松野(泰己)さんの話から
 [ #03 ゲームの批評の方向性に関する一つの提案 ]

 
 
 

米島 : まぁ、松野さんが何を考えてたか、なんていうのは作ってる最中の松野さん自身に聞かないことにはわからないことだろうし、松野さん自身でも無意識的なもやもやっとした感覚で作ってる部分かもしんないし、それはなんともいえないけどさ、やっぱりゲームの中の他者というのが、プレイヤーにとって大きな存在としてきっちりと存在してくるためには、プレイヤーの意識が主人公の意識とがダブってる上で単にプログラム以上のものとしてゲーム内の世界を見つめる感覚がなければそういう「他者性」というのは存在しないのではないかなぁ、というのはまぁ、まだなんか反論もあるかもしれないけれど、とりあえずそのことと、
 あとさぁ、あれだ、あれ。重要なこととしてさ、プレイヤーの意識、主人公の意識と言う問題から何を語りたかったのかというと、結局のところゲームのプレイヤーがゲームをやるっていうことはとどのつまりどういうことなんだろう、というようなことをこの視点から考えられるのではないか、ということを言いたかったのだよね。

瀬上: はい。つまり?

米島 : えーっとさ、だから、さっきの『ヒミズ』の評みたいにして、主人公の自意識とは何か、主人公の決断とは何か、というようなことをああいった形の批評として語りうるためにはさぁ、自意識の問題というのが出て来るわけだよね。
 その「彼の自意識とは何だったのか」みたいなことを語るときゲームの主人公の意識の問題が対象としてとらえられてくるのか、プレイヤーの意識が対象として捉えられてくるのか、ということがあるわけじゃない。

瀬上: もう少し、具体的に言うと?

米島 : 例えば、そうだなぁ。何度も例に挙げるけどさ、FFみたく主人公は主人公としてプレイヤーとはまた別のかなり独立した個人としてものごとを考え、決断しているような場合はさぁ、「主人公は何を考えたのか」ということを論じることが可能だよね。

瀬上: そうですね。うーん、じゃ、例えばこんな文章でしょうか?(FF9の主人公について)

瀬上: 一瞬で形式的なあり方だけを考えて書いたものなので、内容とかにはあんまりケチつけないで下さいね。FF9の主人公がなに考えてたか、とかあんまり真剣には覚えてないんで。
 で、これで問題の立て方としてはだいたい合ってますか?

米島 : そうそう、まぁ、だいたいはそんな感じだよね。そんな感じで主人公の考えとか意識についてそんな感じで問うていくことになるだろうね。
 でさ、それに対して、ロマンシング・サガとかガンパレードマーチみたいな形のさ、主人公というよりもプレイヤーの意識とか決断とかによってゲームのプレイのされ方というのが大きく変わってくるような作品になると、主人公とプレイヤーは分離できない存在だというよりも、ほとんど「主人公=プレイヤー」というような状況だよね。この場合、論じる対象として捉えられてくるのはプレイヤーの意識の問題だよね。

瀬上: ええっと、つまりそれだとどういう感じの論じ方になるんですか?ちょっと想像がつきにくいんですけど。

米島 : うーん、そうだねぇ………。
 こんな文章でどうだろう。ほい

瀬上: っと、これは何の作品についての文章ですか?

米島 : ええーと、はじめは『ガンパレードマーチ』の森さんの死について書こうと思ったんだけど、なんか個別的な話にしてくと真剣に書かなきゃいけないなぁと思えてしまったので、特に何の作品の文章ということではなくしたんだけど………。
 ま、単に論じ方の形式論をやってるわけだからさ、これでそのプレイヤーの意識というのが論じられる対象となっている、ということはわかるよね?

瀬上: まぁ、だいたいはわかります。つまり「私だけの悲しみ」という、プレイヤー個々人のプレイの中で生まれてくる作品とのかかわりの中でプレイヤーが何を感じて何を意識したのか、ということが論じられる対象としてでてきてるわけですよね。

米島 : そうそう。プレイヤーの意識。
 でだ。
 あともう一つね。これはちょっと、なんか案としては微妙だとか言われるかもしんないけれど、「共通体験としての事件」というような視点でゲームの体験というのを論じることはできないかなぁ、と思ってるんだけど……

瀬上: 「共通体験」?

