考えて!」と自らの頭に問い合わせてから、彼女はこう続けます
「今見つけて/今追わないと/逃がしちゃう。」
「私の耳が、/私だけが/見つけたんだもの。」
「わたるくんの/いるところ。」
「知らない子/だけど。」「今救えるのは/宇宙で私だけ。」
この自己暗示ともいえるようなセリフによって、彼女は現実に進行している危険な事件に対して頭ではそれが危険なものであることを理解しつつも、実際には極めて大胆な行動をとって事件の解決を図るためのコミットメントをしていきます。
第一話以降も、彼女はとても14歳とは思えない、大胆な行動力と明晰な判断力によって次々と事件を解決していきます。家では普通の14歳の中学生の少女としての生活もしながら、喫茶店のおじいさんという別世界の住人とつながることで彼女は普通の14歳のリアリティと、スパイを目指す現実離れした14歳のリアリティ。二重生活を続けながらこの二つのリアリティを往復します。
彼女は、小さなミスは重ねながらも、やはり基本的に極めて明晰で、大胆な解決能力をもつ14歳でありつづけます。世界に対する彼女の圧倒的な優秀さは、まさしく彼女自身によって証明されつづけ、事件のたびにその優秀であることの保障は証明されつづけます。彼女が世界に対して透徹した感覚をもつことは、まったく間違いではない―――少なくとも彼女自身、あるいは彼女とリアリティを重ねている読者はそうした「自覚」のなかで、世界と優雅につきあっていく彼女の術にまどろむことが可能でありつづけます。
この作品は、ニコという少女の優雅な魅力によって構成され、実際に多くの読者は彼女の14歳らしからぬ優雅な魅力によって本作に対して強力に惹かれて行きます。
4 世界像の裏切り
だが、そのような感性が、致命的にうらぎられる瞬間がやってきます。
あるときに彼女は、殺し屋の男「三日坊主」に関する事件にかかわることになります。そして、一度の三日坊主の目論見を阻止します。その瞬間にもまたニコという少女の優雅な振る舞いの記録はまたも更新されます。しかし、その後、三日坊主は殺しに失敗したことで、三日坊主のマネージャーから始末され、殺されてしまいます。彼女の知らぬ間に。そして、しばらく経ってからその事実を知るわけです。ニコが殺しを阻止したという事実が、三日坊主を結果的に死に追い込んだ。
この死は道義的にはニコが責任を負うべきことではありません。ですが、彼女はその事件と関わった瞬間に、責任を負うべき/負わないという問題ではなく。彼女の情が深い/深くないという問題ではなく。ニコが事件の結果を変更できたかもしれない、という<可能性>を過去において手に入れています。いや、手に入れていたはずです。その可能性は凡人には到底つかみがたい、ごくわずかで発見できないような可能性でしかありません。ですが、これまできわめて優秀な頭脳と判断力によって、つねにゆれうごく世界のささいな表情をみのがさなかった14歳の少女ニコにとっては、そのような可能性もまたつかみとることが可能であった・は・ず・です。彼女はこれまでに何十人もが死んでしまうかもしれないようなテロ事件も防いでいるし、少年や少女が殺されるかもしれないような事件からも、当事者たちの多くがなるべく幸せな結果におわるように事件を終わらせている。彼女は、読者にとってはもちろん、彼女自身にとってすら、ほかのだれよりも優秀な英雄であったはずです。彼女自身が、自らが英雄であることについて強く自負を持ち続けてきた存在です。つまり、彼女には、彼女がかかわった、というその時点において、その三日坊主が<死なない>ための可能性がありえたのだし、彼女にとってその可能性は発見しなければいけない、発見できなくてはならないものでした。それは決して不可抗力ではなかったはずです。<彼女にとっては>。
しかし三日坊主は、彼女の予想と彼女の自信に反して、気がついたら死んでしまう。その瞬間に、彼女も、そして読者もまた気づかざるをえない。
彼女はきわめて優秀な英雄でした。そして現在においても、やはり現実離れして優秀な14歳ではありつづけます。だが、彼女は、「現実に対して万能ではない自分」をその瞬間に発見せざるをえない。抗いようもなく。世界は安穏とはしていなくとも、世界に対して自由でありえた自分という、自己イメージがつきくずされる瞬間です。
