ドラゴンクエスト
 [ #03 生活の場 ]


米島 : うーん。そうだねえ。生活者としての主人公、という話をしようか。次は。

瀬上 : 生活者?

米島 : うん。ドラクエの主人公というのは、他のRPGとは違って旅をしているだけではなくて、ちゃんと確固たる生活の場というのをもってるのですよ。

瀬上 : そうなんですか。

米島 : あのね、1と2と、あと4と5もちょっと微妙だけれども、まぁ、なんとなく主人公が「生活」をする、ということに対する意識というのがあってさ、まあ、1と2は初期のものだから、ちょっとそういう意識はないのだけれども、3なんかはアリアハンで自分のベットから起きるところからはじまって、旅の最中もしょっちゅう自分の家に帰ってきて寝泊りして生活してるでしょ。
 で、4もやっぱり五章の勇者は自分の家のベットから起きるところからはじまって、生活臭をただよわせる「自分の村」で生活をしている、というところが描かれるでしょ。
 5もオープニングは父親と一緒の自分の船室のベットから起きてはじまる。これも父親との生活がずっとあるわけだよね。
 6もやっぱりプロローグのあとに、ベットから起きあがって妹との生活をしている。で、美しい田舎の村の風景の中で生活する主人公がいる。
 で、最後に7はバリバリに生活をしていて、旅は常に自分の漁村を起点にしてはじまる、ということになってる。

瀬上 : ほお。ほお。…………でも…その4とかって、その生活の場があると言ったところでほんのちょっとですよね?それだと、「生活の場がある」という言い方ができない気がするんですけれど、

米島 : おぉぉ、的確なところをついてきたねぇ。そうです。そうなんです。
 4やら5やら6やらだと、生活は途中で終わってしまうのだよね。自分の寝ていたベッドのある町は、自分にとって自分の町ではなくなってしまう時期が途中で訪れるんだよね。

瀬上 : ですよね?それだと「確固たる生活の場」という感じとは違ってきて、崩壊の予想される一つ場所というか、物語にとっての道具というか、そういうものになってきますよね。

米島 : おっしゃる通り。確かにそういう性質を持ってるんですな、4以来。その点では7は新しい一歩を踏み出していて自分の住んでいた町はずっとそのまま残ってるけどね。4と5と6は確かに、町との別れというのが予定調和的にやってくるお話になっている。だから正確に言うと「生活の場」というのは描き出される対象として存在しているだけという側面も確かにないことはないんだよね。
 だぁけぇどぉ、そういった愛着のある自分のベットあった町は住居として崩壊させられてもだよ、自分のベットはないけれど、生活の中心地となるような場所っていうのはやっぱりちゃんと用意されている。まぁ6とかだと、ちょっとなかったけれども。

瀬上 : そうですね。生活の中心地というのは確かにくっきりとしてましたね。3だとアリアハン、4だとエンドールといった感じで。

米島 : そそそ。まぁそういった形の機能的な中心地は、はじめの意味の自分のベットのあった土地というのとはまたちょっと別の意味になってくる部分はあるけどね

瀬上 : 社会学で言うところの一次集団と二次集団みたいな?

米島 : えーっと、なんだっけそれ?

瀬上 : ほら、そのゲマインシャフトとゲゼルシャフトとか、コミニティとアソシエーションとか。あそこらへんと似たような意味の。

米島 : カタカナでしゃべりなさんな(笑)。あの、あれね、地縁・血縁を中心とした共同体か、目的によって結びついた共同体か、みたいな類の奴ね。

瀬上 : ま、正確に言うとまたいろいろ違ってきますけど、だいたいそんな話に近いかな、という感じが。

米島 : うーん、まぁどうだろ。
 そうかもしれないねぇ。ただ、ドラクエの場合、地縁・血縁共同体が単に郷土愛的対象物として描かれていて、地縁・血縁共同体によるしがらみっつーか、束縛みたいなものは全く描かれないわけじゃないけど、あんまり描かれないわな。

瀬上 : それは、また何かちょっとした批判がありそうですよね。そういった地縁・血縁の共同体を懐かしむべき憧れの共同体としてのみ想起していて、そのマイナス面みたいなものが書かれていないじゃないか、と。素朴すぎる懐古主義的ロマンティズムが漂っている!、みたいな。

米島 : ああ、まぁ確かにそういう批判もできるっちゃあ、できるけどね。いくらなんでも地縁・血縁共同体のマイナス面みたいなものまでガリガリ描きすぎちゃったりすると、物語として美しくなくなっちゃうからねぇ(笑)。

