Critique Of Games ―ビデオゲームをめぐる問いと思索―

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 「自由」とは何か、ということを考え始めるとその測定不能性や多義性は認めざるをえない。
 測定不能性については、選択肢の数の多さ、というモデルのみに限定して考えるのならば、選択肢の数の多さ=(測定可能な)自由度、といってしまうことも可能なように思われる。だが、もし選択肢が単にあるとしても、選択肢を選んだ結果として起こる事態が選択肢によってどの程度・どのように異なるのか、そしてそのことを選択肢の選び手が選択肢の結果を推定可能か、といった問題がある。「選択肢」という形態ではない、もっと連続値が無限にありうるような場合、選択肢の数は常に「無限」になるわけだが、そのような選択肢の数が「無限」であることが直接に「無限の自由度」であるということを言いうるだろうか?たとえば、4950通りのパターンの物語を持つゲームと、1073741824通り(2の30乗)の方向選択のできるダーツのゲームとではどちらが自由だろうか?
 多義性についていえば、人文科学的な用語法としては有名なI・バーリンによる「積極的自由」「消極的自由」という分類にとどまらず、デカルト、カント、ミル、セン等の哲学・倫理学における「自由」の特殊な位置づけや、フリードマンの言うような経済学的な視点からの自由などもあり、また、それらの「自由」という用語法をめぐる分厚い批判も数多く存在する。それらを統一的な概念として語るのは非常に困難であるといわざるをえない。
 そう考えると、「自由度」などという言葉はありえず、「自由」という感覚がわきあがる瞬間があるだけだと考えるほうがこの問題にアプローチしやすいのではないのだろうか。小林秀雄風に言えば「ゲームの自由さというものがあるのではない。自由なゲームというものがあるだけである」。

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自由と自在?自由度不自由主体


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最終更新: 2007-02-17 (土) 20:46:05 (3724d)