米島 : うーんだから例えば、「9.11のテロは我々にとって何だったのか」とか、「太平洋戦争という共通体験」とか「阪神大震災という共通体験」とか「シベリア抑留という共通体験」とか、ある一つの事件についての解釈っていうのは当然多様なものがあるとは思うんだけれども、でも、そういう事件についてドキュメンタリー番組とかが作られたりすると「結局のところ、オウム事件と言うは≪現代≫における問題であった」とかみたいな一つの解釈がうちだされたり、あるいは「松本被告にとってのオウム事件があり、被害者にとってのオウム事件があり、メディアにとってのオウム事件があり、政府にとってのオウム事件がある。全てを一様に語ることはできないが、それぞれのオウム事件を語っていかなければならない。」とかそういうような語りかたというのもあるよね。

瀬上: そうですねえ。つまり、そういうようなオウム事件をドキュメンタリーで特集するような感じでドラゴンクエストを語ったりマリオを語ったりすることができないか、ということですか?「マリオとは何だったのか」みたいな形で。

米島 : うーん。いや、そういう形でも悪くはないんだけれども、オレの考えていたことと言うのはもうちょっと違ってさぁ、『ガンパレードマーチ』だったら、プレイヤーはどのプレイヤーにも共通して言えることとして、あの世界の中で戦争体験をするということはいえるわけだよね?体験の仕方の個人差はあるけれど。

瀬上: ああ、はい。その、つまり『ガンパレードマーチ』だったら「あの戦争は何だったのか」とか「あの世界とはなんだったのか」とかそういう問いかけかたとして作品を語ることができるのではないか、ということですか?

米島 : そうそう。他の作品で言えば、『ロマサガ2』だったら、「七英雄とは何だったのか」「世界帝国とはなんだったのか」。『ライブ ア ライブ』だったら「魔王オーディオとは何だったのか」

瀬上: なんか、RPGという制度の性質上、仕方ないと言えば仕方ないことではありますけれど、話を聞いていると「魔王」ぐらいしか共通体験のベースにできるものがない、という感じがしますね。

米島 : うーん、まぁそうかもしれない。
 まぁ、でも共通体験のベースにとして、同じ世界とか同じ敵とか同じ時代とか、そういうものなら何でもいいっつーか、

瀬上: うーん、それで、そういった論じ方というのを具体的にすると、どんな感じに?

米島 : えーっとねぇ。はい、じゃあ、またチラっと文章を書きます。ドラクエ7で魔王について。

米島 : どうだろう、こんなんで?苦しいかなぁ?
 もっとも、実際にはドラクエ7はこの文章で誉めてるような試みには完全に成功してるとはいいがたいとは思うんだけど……

瀬上: えーっと、その「共通体験」というはすべてのプレイヤーがすべからく共通に体験するものとしての実態、というような意味ではなくて、一人のプレイヤーの中で多様に受容される何かの一つの出来事だとか、ゲーム内部のキャラクターによって多様に受容される出来事だとか、そういう意味だったんですか??

米島 : いや、その、本当はオレもすべてのプレイヤーがみんな共通して体験する一つの出来事、というものの方を書こうかと思ったんだけど、あんまり思いつかなかったと言うのと、こういう形での一人のプレイヤーの中で同時に存在してしまう多様な視点が重ねられていく、というのも一つの「共通体験」に対するアプローチの結果かなぁ、と思って。

瀬上: うーん、そうですねぇ…………いい例ですかぁ……
 そうだ。シェンムーでこんなのはどうでしょう?

米島 : 確かに反応はわかれたけど、そこまで両極端な反応だったかなぁー?

瀬上: いや、まぁだから内容にはこだわらないで下さいって。
 こういう形でなら「共通体験」というのを書きうるのではないか、という単なる例なんですから。まぁ、最後の結論が単に「無視することができない」というだけなのは気が抜けてると思われるかもしれませんけれど。

米島 : うーん、そうねぇ、いや、でもいいんじゃない?こういうので。
 確かに「共通体験」について論ずるというとこんな形だろうと思うよ。悪くないよ。なかなかに。

瀬上: で、あと何か言いたいことはありますか?

米島 : えーっと、とりあえずこのくらいかなぁ。なんか、最後の方は松野さん解釈に用いたフレームを応用するというだけで、松野さんの作品とは全然関係のない話になっちゃったけど。

瀬上: そうですねぇ。ひどい話のとびようでしたねぇ。ぜんぜん収集がついてないですねえ。

米島 : まぁ、それはごめんねぇ。
 オレもできれば収集をつけたかったんだけどさぁ、まだまだそれだけの実力が不足してるもんで、こんなに勝手に話をしまくってしまって。

瀬上: いや、読んでいる人がいいと言ってくれるならいいんですけど。

米島 : どうだろう……不安だ…。
 
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©Akito Inoue 2002.1.26