ゲームにおけるインターフェイスとは何だろうか、と考えてみると、いくつかの段階に分けて考えられる
- (1)コントローラー、キーボードといったデバイス(ハードウェア)
- (2)モニター上に投影されている矢印など (ソフトウェア1)
- (3)モニター上のプレイヤーキャラクターの身体 (ソフトウェア2)
インターフェイス設計の自由度 †
インターフェイスの設計は、インタラクティビティの設計に関わるもっとも重要な要素であると言えるが、アーケードゲーム、家庭用ゲーム、PCゲームによってインターフェイスはまったく別の発展を遂げている。 アーケードゲームの場合、コントローラーやキーボードといったデバイスは、筐体ごとに自由にデザインされてきた。 一方で、家庭用ゲームや、PCゲームは、ゲームマシンやPCといったインターフェイスが最初から所与の条件として与えられているため、ソフトウェアのインターフェイスのデザインが発展することとなった。
コンピュータ・ゲームのインターフェイスデザインは、コンピュータ史にとっても大きな意味をもっている。たとえば、スティーブ・ジョブズが、元アタリの社員であった。
インターフェイスと身体 †
インターフェイスは、ゲームにおける身体の問題と直接に関わるが、たとえば、次のような議論がある。
(東浩紀他『不可視なものの世界』P251〜252 )
「現代思想系の身体論はたいてい「計測不可能性」に焦点をあててきたわけだね。世界の表面には言葉で文節化された―――丸山圭三郎の言う「言分け」された世界があって、その下に記号では文節化できない身体があるといった話ね。メルロ=ポンティ風にいえば、まさにその身体こそが「見えないもの」なわけだけど、これはつまり、浅い/深い、見える/見えない、計測可能/計測不可能の対立でできている世界観だ。けれどオタクの身体性はどうも違っていて、もっとガジェット感覚というか、身体も機械みたいに捉えられている。
実際、そういうことは現代思想でも八〇年代から言われ続けていて、サイボーグとかテレプレゼンスとかが注目されているのは、そういう文脈だよね。 (中略)
実際に、その変化が九〇年代に最もラディカルに現れたのが格闘ゲームの身体でしょう。三つのボタンのみを媒介にキャラクターと同一化する、というのはつまり、まったく計測可能な約束事でしかないのに、プレイヤーはそこに計測不可能な身体を感じてしまっているということだよ。ボタンをそのまま身体として感じられる、というのはとても不思議な現象だと思うんだ、少なくとも、メルロ=ポンティのような身体論では説明できそうにない」