松野(泰己)さんの話から
 [ #01 プレイヤーの意識 / 主人公の意識 ]

 
 
 

瀬上梓(以下、瀬上) : えーと、今日は松野(泰己)さんの話で。

米島芳紀(以下、米島) : おおっと、はなから松野さんの話ですか。

瀬上 : いや、やっぱりはじめだからこそ松野さんの話ということでいこうと思ったんですけれど。

米島 : そうねぇ、あなた松野さんの大ファンだもんね。尊敬するクリエイターのナンバーワンは?っつたら真っ先に松野さんの名前があがるもんね。

瀬上 : ええ、まぁそうなんですけど。だからこそ、こう、松野話ということで(笑)

米島 : あんな洋ゲー好きのムサいおっさんの話をするのかぁ……まぁいいや、じゃ、まぁ松野さんについて知らない人がいるだろうということで、ご紹介からはじめてくださいな。

瀬上 : はい。えーと、松野泰己さんというのは、1965年生まれで……

米島 : あああー(汗)。いや、そこからはじめなくてもいいから、クエスト入社後からサラッとね。

瀬上 : えーと、じゃあ、まずクエストという当時は全然無名だったゲームの開発会社に入ってから作った第一作目が名作『伝説のオウガバトル』で、これがポーンとかなりのヒットを飛ばして、次にゲーム史上に燦然と輝く『タクティクス・オウガ』を作り、その後クエストの方となんだかもめたとかもめなかっただとか言われて細かい事情はよくわからないんですけど、その後スタッフ数人と共にスクウェアに移籍したんですよね。これについてはスクウェアの引抜きだったんじゃないかとかなんだとか言われていますけれど、オウガバトルのファンページ(http://www.minic.com/ogre/)の掲示板に松野さん本人と思われる人が書き込んだコメントによれば「スクウェアの引き抜きではない」とのことだったんで多分本当にそうだったんだろうと思います。

米島 : あ、そうなんだ。

瀬上 : ええ、そうみたいです。
 それで、スクウェアに移籍してから作った第一作目がスクウェアファンにもなかなかに好評だった『ファイナルファンタジータクティクス』で、まぁ、これは従来の松野さんのファンの評価は微妙だったんですけれど、それでその次に作ったのがファミ通で久々の40点満点をゲットした『ベイグラントストーリー』なんですよね。これはスクウェアファンにはかなり不人気だったみたいですけど、コアゲーマーとか言われるあたりの層ではやっぱりものすごい評価が高かったですよね。まぁ実際ライトゲーマーはかなり無視した作品だったというところもありますしね。
 それで、現在はFF12の製作に関わってらっしゃるようです。

米島 : はい。ご丁寧な説明をどうもありがとうございましたぁ。

瀬上 : どうも

米島 : それではぁ、じゃあまぁどうするね?オレの方からの松野さんの作品への解釈を話す?それとも君から話す?

瀬上 : それじゃあ米島さんのほうからお願いします。

米島 : ウィ。そんじゃ、まず、この古谷実の『ヒミズ』という漫画について前に書いた文章を読んでもらいたいんだけれども、お願いしまぁす。

瀬上 : はい。

米島 : 読んだ?

瀬上 : はい。だいたい読みました。もとの漫画を読んでないのでそこまでよくはわからなかったんですけど。

米島 : まぁ、それはいいんだわ。別に『ヒミズ』の話をしたいわけではないから。
 でぇ、なんで読んでももらったかってーとぉ、その何だ。これってすごく文芸批評的な文章じゃない、とかっつたらプロの文芸批評家の方に失礼だけどさ、まぁそんな感じの文章じゃない。

瀬上 : はい、まぁそんな雰囲気ですね。
 で、なんでしょう?ランスロット・タルタロスとランスロット・ハミルトンの二人の会話についての話でしょうか?

米島 : いやいや、違うのぉよ。何かってーとさ、その、この文芸批評的な文章(?)でさぁ、しばしば問題とされることって、結局「主人公だとか登場人物の意識がどのようなものだったのか」みたいなことが多いじゃない。

瀬上 : そうですね。だいたいの批評の文章って言うのは「彼はこのような決断をしたのだ」とか「彼はこのようなことを感じざるを得なかったのだ」みたいな文章が多いですよね。

米島 : うん。そう。まぁ一概に文芸批評つっても色々あるんで「これこそ文芸批評だ」といってしまうわけではないけどさ、まぁ一般的に目に触れる批評の文章って言うのはそういう形で人間の意識の問題について扱ったものが多いっしょ?で、さ、それはそうだ、ということで強引に話を進めてしまうけどね、オレが話をしたいのはぁ、その主人公とかの「意識」というのがゲームにおいてどのような形で描き出すことができるのか、というゲームのストーリングテリングにおける問題を話したいのだよ。

瀬上 : なるほど。

米島 : で、だ。
 その、えっと、例えばさぁゲームの中で主人公の自意識とかを描き出すことが結構難しいことだ、というのは言わなくてもけっこうわかってもらえるかしらん?

