Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―

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 ゲームの評価を論じる上でのマジックワードの一つ。ゲームがどの程度、自由か、という意味で使われてきた。
 「自由度」という言葉がゲームの文脈で明確に使われ始めた時期は明かでないが、おそらく80年代後半からとみてよいだろう。主にゲームの面白さをはかる指標の一つとして「ゲーム性」などと言った言葉と同様に使われている。多くの場合、「自由度が高い」ことと「面白いゲーム」はほぼイコールで捉えられる。あるいは「ゲーム性自由度」といった言い換えもたまに見られる。
 「ゲーム性」と同じく、意味が曖昧であるにも関わらず、評価のための重要な指標として用いられる。そのため、人によってはこの概念を用いることを避ける人も多い。

オブジェクトかサブジェクトか。

 「自由度」という概念を実体的に捉えるのはかなり困難が伴う。
 たとえば、一つの作品の中でも「自由」の感じられ方は、都度ごと、人ごとに異なってくる。そもそも自由という概念が成立すると考えられる場合には、ある選択肢が「存在する」こと自体よりも、その選択肢を選びとる人間が、自分が選び取る選択肢についての認識、理解をしていることのほうが重視される(→自由意志?選択前提?)。
 たとえば、選択肢の意味をまったく理解できないような、ABCという3つの選択肢は、それぞれに何の差があるか測定できないのならば、選び取るという行為自体はまったく無意味なものである。Aを選び取った場合、Bを選び取った場合、Cを選び取った場合に、それぞれどのようなメリットとデメリットがあるかを認識できなければ、選択肢A、選択肢B、選択肢Cの差は実質的に消え失せる。重要なのは、選択肢が存在することではなく、選択肢を選び取る主体が選択肢を理解できる、ということである。
 つまり、ここでは「自由なゲーム」や「自由アーキテクチャ」がある、というよりは、「自由主体」がある、という発想が一つには可能である。そう考えたとき、オブジェクトとしての「自由なゲーム」を考えるのはナンセンスな発想だと捉えられることになる。

自由度の測定可能性

 ただ、上記のような原理論を横において、自由度という概念の測定可能性を操作的定義によって論じることは不可能ではない。ということで、とりあえずの測定方法について下記に提案を行いたい。

量的自由度:任意のパラメータ数

 一つには、いくつかの自然科学で採用されている方式として、自由度を任意に決定可能なパラメータの数と捉えるという方法である。この方法を仮に「量的自由度」と呼ぶことにする。たとえば、

10=X-Y+3

 という式があった場合には、任意に代入可能な変数はXとYの二点であるので、量的自由度は「2」と捉える。同様に

10=X-Y*Z+3

 という式であれば、X,Y,Zの3つが任意となっているので、量的自由度は「3」と捉えることができる。

割合的自由度:任意のパラメーター割合

 また、数ではなく、パーセンテージによって捉える、ということも可能だろう。この自由度を「割合的自由度」と呼ぶ。先ほどと同じ式

10=X-Y+3

 ならば、10,X,Y,3のうち任意の変数の割合を捉えて、これを割合的自由度「50%」ということもできる。同様に

10=X-Y*Z+3

 ならば、自由度は、10,X,Y,Z,3なので、割合的自由度「60%」と捉えられる。

パラメータの重み付け

 「10=X-Y+3」という式に登場する、XとYという二つの任意の変数が合った場合に、XとYでは、プレイヤーにとっての変数としての重要性が違う、という場合が存在しうる。
 たとえば、80年代中盤以降の和製RPGを考えて見ると、しばしば論点になるのは「シナリオが一本道」かどうか、ということであった。一方で、戦闘でのキャラクターカスタマイズの量的自由度や、キャラクターの名前を任意に変更できるかどうか、といったことはそれほど大きな問題として見られていない。
 このとき、シナリオ(X)が任意であることは、キャラクターの名前(Y)が任意であることよりも、より重要な変数として見いだされている。そのため、XもYも同じ独立したパラメータではあるが、Xの存在はYよりも強力な重み付けがなされている。

 この重み付けの問題を計算するのは、ゲーム単体では不可能である。ユーザーの心理状況を勘案する必要がある。つまり、ユーザーに対して「どの要素が自由にことが、あなたにとって重要ですか」といったユーザーアンケートをその都度していく、といったことで、パラメータ間の重み付けを確認していくしか方法はないだろう。

