二つの意味を分けておきたい。 第一に、日常的な言葉遣いとして、リアリティというと、「リアルっぽいこと(現実感。真実性。迫真性。)」を指し、「表現にリアリティがない」みたいな言い方をする場合。 第二に、特に社会学に関わる文脈では、「その人が<現実>だと把握している風景」のこと。どういう色眼鏡で社会をみているのか、的な意味で使う。
迫真性/真実性の個人差 †
1:リアルであることとリアリティ †
リアルであることとリアリティがある、ということとは実際にはかなり違っている場合が多い。 たとえば超一流の格闘家の試合を見たときに、格闘の心得のある人間にとっては、両者の攻防は理解できるのかもしれないが、一般人が超一流の格闘家の試合を見ても、判断が早すぎたり攻防が速すぎて理解できない場合が多い。 それよりも、ジャッキー・チェンの映画をスローモーションまじりで観たほうが、楽しい人がそれなりに多かったりするわけだ。 この問題は、実際に、ものを作る上では、ゲームに限らず、多くの表現メディアで問題となる。
1a.リアリティ>リアル †
たとえば、フライトシミュレーターと言われるゲームジャンルがあるが、戦闘機のゲームで最も売れているバンダイナムコの『AceCombat』シリーズは、素人が操縦してかっこよくコントロールできる戦闘機のゲームではあるが、戦闘機マニアが納得するような「リアル」さではない。 AceCombatシリーズの戦闘機は、ミサイルが80本ぐらい発射できたりするが、リアルなフライトシミュレーターを目指しているタイトルでは、2本とか4本ぐらいしか発射できなかったりする。その上、着陸操作がかなり難しく、戦闘中に移動する空母に着陸しようと思うと相当の熟練を必要としたりする。はっきりといって、リアルなものは難しい場合が多い。
1b.リアリティ<リアル †
リアルであることは多くの場合、「難しい」ものであり、素人ユーザーには取っ付き難いものに映るが、日常的にある程度リアルなものに触れているものが多い対象の場合には、「きちんとリアルであること」が評価されることもある。 たとえば、車の操作を行う「グランツーリスモ」シリーズなどは、かなりリアル路線のカーレースゲームだが、これはミリオンを超えるヒットを連発している。 戦闘機と違って、日常的に自動車の運転をしているユーザーは多く、しかもグランツーリスモに登場するマシンは日本で一般に普及している自動車が数多く題材とされている。数千万人からなる、自動車ユーザーのマーケットを母体と考えれば、「ユーザーにとってのリアルっぽさ」は、素人のものではなく、玄人のそれに近くなる。 「リアルであること」との距離が、どう受け入れられるかは、マーケットの問題、あるいは個人差の問題がきわめて大きい。
個々人の見えている世界の違いとして †
…ということで、本サイトで「リアリティ」という言葉を用いる場合は、ほぼ98%ぐらいが、「個々人が世界をどう把握しているか」「その人にとってのリアリティとは何か」というような、個人差を問題とした用語となる。 もっとも、文化差や個人差が出にくいリアリティの問題も、もちろんある。たとえば、不気味の谷の議論などは、文化差や個人差よりも、も少し感性工学的な議論だろう。
関連エントリ †
- 認知科学的な話からのリアリティ論