90年代中盤までは、「映画に負けないゲームをつくること」が、ゲームマシンの描画性能を向上させていく大きな動機として機能していた。 だが、90年代中盤にプリレンダリングのムービーシーン(カットシーン)などを多用した97年『ファイナルファンタジーVII』,99年『ファイナルファンタジーVIII』のようなゲームが発売されるにつれて、「映画的なゲーム」という言葉は、一方ではけなし言葉としての機能も持ち始めることになる。
ゲームを語る文脈で「映画的」という場合、TVと映画とか、小説と映画とかといった話ではなく、単に「キレイな映像」という意味である場合が多かった。では「キレイでない映像」とは何のことかというと、ファミコンのドット絵のようなもののことである。 98年に、『メタルギアソリッド』が大ヒットを遂げると、小島秀夫の作品に対して褒め言葉として「映画的」という言葉が用いられることが多くなる。ここでの「映画的」というのは、一つには映像の美しさについてであるが、もう一つにはハリウッド的なシナリオだ、という意味が込められている。なので、ゴダールなどの「映画性」の話などはいまのところ言及はほとんどない。
鈴木香織は、ゲームの文脈で「映画的」という言葉が褒め言葉として機能する場合と、けなし言葉として機能する場合の作品には違いがある、と言っている。 それは映像がキレイかどうかとか、カットシーンでのアングルの作り方などが映画の技法をふまえているかどうか、といった点とはそれほど強く関係しない。問題は、美麗な映像が与えられたときに、プレイヤーがその映像に対して操作権限をもっているか、どうか、というような点に集約されるという。たとえば、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(1998)などは、そういった点に配慮したため、「映画的」という言葉がほぼ賛辞であった。