瀬上 : んー、まぁ、だいたいなんとなくは。

米島 : まぁ、そうねぇ、主人公の「自意識」というものって、ほとんど常にプレイヤーの自意識とのかかわりの中で存在するからゲームで「自意識」を描くことが本当に難しいなぁ、というのがあるっつーのはぁ、つまりだ。
 主人公とプレイヤーを切り離してしまって、FFのようにベラベラと喋る主人公を作って、主人公の自意識だけを描こうとしても、「主人公」という制度を採用している限りさ、主人公を動かしているのはどうしてもプレイヤーというモニターの外の存在じゃん?だから、そういったプレイヤーと主人公のリンクがどっかであるってぇことは、どうしてもプレイヤーと全く違った独立した人物としての「主人公」の自意識を描きだすことができないということにつながるでしょ?

瀬上 : んー……まぁ、そうですかねぇ。

米島 : あんまり、そうは思わない?

瀬上 : んーっ…ていうか、あんまりそういうことを考えたことがなかったので、言われてみればそうかなぁ、というぐらいの反応しか示せないんですけど。

米島 : そうか、まぁ仕方ないわな。じゃあ、まぁとりあえずそんなに反論はないようなんで、話をすすめるけど、
 それでだ。
 だからっつって、主人公とプレイヤーを密着させてさ、「主人公の自意識」=「プレイヤーの自意識」という構造を取ろうとしても、プレイヤーがゲームの中の世界の出来事を常に「予定調和のものにすぎない」だとか、「単にプログラムが動いているにすぎない」と感じてしまってたらさぁ、プレイヤーはゲームの中の世界のことを真剣に悩むことが出来ないじゃん。そこでは殺すことへの罪の意識とかっても当たり前に薄くなってくるっしょ?
 だって、なんかゲームの中で人を殺すことに対して罪の意識をもってなんか真剣に悩みすぎてる奴とかいたら、間抜けっぽいっとうか、なんかちょっと怖いと思われるよね、その人。

瀬上 : うーん、まぁ、これを読んでる人の中にもそういう人はいるかもしれないので、そんなにあからさまにそういう人を怖いとかってことは言いたくはないんですけど……というか、ゲームについてこれだけ気合を入れて僕らが語っているのだって人によっては「こいつ危ないなぁ」とか思われてるかもしれないとか思うんでまぁ確かに「ちょっとなぁ」……ぐらいのことは思いますけど、ま、ほんとに多少そう思うという程度で……

米島 : ああ、そうなの?まぁ、多少でもいいけどさ。でぇ、こっからが松野さんの話なんだけれども、オレが思うに松野さんの成し遂げたこととして、このプレイヤーの意識と主人公の意識の乖離という問題に対してね、ものすごい成功した作品を作った人だ、と思うわけ。
 ま、松野さんの作品の中でもゲームファンにとって一番メジャーっぽい『タクティクス・オウガ』を例にとって話したらさぁ、あの作品の何かすごかったかっていうとつまり、プレイヤーがゲームの中の世界での自らの在り方というのを真剣に悩まなければいけない状況を作り出した、ということだよね。ま、具体的には、あのプレイヤーへの「おまえはどうするのだ」という選択を要求してくる問いね。あれのことなんだけれど。

瀬上 : ええ、はい。それはすごくよくわかります。僕なんかはあの作品で「どうするのか」という返答を返すのに何時間か迷った末にようやく決断しましたからね。

米島 : 何時間も迷ったのかぁ……それは長いなぁ……

瀬上 : ま、二回目以降のプレイでは選択しなかった別の方を選ぶだけだったんで、そこまで悩みはしませんでしたけど、一回目のプレイの時はあれはかなり悩みましたね。無難にあの行為に参加しないか、それとも自らあの行為に参加することを選ぶのか、これはどっちを選ぶかで180度違ったものになってくるな、と思いましたものね。