黒田硫黄は、この事実を知った瞬間、ニコの握る金網を大きく描きます。そして、その金網には小さな14歳のニコの手が過剰に力をこめられて握り締められている。ここで描かれるニコの手は、英雄的な少女としてのリアリティが、普通の14歳の少女としてのリアリティへと往復し苦悩する瞬間の象徴です。
殺し屋である三日坊主は、ニコが感情移入する対象として描かれてはいるものの、ニコにとっては肉親でもないし、親しい友人でもない。彼女は三日坊主の死に対してもちろん悲しんではいるのでしょうが、実はここで悲しまれているのは三日坊主本人の死に対しては実は悲しんではいないところがあります。
ここでニコによって独白されるこのセリフこそが、それをよくあらわしています。
(『セクシーボイスアンドロボ#2』P91~P92)
「おじいさんは、/私に仕事を/くれたから。」「ワクワクした。/胸がいっぱいに/なった。」「あのとき、」「もう」「選んでいたんだ」
「地獄を。」
このセリフは二重の意味で重要です。
一つには、このセリフの過剰さです。周囲において人が一人死ぬことを「地獄」と表現してしまう。そのような表現の仕方は、彼女の思春期としての14歳をそのまま投射しています。30にも40にもなったような人間が、周囲でとくに自分にかかわりのない人間が一人死ぬ事件があったからといってそれを「地獄」と表現してしまうのはいかにもオーバーです。だけれども、ニコはここで「地獄」という極めて強い言葉を独白によって自らに言い聞かせています。これは、作者が過剰な表現を好む人だからではありません。作者の黒田硫黄は絵の選択のセンスもさることながら、言葉の選択のセンスも異常にとぎすまされた選択をしてきています。ここで「地獄」という言葉をニコが言わざるをえなかったのは、疑いようもなく、彼女自身の昂ぶる感情のためです。
そしてもう一つには、彼女は「地獄」という世界のありようのことを語っているのであって、三日坊主の死を悲しむ言葉を告げているのではないということです。彼女は三日坊主の死だけを嘆いているのではなく、ここで嘆かれているのは、なによりも彼女自身の選択です。それは、彼女がいままで常に地獄を常に選択しつづけながらもその一歩手前でそれを掬いあげてきた過去が不全になってしまった現在です。
彼女は三日坊主だけの死を嘆いていない。三日坊主だけの死を嘆くことはそもそも不可能です。彼女はただ自らの愚かさと小ささを嘆いていることがこの言葉から明らかに感じ取ることができます。彼女は自らの小ささを嘆きたい。そして、自らの小さな肉体を確認するためにこそ、金網を握り締めます。そこで握り締められる金網によって彼女の肉体は彼女の小さな肉体を確認し、そして読者は大きく描かれた彼女の小さな手を見つめるに至ります。
彼女が世界を透徹した目でみつめられる、と自負していたからこそ、この金網をひきちぎることすらできない小さな手の描写はきわめて悲しくうつります。これによって彼女は英雄から人間たりえます。「英雄」の不可能性が、「人間」の証として逆転する瞬間です。
5 キャラクター視線の停止と、読者の視線の登場
さらにいえば、この瞬間、これを読む読者は完全にニコに感情移入をしているわけではおそらくない。感情移入というのは物語を論ずるうえであまりに支配的ですが、物語を読むとき、主人公と読者はイコールで結ばれるわけではない。
読者は主人公からみえる世界の風景へとリンクされると同時に、主人公そのものをもまた見つめています。だからこそ、この風景――ニコが英雄と少女の間を往復する風景――を外側から見つめて読者は悲しむことができます。
この物語は、シャレていながらも実際にあり得そうな雰囲気の会話を、ありふれた都市の風景の中で描いていく日常を描くこと。そして、そこに登場する人物が優雅な英雄として活躍するもう一方の夢の世界を描くこと。その二つの間を往復する物語です。金網を掴む少女の手が大きく描かれる一枚の絵は、手と金網の後ろに、英会話学校のビルや、カード会社やサラ金会社のビルが立ち並ぶ、つまらない都市の風景が描かれています。この風景をニコが冷静に眺められているのかどうかはよくわかりません。読者も眺められていないかもしれない。ただ、読者はここにつまらない都市の風景が並んでいるということを確認することができます。少女の悲劇は、このつまらない都市のリンクし、このつまらない都市の風景の中で起こっている出来事です。
