松野(泰己)さんの話から [ #02 「他者」の存在 ] |
瀬上 : 僕が松野さんの作品を捉えるためにいくつかの考え方を模索してみたんですけどね、「一回クリアしただけでは物足りない構造を持ってるんじゃないか」とか「システムによるリアリティ表現の追求」とか色々言い方を考えてはみたんですけど、今考えてるのは「他者による倫理的行為を要求してくる視線」あるいは単に「他者の存在」というだけでもいいんですけど、そういうようなことが、特に『伝説のオウガバトル』と『タクティクス・オウガ』では言えてくるのではないかなぁ、と思ったんですね。 米島 : あ、できれば全部説明してみてくれない? 瀬上 : えっと、それだとかなり長くなりますけど? 米島 : それじゃあ、まぁできるだけサラッと。 瀬上 : はい。それじゃあ簡単に済ませますけど、まず「システムによるリアリティ表現の追求」ですね。具体的な音や映像であるだとか間合いだとかによってゲーム中にリアリティを生み出そう、という試みは様々なクリエイターが、様々な形で奮闘しながらやっていることだと思うんですけど、松野さんはまたちょっと変わってゲームの「システム」という部分でのリアリティの表現を目指してるのではないかな、ということですね。 米島 :ウィ、ウィ。 瀬上 : それ、フランス語ですか? 米島 :え?何、あ、「ウィ」って単に「ウイッス」の略なんだけど。 瀬上 : ああ、そうですか……じゃあ続けますけど 米島 : ううーん。ちょっと頭が処理しきれない…… 瀬上 : 長かったですか? 米島 : まぁ、ちょっと。 瀬上 : はい、それじゃあええーと「一回クリアーしただけでは物足りない構造」なんですけど、まぁどの作品をとっても全て一筋縄にはいかないゲームの作りになってるということですよね。 米島 : …… 瀬上 : あと、タクティクスオウガの場合はシステム以外にも、ストーリーが何本にも分岐してますから、分岐したどのストーリーに進んでもかなりきっちりしたクオリティのものになっていますし、特にマニアックな性格をしている人とかだったら全ストーリーを制覇してしまいたくなりますしね。一回のプレイではゲームを堪能することができなくって奥の深さが非常に中毒的で本当に面白いぞ、と。 米島 : なるほど。まぁしかし、一回クリアーした後もう一回やるような構造っていうのは、それほど珍しくもないわな。面白いゲームだったらけっこうどのゲームでもやり直したりすることは少なからずあるよね。 瀬上 : うーん、まぁ確かにそうと言えばそうなんですけど。 米島 : いや、まぁ松野さんのゲームがそういう工夫をしてるんだろうな、ということを認めないとかってわけじゃないんだけど。 瀬上 : ええ、はい。それではようやく「他者による倫理的行為を要求してくる視線」あるいは単に「他者の存在」という話に入るんですけどね、まぁ結構今までの話とかともダブる部分はありますけど、この前ですねフト松野さんのゲームの中には、「私」(プレイヤー)が対峙する他者がいるのではないかと思ったんですね。その他者というのは、私に語りかけてきたり、私を軽蔑したり私に何かを強制したり私を慰めてくれる他者そのものとは当然違うんですけれど、ゲームのプログラムの中にそういう他人の人格の一個がそのまま入っているというようなことを言いたいのではなくて、そこにあるのは表現を正確にしようと思うと「他者性」というのが正しいと思うんですけど、松野さんのゲームの持つ他者は、すごい魅力のある他者で、ゲームの中でそういう他者と向き合うことになるのかなぁ、と思ったんですね。 米島 : ええーと、それは具体的に言うとどういうこと? 瀬上 : つまり、
まず『伝説のオウガバトル』では「私」は他者に見つめられて、倫理的な戦闘行為を要求されますよね。 米島 :なるほど。自分の身体も他者になるんだ。面白いね。 瀬上 : ええ、まぁただ単に僕がそう感じているという感覚があるだけなんですけど。 米島 :ふーん。でも、その何だろう、君の言うところの「他者性」っていうのは何?基本的に「私」に対して抑圧的なものとしての「他者」ということなのかしらん?