被ハブ的自由度

 次に、パラメータ関係性をどう考えるか、ということも測定上の問題になってくる。例えば、アバターのや、服装をカスタマイズできるゲームは近年では珍しいモノではなくなった。Mii*1のカスタマイズ機能と、Sims2のアバターカスタマイズ機能とを比べた場合に、量的にはSims2のほうがカスタマイズ可能なパラメータ数は多い。そのため、Sims2のカスタマイズ機能のほうが量的な自由度は高い、と言いうる。(全体的自由度は、ともに100%だとする。)
 しかし、Miiは、Wiiというプラットフォーム自体の機能であるため、『Wii Sports』や、『Wii Fit』など数多くのゲームと結びついているため、Wiiというハード上で展開されるゲーム全体の自由度上昇に貢献していることになる。Sims2のアバターもネット上にアバターをアップロードしたりすることはできるが、他のゲームに対するAPIとしては機能していない。
 ここでは、ハブとなりうる自由度において両者は大きく異なっている。これを、被ハブ的自由度、と呼ぶことにしよう。
 被ハブ的自由度は、結果的な量的記述*2も可能だろうが、割合としての自由度を質的に記述することの方が意味があるだろう。
 ここで重要なのは、固定された(標準化された)インターフェイスがどこにむかって開かれているか、ということである。例示すると、次のようになる。

  • 開発企業標準:開発企業にとってのインターフェイスの標準化
    • 例:Miiを転用可能であること(企業にとってのオープン・モジュラー化)、シリーズ前作のセーブデータを次回作に引き継ぎ可能であることなど(企業にとってのクローズ・モジュラー化)
  • ユーザー標準:ユーザーにとってのインターフェイスの標準化
    • 例:Sims2のアバターのアップロード可能な性質など、ユーザーが自由に交換可能なモジュールとして機能するような標準
  • ゲーム・システム標準:ゲーム・システムを介して利用可能なインターフェイスの標準化
    • 例えば、ポケモンは同じゲームシステムを介してのみ交換可能。Simsなども同様。

 などである。

目的自由度、方法の自由度

 さらに、ゲームの目的を任意に選べる、ということと、ゲームプレイの方法を任意に選べるということでも、意味はまったく変わってくる。*3
 さらに、目的自由度は、至近目的自由度と、究極目的自由度*4を分けられる。至近目的自由度とは、例えば「レベル上げ」だとか「シナリオ進行」だとか「アイテム収集」だとか、ここ数時間、数十分でやりたいこと。究極目的は、たとえば「エンディングA」「エンディングB」といったマルチエンディングの問題として位置づける。

実際のカウントの問題

 まとめると、次のようになる

  • 定量的測定のための概念
    10=X-Y+310=X-Y*Z+3
    1.量的自由度:パラメータ数23
    2.割合的自由度:パラメータ割合50%60%
    3.重み付け評価を含めた自由度(アンケート結果で変動)(アンケート結果で変動)

実際のカウントの難しさ1:プレイヤー認識範囲との齟齬(自由自在

 ただし、上記のような算出方法も、認識の問題と不可分である(特に割合による算出)。「自由である範囲」、あるいは「自由であるべき範囲」の全体性をどのように認識しているのか、ということによる。
 例えば、あるゲームに慣れておらず、ほとんど一つのことしか制御できないようなプレイヤーの場合を考えてみよう。

10=X-Y+3

 という式が成り立つ場合も、プレイヤーが、

10=X+3

 としか認識していない場合は、プレイヤーにとって認識可能な量的自由度は「1」であり割合は「33%」となる。
 あるいは、あるゲームジャンル(RPGでも、格闘でもよい)に慣れたプレイヤーにとっての自由度、ということを考えてみるとこの逆の現象が起こりうる。

10=X-Y*Z+3

 という式が成り立つ、とゲーム制作者が考えていても、あるジャンルに慣れたプレイヤーからすれば、他のゲームではいじれた要素iや、要素ii、要素iiiが固定されていることが気になって仕方がない、という場合がありうる。その場合、「10=X-Y*Z+3」という式は

10=X-Y*Z+3-(2+3*3-14/7-12/3-2*4+3)

 という認識に変換されて認識されることになる。量的自由度は「3」で変わりなくとも、割合は「20%」まで下がることになりうる。
(この問題については、自由度に対する「自在」概念も参照のこと)

実際のカウントの難しさ2:パラメータの独立性

 もう一点ややこしいのは、パラメータの独立性をどう考えるか、ということである。
 たとえば、要素Xという独立したパラメータがある、といった場合に、

X=(Xi+Xii+Xiii....+Xn)

 といった複数のサブパラメータの集合として、パラメータが成立する場合もあれば

X=(Y,Z,W,V)