物語は、ここを一つのピークとして、再び彼女の日常に戻っていきます。「地獄」というこの過剰な言葉が語られる瞬間。この瞬間においてだけ彼女の日常世界を見つめる明晰さは一瞬停止しています。ニコの透徹した視線の停止するこの瞬間にこそ、読者はニコの佇む雑居ビルの日常世界の風景をまじまじと観察することが可能になっています。ここでつまらない風景が大きく描かれるのは、読者をこの立場に配置するためです。
読者はニコにただ感情移入するのではなく、ニコという少女を外側から見つめることが可能な存在として配置されるからこそ、ニコの英雄性と少女性の揺れる、その二重性を観察することが可能になります。
結
黒田硫黄の、人の日常を描く能力は卓越しています。
そして『セクシーボイスアンドロボ』ではそれに加えてすばらしいのは、感情移入の果てにある悲しみなどという、王道的な表現をやらないでいて、そうでありながらもどうしようもなく悲しい風景を描いたことにあります。
死ぬのが「おじいさん」や「ロボ」ではいけなかった。そこまで情のある人物が死んでしまって悲しいのは、ごく当然のことです。だけれども、そうではない。これは多感で優秀な少女の世界が構築されていくと同時に、裏切られる物語です。
人が死ぬ話だけれども、人が死ぬことによって、われわれは人の死そのものを嘆くだけがすべてではないのだ、ということ。この物語はそのことを極めて精緻に描きえているように思います。
© Akito Inoue 2007.3.31
米島:なるほど。面白いけれど、黒田硫黄についての評価の仕方としては、そういう形でピークの「ヤマ」の部分を評価するというのは、どちらかというと、邪道というか、横道だという感じがするよね。
黒田硫黄のすばらしさというと、普通に言うとやっぱり日常の会話のセンスの良さとか、そういうところがメインだというのが普通だよね。ヤマのところをメインに話をしてしまうと、黒田硫黄の良さみたいなところが逆にわかりにくい。
瀬上:もちろん、それはそうです。黒田硫黄は、ヤマ場の盛り上がりとかで評価する作家じゃありません。『昴』の曽田正人とか、『シグルイ』の南條 範夫+山口 貴由じゃあるまいし、ヤマ場のテンションで勝負する人ではない。ただ、この議論の目論見というのは、ヤマ場が普通は重要でないと思われている作家だからこそ、ヤマ場について語ることでその逆の部分が照射されるのではないか、というような話ですね。
とりあえずそれはそういう話だと思います。
さて、ヤマ場という点で話が出たので、テレビドラマとヤマ場の見せ方というような話をしてみたいと思います。私はテレビドラマの制作の話はほとんど知りません。ただ、テレビドラマというのは、映画や小説と比べると、非常にうるさいものを作ることを念頭に映像が作られていますね。うるさい、というのはつまり家事をしながらでも話の筋がわかる。風呂に入りながらでもわかる。音だけ聞いていてもわかるというのはある意味ラジオドラマと似ていますが、とにかく、集中して見ていなくても、ものすごくわかりやすいものを作るというのがテレビドラマの重要なミッションとしてあります。視聴率を稼ぐためには、とにかくマスに向かって訴求力のあるものが求められる。
そうなると、ある程度集中力を持ってむきあわないと魅力が伝わらない黒田硫黄の話をそこでどう表現するか、が問題になってきます。黒田硫黄の表現する何気ないやりとりの秀逸さ、をどういう形でテレビドラマにしていくか、ということです。黒田硫黄の漫画はよく「ミニシアター」的という言葉で言い表されますが、まさにミニシアターで上映するのに適した空気が流れる作品です。これを集中力がなくてもわかるようなうるさい話にしてしまうと、それはもう黒田硫黄の作品なのかどうか怪しくなってくる気がします。
米島:それは確かにすごく難しいだろうね。ここんところ名作と言えるような漫画のテレビドラマ化がまた再び活発になってきてるけど、そこを上手く処理できてるドラマは数えるほどしかない。特に黒田硫黄の作品はテレビドラマにはしにくい。ヤマ場のセリフを大声はりあげて、ベタベタのアングルで展開される『セクシーボイスアンドロボ』なんて、それはもう黒田硫黄のそれとは全く別物だよね。