米島 : なるほどね。まぁさ、その「どっちを選ぶかで180度違ったものになるだろうな」みたいな部分ね、それってやっぱり大切だと思うんだけど、もう少し無機質な説明をさせてもらうとさ、まぁさっき言ってもらった通り、二回目以降のプレイはあんまり緊張感を要求されないというのはあるんだけれども少なくともただ一回目のプレイにおいては、プレイヤーは自らの選択によって何かが失われることを意識せざるをえなくなるんだよね。それってつまり、今までの10時間ぐらいのプレイが一つの方向性に限定されてしまうことへのとまどいというのと、今後のもしかしたらありえたかもしれない別の可能性を失うことへのとまどいという―――まぁつまり180度違ったものになってくるな、という予感ね。
 で、ま、それともしかしたら罪の意識も存在した、という人もいるかもしれないけど、あの作品の構造として偉大だったのはプレイヤーが失ってしまうことを「嫌がる決断」をつきつけたことだろうと、とまどわざるを得ない決断をつきつけたことだと思うのよ。そこではじめてプレイヤーの意識は悩みというものに直面せざるを得なくなったのではないかなぁ、と。

瀬上 : なるほど「嫌がる決断」ですか。その説明は確かになかなか上手いですねぇ。でも、その、うーん、何て言うんだろう、その「嫌がる決断」とかっていうのも松野さんのゲームだからこそ成り立ったんじゃないかな、みたいな。どこまで方法論に還元できるんだろうと思ったんですけれど。

米島 : うーん、単に方法論に還元したというか、ゲーム内世界に対してプレイヤーがどのような形で関われるのかということに対しての新しくてしかもすごく魅力的なやり方というのを作り出したよね、というような側面からの話でもあったんだけど、まぁそれをどう受け取ったかは聞く人の自由だから仕方ないけどさ、で、そのまあそれはいいんだけど、その「松野さんのゲームだからこそ成り立った」というのは何故?

瀬上 : いや、まぁ「松野さんのゲームだからこそ」というのはちょっと言いすぎだったかもしれないんですけど、例えばですよ、これが例え同じような構造でプレイヤーの「嫌がる決断」をつきつけたとしてもですよ、×××××みたいなあまり面白いとは言いがたいような作品でそういうことをやられても、なんか単に「うわ」って言われて終わるだけじゃないかなぁと。ありえたかもしれないもう一つの可能性とかも別にそんなに味わいたいとプレイヤーが思ってなかったら本当に単なる「嫌だなぁ」というだけのことになっちゃいますよね。

米島 : ま、それはそうだわな。「嫌だなぁ」というのと同時に「この作品いいなぁ」というが両方なきゃ駄目だよねそれは確かに。

瀬上 : それと、あと、単にプレイヤーが多少の悩みを必要とする決断があるというだけのフレームで括ってしまうと「誰を選ぶか」ということを選ばされるギャルゲーとかも同じような構造を持ってると言えるんじゃないかな、とかってこともちょっと思ったんですけど。

米島 : うーーん。そうだねぇ、それは確かにある程度そうだとは言えるかもしれないけど、ギャルゲーとかっていうのは、まぁそこまでギャルゲーは沢山やってないのから何とも言えないけどさ、誰を選んだにせよ、パターン的な差違ってそこまででかくないだろうと思うんだけどなぁ。それよりギャルゲーとかだったらどの部分に時間をかけたか、みたいな個人のプレイスタイルの差違とかの方がまだでかいような気がするんだけど。

瀬上 : うーん、それはちょっと僕もそこまでよくはわからないですけれど、米島さんの説明だとギャルゲーとそこまでの差はつけられないとは思うんですけどねぇ……

米島 : そうかなぁ……

瀬上 : うーん、まぁこれ以上議論のしようがないですけど、僕の松野解釈というのを言ってしまってもいいでしょうか?

米島 : あ、ちょっと待ってそれじゃその前にもう一つだけ補足させて。

瀬上 : はい。

米島 : えーっとね。こういうさぁ「嫌がる」選択とかが純粋な選択として機能するためにはにはセーブシステムって邪魔じゃない。セーブデータがいくつもあったらなんかいつでもそこからやり直せるみたいな感じでさぁ。そう思っちゃったらつまんないよね。これは飯野(賢治)さんがすごい悩んでるっぽいことだけど、飯野さんのいくつかの作品はセーブシステムがなくなった場合の物語体験の一回性からくる純粋性という利点ばっかりを優先しすぎて、セーブシステムがなくなってしまったときの不満をフォローできていないという感じよね。

瀬上 : まぁ、飯野さんのファンからそれも反論はあるかもしれませんけれど、まぁセーブシステムが邪魔だというのはそうですね。
 それじゃあちょっと僕の松野解釈のほうに入らせてもらいますね。

米島 : はい、どうぞ。
 
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