瀬上 :
えーっと、それなんですけれどもね。その僕の言っている「他者性」というものの要素を抽出してみるとですね 米島 : うん。 瀬上 : で、第二に他者は対話が可能な存在だと。他者の心の動きをなんとかして私が推測して動けば、他者はそれに答えてくれる存在で。ある程度の難しさというのを孕んではいるんですけれど、他者は完全に私から不自由な存在ではなくて、こちらが推測することも全く不可能な存在ではないだろうと。 米島 : なるほど。完全なる不自由とは違うものとして考えてるのね。 瀬上 : ええ、それで第三にですね。他者は無言のうちに私を律して私に緊張感を強いる存在だろうと。他者がいなければ、他者が見つめられるかもしれない、という可能性がなければ、私はそのような行動をとることはないんじゃないか、という行動を私はとることがあるわけですよね。例えば、恥をかかないような行動をとる。他者は私を見つめ返し、私を軽蔑し、私を否定しかねない存在ですから。それゆえに私は他者によって安心する可能性を持つ反面で、他者というものをひどくおそれるわけですよね。 米島 : ええと、つまり何だろう。まとめるとだ、まず基本的に自由にならない存在だけど、完全に自由にならないわけではなくて、意思疎通をしたりすることで少しはこちらの意のままになる存在でもあると。それでもって、もう一つの要素として恥の意識っていうか何かそんな感じのものをもたらす存在であると同時に私を安定させる存在だと。 瀬上 : まぁそんな感じですかね。ですから、単に「私」を常に抑圧をしてくる他者というようなものではなくて、抑圧であるからこそ同時に喜びの源泉として存在してくるというか、なんというか。 米島 : はいはい。それは了解。 瀬上 : ええ、まぁそうですね。ゲームの場合はでもやっぱりプレイヤーがそんなに自らにモラルのある行動をしなければいけない、という意識は生まれませんからやっぱりそれは『伝説のオウガバトル』の中でシステムとして形成されたような他者の視線によって倫理的な行動が生まれてくるわけですよね。 米島 : いや、それがさぁ、さっきも言ったけど『タクティクス・オウガ』の場合は他者の眼差しが悩みを生むのではなくて、プレイヤー自身の40時間なり60時間なりのプレイをありえたかもしれない可能性を失うかどうか、というところで悩むという側面があるわけじゃない。それっていうのはやっぱり功利的な発想でしょ?自分が損するかどうか、という問題じゃない? 瀬上 : ああ、確かに。そうですね、そういう形ですね。 米島 : うん。そうでしょ。 瀬上 : あ、はい。つまり、まぁ松野さんのゲームでいけば、どの作品もやった直後はシステムがどうなってるのかがよくわからないし、どうもやりにくかったりするところのある「不自由」な状態にプレイヤーはおかれるところからはじまって、ちょっとずつシステムを理解しながらその世界の中での行動の仕方を上達させてゆくことで、その世界内でかなり問題なく動くことができるという「自由」な状態になってゆくわけですよね。 米島 : なるほど。「暗黒大陸アフリカ」を植民地化して征服していく「我々ヨーロッパ人」とか、「わがまま女」を服従させて支配してゆく「男性」とか? 瀬上 : いや、そうじゃなくて! 米島 : ハハ(笑) 瀬上 : うーん、いや、まぁ、だってプレイヤーの側でクリエイターの予期していなかった遊び方を発見することとかなんていくらでもあるじゃないですか。『メタルギアソリッド』をポリゴンキャラの小便をドアップで見るためのだけのゲームとして遊んだり、FF7を単にスノーボードゲームとしてだけ遊んだり。 米島 : そうだねぇ、まぁ変に擬人化してしまったから話がおかしくなってきたようなところがあるから、この話はなんか不毛な感じがするのでこのぐらいに、しとこうか。 瀬上 : はい。 米島 : それとさ、えーっとさっき話を聞いていて気になったんだけどさ、何かこうほとんどプレイヤーと主人公が同一であることが自明であるかのような感じの語り口だったように聞こえたんだよね。 瀬上 : そうですか?特にそういうつもりはなかったんですけれど、まぁ、話の都合上そこにまで気を配ってはなすことができなかったという感じで…… 米島 : なるほど。でもさ、何にせよ、君の言うような形でのゲーム内での「他者」というのを感じるためにはかなりきっちりとプレイヤーと主人公がきっちりと結びついているということが前提だというような気がしたんだよね。 瀬上 : うーん、僕の感じていた「他者」というのは確かにベイグラントで提示されたそのセリフみたいな感じで松野さんがずうっとモニターの外の存在との対話を試みるような感覚があったからかもしれませんけれど、うーん…………
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