で、俺も今回、ドラマ化されるというので『セクシーボイスアンドロボ』を読み直したけれど、改めて読んでみると、これがまた憎たらしくなるぐらいによくできてる。例えば、2巻の131頁
ニコ「良枝さんは遊びに来るお孫さんはいないんですか?」
良枝「あら、私はね、結婚しそびれてしまったの。」「本を読んでいたらおばあちゃんになっていたのよ。」
ニコ「じゃあ本を読むようなお仕事をしていたんですか?」
良枝「そうねえ、記者とか作家とか。」
ニコ「うわあ、かっこいいですね。」
良枝「あなた、今の若い子は援助交際とかするの?」
ニコ「え?」「今の若い子がみんなしてるわけはないですよ。」「してる子は若いからだろうけど。」
良枝「ルーズソックスなどはおはきになる?今の子は。」
ニコ「い?今の子ははかないです。中学だと制服と合わないし」
良枝「まあ、そうなの。」「テレビでしか知らないものだから。」
ニコ「…………」
良枝「あ、お紅茶濃くない?」
ニコ「ああ、はい。」
良枝「うそをつくと閻魔様に舌を抜かれてしまうのよ、知ってる?」
ニコ「あのう……」「わざと老人ぶっていません?」
良枝「まあ…」「どうして?」
ニコ「良枝さんは失敗したことありますか。」
良枝「まあ、失敗?」「あなたは、あまり恋なんかしそうにないけれど」
ニコ「へ?」
良枝「そうじゃないの?恋におちるのは自分を見てる人で」「あなたみたいに他人に興味シンシンの人は……」「えさを撒いて釣るのに夢中だから、」「なかなか釣られるほうにはならないのよ。」
(しばし沈黙、ニコ、良枝互いに見つめ合う)
ニコ「そういう失敗じゃなくて…」
良枝「あら、そういう失敗じゃないの?」「どういう失敗?」
この会話とかものすごいギョッとするよね。すごく静かな会話なんだけれども「わざと老人ぶっていません?」とかこういうセリフがすらっと飛び出してくる。
あと、こうして並べてみるとわかるけれども会話の展開が実はすごく速い。だけれども、その間の取り方はすごくゆったりしているし、セリフの数もすごく少ないわけだ。静かだけれども、ものすごい緊張感がある。これはテレビドラマみたいなものの技法の中で取り扱えるのか、という気がするよね。もちろん、こういうやりとりがすごく部分的に、フォーカスの当てられた場所だけでやる、っていうのならば扱えるかもしれないけれども、この作品はこういう会話のオンパレードだもんね。ぜんぜんテレビには向いていない。ちょっと眠くなってくるようなミニシアター向けの会話。
もちろん、中にはテレビ向きの話もあるにはある。第三話「エースを狙え」とかはテレビ向きだろうね。サッカー場という巨大な観客に見つめられる場所の中心地点で起こる犯罪の話なので、映像にするとキレイだろうね。
でも、その一方で、第五話「日本のバカンス」はどうやってテレビドラマに持って行くのか想像がつかない。これは、巨大な観客が見つめるサーカスという場所で話が展開していくわけだけれども、サーカスの女の子が微笑む一瞬の風景を感じ取る少年の視線こそがこの話のヤマになってる。サーカスは映像になるだろうけれど、サーカスという場所で、一人の少年「だけ」がなんとなく感じ取る一瞬の心変わりという、すごくわかりにくいものが話の核をなしてる。
あと、第10話「一夜で豪遊」のラストのニコのセリフ「私がしたいのはね、この世界にちょっとしたドリームを与えるような…」「そういうことなんだ。」。これはそのまま言葉にしたら、気まずいセリフだけれども、黒田硫黄の作り出した空間の中でこそかろうじて活きてくるセリフだよね。テレビでやったら、そんなもの多分再現できないだろうから、単に陳腐になるだろうねえ。これはもう仕方がない。
瀬上:ありがとうございます。米島さんに僕の感じていた不安というのをだいぶ具体的に話してもらったように思います。テレビドラマの「誰にでもわかりやすく」「飽きさせない」という方向性とはあまり親和性が高くないですね。わかるかわからないかが微妙なあたりの会話の奥深さの表現は一筋縄にはいかない気がしますね。
[ つづく ] (次はのだめカンタービレの話。)