 といった、形で他の独立したパラメータとの関係性によってパラメータXが決定される、という場合である。
 具体的には、アバターのをカスタマイズする、といった場合を考えてみよう。というパラメータXは、眉、目、唇、鼻、輪郭、髪型、髪の色…といったXi,Xii,Xiii,Xiv…の集合的なパラメータと考えることができる。このとき、「のカスタマイズ」を独立したパラメータとして考えるべきなのか。あるいはもっと上位の「キャラクターの体全体」を一つの独立した単位として捉えるのか、「眉」や「目」が独立した単位として適当なのか、ということである。
 そして、例えば「眉」を独立したパラメータXとして捉えた場合、眉(X)は、目の大きさ(パラメータY)や、おでこの広さ(パラメータZ)、体毛の色(パラメータW)といった要素との関係によって成立することになる。眉(X)自体を調整することは可能だが、目の大きさ(Y)や、おでこの広さ(Z)と完全に切り離して調整可能なパラメータではない。いくつかのパラメータは、別のパラメータとトレードオフの関係にある場合が往々にして存在する。I.バーリンが積極的自由と、消極的自由の衝突を問題にしたように、あるパラメータXを調整する自由が、パラメータYを調整する制約として機能する場合がありうる。

 以上、何をもって「独立した変数」としてカウントするかは、その都度、操作的に定義される必要があるだろう。(例えば、独立して交換することが可能だとか、上位レベル/下位レベルを定義して、基軸となる概念レベルを任意に定義するとか。)

実際のカウントの難しさ3:環境変化、パラメータの再帰的変化

 ここまでの記述は、あくまで行為を行う環境が固定した状況下におけるものである。通常、アーキテクチャ=法の自動実行*5だとみなされ、これはコンピュータを介したメディアにおいて見られる「自由」の特徴として語られることが多い。それゆえに、これまでのような「自由の測定可能性」の議論はある程度まで成立させ得た。
 だが、Rule-Breakingなどゲームの外側に広がるプレイヤ圏の問題を扱う「重み付け」問題や、そもそもプレイヤー達の集まりであるオンラインゲームなどでは、問題構成が現実社会に近づいてゆく。行為する環境自体が常に変化することになる。そのため、そこでは選択前提そのものが常に変化し続け、変数の独立性や、選択肢と選択肢の間の関係がより曖昧になってゆく。

  • (A)アーキテクチャの不確実性による環境変化
    • 例えば、セキュリティ対策もRMT対策も不十分なゲームを一般的なゲーム・プレイヤーが遊ぶ場合を考えよう。
    • あるオンラインゲームが正式版がオープンしたとする。しかし、RMTが認可されていなくとも、一ヶ月もすれば、RMTが実質的に行われ、チーターたちが数多く存在するゲームになってしまう。すると、一ヶ月前に行おうとしていたレベル上げの戦略は通じなくなり、方法X,Y,Zまでだった方法に、RMT(W)、チート(V)という方法が加わる。そのことによって、方法X,Y,Zはスポイルされてしまう。W,Vの重み付けが大きくなり、通常のレベル挙げ方法の重み付けは大きく低下する。
  • (B)再帰的変化1:予期の予期の発生(一意の指標による予期評価が可能な場合)
    • あるいは、大航海時代Onlineのようなゲームを考えてみてもよい。大航海時代Onlineでは、世界的な貿易状況変化によって、どの港間で、何を貿易するのが有利であるのか、ということが変わってくる。言ってみれば、株式投資のシステムと同様の状況が成立する。このような世界では、他人の予期を推測して、こちらが動くという予期の予期、あるいは予期の予期の予期…といったゲームが発生する*6ことになる。こうした状況下においては、あるものが突然に流行ったり、かと思うと、バブルがはじけるというようなことも起こりうる。こうした形で、複数の人間*7が相互に予期を行いながら行動し、それによって価値変動が起こりうる。個々人は、世界の全体性を認識することが原理的にできない(常に変動するから)。パラメータの重み付け(選択前提)は、一度それが観察しやすい状態にさらされると、さらにメタ観察→メタメタ観察→メタメタメタ観察→…、を呼び起こしてゆく。パラメータの重み付けは、高速に変動してゆくことになる。この世界では、選択前提は原理的に観察できず、「選択前提を観察したことにしておく」ことしかできない。
  • (C)再帰的変化2:予期の予期の発生(予期評価が一意に不可能な場合)
    • ニコニコ動画のようなCGMや、プレイヤー間のRule-Breakingの問題を考えてみてもよい。
    • ニコニコ動画では、「何が流行っているか」という全体理解がなされ、それに従ってフォロワーが生まれたり、あるいはズラしを行っていくことで新しい潮流を生み出していく動画職人がいる。この「ズレ」によって、発生する多様なバリエーションの評価は、先ほどの問題と同じく、誰が何を作るかを予期し、裏読みし…という予期の予期、という構造をトレースしている。
    • しかし、大航海時代のような予期の予期は、あくまで市場価格という一意の指標によって事後的に評価可能、調整可能なものである*8。対して、ニコニコ動画のようなコンテンツの「ズレ」現象は、バリエーションを評価するする指標自体もズレてゆく。「ホモネタ」という評価指標が、「シュールネタ」の評価指標とまざったり、ズレたり、あるいは新しい指標が生まれたりする。行為だけがズレてゆくのではなく、行為を評価するフレーム自体も変動するため、予期の予期のバリエーションはどこまでも拡散してゆく。このような環境においては、「環境の自由度」の測定可能性は、極端に低下してゆくのではないか、と考えられる。