瀬上 : あー、でも7とかってなんかそういう、ガリガリに保守的な感じの村とかがちゃんと出てきましたよね。

米島 : あーはいはい。そういや出てきたね。あれはよかったね。よかった。よかった。
 ちゃんとオレ不快な気分になったもの。プレイヤーの気分をコントロールすることがちゃんとできたんだからすごくよかったよね、アレは。
 まぁあの村の他にも、主人公の村もけっこう保守的というか、「魔王を倒したぐらいでは、漁師としてはまだまだひよっこじゃあぁ」という壮絶な年功序列みたいなのがあったけどね。(笑)  魔王を倒してもひよっこというぐらいならば、あの村の海の男っていうのは、一人前になろうとしたら魔王の10匹や20匹ぐらいは軽く倒すのだろうか……うーん……みたいなね。(笑)

瀬上 : アハハハハ。まぁ、アレはちょっとすごかったですけど、まぁ主人公の村の保守性みたいなものっていうのは、ブッとんでいて面白くはあったけれども、あんまり不快な感じとは別物でしたね。
 えーと、で、話が結構それてしまいましたけれども、生活の中心地っていうのが、ゲームにとってどういう利点のあるものか、というあたりに話を戻したいんですけれど。

米島 : あいあい。けっこう、色々それはありましてな、
 一つには、旅の中心地としての機能で、もっともさっき話したように中心地は必ずしも生活地とは一致しないんだけれども、中心地があると、プレイヤーの世界認識全体がひきしまるわけよ。例えば、日本人は日本を中心に世界を考えるし、ヨーロッパ人はヨーロッパを中心に世界を捉えるし、アメリカ人はアメリカを中心に考えるわけでしょ。そうしないと、世界認識全体がどうも散漫になっちゃうんだよね。
 でね、もう一つは、よくRPGは「キャラに対してどのくらい愛着が抱けるかが大事」というような話がされるけれどもね、これは土地に対してどのくらい愛着が抱けるのか、というような話でね、さっきの重層化の話ともちょっと重なってくるんだけれども、特に愛着のあるキャラがパーティから外れたりしたらショックなように、特に愛着のある生活の土地というのに変化がおこると、それはもう、主人公のいる世界全体に変化が訪れる、ということとほとんど同義なんだけど、世界全体の変化を描くほどの労力もかからなくて済むでしょ?

瀬上 : はいはい。ま、さっき話してたこととも繋がってますよね。
 ドラクエ4も5も6も7も主人公の村に変化が訪れると物語の展開に大きな意味を持ってくるぞ、という。

米島 : そうそう。そのさあ、すごくわかりやすい例としてはね、この前のテロ(2001/9/11のアメリカの自爆テロ)が起こったときにね、アメリカのロバートキャパ賞とかピュッリツァー賞取ってるような、世界中の戦場に行って命がけで報道写真を撮ってきたようなフォト・ジャーナリストの、日本でいうと沢田教一さんとか、長倉洋海さんみたいな人がね、事件にいあわせて写真を撮ったということでインタビューに答えてたんだけど、彼らはもう本当に、ユーゴ行って死にかけたり、湾岸戦争行って殺されそうになったりしてる人々なのにもかかわらず、9月11日のテロというのは、下手をするとそういった体験よりものすごい衝撃だったみたいで、「オレの裏庭でテロが起こった」ということで、「これで世界が180度かわりはじめる」「これから起こる事態は制御不可能な恐ろしい事態だ」とか、すごい興奮したコメントをしてたのね。
 でもさ、確かにあの事件は大きい事件だったけれども、いくらなんでもそれは興奮のしすぎだろうと思うのよ。世界中の歴史的事件の現場にいあわせたような人々の発言としては冷静さを欠いてるなあ、と思ったんだけれども、それっていうのは、話を聞いているとどうも、「オレの裏庭で」というところ。「オレの安心すべき家のあるニューヨークが変わってしまった」というそのことがものすごく彼らにとっての衝撃の要因だった様子なのだよね。いくら、彼らが世界の戦場をかけめぐったところで、それは危険な冒険の中におけるできごとなわけであって、彼らの帰るべき家はやはり安全な場所だと言う感覚があったと思うんだよね。でも、彼らの帰る場所そのものから安全さが失われてしまった。彼らにとってあくまで悲劇は外側の問題だったものが、間違いなく彼ら自身が逃れ得ない場所に襲ってきたわけだよね。それっていうのは多分、ものすごいクリティカルヒットだったと思うのよ。
 
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2001-7-7
2002-1-8
2002-1-21

(C)Akito Inoue