Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―

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他者を現前させる装置

 鷲田清和は、中井久夫が阪神大震災において「みつめられる」という経験をしたことを引き合いにだしつつ、他者によってみつめられる、ということを契機として「」が単なる光の反射の成す映像以上のものとの現象してくる自体があることを指摘している。

 鷲田清和が「」をこのようなものとして語るのは、「」によって自己をまなざされることで、「」は他者を現前させるインターフェイスとしての役割を果たしているものだ、という視点にたっている。(と捉えることができる。)

 鷲田の議論からこの話をするのは微妙かもしれないが、たとえば「にらめっこ」をAI相手のコンピュータ・ゲームで実装するのはとても難しい。「にらめっこ」の対象は、あくまでそれが人間だということを感得できなければ、かなり難しいものがある。

の役割

 ゲームにおけるはどのような扱いをうけているだろうか。のもたらす役割によって、見事に

 ゲームの中でのの扱いは様々であるが、の描写が特殊な一例として、美少女ゲーム―――とくに『サクラ大戦』などに見出すことができるだろう。
 『サクラ大戦』においては、は通常、四段階で描かれる。

  • (A)まず、マップ上のゲームトークンとしての(二頭身キャラ。フィールドマップ)。
  • (B)表情をあらわす記号としての(画面左下。のパターンが何種類もある)
  • (C)鑑賞対象(?)としてのディティールまで描かれた上半身。(人気漫画家の藤島康介によるイラスト)
  • (D)重要なシーンなどで登場する、背景画つきの全身画(同じく藤島康介によるイラスト)

 ここでは操作対象としてのトークン、識別記号としての、表情伝達装置としての、鑑賞対象としてのといった役割がシステム的に区分けされ、必要に応じて適したレベルの「」が召還されることになる。

キャラ/キャラクター

 伊藤剛は、漫画を分析する概念装置として「キャラ」と「キャラクター」という区分を提唱している。かなり、おおざっぱに言ってしまうと、「キャラ」とはきわめてフィクショナルな世界の中でフィクションとして作られた類型的で記号的な人物描写である。対して「キャラクター」とは、近代的な自我をもった存在である。
 前述の、『サクラ大戦』シリーズはこの分類でいうと、きわめて類型的な「キャラ」たちとの戯れを楽しむことに重点の置かれている作品である。だが、シナリオ上で重要な意味をもつシーン――多くの場合、人がんだり、強い覚悟が語られたりするシーン――においては、よりディテールの細かく描かれた上半身絵や、全身画つきのが呼び出される。
 このような形での描写手段と、人間描写は強く関連づけられている。

参考

鷲田清和『の現象学』
伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』


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最終更新: 2007-02-17 (土) 20:46:02 (3931d)