調査実例

当サイトで、2004年頃に行った簡易調査がある。

 FFや、DQでは、シリーズが重ねられるほどに「自由度が上がった」という言説が登場しているが、ある程度まで実態として測定しようという方法提案である。これを参考に90年代後半に言われるようになった「FFは自由度が低い」という議論をパラフレーズしてみよう。
 量的自由度については、DQにせよ、FFにせよ、任意に操作可能なパラメーターの数自体は上昇しているため、自由度が圧倒的に下がった、と言いうることは困難である。しかし、大きく低下している指標も見られる
 一点目は、全プレイ時間中における操作可能時間である。言わば、割合的自由度が認識として低下した可能性が高い。プレイヤーが操作する時間よりも、ムービーシーンや、キャラクターごとの会話を聞いている時間が増えたのはほぼ間違いない。
 二点目は、シナリオ進行の順序制御が行いにくくなったことである。DQにせよ、FFにせよ、ファミコン時代は、シナリオ進行の順序制御がわりといい加減に行うことが可能だった。しかし、スーパーファミコン以降は、シナリオの順序制御がプレイヤーの調整可能な要素ではなくなっていく。この要素が減っていくことについての「一本道だ」という形での批難が増えていったのが90年代RPGをめぐる日本の言説状況だった。つまり、シナリオの順序制御という要素が、他の調整可能なパラメータよりもより重要な要素としてユーザーから重み付けをなされていた、と考えることができるだろう。
 三点目についてはDQ7では、シナリオの順序制御(エピソードの順序制御)はある程度可能になっていた。しかし、エピソードごとの目的は全て「シナリオ進行」のためであり、単に方法の量的自由度が少し上昇したに過ぎない。ロマンシング・サガ・シリーズのように、Aというキャラクターを獲得するためにこのエピソードを進めようだとか、お金を調達するためにこのエピソードを、Bという問題を解決したいからこのエピソードを、といった形での至近目的の量的自由度はほとんど増加していない。このために、DQ7のシナリオの順序制御可能な要素は、あまりにも予定調和的な印象を与えていた可能性が強い。単に方法のバラエティが増えただけでは、プレイヤーの認識に「自由」だという感覚を与えることが困難である可能性が高い。

 以上は、分析の方法論的な例示である。
 上記の分析の妥当性はそこまで強力に主張するものではないが、方法論として「自由度」概念を、上記のような分類によって捉えていくことはある程度まで機能するのではないだろうか。もちろん、上記の分類はまったく完璧なものではなく、単なるたたき台に過ぎないが、こうした基準を細分化させていくことで、一定の議論が成立可能となるのではないだろうか。

言い換え、関連概念

戦略性」概念

混合戦略をみよ

「積極的自由/消極的自由

errand boy syndrome自由感をみよ

自由自在:「自在」概念との差異

 「自由」と「自在」区分から、自在概念との意味上の差として記述するのであれば、
  「ゲームが実装している、可能な行為の幅広さの度合い。」
 という意味に限定し使用することができる。
 要は、そのゲームで何ができるか、ということの幅広さである。

 →自在をみよ。

参考

自由と自在?自由感不自由放りだされる?errand boy syndrome(やらされている感)主体



*1 Wiiのアバター
*2 ネットワーク論における「次数中心性」の概念に拠る。たとえば、APIを通して5個のゲームに利用されていたら、5だとか。10個のゲームに利用されていたら10だとか。
*3 これは、むかしどこだったかのサイトの人が言っていた。。。。引用元ワカラソ…。「オレが最初に言った」と名乗る人がいらっしゃいましたら、引用元として参照しておきます。
*4 スティーブン・ピンカー著、山下篤子訳『人間の本性を考える―心は空白の石版か―』NHKブックス、2004における「至近目的」「究極目的」から分類をもってきた。
*5 レッシグ、白田秀彰
*6 ケインズの美人投票的なもの
*7 「他人の心を推論する」という心の理論を備えた存在であれば、AIであってもよいが
*8 もちろん、至近的な評価としては、現在の市場価格を無視する、という選択はありうる。しかし、究極的には予期の予期を発生させるときに働く評価フレームはやはり価格の評価が最もドミナントなものだろう。
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最終更新: 2008-09-22 (月) 21:54:55 (3104d)